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神の徒事  作者: 葦元狐雪
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 荒木鴇あらきときは運送業を渡世としている。彼の精励恪勤ぶりは目を見張るものがあり、年内のほとんどを大型トラックの中で過ごすという、過当なスケジュールを黙々とこなしている。


 人員不足の所以である。いつとはなく人々は労働を諦め、淫蕩いんとうに耽るようになり、社会の歯車が錆びつき回らなくなったかと思えば、食料やら金銭などが天から降り注ぐという奇蹟が起こった。それから、無精者と化したお祭り野郎たちが皆、「俺たちゃ神のヒモだぜ」と口を揃えて言うようになったのである。馬鹿野郎である。


 粗慢の情勢のあおりを被った運送会社『桃太郎』の社員たちも同様に、無精者となった。古株で優秀だった上司もあっさりと辞めてしまい、厳格な精神は酒精に溶けて消えてしまったらしい。


 残ったのは社長と荒木鴇を含めた、寡少の社員のみである。

 社長は諦めなかった。たとえ百の取引先が十になろうとも、あるいは一になったとしても、我々は求められる限り、職務を放棄してはならない——それが社長の掲げる矜持であり、社訓なのだ。自明のことだが、いわゆるここはブラック企業だ。


 社長の気焔きえんに呼応したわけではない。金が欲しいわけではない。しかしなかんずく趣味や物欲もなく、叶えたい夢も持ち合わせていないトキは、この仕事を辞めてしまうのは、ある種おのれの存在意義を失うことと同義であると思うきらいがあった。妻はいなけりゃ子供もいないため、なおさらのことであった。


 ——笛や太鼓を打ち鳴らして、神輿を担ぎ、アーケード街を練り歩くお祭り野郎たちの列に加わるのは厭だな。


 トキは酷いクマを目の下に湛えた、精悍さの欠ける覇気のない表情でぼんやりと横断歩道を渡る老若男女を眺めていた。めいめい千鳥足だった。酒と煙草は必携らしい。紫煙を穹窿きゅうりゅうに流し、口の端からビールの泡を溢す様は見るに堪えない。想像とはかけ離れて違うけれど、甚だおぞましい世紀末がやってきたものだなと、トキはハンドルに顎を乗せながら思った。


 空調を最大にして、かろうじて放送をしているラジオのパーソナリティーの徒言の羅列を、そこはかとなく聴いている。西日が眩しい。目を細めた。


 やがて信号が青になるのを視認すると、トキは姿勢を正してアクセルを踏んだ。ブルンとエンジンが唸りをあげ、巨大なタイヤがアスファルトを蹴った。


 そのときだった。信号を無視して、勢いよく駆けて来る人影を目の端に捉えた。高校生くらいの男だった。髪を金色に染めている。唖然の表情のまま固まっている。片手にビール缶を持っている。 

 

 スローモーション映像を見るみたいに、景色は鮮明にゆったりと流れた。

 彼と目線がぶつかった気がした。瞳孔が徐々に開いてゆく。薄茶色の瞳の奥に、トキの青くなった顔が閉じ込められている。


 ハンドルを勢いよく左に回しているつもりだが、実際には数センチも動いていない様子だった。やがて、トラックと男の距離はいよいよ近づいた。

 ダメだ。間に合わない——


 ——轢け。

 

 稲妻が脳天を衝くが如し衝撃と、背筋が凍りつくような寒気が同時に疾った。

 誰だ。


 四方八方いちどきに聞こえる。女性の声だ。幼さと重厚さが介在しているような声音だ。

 トキは困惑した。


 これは魔の囁きか。自身の裡に秘めたる嗜虐しぎゃくの扇動によるものか。

 考えていると、また声がした。

 

 ——わし......私は神だ。案ずるな、其奴は私がいずれ裁く予定の悪徒だ。ためらいなどいらぬ、轢け。


 その男は、神の賽銭箱に馬糞をしこたま詰め込んだ犯人だという。

 いやだ。トキは胸奥で叫んだ。


(人を殺すために生まれてきたわけではない。たとえ、有るか無きかの奸賊だろうと、自称神が裁けと仰せられようと、いっかな自身の手で彼を死に至らしめるをよしとしない。

 それに、相手や相手方の肉親を不幸たらしめ安逸できるほど、僕の精神は魯鈍ろどんじゃあない)


 ——張三李四が言うではないか。ならば。お前の生とは何だ。申せ。沽券こけんを示してみよ。


(申しわけありません、神様。沽券や矜持なんてたいそうなモノを、僕は持ち合わせていないんだ)

 生きて死ぬ。生とは、死ぬまでの暇潰しである。


 生き方に関して多種多様千差万別あるだろう。およそ貴賎はなく、各々自由に夢や野望を抱きながらときに人を愛し、憎み、苦楽をともにする誠の知己を得たりする。


 トキはできるだけ人に害を及ぼさない生き方を採択した。喜びを与えず、怒りを与えず、哀しみを与えず、楽しさを与えず、また、かくのごとき一切を求めなかった。相手方から要求された場合、名目的に応えてはその都度感謝されたけれど、しかし心の充足は得られなかった。


 感情が希薄なのだろうか、否、自我が希薄なのだろう。それでも余人を忖度そんたくすることができぬほどうらぶれていない自分がどこかしら誇らしかった。唯一の誇りだった。


 ——では、お前、夢はないのか?


 神は訊ねた。

 トキは頭を振った。


(ありません)


 ——欲しいものとか、ないか?


(ありません)


 ——じゃあ、じゃあ......何かないか?


(ありません)


 沈黙が落ちた。

 しばし静寂を堪能したのち、「ちょっと待っておれ」と神の声を折に、誰かと話をしているのかたくさんの声がむにゃむにゃと聞こえてきた。


      $


「おい、アマユリ!」

 ザハク殿は怒り心頭に発して言った。

 畢竟ひっきょう八つ当たりである。


「何でしょう」

 畳一畳分ほどの光の渦を覗き込んでいるザハク殿の傍、あえて懐手に座視を決め込んでいたであろうアマユリが答えた。


「こやつ、涅槃ねはんしておるではないかっ」

「俗気がなくてよろしいではないですか」

「よろしくない! 面白くない!」


 ザハク殿は足摺りわめいた。

「これではできたてほやほやの異世界に放り込んだとて、あの運転手は謹直に大地を肥やし、麦を育ててパンを拵え、大志を抱くでも酒色に耽るでもなく日々を淡々と過ごし、つまらぬ一生を終えるのが落ちであろうが!」


「では、いかがなさいますか?」

 ザハク殿は不敵に微笑んだ。

「化けの皮を剥いでやる。猖獗しょうけつ極まる下界にかくも無欲恬淡むよくてんたいな人間などいるはずがない」 

「好きにしてくださいまし」


 アマユリはすくと立ち上がると、入り口の襖を開いた。そして私たちの方を肩越しに見遣り、「ちょっと出かけて参ります」と言い去った。

 私たちはおっつかっつに「行ってらっしゃい」と言って見送った。茶室は静かになった。

 さて、ザハク殿である。


 彼女は何かとてつもなく卑しい顔をしながら、私たちには到底考え及ばぬ邪智を脳裡に展開しているらしかった。しばし動静を見守っていると、「くっくっく」のあとに、「あっはっは」という快活な哄笑が茶室に響いた。何がおかしい。

「これが......論破」


 ザハク殿は歓喜に震える自身の右拳を、あたかもまな板のような胸に押し付けぷるぷるしていた。

 もはや何も言うまい。なまじっか「違いますよ」などと諫言しようものなら、身も世もなく泣きじゃくるのが落ちであろう。


 野良猫を遠目に慈しむごとく、私たちは口をかんして眺めて然るべきだ。下手に刺激を与えてはならぬ。決して癇癪玉を破裂させたザハク殿に対し、深甚なる謝意を呈するのが厭わしいわけではない。「本当にそう思っておるのか?」攻撃をとんでもなく煩わしいと思っているのではない。とまれかくまれ、世の中には知らなくて良いことがあるのだ。それが今だ。


「よしよし、ではお待ちかねじゃ。あやつを新しい世界に招いてやろうかのお」

 ザハク殿はぷすぷす笑いながら袂を捲り上げると、光の渦の中に腕を突っ込んでかき回した。

「怖がらんでよいぞ♪ はばからんでよいぞ♪ 訝らんでよいぞ♪」


 ようようと金波銀波に輝く水面がザハク殿の顔を隈取り、影を落とした部分が喜色満面のフェイスと相まって、なんだか淪落した神——いわゆる妖怪の類がいたずらをしているように見える。しかし彼女の嬉々たる表情がだんだんと焦りの色に変わるので、憂心二割好奇心八割の我々はザハク殿を囲繞いじょうし、渦の中を覗き込もうとした。


 するとザハク殿が悲鳴を上げて飛び上がるので、喫驚した私たちは自然その方を見遣った。ザハク殿の手は真っ赤に腫れていた。

「痛いのじゃ」


 如才なくジエンダが駆け寄り、泣き出さんとするザハク殿の慰撫に努めた。

 あとの者は何事かと思い、いまいちど恐る恐るの体で覗き見ると、そこには猛然と走る自動車の群れがあった。どうやら彼女の手は車に轢かれたらしかった。

「大丈夫? ザハちゃん」


 とチカが言った。

「ああ、大丈夫じゃ」

 ザハク殿は一対のとてもやわい大きな風船みたいな丸に半身を埋めて答えた。くぐもって聞こえたのは、顔がすっぽりと埋没しているからだった。今度は窒息死しないか心配である。

「ねえ、みんなあれを見て!」


 つとミーネが指をさして示した。 

 私は口許をハッと抑えた。不味い。どうしよう。

 アマユリが、運転手さんの手を引いて歩いている。

 

 

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