処女じゃないので!
私は未だかつてない危機に晒されていた。
右を向けど左を向けど、救いの手は差し伸べられない。それも当然。この場には私と目の前の男しかいないのだから。
ピンチだ。どう考えてもピンチである。
男はジリジリと間合いを詰める。欲望に光る瞳を眇めながら。
負けじと詰められた分後退する。首筋に一筋の汗が流れた。
この場を支配する緊迫感。
決して目を逸らしはしない。逸らした瞬間に負けが決する。
「往生際が悪いよ、イズミ」
その言葉にビクリと揺らした肩が壁にぶつかった。
しまった!
知らず知らず部屋の隅に追いやられていたらしい。一瞬の動揺を見逃さず、トドメとばかりに素早い動きで私に覆いかぶさる男。
私はヤケになって叫んだ。
「私、処女じゃないので……!!」
遡ること一年前ーーー。
大学を卒業して入社した会社の歓迎会。アルコールハラスメントなぞ何処吹く風と言わんばかりに飲まされ、すわブラック企業に就職かと戦慄した飲み会の帰り道。
込み上げてくる吐き気と戦いながら何とか独り暮らしのアパートに辿り着き、玄関の中に倒れこむように入ったのは覚えている。
恐らくそのまま玄関で寝落ちしたのだろう。
気づくと村の広場で寝こけていた。
小さな村である。皆が皆顔見知りという中で見慣れない服装の見知らぬ女が大の字になって寝ているのを発見すれば、そりゃちょっとした事件だろう。
なんか煩いな、と不意に意識の浮上した私がうっすら目を開けると、困惑顏の村人達が私を遠巻きに取り囲んでいた。
二日酔いでガンガン頭痛のする頭を抱えながら、夢にしてはリアルだなと思った。けれど今思えばやはり寝ぼけていたのだろう、ぼんやりと周りを見渡すと、人垣の中から一人の男性が近づいできた。
その人が今私がお世話になっている村長のダレンさんである。
それからが大変だった。
事情確認のためにダレンさんの家に連れて行かれ、到着するなり玄関で盛大にリバースして病気か毒かの大騒ぎ。なんとこの世界には飲酒の習慣がないのだ!
見知らぬ人物がフラフラになりながら悪臭(もちろんお酒の臭いだ)を漂わせ、挙句ゲーゲーと吐いている。いくら女でも不審人物だ。にも関わらず、どこまでも善良なダレンさんとその奥さんは大いに心配して、口を拭い着替えをすすめ、すぐに客間のベッドに私を押し込めた。
胃の中のものを吐き出して、胃も頭もややスッキリした私は、ベッドの中で首を傾げた。
夢にしては現実感がありすぎる、と。
そしていくら時間が経っても目覚める気配のない夢に、もしや現実?と次第に恐怖を覚えていった。
ここは何処、あなた達は誰、私を家に帰して、と泣いて訴え続ける私に、ダレンさん夫妻は根気よく慰め、食事を促し、励まし続けてくれた。
しかし話は一向に要領を得ない。電話をかけたい、パソコンを借りたい、しまいには警察を呼んでくれと訳のわからない単語を並べる私に、二人はホトホト困ったことだろう。家庭用電化製品など、この世界にはない。ちなみにこの国に警察はなく、代わりに軍隊と自警団が治安を取り締まっている。
当初、ダレンさん夫妻は私を訳ありの良いところのお嬢さんだと思ったらしい。見慣れないデザインながら生地も縫製もしっかりとした服や、あかぎれ一つない手、手入れの見て取れる黒髪。現代日本ではごく当たり前のこれらのことが、こちらの世界では特権階級の人達しか享受できないことだと、今の私ならば分かる。
困った二人は王都で働いている息子のカインに手紙を出した。そちらで行方不明になっている貴族の娘はいないか。王都以外でも行方不明の騒ぎなど心当たりがあれば教えて欲しい、と。
そうして返信を待つこと一ヶ月、手紙の代わりに息子本人が村にやってきた。
濃紺の髪と理知的な瞳を持った、端正な顔の美丈夫である。
「彼女は迷い人だね」
私を見るなり、カインはそう言った。
迷い人とはおよそ五十年から百年に一人という割合でこの世界に現れる異界人らしい。この国の文献では、過去五人の迷い人の記録が残っている。それより前は記録作業自体が曖昧で分からないらしい。
一般には知られてはいない異界人だが、王族や貴族などには認知されている存在らしい。なぜ彼が知っているのかというと、彼の職場がなんと王宮だからとのこと。
「生きているうちに本物の迷い人を見られるなんてラッキーだな」
彼はそう言い、希少動物でも見るような目で私を見た。そして、規則だと言って私を王都に連れて行こうとした。
私は激しく抵抗して泣き喚いた。彼がやってくるまでの一ヶ月間、混乱と心細さと恐怖で押し潰されそうな私を支えてくれたのはダレンさん夫妻だ。彼らの心からの心配と慈愛、善良な人柄がなければ、私は絶望で村の裏手の湖に飛び込んでいたかもしれない。
つまりは私はしっかりとダレンさん夫妻にインプリンティングされていたのである。
親鳥から引き離されまいとする雛の如く、私は必死にアルマさんにしがみついた。アルマさんとはダレンさんの奥さんの名前だ。ふくよかな体と豊満な胸をお持ちの、優しげな女性である。
そんな私を不憫に思ってか、アルマさんはその柔らかい胸に私を抱き締めて息子を説得してくれた。私が落ち着くまで王都に連れて行くのは待ってあげてほしい、と。ダレンさんも私の頭を撫でながら援護してくれた。
両親二人に説得され、彼は溜息をつきながら王都のしかるべき場所に手紙をしたためた。
結果、彼の監視つきで私はダレンさんの家にしばらく住むことになったのだ。
息子が王都で就職してしまったことを寂しく感じていたらしいダレンさん夫妻は、息子とまた暮らせることを大いに喜んだ。私のことも実の子供のように可愛がってくれる。息子一人だったから娘ができたようで嬉しい、と。本当に良い人達だ。
私は時に泣いたり落ち込んだり郷愁に駆られながらも、少しずつこちらの世界に慣れていった。
ダレンさんとアルマさんには優しく見守られ、カインには冷静に監視と観察をされながら、私は徐々にこちらの世界で生きていくすべを学び始めた。と言っても井戸からの水汲みや洗濯板を使った洗濯、薪を使った火起こしなど、主にアルマさんの家事のお手伝いだ。慣れない私は四苦八苦、しかもこれがかなりの重労働で、私は毎日ヘトヘトになり、夜は夢も見ずに熟睡した。私の余りの無知と非力と体力のなさに、ダレンさんやアルマさん、果てはカインまでもが私は向こうの世界では余程の身分だったのかと尋ねた。極々一般的な中流家庭だったと話し、大いに驚かれた。
そうしたある日の夜、私の度肝を抜く出来事が起こった。
「山火事だ!」
村人の一人がダレンさんの家に飛び込んできた。ダレンさんは慌てて立ち上がると、アルマさんに二階にいるカインを呼んでくるよう伝えて村人について走って行った。
アルマさんがカインを呼びに行ってすぐに、見慣れない細い棒を持ったカインが二階から降りてきた。
アルマさんに急かされながらも、カインは落ち着いた足取りで外に向かった。私も二人に着いていく。
村の外れに到着すると、村人達が集まってソワソワと遠くを見ながら火事の方を指さして叫んだり、祈ったりしていた。
山が燃えていた。
初めて生で見る山火事に私は恐怖した。風が強い、流されてこの村まで火が来るかもしれない。村人の会話が耳に入り不安が渦巻く。
そんな中、ダレンさんが私達を発見して大きく手を振りながらカインの名を呼んだ。
「カイン!頼む!!」
ダレンさんの声に、村人が一斉に振り返る。そして慌てたように道をあけると、カインはその中を堂々と歩いて進んでいった。
そうして村人が作った道を通り過ぎてしばらく進むと、ピタリと立ち止まった。
棒を持った腕を高く掲げる。
高く低く、耳に心地よいカインの声。
一様に黙り込んで見守る村人達の中、カインの声は良く響いた。
そして音楽の指揮をとるように、カインが手首を返した瞬間。
ザザァァーーー。
突如土砂降りの雨が降った。
驚いて天を仰ぐ私の全身に叩きつけられる水滴。
雨はみるみる火を消していき、夜の暗闇の中で赤々と燃えていた山は、あっという間に夜の黒に塗りつぶされていった。そして完全に火の手が収まると、雨は嘘のようにあっさりと止んだ。
静まり返った村人達から、ポツポツ喜びの声が上がり、そしてそれはやがて歓声になった。ダレンさんが笑いながら息子の肩を叩いている。
私はアルマさんと共に二人に駆け寄った。
「よくやったね、カイン」
ダレンさん同様、アルマさんも嬉しそうにカインの背中を叩く。
アルマさんの言葉に確信を得て、私は唾を飲み込んでカインに尋ねた。
「カイン。今の雨、あなたがやったの?」
祈るように胸の前で指を組みながら尋ねる私に、カインは不審そうに眉を顰めながら答えた。
「そうだけど」
カインの答えに、私は目を見開いた。
「す、す、すごい!!」
私は大興奮でカインの両腕を揺さぶった。
「魔法?魔法だよね?今の、魔法だよね!?」
あまりの私の興奮具合に、カインは頬を引き攣らせながら後ずさった。
「そうだよ。僕は魔術師だからね」
「魔術師!?」
もはや悲鳴である。この興奮、同じ日本人、いや、地球人なら分かってくれるだろう。魔法、それは子供の頃に一度は憧れる夢の産物。ファンタジーの代名詞。
それからというもの、私のカインに対する意識は一変した。彼はいずれは私を王都に連れて行ってしまう油断のならない存在であったし、どちらかというと無口で何を考えているのか分からない彼を私は敬遠していた。
しかし魔術師となれば話は別。
私は始終彼にまとわりつき、暇さえあれば魔法を見せてくれるように強請った。ちなみに私にも魔法が使えるか尋ねたが、私には一欠片も魔力を感じられないので無理とのこと。
「だからイズミが迷い人だって確信したんだ」
彼は言った。
この世界の人は生まれた時から微量の魔力を持っているらしい。魔術師であるカインには人の持つ魔力を感じることができるのだとか。しかし普通の人の持つ魔力はほんの僅からしく、日常生活には役に立たないし、魔法なんてとてもじゃないが使えないらしい。
魔法が使えないのはがっかりしたが、カインが見せてくれる魔法は私の心を沸き立たせた。カインは生まれながらに飛び抜けた量と高い質の魔力を有していたらしい。
「いいなー、いいなー。私も魔法を使いたい!」
普段はさすがに山火事の時のような大掛かりな魔法は見せてくれなかったが、手に取った一輪の小さな野花をあっという間に花開かせたり、手の平にほんのり光球を作り出したりするカインに、私はキラキラと羨望と尊敬の眼差しを送った。
しかしそれが良くなかった。
私はもちろん知らなかったのだが、カインのような膨大な魔力を有する者は、こちらの世界では敬われると同時に怖れられる存在なのだとか。言われてみると、カインと村人達が話す所をあまり見かけなかったし、話していても村人達が何故か硬い表情をしているなと思ってはいた。カインもダレンさん達も多くは語らないが、そんな周囲に嫌気がさして、カインは魔法を使うのが当たり前の場所、王宮の魔術師団に入ったようだった。魔術師団と言っても、国に数名しかいない小さな集団らしいが。
そんなふうに周囲の人間に一歩も二歩も距離を置かれるのが当たり前の人生を歩んできたカインに、両親以外で初めて遠慮会釈なくズカズカと自分の近くに寄ってきた人間、それが私である。しかも嫌悪どころか憧れの眼差しを持って。
好意を持つなと言う方が無理である。
初めてカインに微笑みかけられた時、私はそのあまりに綺麗な顔に呆けてしまった。魔法を見せてもらう、その二人の距離が近い。今までの節度ある距離はどこに、という程、肩が触れ合うほどの近さで魔法を披露する。手を引かれて訪れた草原をあっという間に花が咲き誇る花園に変えて見せ、虹をかけ、どこからともなくムード満点の音楽を流す念の入れよう。さすがの私も彼の気持ちに気づく。
しかし大きな問題があった。
それが何を隠そう、私が処女ではない、ということである。
なんとこの世界、婚前交渉は御法度どころか死刑なのだ。大事なことだからもう一度言おう。未婚で非処女は死刑である。
初めてその事実を知った時、私は恐怖に震え上がった。知ってさえいれば新妻だ人妻だ未亡人だと、いくらでも誤魔化しようがあっただろうが、こちらの世界の常識など知る由もない私は、ある日アルマさんに結婚しているのか聞かれて迷うことなく即答してしまったのだ。未婚だよ、と。
「良かった、イズミは処女だったのね。ならこちらの世界の男性と結婚することもできるのね」
と嬉しそうに微笑まれ、私は首を傾げた。何故未婚イコール処女となるのか。風紀の乱れた現代日本、結婚まで処女を守り抜く女性の方が稀であろう。
こちらの世界はまだ古き良き時代の習慣を守っているのかな、と何だか我が身を省みて居たたまれなくなりながらアルマさんの誤解を解くべきか逡巡した時、彼女の口から衝撃の事実を知らされた。
「非処女では結婚できないから、本当に良かった。イズミにはこちらの世界で幸せになって欲しいけれど、万が一処女ではないのに結婚したら死刑になってしまうもの」
と。私は目が飛び出さんばかりに驚いた。そりゃ婚前交渉は褒められたことではないかもしれないが、いくら何でも死刑はないだろう。しかしこちらの世界、結婚は相当厳粛なものらしく、非処女での結婚は最も罪深いことなんだとか。
その話を聞いた夜、私は夜空に輝く星に誓った。決して誰とも結婚はすまい、と。
処女でないことがばれたら、それはそのまま私の命の終わりを意味する。アルマさんから私が未婚だと知らされた村人達の中には、時に息子を、甥を、中には本人自らそれとなく結婚相手としてどうか、と伺うような視線を投げてよこしてくる者もいたが、そのどれもを笑顔で完全にスルーした。こちとら命がかかっている。それはもう必死である。
それなのに、私は魔法に魅せられて人生最大の過ちを犯してしまったのだ。
それとなくカインにこれまでの迷い人の結婚事情を聞いたところ、なんと全員が全員女性。最も最近の迷い人でも百年前で、正しく古き良き時代の女性だったらしい。つまりは未婚で処女。無事こちらの世界の男性と結婚したらしい。
私は我が身を憂いた。そして今後またやってくるかもしれない迷い人達に同情した。どうか死刑だけは免れますように、と。
さて、カインへの対処だが、彼はただの村人達と違い私がお世話になっているダレンさんとアルマさんの息子である。当然邪険にはできない。かといって思わせぶりな態度など取れる筈もない。結果として中途半端な態度になってしまった私に焦れたのか、彼の愛情表現は目に見えて顕著になり、あっという間に彼の気持ちは両親の知るところとなった。それどころか、所構わず私に優しく微笑みかけ、肩を抱き、嬉しそうに目を煌かせるカインを見て、少しずつカインに親近感を持つ村人達が現れ始めた。カインは子供の頃から冷静沈着、本当にあの優しいダレンさん夫妻の子供かと疑うほどに表情は動かず、そして皆が恐れ慄く魔力の持ち主。そんな彼が人並みに恋をしている。要はギャップである。
あれよあれよと言う間に両親と村人達を味方につけたカインは、私の逃げ道を着実に潰して行った。「カインのどこがダメなのかしら。顔が好みじゃない?」「いえ、彼は正直格好いいです」「性格かい?親の私が言うのも何だが、根は優しい子なんだよ。ただ、不器用なんだ」「はい、なんだかんだ私が此処で暮らせるよう善処してくれて、優しいのは十分に分かってます。お二人の息子さんですし」「じゃあ本当はイズミもカインの魔力が怖いのかしら?」「それはありません。魔法は大好きです」と、固辞したいんだか告白したいんだか自分でもよく分からなくなるような問答をダレンさん夫妻と交わしたりもした。
少しずつ包囲網を狭められながらも、私の必死の抵抗に二人の関係は膠着状態が続いていた。しかし私がこちらの世界の常識に疎いことを十分過ぎるほど知っていた彼は、この状況を打開するべく、とある日、私への騙し討ちを決行したのだ。
その教会は村の裏手の湖のふちにポツンと建っていた。白い壁と青いとんがり帽子の屋根が可愛らしい小さな教会である。
普段はあまり使われない教会だが、村人達が交代制で掃除をしており、村のお祭りやお祝い事があると解放されるのだと私も聞き知っていた。
そして運命の日、それは年に一度の豊穣祭だった。
村人総出で祭の準備をした。男達は山に獲物を狩りに行き、広場に櫓を建てた。女達は木の実を採り、男達が狩ってきた獲物を調理する。子供達は元気に大はしゃぎだ。
いつにない楽しげな雰囲気に、わたしもウキウキと心を浮き立たせていた。だから油断してしまったのだ。
祭の日は教会で祈りを捧げるものだ、というカインの言葉に疑わずに着いて行った。初詣やら合格祈願やら、神社仏閣への参拝が習慣化されている日本で育った私には、カインの言葉はなんの違和感もなかった。
教会に入るとそこそこの人数の村人達がいた。そして教会の奥に据えられた台座にでんと乗っている、直径三十センチ程の水晶に祈りを捧げるべく列をなしていた。一人ひとり順番に水晶に手を置いて祈っており、長く祈る人もいれば短い人もいる。私達も大人しく列の最後尾に並び、私は普段は見ることのない教会の内装やステンドクラスに小さく感嘆の声を上げたりした。
ようやく私達の順番になると、先を譲ろうとする私にカインは二人で祈ろうと言い、祈り方を私に教えてくれた。
「この水晶に右手を置いて。そう。女性は右手、男性は左手と決まってるんだ。後は目を瞑って願い事を心の中で祈るんだよ。僕の願いは決まってる。イズミが僕の気持ちを受け取ってくれますようにって」
そう言って茶目っ気たっぷりに笑った。
基本的に表情の乏しい彼のそんな笑顔は、きっと私だけの特別なんだろうな、と思ったら急に胸が切なくなった。
私は目を瞑って祈った。後から思い返しても不思議なのだが、その時の私は元の世界に帰りたいとか、日本の両親や友達に会いたいとか、そういったことが頭から綺麗に抜け落ちていた。
ただ、隣にいる男のことを思う。
もし許されるのなら、カインに好きと伝えたい。カインと結ばれたい、と。
そう、カインから好意を寄せられるうちに、気づけば私もカインのことが好きになってしまったのだ。
けれど処女ではない私には告げられぬ思い。
悲しい気持ちで叶わぬ願いを胸に抱いた時、水晶が温かくなっていくのを感じた。不思議に思って目を開けると、水晶が淡く光っている。その光は徐々に強くなり、そして水晶を離れて私を包みこんだ。驚いた私は思わず二、三歩後ずさった。数秒後、光はゆっくりと弱まっていき、そしてキラキラとした残滓を残して消えた。
呆然としながらカインの方を見やると、彼はこれ以上ないというほど幸せそうに笑っていた。
そして、なぜか教会内にいる村人達から拍手がわき起こった。
混乱する私をよそに、カインは私を抱きしめた。拍手が一層大きくなる。
「え、何?何なの?」
私の問いかけには答えず、カインは私の腕を掴むと足取りも軽く教会の出口に向かって歩き出した。村人達の「おめでとう」「お幸せに」という声を聞きながら教会を後にする。嫌な予感を感じながら、私は引かれるままに足を動かした。
そして広場で両親を見つけると、カインは真っ直ぐに彼らの元に足を向けた。二人の前に立つと、カインは晴れやかな笑顔で告げた。
「僕達、たった今結婚したよ」
と。
いや、まて。僕達とは誰だ。誰と誰のことだ。
訳がわからないまま混乱して黙り込んでしまった私と笑顔のカインを、ダレンさんとアルマさんは二人がかりで抱きしめて祝福した。アルマさんなどは涙ぐんでさえいる。
「じゃあ、今日はさっそく初夜ね」
「うん、急で悪いね」
「気にするな。おめでたい話だ。私達は親戚の家にでも泊まらせてもらうさ」
私一人を置き去りに、三人は何やら不吉な話題をサクッと終えた。そして鼻歌でも歌いだしそうなご機嫌な様子のカインに再び腕を取られると、今や住み慣れたダレンさん宅へと連行された。
玄関を抜け、階段を上り、カインの部屋に背中を押されて招き入れられる。目の端に入った白いシーツのベッドと扉を閉めるパタンという音に、私はようやく我に返った。
急激に頭が回転を始めた私は、部屋に入ってカーテンを閉めるカインに強い口調で尋ねた。
「ちょっと!結婚って誰と誰が!?」
「誰って、僕とイズミに決まっているじゃないか」
あっけらかんと答えるカインに私はあんぐりと口を開ける。
「何言ってるの?私、あなたと結婚なんかしてないわよ」
私の言葉に、カインは会心の笑みを浮かべた。
「いや、したんだよ。さっき、教会でね」
どういうこと?と眉間に皺を寄せる私に、カインは未婚の男女が揃って教会の水晶に手を置いて祈るのは結婚の儀式なのだと説明した。
道理で他の村人達は一人ひとり祈っていたわけだ。完全に騙し討ちじゃないの。
「結婚の儀式なんて私は知らなかったんだから無効よ。こんなの結婚詐欺じゃない!」
私は契約の無効、白紙解約、クーリングオフを力の限り訴えた。私の命がかかった訴えだ。
拳を握り締める私に、けれどカインは余裕の表情で尋ねた。
「じゃあ聞くけど、イズミはあの時何を祈ったの?」
あの時?あの時は、だから、それは……。
黙り込んだ私を見て、カインはまるで聞き分けの悪い子供に諭すような声音で私に告げた。
「あの儀式はね、片方がいくら強く結婚を願ってもダメなんだ。二人ともが結婚を望まないとね」
「私、結婚したいなんて願ってないわよ」
「でも、それに近いことは願ったんじゃないの?」
……カインと結ばれたい。
確かに私はそう願った。それか、それがブービートラップに引っかかったのか。
しかし。
「私が結婚を望んだと、誰が証明できるの?そんなこと、誰もわからないじゃない」
カインは魔術師だが、エスパーではないはずだ。私はそこに一縷の望みをかけた。
そんな私の反論に、カインは大きくため息をつくと肩を竦めて私に一歩近づいた。
「強情だなぁ。あのね、イズミ。あの水晶は二人の気持ちが重なってはじめて光を発するんだ。僕だけの気持ちじゃ光らない。イズミが僕との結婚を望んだから、水晶が光ったんだよ。それはあの場にいたみんなが目撃してる。今更結婚は無しだなんて、それこそ結婚詐欺だよ」
カインの言葉に、私はぐぬぬと唸った。目撃者がいるんじゃあ分が悪い。しかも村人達は今やカインの味方だ。
そしてカインからの最後通告。
「僕は君が好きだ。そして君も僕を好き。そうだろう?」
私は頷くことも首を振ることもできなかった。握り込んだ手の平が汗ばんでいる。
カインが更に一歩近づく。情愛と情欲の入り混じった瞳がひたと私を捉えている。
私は知らずゴクリと喉を鳴らした。
ーーーそして冒頭に戻る。
「……何言ってるの?」
私の非処女宣告に、カインはキョトンとした瞳を向けてきた。
ああ、愛する女が未婚のくせに処女じゃないなどこちらの世界の人には信じられないことなのね、と私は名探偵に追い詰められた犯人の如く、項垂れながらカインに真実を告白した。
「ごめんなさい。私、処女じゃないの。男性との肉体経験、あります……」
三名ほど……とは心の中にとどめた。
現代日本に生きた二十二歳女子、決して遊んでる訳でも男性経験が豊富な訳でもないと思って生きてきたが、こちらの世界からすれば、キャッ、なんて汚らわしい、ってなもんだろう。
「……うん。だから?」
だから、だって?何度も同じことを言わせる気か。そうか、これは死刑執行の序章か。何度も口に出させることで、自分の罪を再認識させるという……。
「だから、だから……私、死刑なの!?」
死にたくない!!
どっと涙が溢れてきて、私はその場に突っ伏して泣き崩れた。
「ちょ、ちょっと待って!泣かないで、イズミ!とにかく落ち着いて」
わーわー泣きわめく私に、カインは慌てふためいて私を抱きしめた。
そうしてしばらくカインの胸に顔を押し付けて泣き続けていたが、背中を優しくさすられ、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「大丈夫?イズミ」
「う、ぐすっ」
上から顔を覗かれ、私は手で涙を拭いながら小さく頷いた。
「何か誤解があるようなんだけど……。処女じゃないって、どういうこと?」
カインの落ち着いた声音に、私は諦めの境地で説明した。私の生きた現代日本では婚前交渉は今や普通であること。例に漏れず、私も過去お付き合いした男性との性交渉があること。
私の告白を聞き、カインは大きくため息をつきながら言った。
「なんだ、そんなことか」
……え?そんなこと?
「あのね、イズミ。イズミの生まれた世界での処女性は肉体経験の有無が問題みたいだけど、僕らの言う処女っていうのは、魂の純潔を指すんだ。だから肉体経験があっても、全く問題ないんだよ」
僕も経験あるしね、とカインは言った。
「まあ、僕個人としてはイズミが過去に他の男に抱かれたのはショックだけどさ。けど大丈夫。イズミの魂はちゃんと純潔を保っていたよ」
カインの説明に、今度は私がキョトンとする番だった。
「魂の純潔って?」
「教会で祈った時、水晶から発した光がイズミを包んだだろう?あれ、実は僕の魂の一部なんだよね。僕ら男は、女性より大きな魂を持って生まれて来るんだ。そして生涯を共にする相手と巡り会った時、自分の魂の一部を切り離して、女性の魂を包み込むんだよ。夫婦のどちらかが先に死ぬまで、男性の魂の一部が女性の魂を守るんだ。それがこちらの世界での結婚。水晶は男の魂を女性に移すのに使う媒体なんだよ」
だから、魂の純潔というのは誰の魂にも包まれていない真っさらな魂のことさ、とカインは言った。
初めて聞く話に、私は驚きながらも今最も重要なことを尋ねた。
「じゃあ、死刑っていうのは……?」
「魂は一度切り離すと、二度と元の肉体には戻れない。かと言って、他の魂に包まれている魂を、更に上から包むこともできないんだ。魂は肉体に宿らなければ消滅する。万が一知らずに処女ではない女性に魂を捧げてしまうと、その男の魂は永遠に不完全なものになってしまうんだよ」
そして、とカインは続けた。
「魂を不完全なものにしてしまうのは、肉体を滅ぼすよりも遥かに罪深いことなんだ。けれど罪深い行いだからこそ、非処女で結婚の儀式を行った女性の魂を傷つけることもまた誰にも出来ない。それで、非処女での結婚の罰は人が課すことのできる最も重い罪、死刑と決まってるんだ」
正直、泣きはらしてボヤッとした頭では魂やら何やら言われても、カインの言っていることは殆ど呑み込めなかったけれど、とにかく命の危機から脱したことだけは分かった。
「僕は魔術師だからね。魂が見えるんだ。だからイズミに確認するまでもなく、イズミが誰の魂にも包まれてない、純潔の魂の持ち主だって分かってた。今は僕の魂に包まれているけどね」
そう言って、カインは幸せそうに笑った。
「でも、もし私が教会でカインとの結婚を望まなかったらどうしてたの?」
「うん、あれは賭けだった。いくら僕が魂を捧げても、イズミに受け入れる気持ちがなかったら僕の魂は行き場をなくして消滅してしまっていたからね」
さすがにちょっと怖かったよ。
そう言いながら、カインは茶目っ気たっぷりに笑った。結婚の儀式の前と同じ笑顔で。
「まさに、僕にとっては命がけのプロポーズだったんだよ」
〜Fin〜
お読みいただきありがとうございました。