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「六章(最終章) 決戦」

「境界線のエチュード」第六章(最終章) 決戦 どうぞお楽しみください。

サイレンの音は、湿った夜風に乗って、幾重にも重なりながら近づいてきた。 一つ、また一つと、アパートの下に赤色灯の光が差し込み、剥げかけた壁紙を不気味な赤色で明滅させる。


「……来たな」


拓海兄ちゃん――トオルは、静かに呟いた。 先ほどまでの狂乱が嘘のように、その声は凪いでいた。彼はゆっくりと窓際へ歩み寄り、カーテンの隙間から下を見下ろした。何台ものパトカーがアパートを包囲し、防弾チョッキを着た男たちが、盾を構えて配置についているのが見える。


「瀬名拓海! 建物は完全に包囲されている。陽葵さんを解放し、武器を捨てて出てきなさい!」


拡声器を通した、歪んだ金属音が夜の静寂を切り裂いた。 その瞬間、柏木先生が私の肩を抱き寄せ、ドアの方へと促した。


「行きましょう、陽葵ちゃん。今ならまだ、あなたは『被害者』として守ってもらえる。瀬名くん、あなたも……これ以上は、取り返しのつかないことになるわ」


「……被害者?」


私は、足元に転がっている外れたばかりの鎖を見つめた。 足首に残った赤黒い痣。けれど、その痣さえも、私にとっては彼に愛された証だった。先生が言う「被害者」という言葉が、今の私には、世界で一番遠い国の言葉のように聞こえた。


「先生、違うんです。私は……」


「陽葵。行け」


拓海兄ちゃんが、振り返らずに言った。 その背中は、かつて私を雨から守ってくれた時と同じように、頑固で、ひどく孤独だった。


「兄ちゃんも一緒に。お願い、一緒に自首して……!」


「自首なんてしない。俺が行くのは、警察署じゃない。……陽葵、お前はあいつらのところへ帰れ。そして、俺のことなんて全部忘れて、普通の女の子として生きていくんだ。それが、俺の最後の……わがままだ」


彼は、部屋の隅に置いていたあの金属バットを再び手に取った。 それは警察と戦うためのものではない。自分たちの「楽園」を、最後まで守り抜こうとする、あまりに無力で悲しい抵抗の象徴だった。


最後の二重奏

「嫌だよ、兄ちゃん! 私だけ帰るなんて、そんなの、生きてる意味がないよ!」


私は先生の手を振り解き、拓海兄ちゃんの背中にしがみついた。 魚の血と汗の匂い。そして、彼が流した絶望の涙の匂い。 私を繋ぎ止めていたのは、あの鉄の鎖なんかじゃない。この、世界でたった一人の、歪んだ愛を注いでくれる「兄」の存在そのものだったのだ。


「陽葵、離せ! お前がここにいたら、あいつらが……!」


「撃たれてもいい! 死ぬなら、兄ちゃんと一緒がいい!」


私の叫びに、拓海兄ちゃんの肩が激しく震えた。 彼はゆっくりと私の方を向き、その大きな手で私の顔を包み込んだ。彼の瞳には、外の赤色灯が反射して、燃え盛る炎のような光が宿っていた。


「……バカだな。本当にお前は、救いようのないバカだ」


彼は悲しげに笑い、それから私の耳元で、甘く、低い声で囁いた。


「……じゃあ、最後に一つだけ。俺の『エチュード』を、完成させてくれるか?」


その言葉の意味を、私は直感的に理解した。 彼は、警察に投降するつもりも、大人しく捕まるつもりもない。 この部屋で、私たちの物語を、誰の手も届かない場所で完結させようとしている。


「……うん。兄ちゃんと一緒なら、どこへでも行くよ」


私は彼のシャツを強く握りしめた。 アパートの廊下から、重厚な足音が近づいてくる。 「突入五秒前! 四、三……!」


拓海兄ちゃんは、部屋の入り口に積まれていた古い雑誌や衣類に、ライターで火をつけた。 乾いた空気に、瞬く間に炎が燃え広がる。 オレンジ色の光が、私たちの「箱庭」を包み込んでいく。


「陽葵、愛してる。……来世でも、また兄妹きょうだいになろうな。今度は、神様に許されるような、普通の兄妹に」


彼は私を抱きかかえ、炎のカーテンの向こう側へと、一歩を踏み出した。


ドアが蹴破られる音と、激しい爆発音が重なった。 私たちの視界は、白銀の世界へと飲み込まれていった。


熱が、視界を歪ませていた。 古いアパートの壁紙は、皮肉にも私たちのこれまでの日々のように、あっけなく火に巻かれ、黒い灰となって宙に舞う。


「拓海! 陽葵ちゃん!」 背後で柏木先生の絶叫が聞こえたが、それも突入してきた警官たちの怒号にかき消された。


「火が出ているぞ! 突入中止! 消防を呼べ!」


煙が充満し、目を開けているのも困難な状況の中で、拓海さんは私をしっかりと抱き寄せたまま、窓際へと歩みを進めた。逃げ場を失ったネズミのようだと、外の誰かは笑うだろうか。けれど、彼の腕の中にいる私にとって、この灼熱の部屋は、かつてのどの場所よりも清らかな「楽園」に思えた。


炎の境界線

「……熱いか、陽葵」


拓海さんの声は、驚くほど穏やかだった。彼は私の頭を自分の胸に押し付け、降り注ぐ火の粉から私を守ろうとしている。


「……ううん。トオルさんと一緒なら、熱くないよ」


私は彼のシャツを強く握りしめた。 私たちが犯した「罪」の代償。それは、社会的な抹殺であり、家族との断絶だった。けれど、そのすべての代償を支払ってもなお、私の手の中には、この人の確かな鼓動が残っている。


「陽葵。俺が……俺が、お前をこんなところまで連れてきてしまった」


拓海さんは、燃え盛る炎を見つめながら、自嘲気味に笑った。 「お前を幸せにしたかった。誰にも邪魔されない場所で、お前の笑顔だけを見ていたかった。……でも、結局俺がしたのは、お前を鎖で繋いで、泥沼に引きずり込むことだけだったんだな」


「そんなことない! 兄ちゃんがいたから、私は……」


「……いいんだ。もう、言い訳はいらない」


彼は私を一度、強く抱きしめ直すと、窓枠を蹴破った。 ガラスの割れる鋭い音が響き、外の冷たい空気と、野次馬たちの喧騒が流れ込んでくる。 二階の窓の下には、古い物置の屋根があり、その先には暗い海へと続く路地が伸びていた。


「陽葵、飛べ」


「……え?」


「ここはまだ二階だ。下の物置に飛び降りれば、怪我で済む。……お前だけなら、あいつらも無理な追跡はしない。柏木先生が、お前を『洗脳されていた被害者』として守ってくれるはずだ」


拓海さんの瞳は、決意に満ちていた。 彼は、自分だけがここで「罪」として焼かれ、私を「光」の当たる場所へ押し戻そうとしている。


最後の選択

「嫌だよ! 兄ちゃんはどうするの!?」


「俺は……。俺は、ここでお前の『罪』を全部焼いていく。俺がいなくなれば、お前は自由になれるんだ」


「自由なんていらない! 兄ちゃんのいない自由なんて、死んでるのと同じだって言ったでしょ!」


私は、窓枠に手をかける彼の腕を必死に掴んだ。 炎はもう、私たちの足元まで迫っている。 外からは「飛び降りろ!」という警官たちの叫び声が、絶え間なく聞こえてくる。


「……陽葵。お前は、本当にバカだな」


拓海さんは泣きそうな顔で笑うと、私の手を自分の首に回させた。 「わかった。……じゃあ、一緒に地獄まで行こうか」


彼は私を抱え、窓の外――夜の闇へと、迷いなく身を投げ出した。


浮遊感は、ほんの一瞬だった。 物置のトタン屋根が激しい音を立てて凹み、衝撃が全身を走る。 拓海さんは、私をクッションにするようにして地面に叩きつけられた。


「……っ、トオルさん!」


「……走れ、陽葵。海へ……海へ行け」


彼は苦しげに喘ぎながらも、私を立たせようとする。 その足は、着地の衝撃で不自然な方向に曲がっていた。それでも彼は、這いずるようにして私を路地の奥へと押し出そうとした。


背後からは、燃え盛るアパートから逃げ出してきた私たちを追って、ライトの光が迫ってくる。 「いたぞ! あそこだ!」


私たちは、逃げ場の失われた「袋小路」の果て――夜の港へと辿り着いた。 目の前には、ただ暗く、底知れない黒い海が広がっていた。


波の音が、激しく叩きつける。 港のコンクリートの端。そこから先は、すべてを飲み込む漆黒の海だった。 背後からは、何十人もの足音と、怒号、そして幾筋もの強烈な懐中電灯の光が迫っている。


「陽葵……もう、いい。俺を置いて行け」


拓海さんは、折れた足を引きずりながら、岸壁に背を預けて座り込んだ。 炎に焼かれたシャツはボロボロで、顔は煤と血で汚れている。それでも、私を見上げるその瞳だけは、出会ったあの日のように澄んでいた。


「……無理だよ。トオルさんがいない世界なんて、私には眩しすぎるの」


私は彼の隣に膝をつき、その冷たくなった手を握りしめた。 光の輪が、私たちの数メートル手前で止まる。


「瀬名拓海! 逃げ場はない! 武器を捨てて、陽葵さんをこちらへ渡せ!」


警官たちの声。その中に、聞き慣れた、けれど今はもう異国の言葉のように聞こえる絶叫が混じった。


「陽葵! お願いだから、お母さんのところへ戻ってきて!」


母さんだった。 父さんに支えられ、崩れ落ちるように泣き叫んでいる。 その姿を見ても、私の心にはさざ波一つ立たなかった。冷酷だと言われてもいい。あの温かな家庭の灯火よりも、今、目の前で死にかけている一人の「怪物」の吐息の方が、私にとっては真実だった。


「……陽葵。最後に、俺の目を見てくれ」


拓海さんは、震える手で私の頬を包んだ。 「お前を愛したことは、俺の人生で唯一の正解だった。……でも、お前を連れてきたことは、最大の罪だ」


彼は、懐から一本のナイフを取り出した。 警官たちが一斉に銃を構える音が、カチカチと響く。


「撃つな! やめろ!」


父さんの悲鳴。 けれど、拓海さんが向けた刃先は、警察でも、私でもなく、自分自身の喉元だった。


「……トオルさん?」


「陽葵。お前は、光の中に帰れ。俺が死ねば、この呪いは解ける。お前はまた、『瀬名陽葵』に戻れるんだ」


「嫌だ……! 戻りたくない! 戻るくらいなら、私も!」


私は彼の手に重なるようにして、ナイフの柄を握りしめた。 二人の力が拮抗し、銀色の刃が月光を跳ね返す。


「……一緒に、行こう。兄ちゃん」


私は彼を、かつてないほど強く、魂をぶつけるように「兄ちゃん」と呼んだ。 兄妹という鎖。恋人という檻。 そのすべてを超えた場所へ。


「……ああ。そうだな。……お前を、一人で行かせられるわけがない」


拓海さんは、諦めたように、そして最高に幸せそうに目を細めた。 彼はナイフを投げ捨て、私を抱き上げた。 残された最後の力を振り絞り、彼は折れた足で立ち上がる。


「陽葵。……愛してる」


「私も。……ずっと、愛してる」


私たちは、寄り添うようにして、暗い海へと身体を投げ出した。


水面を叩く衝撃。 冷たい水が、耳や鼻から容赦なく入り込み、肺を締め付ける。 けれど、重なり合った手だけは離さなかった。 泡となって消えていく意識の中で、私は確かに見た。 海水の向こう側、遠い記憶の中にある、あの日の完璧な四人家族の食卓。 そして、その幻影を切り裂いて、私をどこまでも深い闇の底へと連れていく、愛しい人の横顔を。


泡が止まり、光が遠ざかる。 私たちは、誰にも邪魔されない、本当の「凪の季節」へと辿り着いた。


エピローグ:残響

事件から数ヶ月後。 港町のアパート跡地には、夏草が茫々と生い茂っていた。


警察の捜索にもかかわらず、海に消えた二人の遺体は、ついに発見されることはなかった。 世間を騒がせた「実兄妹による逃亡・心中事件」は、新しいニュースの中に埋もれ、人々の記憶から少しずつ風化していった。


ある日、一人の女性がその岸壁に立ち、一輪の花を海に投げた。 柏木先生だった。


「……あなたたちは、幸せになれたのかしら」


答えを知る者は、もうどこにもいない。 ただ、静まり返った海面を、一陣の風が吹き抜けていった。 それは、まるで二人の笑い声が、永遠にこの世界を拒絶しているかのような、冷たくも美しい響きを湛えていた。

「境界線のエチュード」第六章(最終章) 決戦 はいかがでしたか?一章から始まったこの物語。ついに完結しました!一番初めから読んでくださった方本当にありがとうございました。筆者の作品は初めての投稿となりましたがいかがでしたでしょうか。次回作としてミステリー系の話を書きたいなと思っています。筆者の好きな本というのは実はミステリー系や頭脳系の本なんです。今回は筆者の好きな本、アニメを紹介しようと思います。筆者の好きな本は...辻村深月さんの「かがみの孤城」です。この作品は最後まで結末が予想できない本なんですけど、結末は、私の想像の斜め上をいっていて涙が止まりませんでした。次に筆者の好きなアニメ。それは衣笠彰梧さんの「ようこそ実力至上主義の教室へ」です。この作品は学園ものなんですけど、とにかくキャラクターがいい!です。すごく細かく紹介したいけどネタバレになったらだめなのでここでは触れないでおきますが、絶対に見てほしいです。今アニメは第一期、第二期、第三期が終わっていて、2026年の春アニメで第四期も始まります。ぜひ見てくださいね。話を戻しますが改めて「境界線のエチュード」読んでいただきありがとうございました。次回作でお会いしましょう!

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