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「五章 侵食」

「境界線のエチュード」第五章 侵食 どうぞお楽しみください。

足首に絡みつく鎖の冷たさは、数日もすれば、不思議なほど体の一部として馴染んでしまった。 長さは約三メートル。玄関のドアまでは届かず、窓の鍵にも指が触れることはない。私の移動範囲は、万年床の布団の上と、備え付けの小さなちゃぶ台、そしてトイレの入り口までに制限された。


「……ハナ。痛くないか?」


仕事から帰ってきた拓海さんは、まず私の足首の痣を確認するのが日課になっていた。鎖が擦れて赤くなった肌を、彼は熱心に、まるで聖遺物を清める司祭のように唇でなぞる。


「……痛くないよ。もう、慣れちゃった」


「そうか。お利口だな、ハナ。……お前がこうしていれば、俺は安心して働ける。誰にもお前を見つけられない。誰もお前を連れ去ることはできないんだ」


彼は満足そうに、その日の稼ぎである数枚の千円札をちゃぶ台に置いた。 肉体労働で汚れ、節くれだった彼の手。かつて、あの大きな家でピアノを弾いたり、教科書をめくったりしていた綺麗な手は、もうどこにもなかった。彼は私を繋ぎ止めるためだけに、その身を削り、泥にまみれ、社会の底辺へと自らを突き落としていた。


逆転する支配

皮肉なことに、自由を奪われたことで、私と拓海さんの立場は少しずつ逆転していった。


外の世界で誰とも目を合わせず、常に周囲を警戒し、偽名を使い分ける拓海さんの精神は、日を追うごとに摩耗していった。帰宅した時の彼は、まるで嵐に打たれた小鳥のように震えていることがあった。


「陽葵……。今日、職場の奴に『出身はどこだ』って聞かれた。……バレたかもしれない。警察に通報されたかもしれない」


彼は私の膝に頭を預け、子供のように泣きじゃくる。 その時、私は鎖に繋がれたまま、彼の頭を優しく撫でてあげるのだ。


「大丈夫だよ、トオルさん。私がここにいるじゃない。何があっても、私はあなたの味方だよ」


そう囁くと、彼は安堵したように眠りにつく。 監禁しているのは彼で、監禁されているのは私。けれど、実際に相手に依存し、相手なしでは一歩も踏み出せないのは、主導権を握っているはずの拓海さんの方だった。


私は、彼が寝静まった後、自分の足首の鎖を見つめる。 この鎖は、彼と私を繋ぐ「へその緒」なのだ。 これが外れた時、私たちは二人とも、外の冷たい空気の中で死んでしまうに違いない。


忍び寄る「異物」

そんな停滞した、腐敗していく蜜月の中に、不意に異物が混じり込んだ。


拓海さんが仕事に出かけていた、ある昼下がりのこと。 郵便受けに、カサリと何かが投げ込まれる音がした。 普段は不動産屋のチラシや、水道料金の督促状くらいしか届かない。けれど、その日に落ちてきたのは、手書きの封筒だった。


私は鎖が許す限界まで身を乗り出し、菜箸を駆使して、なんとかその封筒を玄関のたたきから手元に引き寄せた。


宛名は、今の拓海さんの偽名である「佐藤徹」様。 けれど、裏に書かれた差出人の名前を見て、私は息が止まった。


『佐藤くんへ。……元気にしてる? 久しぶりに、あの「エチュード」を聴きたくなったよ』


差出人の名はなかった。 けれど、「エチュード」という言葉。それは、拓海さんが中学時代にピアノで好んで弾いていた曲のタイトルだった。そして、それを知っている人間は、私たちの「過去」を知っている人間に他ならない。


(……見つかった?)


血の気が引く。 この場所は、あのブローカーから秘密裏に借りた場所のはずだ。両親にも、警察にも、絶対にバレないように足跡を消してきたはずだった。


それなのに、なぜ「佐藤徹」という偽名宛てに、過去の彼を知る人物からの手紙が届くのか。


私は、震える手でその封筒を拓海さんの枕の下に隠した。 これを彼に見せれば、彼は狂ってしまうだろう。また首を絞められるかもしれない、あるいは、今度こそ二人で死のうと言い出すかもしれない。


けれど、隠したとしても、運命の足音は確実に階段を上ってきていた。 アパートの廊下から、コツ、コツ、と、聞き覚えのあるリズムの足音が聞こえてくる。 それは、かつて私たちが「家族」だった頃、よく耳にしていた、あの人の足音に似ていた。


足音は、私の部屋のドアの前でぴたりと止まった。 心臓が喉まで競り上がってくる。鎖がチャリ、と小さな音を立てただけで、全身に冷や汗が噴き出した。


(誰……? お父さんなの? それとも……)


ドア越しに、誰かが深く呼吸をする気配がした。やがて、遠慮がちな、けれど確信に満ちたノックが三回。


「……瀬名くん。そこにいるんでしょ?」


声の主は、女性だった。記憶の底にある、少しハスキーで、落ち着いたトーン。 私は記憶を懸命に手繰り寄せた。瀬名――今の「佐藤」ではなく、捨て去ったはずの苗字を呼ぶ人物。


(あ……。柏木先生……?)


中学時代の、拓海兄ちゃんの担任であり、ピアノの指導もしていた柏木先生だ。なぜ、こんな最果ての港町に? なぜ、この部屋を?


「……陽葵ちゃんも、一緒なのよね? 大丈夫。誰にも言わずに来たわ。警察にも、ご両親にも」


柏木先生の声は、責めるようなものではなく、どこか深い慈愛に満ちていた。 私は声を出すことができなかった。もし返事をすれば、この均衡が崩れてしまう。拓海兄ちゃんが必死に築き上げた、この狂った聖域が、外からの光に晒されて消えてしまう。


「……手紙を置いたのは、私よ。瀬名くんが市場で働いているのを見かけた時、自分の目を疑ったわ。でも、あの歩き方、あの目……忘れるはずがないもの」


ドアの向こうで、先生が溜息をつくのが分かった。 「瀬名くん、あなたは……あの子を連れて、どこへ行こうとしているの? こんな古いアパートに閉じ込めて、それがあなたの望んだ『完成』なの?」


先生の言葉は、鋭い針のように私の胸を刺した。 「完成」――。 そうだ、拓海兄ちゃんは以前、ピアノの練習をしながら言っていた。 『音と音が完璧に重なって、余計な雑音が消えた瞬間が、一番美しいんだ』 今のこの生活は、彼にとっての完璧な和音なのかもしれない。私という音を、自分という音だけで塗りつぶし、世界中の雑音を遮断した、究極の二重奏。


「……先生、帰ってください」


私は、絞り出すような声で言った。


「陽葵ちゃん!? 無事なのね?」


「帰って……。トオルさんが、もうすぐ帰ってきちゃう。見つかったら、あの人は先生を殺しちゃうかもしれない。……お願いだから、忘れてください。私たちは、ここで死んでるのと同じなんです」


「……そんなこと、させないわ」


先生の声が、にわかに厳しさを帯びた。 「いい、陽葵ちゃん。瀬名くんは、あなたに隠していることがある。彼がどうやってこの場所を見つけたか、どうやって資金を工面したか……。彼は、あなたを救おうとしているんじゃない。自分を壊すために、あなたを利用しているのよ」


「……どういう、こと?」


「彼は、もう……」


その時だった。 階下から、激しく階段を駆け上がる音が響いた。 重い、荒い、怒りに満ちた足音。拓海兄ちゃんだ。予定より二時間も早い帰宅。


「……逃げて、先生!」


私は叫んだ。 同時に、ドアの外で短い悲鳴が聞こえた。 「瀬名くん! やめなさい!」


ドアが蹴破られるような音とともに、荒々しく開け放たれた。 そこには、魚の血に汚れ、形相を変えた拓海兄ちゃんが立っていた。その手には、作業で使う鋭利な鉤爪のような道具が握られている。


「……誰だ。誰が、俺の陽葵に触れた」


彼の瞳は完全に濁っていた。 そこにあるのは愛ではなく、ただ侵入者を排除しようとする野生の殺意だった。 倒れ込んだ柏木先生の前に、拓海兄ちゃんがゆっくりと歩み寄る。


「兄ちゃん、やめて! その人は先生だよ!」


私は鎖を激しく鳴らし、這い蹲りながら叫んだ。 鎖の長さが限界に達し、私の足首に鋭い痛みが走る。それでも私は、彼の足を掴もうと必死に手を伸ばした。


「……先生? ああ、思い出した。俺にピアノを教えた、あの偽善者か」


拓海兄ちゃんは、冷たく笑った。 「あんたも、俺たちを『兄妹』っていう枠にはめ込もうとした一人だ。……邪魔をするなら、ここで終わらせてやる」


彼は、鉤爪を高く振り上げた。


「やめて、拓海兄ちゃん!」


私の叫びが、狭いアパートの廊下に反響した。足首の鎖が限界まで引き絞られ、皮膚が裂けるような熱い痛みが走る。けれど、その痛みさえ今の私には遠い出来事のようだった。


振り上げられた鉤爪が、夕闇の中で鈍く光る。柏木先生は床にへたり込んだまま、震える声で、それでも真っ直ぐに拓海兄ちゃんを見据えた。


「……殺せばいいわ、瀬名くん。それであなたが救われるならね。でも、あなたが死んだ後、鎖に繋がれたこの子は、誰が解いてあげるの? 腐敗していくあなたの隣で、あの子も一緒に干からびさせるのが、あなたの言う『愛』なの?」


拓海兄ちゃんの動きが、ぴたりと止まった。 彼の腕が、微かに震え始める。


「……黙れ。あんたに、俺たちの何がわかる」


「わかるわよ。あなたが、わざと自分の足跡を残していたこともね」


先生の言葉に、私は息を呑んだ。 足跡を残していた? 完璧に姿を消したはずの彼が?


「陽葵ちゃん、聞きなさい。彼がこの部屋を借りるために使ったブローカー、あれは私の教え子の身内よ。瀬名くんは、わざと『柏木』という名前に繋がるルートを選んで接触してきた。……彼は、自分を止めてほしかったのよ。自分一人の力では、この狂った愛を終わらせることができないと分かっていたから」


「嘘だ……!」


拓海兄ちゃんが吠えた。彼は鉤爪を床に叩きつけ、自分の頭を抱えて蹲った。


「俺は、陽葵を守りたかっただけだ! 誰にも邪魔されない、俺たちだけの楽園を……!」


「ここは楽園じゃない、瀬名くん。あなたが作っているのは、心中までの待合室よ」


先生はゆっくりと立ち上がり、蹲る拓海兄ちゃんの肩に手を置いた。彼はそれを振り払う気力さえ失ったように、ただ子供のように嗚咽を漏らし始めた。


暴かれた絶望

「陽葵ちゃん、鎖の鍵はどこ?」


先生が部屋に入ろうとしたとき、拓海兄ちゃんが力なく顔を上げた。その瞳には、もはや鋭い殺意はなく、ただ底なしの絶望だけが漂っていた。


「……ポッケの中だ。……でも、開けるな。開けたら、こいつは逃げてしまう」


「逃げないよ、兄ちゃん……」


私は涙でぐちゃぐちゃになりながら、這い寄って彼の膝に縋り付いた。 「どこにも行かない。でも、お願いだから、もう自分を傷つけないで。……兄ちゃんがわざと見つかるようにしてたなんて、私、知らなかった……」


先生は兄ちゃんのポケットから鍵を取り出し、私の足首の錠に差し込んだ。 カチリ。 数週間、私の自由を奪っていた冷たい感触が、あっけなく地面に落ちた。 軽くなった足首。けれど、私の心は鎖に繋がれていた時よりもずっと重く、暗い場所へと沈んでいくようだった。


「……陽葵。ごめんな、ごめんな……」


拓海兄ちゃんは私の手を握りしめ、何度も何度も謝り続けた。 彼の「隠し事」。それは、私への愛を貫き通す自信のなさであり、同時に、いつか誰かに自分を裁いてほしいという悲鳴だったのだ。


終焉への序曲

「二人とも、聞きなさい」


柏木先生の声が、冷たく、けれど確かな現実を告げる。


「私がここに来た時点で、警察に連絡が行くよう手配してある。あと三十分もすれば、ここは包囲されるわ」


「先生……!? 警察には言わないって――」


「言わないわけにいかないでしょ。これが、私があなたたちにできる唯一の救いよ。……瀬名くん、あなたは罪を償いなさい。そして陽葵ちゃん、あなたは自分の足で歩くことを思い出しなさい」


遠くで、波の音に混じって、かすかにサイレンの音が聞こえ始めた。 一つ、二つ。それは確実に、この古いアパートを目指して近づいてきている。


拓海兄ちゃんは、ゆっくりと立ち上がった。彼は窓の外を見つめ、それから私を振り返って、今までで一番優しく、そして悲しい微笑みを浮かべた。


「……終わるんだな。俺たちの、短い夏が」


彼は私の頬を両手で包み込み、最後の一吻を落とした。 それは、中学の卒業式の夜に交わした誓いよりも、ずっと深く、永遠の別れを予感させる口づけだった。

第五章 侵食 はいかがでしたか?今回のも合わせると全部で5エピソードやってきたわけですが、毎回読んでくれている方!本当にありがとうございます。そろそろ物語はクライマックス!ぜひ最後までお楽しみください。次回はついに最終回。最後の後書きには筆者のエピソードを書こうと思っています。お楽しみに。

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