「四章 潜伏」
「境界線のエチュード」第四章 潜伏 どうぞお楽しみください。
逃亡から二週間が過ぎた頃、私たちは日本海側の、名前も知らない小さな漁師町に辿り着いた。
潮風で壁が剥げ落ちた、築四十年の木造アパート。その二階の角部屋が、私たちの新しい拠点だった。不動産屋を通さず、訳ありの人間を専門に扱うブローカーのような男に、残った現金の半分を叩いて借りた部屋だ。
「ハナ、外に出る時は必ずこれを被れ。それと、誰とも目を合わせるな」
拓海さん――今は「トオル」と名乗る彼は、私に安物の黒いキャスケットと度なしの眼鏡を差し出した。 かつての「完璧な兄」の面影は、そこにはもうなかった。髪は伸び放題で、顎には無精髭が浮いている。けれど、その瞳だけは以前よりもいっそう鋭く、私を片時も離さないという執念でギラついていた。
密室のルール
私たちの生活は、徹底した「隠蔽」の上に成り立っていた。
拓海さんは、身分証のいらない早朝の魚市場での荷揚げや、深夜の清掃作業といった肉体労働を掛け持ちで始めた。 一方で、私には「一歩も外に出るな」という厳命が下された。
「お前が外に出れば、それだけ見つかるリスクが高くなる。いいか、陽葵。俺が帰るまで、鍵は二重に閉めておけ。誰が来ても、居留守を使うんだ」
彼はそう言って、毎朝私の靴を玄関の棚の一番奥に隠した。 それは私を守るための優しさのように聞こえたけれど、同時に、私の自由を奪うための残酷な儀式でもあった。
六畳一間の部屋。家具は前の住人が残していった古いテレビと、小さなちゃぶ台、そして二人で眠るための安っぽい布団だけ。 私は一日中、その薄暗い部屋で、カーテンの隙間から漏れる光を見つめて過ごした。 テレビをつければ、もしかしたら自分たちのニュースが流れているかもしれない。そう思うと怖くて、電源を入れることすらできなかった。
歪みゆく日常
「……ただいま、ハナ」
深夜二時、拓海さんが帰宅する。 彼は潮の匂いと、重労働でかいた汗の匂いをさせて、真っ先に私を抱きしめた。 その腕の力は、日を追うごとに強くなっていく。
「……兄ちゃん。お帰りなさい」
「兄ちゃんじゃない。『トオル』だろ」
彼は私の首筋に深く顔を埋め、確認するように何度も名前を呼ばせる。 「はい……トオルさん」
私がそう答えると、彼は満足そうに微笑み、ボロボロの作業着のポケットから一輪の萎びた花や、コンビニの安っぽいスイーツを取り出した。
「これ、帰り道に咲いてた。お前に似合うと思って」
狭い部屋の中に、不釣り合いな優しさが差し出される。 彼は外で必死に働き、泥にまみれて現金を稼ぎ、それをすべて私のために使った。 自分はカップラーメン一杯で済ませるのに、私には新鮮な果物や、私が好きだと言ったお菓子を買い与える。
その献身的な姿を見ていると、私は自分が「誘拐された被害者」ではなく、「世界で一番愛されている女性」であるかのような錯覚に陥った。 けれど、ふとした瞬間に彼が見せる、窓の外を警戒する異様なまでの怯えや、私の服をめくって新しい痣(彼がつけた独占の印)を確認する手つきが、ここがただの恋人たちの部屋ではないことを思い出させるのだ。
「陽葵、お前は幸せか? ここで、俺と一緒にいて幸せだよな?」
彼は私の手を握り、縋るような目で問いかける。 「……うん。幸せだよ」
私は嘘を吐いた。 あるいは、それは半分以上、本心だったのかもしれない。 社会から切り離され、名前を失い、未来を奪われても、彼の腕の中にいる時だけは、私は「瀬名陽葵」という重い荷物から解放されていた。
不意に、アパートの階段を誰かが上ってくる音がした。 拓海さんは瞬時に表情を消し、枕元に置いていた護身用の金属バットを握りしめた。 息を殺し、ドアの向こう側の気配を窺う二人の影。
その時、私は初めて気づいた。 私たちの「幸福」は、薄氷の上に築かれた、今にも崩れそうな砂の城なのだということに。
アパートの階段を鳴らした足音は、私たちの部屋の前を通り過ぎ、さらに上の階へと消えていった。 拓海さんは、握りしめていたバットをゆっくりと下ろしたが、その指先はまだ白く強張ったままだった。
「……怖がらせて悪かったな、陽葵」
彼は憑き物が落ちたような顔で微笑むと、私の震える肩を抱き寄せた。 けれど、一度跳ね上がった心臓の鼓動はなかなか収まらない。この部屋は安全だと言い聞かせられても、一歩外へ出れば「瀬名拓海」と「瀬名陽葵」を探す警察や、絶望した両親の目が張り巡らされている。その事実が、目に見えない蔦のように私の首をじわじわと締めていた。
閉ざされた庭
数日が過ぎ、拓海さんの独占欲は、もはや生活の「ルール」という枠を超え、信仰に近いものへと変質していった。
彼は、私が部屋の中で退屈しないようにと、大量の文庫本や漫画を買ってきた。けれど、そのどれもが、彼が事前に内容をチェックしたものばかりだった。 「男女の情愛が激しすぎるものは良くない」「自由を謳歌するような話は、お前に毒だ」 そう言って、彼はいくつかの本を「不適切だ」として処分した。
私の世界は、拓海さんが検閲し、許可を与えたものだけで構成されるようになっていった。
「トオルさん、あのね……。たまには、ベランダに出てもいいかな? 洗濯物、外に干したいし。お日様の匂いが恋しいの」
ある晴れた朝、私がそう切り出すと、拓海さんの表情が瞬時に凍りついた。
「ダメだと言っただろ。……ハナ、お前は自分がどれだけ目立つか分かっていないのか? あの向かいのアパートから、誰が見ているか分からないんだ」
「でも、ずっとカーテンを閉め切ったままじゃ、病気になっちゃうよ……」
「病気になってもいい。俺が看病してやる。……それとも何か? 外に出て、誰かに見つけてほしいのか? 警察に電話して、俺を刑務所に送りたいのか!」
彼は私の手首を掴み、畳の上に押し倒した。 怒鳴り散らす彼の瞳は、恐怖と怒りで血走っている。 私は、彼のその「怯え」に気づいてしまった。 彼は私を支配しているようでいて、実は、私がいなくなることに誰よりも怯えている、ただの子供だった。
「ごめんなさい、トオルさん……。言ってみただけ。どこにも行かないよ」
謝ると、彼はすぐに力を抜き、謝罪を繰り返しながら私の顔中にキスを落とした。 「ごめん、陽葵。……愛してるんだ。お前を失うくらいなら、俺は自分の心臓を抉り出したほうがいい」
その極端な愛の告白に、私は首を縦に振ることしかできなかった。
招かれざる接触
拓海さんが深夜のバイトに出かけていた、ある夜のこと。 彼が厳重に閉めていったはずの玄関のドアが、小さくノックされた。
(……トオルさん? 忘れ物?)
私は反射的に立ち上がったが、すぐに足を止めた。 拓海さんは合鍵を持っている。ノックをする必要はない。 心臓が口から飛び出しそうなほど激しく打つ。私は息を殺し、玄関のたたきをじっと見つめた。
「あのー、すいませーん。お隣の者ですけどー」
聞こえてきたのは、しゃがれた老婆の声だった。 「この間、引っ越してきた方でしょ? 魚市場の奥さんから、お野菜たくさんもらっちゃって。お裾分けにと思ってねえ」
拓海さんの教えでは、居留守を使うのが鉄則だ。 けれど、一週間以上も誰とも会話をせず、光を遮られた部屋に閉じ込められていた私の精神は、限界に達していた。 「人」のぬくもりが、あまりにも恋しかった。
私は、拓海さんへの裏切りだと知りながら、吸い込まれるようにドアへと歩み寄った。 チェーンをかけたまま、数センチだけドアを開ける。
「……はい」
「あら、奥さん。やっぱりいらしたのね。ずっと静かだったから、お留守かと思ったわ」
隙間から見えたのは、腰の曲がった、優しそうな老婆だった。 彼女は新聞紙に包まれた大根を差し出しながら、好奇心に満ちた目で私の顔を覗き込んできた。
「綺麗な奥さんねえ。旦那さん、市場で一生懸命働いてるわよ。……でも、あんまり若いうちに、こんなところで根を詰めちゃダメよ。時々は、港の方まで散歩にでもおいで」
「……ありがとうございます」
私は、大根を受け取ると、逃げるようにドアを閉めた。 たった数十秒の会話。 けれど、その冷たい大根の重みと、老婆の「外の世界」の匂いが、私の中に眠っていた「瀬名陽葵」を呼び覚ましてしまった。
私は、拓海さんが隠した靴を棚の奥から取り出した。 一度でいい。 彼が帰ってくる前に、あの老婆が言った「港」を、この目で見てみたい。 少しだけなら、大丈夫。 だって、私はこんなにも、彼の言うことを聞いて「いい子」にしていたのだから。
私は震える手で鍵を開け、一ヶ月ぶりに外の世界へと足を踏み出した。
アパートの薄暗い階段を降りると、そこには私の知らない世界が広がっていた。 夕暮れ時の港町は、潮の香りと魚の脂が混じり合った、独特の重たい空気に包まれている。一ヶ月ぶりに吸い込んだ「外」の空気は、肺を突き刺すように冷たく、それでいて目が眩むほど新鮮だった。
私は、拓海さんから渡されたキャスケットを深く被り、誰とも目を合わせないように足早に港へと向かった。
偽りの自由
防波堤に座り、暮れなずむ海を眺める。 水平線の向こう側には、私たちが捨ててきた街がある。お父さんとお母さんは、今頃どんな顔をして夕飯を食べているのだろう。それとも、食べる気力すらなくして、私の部屋で泣いているのだろうか。
「……帰りたいわけじゃない」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。 拓海さんに愛されている。彼がいなければ、私はもう息の仕方も分からない。けれど、この波の音を聞いている間だけは、私は誰かの「所有物」でも「妹」でもない、ただの十七歳の少女に戻れた気がした。
ふと、背後に人の気配を感じて振り返る。 そこには、三毛猫を連れた地元の漁師がいた。彼は私を一瞥すると、「よお、見ねえ顔だな。旅の人か?」と気さくに声をかけてきた。
「……あ、はい。少し、散歩に」
「そうか。海はいいぞ。嫌なことも全部、波が洗ってくれるからな」
その何気ない言葉が、今の私には鋭い刃のように突き刺さった。 私の罪も、拓海さんの狂気も、この海は洗ってくれるのだろうか。 私は急に恐ろしくなり、逃げるように防波堤を後にした。もう十分だ。これ以上外にいたら、私は私でいられなくなる。
絶望の帰宅
アパートに戻り、息を整えながら二階の角部屋のドアを開けた。 「……ただいま、トオルさん」
返事はない。まだ帰っていないのだと思い、安堵して靴を脱ごうとした、その時だった。
暗闇の中に、火のついた煙草の灰が、ポツリと赤く浮かび上がった。
「……どこに、行っていた」
凍りつくような声。 拓海さんは、ちゃぶ台の前に座り、私の帰りを待っていた。部屋の電気はついていない。月明かりに照らされた彼の横顔は、もはや人間のそれではなく、地獄の番人のように冷酷だった。
「あ、あの……お隣さんが、大根を……それで、少しだけ港に……」
「……言ったよな。外に出るなと」
拓海さんは立ち上がり、ゆっくりと私に近づいてきた。 その手には、私が脱ぎ捨てていたはずの「予備の靴」が握られていた。
「お前が俺を裏切るなんて、思いたくなかった。……ハナ、お前は自由になりたいのか? 俺を警察に突き出して、あの偽善者たちの元へ帰りたいのか!」
「違う! そんなこと、一言も――」
「黙れ!」
彼は靴を床に投げつけ、私の細い首を両手で締め上げた。 「ぐっ……、あ、兄ちゃ……っ」
「兄ちゃんじゃないと言っただろ! お前は俺がいなきゃ何もできないんだ。飯を食うのも、寝るのも、呼吸をするのも、全部俺の許可が必要なんだ!」
彼の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。 怒り狂いながら、彼は絶望していた。私を失う恐怖が、彼を怪物に変えてしまったのだ。
「……ごめん。ごめんな、陽葵。お前が悪いんだ。お前が俺を不安にさせるから……」
彼は首を締めていた手を緩め、そのまま私を床に組み伏せた。 そして、どこからか取り出した「南京錠」と、細い「鎖」を私の足首にかけた。
「……これで安心だ。もう、お前はどこへも行けない。この部屋が、お前の世界のすべてだ」
カチリ、と錠が閉まる冷たい音。 それが、私の「自由」が完全に死んだ音だった。 私は、泣きながら私を抱きしめる拓海さんの背中に手を回した。
「……分かったよ、トオルさん。もう、どこにも行かない。だから、泣かないで」
狂っているのは、彼だけではない。 鎖に繋がれたことに、どこか安堵している自分。 私たちは、この狭い六畳間という名の墓場の中で、永遠に溶け合っていくのだ。
第四章 潜伏 はいかがでしたか?前回に引き続きこの作品を読んでくださった方ありがとうございます。とうとう拓海の独占欲が爆発しましたね。どんどんエスカレートする拓海。陽葵はどうなってしまうんでしょう。この話にイラストをつけるなら拓海はとびきりの美少年にしたいですね。誰が見てもかっこいいと思う。誰が見ても完璧な拓海が陽葵にだけ見せる少し異様な一面をもつ男。そんな拓海のイラストを描いてみたいですね。でも筆者、実は絵が大の苦手なんです。苦手意識はなかったんですけど、友達に独創的だと言われてから自身がなくなりました。絵描ける人、尊敬します。




