「三章 決壊」
「境界線のエチュード」第三章 決壊 どうぞお楽しみください。
その夏、観測史上最高の気温を記録したというニュースは、私たちの耳には届かなかった。六畳間のアパートのエアコンは、古いモーター音を立てながら、不自然に冷やされた空気を吐き出し続けている。
私は高校三年生の夏休みを、その「箱庭」で過ごしていた。 両親には、拓海兄ちゃんの通う大学が主催する「難関大突破夏季集中講習」に参加し、兄ちゃんの部屋に泊めてもらうと嘘をついた。完璧な優等生である拓海の言葉を、両親は疑いもしなかった。
「陽葵、今日の昼飯。置いておくから、ちゃんと食えよ」
朝、大学へ向かう前の拓海は、まるで壊れ物を扱うような手つきで私の髪を整える。 彼の生活は、私を中心に回転していた。大学の講義が終われば、誘われる飲み会も、友人との約束もすべて断り、スーパーで買い出しをして一直線にこの部屋へ帰ってくる。
「……兄ちゃん。大学、楽しい?」
私が尋ねると、彼は一瞬だけ困ったように笑い、それから私の額に軽く唇を寄せた。
「お前が待っている場所へ帰る。それ以上の楽しみなんて、この世にあるわけないだろ」
その言葉は、私を震わせるほど甘く、そして逃げ場を奪うほど重かった。 私は一日の大半を、彼が買ってきた参考書を広げ、彼が選んだ服を着て、彼の帰りを待つことだけに費やした。それは「勉強」という名目の、穏やかな監禁生活だった。
侵入者
平穏が崩れたのは、八月の中旬。ひどく蝉の声がうるさい午後だった。 拓海が大学へ出かけ、私は一人で部屋の掃除をしていた。その時、ドアを激しく叩く音が響いた。
(兄ちゃん? 忘れ物かな……)
鍵を開けようとした私の耳に、聞き覚えのある、でもあってはならない声が飛び込んできた。
「拓海! いるんでしょう? 拓海!」
お母さんの声だった。 全身の血が凍りつくのを感じた。なぜ、ここが。寮にいるはずの兄ちゃんの、この秘密の住所をどうやって突き止めたのか。
「陽葵も一緒なのね!? 開けなさい!」
ドアノブがガチャガチャと乱暴に回される。私は息を殺し、玄関のたたきに立ち尽くした。 ドア一枚を隔てた向こう側に、私たちが捨てようとした「日常」が牙を剥いて立っている。
「……お母さん」
小さく漏れた私の声を、母は聞き逃さなかった。 「陽葵! あなた、そこにいるのね!? どうして……どうして電話に出ないの! お父さんがどれだけ心配して……!」
私は震える手で、拓海のスマホにメッセージを送ろうとした。けれど、それよりも早く、ドアの隙間から一枚の封筒が差し込まれた。それは、私が「講習のパンフレット」として両親に渡した偽造書類だった。
「これ、大学に問い合わせたわよ。そんな講習、どこにも存在しないって……! 二人で、ここで何をやってるの!?」
母の叫びは、悲鳴に近い絶望に満ちていた。 私は、自分が築き上げてきた嘘の城が、あまりにも脆く崩れ去る音を聞いた。
逃げて、逃げて、逃げ続けた。 背後で響く父の怒声と、母の泣き叫ぶ声が、遠ざかるほどに現実味を失っていく。拓海兄ちゃんの手は、私の手首が砕けるのではないかと思うほど強く握りしめられていた。
「兄ちゃん、どこに行くの……っ。荷物も、お金も……」
「黙って走れ。捕まったら、二度と会えなくなるぞ!」
その言葉が、私の足に力を込めた。そうだ、私たちはもう、あの温かなリビングには戻れない。戻れば、引き裂かれ、矯正され、名前だけの「兄妹」という檻に一生閉じ込められる。
駅の雑踏に紛れ込み、拓海兄ちゃんは迷うことなく下り方面の特急券を買った。行き先なんてどこでもよかった。ただ、両親の、そして「社会」という名の巨大な目が届かない場所へ。
偽りの名前
数時間後。私たちは見知らぬ港町に降り立った。 潮風が肌にまとわりつき、陽炎が揺れる波止場。拓海兄ちゃんは駅の近くの公衆トイレに入ると、自分のスマートフォンをゴミ箱の奥深くへと投げ捨てた。
「兄ちゃん!?」
「GPSで追われる。……陽葵、お前のスマホも出せ」
私は震える手でスマートフォンを差し出した。電源を切る直前、画面には「着信:お母さん」の文字。指先が震えたけれど、兄ちゃんはそれをひったくると、力任せに床に叩きつけ、画面を粉々に粉砕した。
これで、私たちは世界から消えた。 住所も、連絡先も、築き上げてきた成績も、すべてをこの駅のゴミ箱に捨てたのだ。
「これからは、俺たちは『瀬名』じゃない。……俺はトオル、お前はハナだ。いいな?」
「トオル、と……ハナ」
「ああ。……俺たちは、ただの恋人だ。誰に聞かれても、そう答えろ」
兄ちゃんは、私の頬についた涙を親指で乱暴に拭った。その目はひどく充満していて、恐怖に怯える私を安心させるような優しさと、決して逃さないという執念が混ざり合っていた。
潜伏の夜
私たちは、身分証の提示を求められないような、古びた素泊まりの宿に転がり込んだ。 部屋は三畳ほどの広さしかなく、カビ臭い湿気が充満している。窓を開けると、遠くで波の音が聞こえた。
兄ちゃんは、カバンに詰め込んできたわずかな現金を畳の上に広げた。
「……二十万ちょっとか。しばらくは食いつなげる」
「兄ちゃん……大学は? 頑張って合格したのに、あんなに勉強したのに……」
私がそう問いかけると、兄ちゃんは自嘲気味に笑った。
「あんなもの、お前と一緒にいるための手段でしかなかった。家を出るための口実だよ。……陽葵、お前がいれば、俺は学歴も名前も、何もいらない」
彼は私の隣に座り、震える私の肩を抱き寄せた。 狭い部屋の中で、外のサイレンの音がするたびに、私たちは互いの体温を確かめ合うように強く抱き合った。
「……怖いよ、兄ちゃん。捕まったらどうなるの?」
「捕まらない。……もし警察が来たら、その時は一緒に海へ飛び込もう」
兄ちゃんの声は、冗談を言っているようには聞こえなかった。 彼は本気なのだ。私を奪われるくらいなら、この世のすべてを終わらせるつもりなのだ。
その夜、私は初めて、愛しているはずの兄ちゃんに対して、底知れない「恐怖」を感じた。 彼が私に向ける愛は、あまりに純粋すぎて、もはや鋭利な刃物と同じだった。 私は、自分の首元にその刃が常に突き立てられているのを感じながら、彼の腕の中で眠りについた。
その夜、港町の安宿を包んでいたのは、死んだような静寂と、波の音だけだった。 三畳一間の狭い部屋で、私たちは一つの布団に身を寄せていた。古びたエアコンは動かず、開け放した窓から入ってくるのは、湿り気を帯びたぬるい夜風だけだ。
「……陽葵。眠れないのか」
暗闇の中で、拓海兄ちゃんの声がした。隣に横たわる彼の体温は、この熱帯夜よりもずっと熱く、私の肌をじりじりと焦がすようだった。
「……うん。兄ちゃん。私たち、明日からどうなるの?」
私の問いに、兄ちゃんは答えなかった。代わりに、彼は私の腰を抱き寄せ、自分の胸元へと強く引き寄せた。ドクンドクンと、早鐘を打つような彼の鼓動が、私の背中に直接伝わってくる。
「……どうなってもいい。お前をあいつらに渡さないで済むなら、俺は一生、この薄汚い部屋で暮らしてもいい」
「兄ちゃん……」
私は暗闇の中で彼を振り返った。月の光がわずかに差し込み、彼の瞳を濡れたように光らせている。 その瞳に見つめられた瞬間、私は理解した。 もう、「お兄ちゃん」はどこにもいないのだ。 私の目の前にいるのは、家族という鎖を引きちぎり、一人の女を強奪した、名もなき共犯者。
「……陽葵。俺を、お兄ちゃんって呼ぶのはもうやめろ」
彼の手が、私の頬から首筋、そして鎖骨へと滑り落ちる。 「……拓海、さん」
私がその名を初めて呼んだとき、彼の自制心は音を立てて崩れ去った。 重なった彼の唇は、驚くほど熱く、そしてどこか哀しみの味がした。
境界線の消滅
それは、愛というにはあまりに重く、罪というにはあまりに純粋な行為だった。 私たちが犯しているのは、倫理に対する冒涜であり、育ててくれた親への致命的な裏切りだ。 けれど、重なり合う肌の熱さだけが、今この瞬間、私たちが生きていることを証明していた。
「……陽葵。これで、もうお前は俺以外のものにはなれない」
拓海さんは、私の耳元でそう囁いた。その声は歓喜に震え、同時に深い絶望に沈んでいた。 「お前を壊してしまった。でも、これでやっと……お前は俺だけのものだ」
彼の指先が、私の肌に消えない印を刻むように強く這う。 私は、彼に壊されていく感覚を、抗いようのない悦びとともに受け入れていた。 このまま世界が滅びてしまえばいい。 朝が来なければ、私たちは誰にも見つからず、この狭い三畳間の中で一つの生き物として溶け合っていられるのに。
夜明けの予感
やがて、窓の外の空が白み始めた。 青白い光が部屋に差し込み、散乱した服や、虚ろな表情の私たちを冷酷に照らし出す。 拓海さんは、眠りに落ちた私を抱きしめたまま、じっと窓の外を見つめていた。
その横顔には、昨夜の狂熱は消え、代わりに鋭利な刃物のような冷徹さが戻っていた。 彼は知っているのだ。太陽が昇れば、再び「社会」という名の追っ手が動き出すことを。 警察、両親、そして私たちを「異常」と断じるすべての目。
「……行こう。ここは、すぐにバレる」
拓海さんは私の額に最後の一吻を落とすと、迷いのない手つきで荷物をまとめ始めた。 私たちは、自分たちが犯した罪の重さを、その夜の熱さとともに心に刻みつけ、さらに深い霧の向こうへと足を踏み出した。
第三章 決壊 はいかがでしたか?前回に引き続きこの作品を読んでくださった方ありがとうございます筆者は今日テストが終わります。本当に大変でした。でも今年度はこれで最後なので今日を乗り越えたらもう日常がパラダイスです。だから頑張ります。皆さんの癒しの時間となれるようにこれからも頑張っていきます。どうぞよろしくお願いします。




