「二章 歪む鏡面」
「境界線のエチュード」第二章 歪む鏡面 どうぞお楽しみください。
高校生になった拓海兄ちゃんは、もはや「近所の憧れのお兄さん」という枠を完全に逸脱していた。
県内屈指の進学校でも成績は常にトップを維持し、バスケットボール部のキャプテンとして、その名は他校にまで知れ渡っていた。整った容姿と、どこか人を寄せ付けない冷徹なまでの静謐さ。それが逆に、周囲の女子たちの独占欲を煽っていた。
「陽葵、お兄さん本当にかっこいいね。放課後、一緒に写真撮ってもらえないかな?」
高校に入学したばかりの私に、新しい友人たちが群がってくる。 私はそのたびに、頬を引きつらせて笑うしかなかった。 彼女たちは知らない。この「完璧な兄」が、深夜、私の部屋にノックもせずに入ってきて、寝ている私の枕元に座り、夜明けまでただじっと私を見つめていることがあるなんて。
境界線の軋み
ある雨の日の午後だった。 私は部活の会議で少し帰りが遅くなり、駅の改札を出たところで、見覚えのある長身の影を見つけた。
拓海兄ちゃんだ。 傘もささず、雨に濡れるのも構わずに、彼は駅前の広場で誰かと話していた。 相手は、彼と同じ高校の制服を着た、モデルのように綺麗な女性だった。
二人の距離は、単なる同級生のそれよりもずっと近いように見えた。女性が兄ちゃんの腕に軽く触れ、何かを熱心に語りかけている。兄ちゃんはいつもの無表情だったけれど、その視線はまっすぐに彼女を捉えていた。
(……誰、あの人)
胸の奥が、どろりとした黒い感情で満たされていく。 それは、中学の頃に感じていた「独占欲」なんて可愛い言葉では言い表せない、もっと鋭利で、毒々しい殺意に近い嫉妬だった。
私は、声をかけることもできずにその場に立ち尽くした。 雨の音が世界を塗りつぶしていく。 その時、兄ちゃんがふっと視線をこちらに向けた。
一瞬、彼の目が大きく見開かれた。 けれど彼は、隣の女性に何か一言告げると、彼女を残したまま、迷いのない足取りで私の方へと歩いてきた。
「……遅かったな、陽葵」
頭上から降ってくる低い声。彼は自分の鞄から折りたたみ傘を取り出すと、迷いなくそれを広げ、私をその中へと引き寄せた。
「あの人は? 兄ちゃん、彼女なの?」
私が震える声で尋ねると、兄ちゃんは鼻で笑った。 「まさか。……ただ、告白されてただけだ」
「断ったの?」
「当たり前だろ。……言ったはずだ。俺には、お前以外に興味はないって」
彼は私の肩を抱き寄せ、強引に歩き出した。 傘という小さな密室。 雨の音に遮られた世界で、彼の手のひらの熱だけが、私の制服越しに肌へと伝わってくる。
侵食される日常
家に帰ると、両親はまだ共働きで不在だった。 「濡れただろ。風邪引くぞ」 兄ちゃんは脱衣所へ私を追い込み、自分も濡れているのに、タオルで私の頭を乱暴に、けれど丁寧に拭き始めた。
「……っ、痛いよ、兄ちゃん」
「黙ってろ。……陽葵、お前、さっきの女を見てどう思った」
タオルの向こう側で、兄ちゃんの目が私を射抜く。 その瞳には、雨の日の冷たさと、それとは対極にあるような、ドロドロとした暗い欲望が混ざり合っていた。
「……嫌だった。誰かが兄ちゃんに触れるのも、兄ちゃんが誰かを見てるのも」
正直に答えると、兄ちゃんの手が止まった。 彼はタオルを床に落とし、私の両手首を掴んで、壁へと押し付けた。
「……そうか。お前も、俺と同じなんだな」
「え……?」
「俺も、お前が学校で他の男と笑ってるのを見るたびに、そいつの目を潰してやりたいって思ってる。……お前は俺のものだ。俺がそう決めたあの日から、一分一秒たりとも、お前を他人に渡すつもりはない」
兄ちゃんの顔が近づいてくる。 狭い脱衣所、洗濯機の回る音と、私たちの荒い呼吸だけが響く。
「兄ちゃん、私たち……兄妹だよ? こんなこと、絶対におかしいよ」
「おかしくさせたのは、お前だろ。……お前が、そんなに無防備に俺を頼るからだ」
彼は私の手首をさらに強く握りしめた。 痛みと、それ以上に強烈な熱が全身を駆け巡る。 兄ちゃんは私の首筋に鼻先を寄せ、深く、深く、私の匂いを吸い込んだ。
「……陽葵。高校を卒業したら、俺は一人暮らしを始める。……その時、お前も一緒に来い」
「……え?」
「親にも内緒だ。二人だけで、誰にも邪魔されない場所で暮らすんだ。……お前を、俺だけの檻に閉じ込めてやる」
それは、未来の約束というよりは、冷徹な「宣告」だった。 私は、彼の腕の中で震えながら、恐怖と悦びの境界線が完全に消滅していくのを感じていた。 私たちはもう、ただの兄妹には戻れない。 歪んだ鏡の中に映る二人の姿は、すでに人間としての形を失い、共依存という名の怪物に成り果てていた。
月日は流れるように過ぎていったが、私たちの関係は、流れるどころか底の知れない深淵へと沈み込んでいくようだった。
拓海兄ちゃんは大学受験を控え、深夜まで勉強に励むという名目で、部屋の灯りを消さなくなった。母さんは「無理しないでね」と夜食を運んでいたが、その夜食を実際に食べているのは、彼の部屋のベッドに座らされている私だった。
「……陽葵。もっと食え。お前、最近痩せすぎだ」
「兄ちゃんが……夜中に呼び出すからだよ」
そう言いながらも、私は彼の差し出すフォークを拒めなかった。 彼は、私が自分のコントロール下にあることを確認するように、食べ方から座る位置までを細かく指定した。それは、もはや愛情というよりは、新しい玩具を自分色に染めようとする子供のような、無垢で残酷な支配だった。
忍び寄る不協和音
しかし、そんな二人の「聖域」に、少しずつ外部の目が入り込み始めていた。
ある日曜日の昼下がり、リビングで母さんと洗濯物を畳んでいた時のことだ。 母さんがふと手を止め、二階を見上げて呟いた。
「……ねえ、陽葵。最近、拓海と仲が良すぎない?」
心臓が跳ねた。私は畳んでいたシャツを握りしめ、必死で平然を装った。
「え……? そうかな。普通だよ。勉強、教えてもらったりしてるし」
「そうかしら。拓海、あなたの部屋にいる時間が長すぎる気がして。それに、この間……拓海の部屋の掃除をしようとしたら、鍵がかかってたのよ。あの子、今までそんなこと一度もなかったのに」
母さんの目は、疑っているというより、戸惑っているように見えた。 「血が繋がっていないからこそ、思春期になれば距離を置くもの」という、親としての常識的な懸念。けれど、その「距離」は私たちの間では逆方向に作用し、ゼロを超えてマイナスへと向かっていた。
「……今度、拓海と少し話をしてみるわね。陽葵も、もう高校生なんだから。少しはお兄ちゃんを自由にさせてあげなさい」
自由に。 その言葉が、私の耳には酷く滑稽に聞こえた。 兄ちゃんを縛り付けているのは私ではない。私を鎖で繋ぎ、自分の庭から出さないように見張っているのは、他ならぬ拓海兄ちゃんなのだ。
決意の裏側
その夜、私は母さんとの会話を拓海兄ちゃんに伝えた。 彼は机の上のペンを置き、ゆっくりと私の方を振り返った。その瞳には、焦りも動揺もなかった。ただ、冷徹なまでの「決意」が宿っていた。
「……そうか。やっぱり、ここには長くはいられないな」
「兄ちゃん……?」
彼は立ち上がり、本棚の奥から一冊の通帳を取り出した。 「大学は、都内の国立を受ける。……合格したら、すぐに部屋を借りる。親には『寮に入る』とでも言っておくよ」
「……私、どうすればいいの?」
拓海兄ちゃんは私の前に膝をつき、私の両手を包み込んだ。 その手はひどく冷たいのに、握る力は骨が軋むほど強い。
「一学期だけ待て。夏休みになったら、講習だと言って俺のところに来い。……そのまま、二度とこの家には戻さない」
「それって、駆け落ち……? 兄ちゃん、そんなことしたら、お父さんたちが……!」
「あいつらのことなんてどうでもいい。俺が欲しいのは、お前の人生だけだ」
彼は私の掌に、熱い口づけを落とした。 その仕草は騎士のように優雅で、同時に首を絞める絞首刑の縄のように絶望的だった。
彼は、着々と準備を進めていた。 両親に怪しまれない程度の「良い息子」を演じながら、水面下では私を連れ去るための資金を貯め、逃走経路を確保している。 彼が時折見せる、あの完璧な微笑みの裏側で、どれほど昏い計算が働いているのかを考えると、私は背筋が凍るような感覚を覚えた。
けれど、それ以上に恐ろしいのは。 彼が提示する「檻」の中へ、喜んで足を踏み入れようとしている自分自身だった。
「陽葵。……俺を、裏切るなよ」
兄ちゃんの声が、暗い部屋に響く。 その言葉は、約束ではなく、呪いだった。 私たちは、自分たちの「家」という安全な檻を壊し、より深く、より狭い、二人だけの地獄へと歩み出そうとしていた。
春の訪れは、私たちにとって祝福ではなく、共犯者としての「決行」の合図だった。
拓海兄ちゃんは、宣言通り都内の難関国立大学に現役で合格した。合格通知が届いた夜、リビングでは父さんと母さんが泣いて喜び、赤飯を炊いて祝杯を挙げた。 「拓海、本当によくやった。誇りに思うよ」 父さんが兄ちゃんの肩を叩く。兄ちゃんは、控えめながらも完璧な「誇らしい息子」の笑みを浮かべてそれに応えていた。その視線が、一瞬だけ私を捉える。
(準備はできている)
言葉のないその瞳が、そう告げていた。 母さんたちには、大学近くの学生寮に入ると嘘をついた。実際には、兄ちゃんは親からの入学祝い金と、中学時代から必死に貯めていたバイト代をすべて注ぎ込み、駅から遠く離れた、古ぼけたアパートの一室を借りていた。
そこは、誰の目も届かない、私たちのための「箱庭」になるはずの場所だった。
最初の密室
三月の終わり、兄ちゃんの引っ越しの日。 私は手伝いという名目で、兄ちゃんの車に乗り込んだ。両親は仕事で来られず、皮肉にもそれが私たちの「最初の逃避行」を容易にした。
東京の喧騒から少し離れた、静かすぎる住宅街。 案内されたアパートは、壁が薄く、どこか湿り気を帯びた匂いがした。兄ちゃんが鍵を開け、何もないガランとした六畳間に足を踏み入れる。
「……ここだ。今日から、ここが俺たちの家だ」
ドアが閉まった瞬間、カチリと鍵の掛かる音が、世界との絶交を告げる鐘の音のように聞こえた。 兄ちゃんは荷物も解かず、私を壁際へと追い詰めた。
「兄ちゃん、荷物……片付けなきゃ」
「そんなの、後でいい」
彼は私の肩に顔を埋め、深く、深く呼吸をした。まるで、外の世界で汚れた肺を、私の匂いで浄化しようとしているみたいに。
「陽葵、お前は春休みの間、ずっとここにいろ。講習だなんだって、親には俺から上手く言っておく」
「……でも、それじゃ本当に、隠し事になっちゃうよ」
「今さら何を言ってる。……俺たちは、もう十分すぎるほど罪を重ねてきただろ」
兄ちゃんの手が、私の頬を包み込む。その指先はわずかに震えていて、彼もまた、自分自身の踏み出した一歩の重さに耐えているのが分かった。
「陽葵……。お前がいない世界は、俺にとって死んでいるのと同じなんだ。たとえ親を裏切っても、神様に背いても、お前だけは離さない」
その夜、私たちは初めて、親の目を盗む必要のない「二人だけの夜」を過ごした。 狭い布団の中で、兄ちゃんの体温を感じながら、私は窓の外を眺めていた。 東京の空は、故郷よりも星が見えなくて、どこまでも暗い。 けれど、その暗闇こそが、私たちの不純な愛を隠してくれる唯一の毛布のように思えた。
歪みゆく幸福
しかし、自由を手に入れたはずの私たちの生活は、すぐに別の歪みを生み始めた。
兄ちゃんは大学の講義が終わると、一秒でも早く帰宅するようになった。サークルにも入らず、友人を作ることも拒絶し、ただ私という存在だけを糧に生きようとしていた。 「陽葵、今日は誰かと話したか?」「コンビニの店員以外、誰とも目を合わせてないよな?」 帰宅するたびに繰り返される、詰問に近い確認。
彼の愛は、自由を得たことでより純粋に、そしてより攻撃的な「独占」へと進化していた。
「兄ちゃん、そんなに心配しなくても、私には兄ちゃんしかいないよ」
私がそう言うと、彼はひどく安堵したような、それでいて泣きそうな顔をして私を抱きしめるのだ。 私たちは、広い世界の中で二人きりになった。 けれど、その広い世界はいつの間にか、この六畳間のアパートと同じ広さまで収縮してしまっていた。
第二章 歪む鏡面 はいかがでしたか?前回に引き続きこの作品を読んでくださった方ありがとうございます。毎日連載を目標にしたいのですが、筆者は今学年末テストの最中でして...。投稿を忘れてしまう日があるかもしれませんがそれは許してください。次回もお楽しみに。




