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「一章 凪の季節」

「境界線のエチュード」第一章 凪の季節 どうぞお楽しみください。

その日、十歳の私にとっての世界は、あまりにも唐突に、そして暴力的なほど鮮やかに塗り替えられた。


「陽葵、今日からお前の兄貴になる拓海だ。仲良くしろよ」


父のその一言が、静かだった我が家のリビングにひび割れを作った。父の後ろに立っていたのは、私より三歳年上の、驚くほど色の白い少年だった。 彼の名は、拓海。 新しくお母さんになる人が連れてきた「連れ子」であり、私とは一滴の血も繋がっていない「兄」だ。


彼は一言も発さず、ただじっと私を見つめていた。その瞳は、夏の盛りの陽光をすべて吸い込んでしまうような、深く、底の見えない黒色をしていた。


「……よろしく」


短く、低い声。変声期に差し掛かったばかりの、少し掠れたその声が私の鼓動を不自然に跳ねさせた。それが、すべての狂いの始まりだった。


その日から、二段ベッドの上と下という、あまりに近すぎる距離での生活が始まった。 消灯した後、暗闇の中で天井を見つめていると、上の段から拓海の寝返りの音や、微かなシーツの擦れる音が聞こえてくる。


(……お兄ちゃん)


心の中でそう呼んでみる。けれど、声に出すことはできなかった。彼は家の中でもどこか余所余所しく、私を避けているようにも見えたからだ。


ある蒸し暑い熱帯夜のことだった。 私は喉の渇きを覚えて、こっそりとベッドを抜け出した。リビングの冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出し、一気に飲み干す。ふぅ、と一息ついて振り返った時、闇の中に誰かの人影があることに気づき、私は悲鳴を上げそうになった。


「……俺だ」


食卓の椅子に座っていたのは、拓海だった。彼はTシャツ一枚の軽装で、窓の外に広がる月夜を眺めていた。


「兄ちゃん、びっくりした。……寝られないの?」


「……お前の寝相が悪いから、目が覚めた」


嘘だ。上の段にいる彼に、下の私の寝相が影響するはずがない。 私は恐る恐る彼の隣に座った。十歳の私にとって、十三歳の彼はひどく大人に見えた。


「ねえ、兄ちゃん。私のこと、嫌い?」


勇気を出して尋ねた言葉に、拓海は初めて私を真っ直ぐに見た。 月の光に照らされた彼の横顔は、彫刻のように美しく、そしてどこか悲しげだった。


「嫌いじゃない。……ただ、少し怖いんだ」


「怖い? なにが?」


「……お前が、俺を『兄貴』って呼ぶたびに、何かが壊れていく気がするんだ」


その時の私には、その言葉の本当の意味が分からなかった。 彼は立ち上がり、私の頭を乱暴に、でもどこか縋り付くような熱を込めて撫でた。その手のひらの熱さが、麦茶で冷えた私の体温をじりじりと奪っていくのを感じた。


月日が流れるのは、残酷なほどに静かだった。 拓海兄ちゃんが中学生になり、私が高学年へと上がる頃には、私たちの「兄妹」という皮皮は、周囲から見れば完璧なものになっていた。


参観日には父さんと母さんが並んで歩き、週末には四人で食卓を囲む。世間一般の「幸せな再婚家庭」を演じることに、私はいつの間にか必死になっていた。そうしていなければ、拓海兄ちゃんの瞳の奥に時折混じる、あのドロリとした熱に飲み込まれてしまいそうだったから。


拓海兄ちゃんは、中学校で注目の的だった。 成績は常にトップクラス。バスケットボール部のエースとしてコートを駆ける姿は、女子生徒たちの溜息の種になっていた。


「ねえ、陽葵。お兄さん、今日もかっこよかったね」


放課後の校門付近で、私の友人たちが頬を染めて囁く。私はそれに愛想笑いを返しながらも、胸の奥をチリチリと焼くような不快感を覚えていた。 みんな、何も知らない。 家に帰れば、あの完璧な「王子様」が、私の部屋のドアを無言で開け、ベッドに腰掛けて、じっと私を見つめる時間があることを。


ある土曜日の午後、事件は起きた。 部活から帰ってきた拓海兄ちゃんのカバンの中に、一通のピンク色の封筒が入っているのを、洗濯物を取り込もうとした私が見つけてしまったのだ。


『瀬名先輩へ。ずっと前から、憧れていました』


丁寧な文字で書かれた告白の言葉。私はそれを読んだ瞬間、目の前が真っ暗になった。 なぜ? どうして? 彼は私のお兄ちゃんで、私のものなのに。 ……いや、お兄ちゃんだからこそ、誰のものにもなってはいけないはずなのに。


「……勝手に見るなよ」


背後から冷たい声がした。 振り返ると、いつの間にか拓海兄ちゃんが部屋の入り口に立っていた。ユニフォーム姿で、まだ汗の匂いが微かに漂っている。


「ごめん、兄ちゃん。でも、これ……」


「いらないよ、そんなの」


彼は私から手紙を奪い取ると、目の前で無造作に破り捨てた。ビリビリ、と紙が裂ける音が、私の心臓の鼓動と重なる。


「兄ちゃん……? 好きじゃないの、その人のこと」


「好き? 興味ないよ。……俺が興味あるのは、この家の中にしかない」


拓海兄ちゃんは一歩、また一歩と私に近づいてきた。 私はたじろぎ、窓際のカーテンに背中が当たる。夕暮れのオレンジ色の光が、彼の影を長く、黒く引き伸ばしていた。


「陽葵。お前、さっきの手紙読んで、どう思った?」


「え……? それは、その……兄ちゃんがモテるのは、すごいなって」


「嘘をつくな」


彼は私の肩を掴み、壁に押し付けた。 部活帰りの荒い呼吸が、私の耳元にかかる。 その手は、十歳の時に頭を撫でてくれた時よりもずっと大きく、力強く、そして逃げ場を奪うように冷徹だった。


「お前、さっき泣きそうな顔をしてた。……俺が他の奴のところに行くのが、そんなに嫌か?」


「……っ」


否定できなかった。 彼の言う通りだった。私は、彼が誰かのものになることを、死ぬほど恐れていた。 血が繋がっていないからこそ、いつか彼に「他人」としての恋人ができれば、彼はこの家から、私の前から消えてしまう。その事実が、たまらなく怖かった。


「……いいよ、陽葵。そのままでいろ」


拓海兄ちゃんは私の耳たぶを、指先でいたずらに弾いた。 「俺も、お前以外に興味はない。……この先、ずっとだ」


その言葉は、救いのようでもあり、底なし沼への招待状のようでもあった。 私たちはまだ子供だった。けれど、その指先が触れた場所に残る微かな痺れが、私たちの関係がすでに後戻りできない場所まで流されていることを、残酷に告げていた。


拓海兄ちゃんの中学卒業が近づくにつれ、家の中の空気は、まるで嵐の前の静けさのように、いっそう濃密で重苦しいものへと変わっていった。


兄ちゃんは、県内でも指折りの進学校への入学を決めていた。 「拓海は本当に手がかからないわね。陽葵も、お兄ちゃんを見習うのよ」 母さんは夕食の席で、誇らしげに、そして無邪気にそう笑う。その隣で、兄ちゃんは淡々と箸を動かし、ただ一度だけ、テーブルの下で私の膝に自分の足を軽く触れさせた。


「……うん。兄ちゃんは、すごいよ」


私は喉の奥に小骨が刺さったような違和感を抱えながら、必死に微笑みを返した。 家族という記号。 食卓を囲む四人の男女。 けれど、その記号の裏側で、私と兄ちゃんの間には、両親には決して見えない「秘密の糸」が何重にも絡みついていた。


卒業式の夜

中学の卒業式の日、兄ちゃんは大量の女子生徒に囲まれ、制服のボタンをすべて奪われて帰ってきた。 第二ボタンどころか、袖のボタンすら残っていない。 「そんなに人気なのねぇ」と笑う母さんの横を通り過ぎ、兄ちゃんは自分の部屋へと消えた。


その夜、私は喉の渇きで目を覚ました。 リビングへ向かおうと廊下に出たとき、兄ちゃんの部屋のドアがわずかに開いているのに気づいた。吸い寄せられるように、私はその隙間から中を覗き込む。


暗い部屋の中、月明かりを浴びて、兄ちゃんは机に向かっていた。 彼は、手の中にあった「何か」を、狂おしいほど大切そうに、何度も何度も唇に当てていた。


「……っ」


私は息を呑んだ。 彼が愛おしそうに口づけていたのは、女子生徒から返されたボタンでも、卒業証書でもなかった。 それは、以前私が失くしたはずの、お気に入りのヘアゴムだった。


「……見てるんだろ、陽葵」


心臓が止まるかと思った。 兄ちゃんは振り返りもせず、低い声で私を呼んだ。 私は金縛りにあったように動けず、ただ開いたドアの隙間で震えることしかできない。


「入ってこいよ」


促されるまま、私は部屋の中へ一歩踏み出した。 兄ちゃんはゆっくりと立ち上がり、私の方へ歩み寄ってくる。中学を卒業したばかりの彼は、この三年間で見違えるほど背が伸び、体つきも逞しくなっていた。彼が近づくたびに、夜の冷気とは違う、熱い圧迫感が私を包み込む。


「これ、ずっと探してたんだよ……」


私がヘアゴムを指差すと、兄ちゃんはそれを手のひらで握りつぶし、私の手首を掴んだ。


「返してほしければ、交換だ」


「え……?」


「お前の時間を、全部俺にくれ。高校に行っても、大学に行っても、お前が大人になっても……俺以外の男を、お前の世界に入れるな」


それは、十五歳の少年が口にするにはあまりに重く、昏い誓いだった。 兄ちゃんの瞳には、私を慈しむ「兄」としての光など、ひとかけらも残っていなかった。そこにあるのは、自分自身の孤独を埋めるために、他者の魂を完全に食らい尽くそうとする、飢えた執着だけだ。


「……兄ちゃん、それって、どういう……」


「……分かってるだろ、陽葵。俺たちには、血が繋がっていない。それが何を意味するか……お前が一番、知ってるはずだ」


兄ちゃんは私の首筋に顔を埋めた。 幼い頃の石鹸の匂いはもうしない。そこにあるのは、私を翻弄する、一人の「男」としての匂いだった。 私は恐怖で足が震えていたけれど、同時に、彼にこうして強く求められることに、逃げ出したくなるほどの快感を感じていた。


私たちは、凪いでいたはずの季節を、自分たちの手で終わらせた。 卒業式の夜の静寂は、これから始まる「歪んだ愛」への長い序曲に過ぎなかった。

本日より小説を初めて投稿します。今回のタイトルの名前は「境界線のエチュード」読んでくださった方ありがとうございました。私は小さい時から本を読むのが大好きでした。そのたびに私もこんな話が書けたらなと思っていました。そしてこのサイトの存在を知ってチャンスだと思い、書いてみました。まだまだ上手とは言えませんが面白い話を書きたいなと思っています。これからどうぞよろしくお願いします。

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