【短編小説】コラテラル・ダメージ
ホームを滑り出て行く満員電車を見送ると、次の電車を待つ間にまた人が押し寄せ、黄色い線の内側に律儀な列が形成される。
歩行不能に陥ったホームでは、線の外側を歩いた客が駅員に怒鳴られ、その声に神経を逆撫でされた別の客が怒声を返し、さらにそれを見た誰かが軽蔑の視線を投げる。
是正アナウンスが三度目に流れた。
――公共空間における不適切な服装・行動を発見した場合、速やかに通報してください。
おれはそれら全てへの参加を諦め、列に並び、スマホで昨日の業務報告書を確認したり、ニュースを眺めたりしていた。
世界情勢も国内経済もどうかしている。
善意と安全の名の下で更新される制度だけが、やけに元気だ。
通報アプリを閉じたとき、少し先の列で声が上がった。
「ちょっと、やめてください」
女の声だ。
痴漢か、盗撮か。どちらにしても面倒なやつだ。
被害者を守る正義と、それを消費する野次馬と、全部がセットで発生する。
おれは関わらない。
「なんだよ、ちょっと親切にしてやろうってのに」
男の声が続く。
親切。最近は免罪符みたいに使われる言葉だ。
背伸びして見ると、女は太ももから脛まで露出したダメージジーンズを履いていた。
男は全身をそれと分かるブランド物で固め、胸元には是正協力者バッジが光っている。
「いいです、結構です」
「遠慮しないで。君を買うとか、連絡先を聞くとかじゃない。
我慢ならないんだよ、そのジーンズが」
男は真顔だった。
「基準、見たでしょ。露出率、超えてる。
風邪ひいたらどうするの? 公共空間で体調不良者を出すのは、全体への迷惑だ」
周囲は視線を逸らす。
誰も通報はしない。
だが誰も止めもしない。
「もうやめてください」
「どうしても駄目か」
男は一瞬だけ考え、それから視線をこちらに向けた。
「……君は?」
突然、おれを指差した。
「君は黙って見ていた。
つまり、分かっている人だと思った」
心臓が一拍遅れる。
「その靴、踵が潰れてる。
社会人として是正対象だ。
協力してくれるよな?」
アプリが震えた。
是正カウント:1
女はいない。
さっきまでそこにいたはずなのに、いない。
「断る理由は?」
男は穏やかだった。
善意の顔だった。
ホームに電車が入ってくる。
風が吹く。
アプリがもう一度震える。
是正カウント:2
男は服を脱ぎ捨てた。
ブランドのシャツも、靴も、線路に放り投げる。
「どうしても分かってもらえないなら仕方ない」
そして、入線する電車に歩いていった。
轢かれたわけじゃない。
悲鳴もなかった。
ホームの電光掲示板が一瞬だけ切り替わる。
本日:是正不能者 1名
きっとな。




