第二章 傷痕
(うーん……)
そう言えば、確かに死んだときの記憶はあるが、実際この身体でに生死の境を彷徨ったのはあれが初めてのことだったような――……。
戻った私室でシャインは堅苦しい衣装から気楽な室内用の衣服へと着替えながら、過去のことを思い返していた。
伯爵令嬢に相応しい上品なドレスを脱ぎ捨てて、複雑に結い上げていた髪をほどく。
髪飾りが引き抜かれた頭が一気に軽くなり、ようやくの解放感にシャインはほっと息を吐いた。
(なんだかんだ言ってドレスには慣れたけど……。どうにも、令嬢らしい凝った髪形はしんどいのよね)
わしわしと手櫛で髪をほぐして目の前の姿見を覗き込むと、そこには金髪の女が映っていた。
見慣れているのに、やはりどこかに違和感を覚えてしまう、その顔。
間違いなく自分自身の筈なのに、どうしても拭えないその感覚は、かつての己の一部が感じているものなのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えつつ、シャインは左肩に被さっていた髪を払った。
その下から現れたのは、白い肌の上を走る、幾筋もの痕跡だ。
昔に比べれば随分と薄くなったと思うが、それでもこの傷跡が獣の爪で深く抉られたものだということは一目で分かるだろう。
肩から背中へと続く裂傷を、シャインが負ったのは今から七年前のことだ。
意識がなかったためあくまで話で聞いただけなのだが、どうやらこの負傷の直後に自分は高熱を出し、三日三晩もの間目を覚ますことがなかったらしい。
そのとき看てくれた医師の言葉によると、当時は本当に生きるか死ぬかの瀬戸際だったそうだが。
(よくもったものだ、とは言われたけど……。まあ、そもそもが頑丈だった上、あの頃はのべつ幕なしに森だの空だの草原だのを飛び回ってたんだもの。当然体力は人並み以上にあったわね)
おかげで命拾いをしたのだから、やんちゃだやんちゃだと言われ続けていた日々も、無駄ではなかったのだろう。
それに、幸い腕や背に重い後遺症が残るわけでもなく、今はひどく冷え込んだ冬の日などに多少の違和感を覚える程度のことで済んでいる。
(だから、もういいと思うんだけど……)
他には誰もいないのをいいことに、シャインは思い切り渋面になった。
これが発端となった事実は変えようがないにせよ、そろそろ終わりにしてもいいのではないのだろうか。
そんなことをあれこれと思い巡らせながら、シャインは机の一角にまとめて置いた手紙を眺める。
茶話会や観劇、演奏会に夜会などの誘いがしたためられたそれらの招待状は、あえて取り分けてあったものだ。
差出人の多くが有力な貴族や商人、あるいは評判のある知識人である。
将来的に伝手があれば有効かもしれないと、受けるかどうか保留にしていたのだが――。
(でも、なんかもう、どうでもよくなってきたような……)
見事に空振りとなった先程のお茶会を思い出し、シャインはお気に入りの長椅子の上に座り込んだ。
シャイン・リード伯爵令嬢の名が、模範的な淑女の代名詞として社交界で取り沙汰されるようになってから、もう二年程が経つだろうか。
シャインとしては、その評価が己に値するものなのかどうかは首を傾げてしまうところではある。
あくまで外面だけではあるものの――、とは正直思わなくもない。
それでも、この身に叩き込んだ知識や教養、所作に礼儀作法などについてはそれなり以上のものだという自負はあったが。
それらを取得するために十二歳のときから続けて来た努力は、生半のものではないのだ。
(とはいえ、心機一転して真面目にやりだしたら、母上にはむしろ呆れられたんだけど……)
シャインの母親でありリード伯爵夫人であるキャロルは、娘と同じ緑の目をまじまじとこちらに向けながら、「ここまでできるのに、どうして手を抜いていたのだか……」と疲労の滲む口調で言ったものだが。
シャインとしては、それまで淑女の嗜みには目も呉れず、ひたすら外で遊び歩いていた自分がやる気を出したのだから、ここは素直に喜んで欲しいところである。
(けどまあ、そのきっかけがこの傷なんだから、親としては嬉しいわけもないか)
シャインからしてみれば、服の下に隠れるのだから当人以外気にするようなことではないと思うのだが、生憎貴族社会ではそうはならないらしい。
どうやらこの傷跡があることによって、シャインの令嬢としての価値はいわゆる『傷物』扱いとなるようなのである。
(私の感覚だと、見えないんだからいいじゃない、ってなるんだけどねー。さすがに顔だったら困ったけど)
でも、それはあくまでシャインの感性でしかないようだ。実際に、シャインがそのような内心を口にした時の周囲の大人たちの反応は、正直こちらが引きそうになるくらいには凄まじいものだったのだから、認めざるをえないだろう。
(いや、でもねえ……。だからと言って、別に責任を取るようなことでもないってのに)
七年も前に負った裂傷が、こんな後々まで引き摺るような案件になるとは一体誰が思うだろうか。
シャインは指先で寄った眉間を揉みほぐし、当時の騒ぎを思い返す。
あのときの自分はまさしく死の淵から生還したばかりで、目を覚ました後も寝台から身を起こせないような有様だったが、それでも肝心なことは忘れていなかった。
朦朧としつつも視界に映った両親の顔を見て、まず口にしたのはあの少年のこと。
彼は無事だと父に答えられ、安堵と共に意識が再び沈んでいったのは覚えている。
――だが、眠っているうちに、こうまで周りの環境が変化すると知っていたら、シャインは何としてでもその場で起きていることを選んでいただろう。本当に、寝耳に水とはまさしくこのような状況を指すのではなかろうか。
(っていうかね、人が昏睡している間に勝手に婚約話を整えないでよね)
不慮の傷も、結果として死にかけたこともまあいいが、そればかりは断じてよろしくはないのである。




