第一章 過去五
「シャイン様!?」
手綱を取った瞬間に、シュナルの制止する声が聞こえた。だが、振り返れるような余裕はない。
出来る限りの速度で人影が集う場所を目指すと、近付くにつれて見知った顔が見て取れるようになってきた。
「シャイン!?」
濃紺の天馬に騎乗していたマティスが、驚愕した様子でこちらを振り向く。
けれども、目にした父の顔にシャインがほっとしたのは束の間のことだった。
「父上、ご無事で……。――小父様!?」
父の相棒であるヴィーの背にいたもう一人の姿に、シャインの目が大きく見開かれた。
どういうわけか、ケリーが力なく父にもたれかかっている。今にも崩れ落ちそうな様子からして、支えられていなければ馬上にいることすら困難なのだろうと思われた。
シャインはその青褪めた面を一目見て、とっさに言う。
「――解毒のための薬はシュナルに預けてあります! 急いで岩場に! 今ならまだ間に合います!」
要点だけの言葉だったが、マティスはそれで察してくれたらしい。
分かった、とシャインに頷き返した後、部下たちに向けて叫ぶ。
「皆、一度撤退する! 負傷者を連れて戻れ!」
鋭い指示に、騎手たちは一斉に行動を開始した。
ばさっ、ばささっ……。
天馬の翼が羽ばたく音が響き渡るとともに、色とりどりの羽根が宙を舞う。
だが、次々と飛び立つその影の合間を縫うように、何かが空を切った。
シャインがその気配に気づいたのは、本当にただの偶然だ。
瞬時にレナの手綱を引き、その場を離れる。それから間髪を容れず、シャインの袖を何かが掠めた。軽い衝撃の正体は、短い矢だった。
幸い当たったのは籠手で覆われていた箇所だったので、シャインは傷一つ負ってはいないが。
シャインはすぐに矢の飛んで来た方向を探し、下の森を見下ろした。そしてほんの一瞬、木々の間から覗く弓を構えた射手の存在を目にする。
「――っ!」
見つけたその姿に、シャインはそのまま飛び出しそうになったが、どうにか己を押し止めた。
追いかけて――それで、どうするのだ。
シャインの力量で、確実に捕らえられる相手だとは限らない。追って、逆にこちらが遣り返されることも考えられるだろう。
しかし、そうして自身に言い聞かせていたシャインの横を、黒の天馬が凄まじい速度で抜き去って行った。
(え……?)
「くそっ、待て!」
追い抜かれる瞬間に、どこまでも鮮やかな赤い髪がシャインの目に焼き付く。
一瞬後にその意味を理解したシャインは、大声で自らを罵りたくなった。
(だあああああっ! 私の馬鹿あああっ!)
遠ざかっていく背中に、シャインは内心で舌打ちをしながら大急ぎでレナの首を返した。
それでも、出遅れたのは否めようがない。
ほんの少しの差だったというのに、一気に開かれた距離に焦りながら、シャインは天馬を翔けさせた。
(あー、もう! 子供はこれだからっ!)
シャインは胸の中で、ひたすらにルシードへの罵倒を繰り返した。
実際に声に出さないのは、単純にそんな余裕がないからだ。
シャインが思った以上に、ルシードとアディの出す速度が早かった。こちらも全速でなければ振り切られ、その姿を見失いかねない。
でも、そんなことは許されないのだ。
(こんっな危険な場所に、子供を一人!? できるわけないでしょうがっ!)
しかも、あれは間違いなく頭に血が上っている。
たった十二歳の少年が、父親のあんな姿を目にして狼狽えるなという方が無理な話だ。それは仕方ないだろう。
(けど、何でそれで、不審者を追っかける方を選ぶのよ!?)
普通そういう場合だと、具合の悪い相手に付き添うのが正しい判断なのではないだろうか。
それでも、内心でそんな愚痴を零しているうちに、ごく少しずつだが前を行く天馬との距離が近付いて来た。
ここからなら、シャインが声を張り上げれば届くかもしれない。
これ以上の深追いは止めるようにと、シャインがルシードに呼びかけようとした、まさにその瞬間だった。
風を切る、ひゅっ、と鋭い音が響いた。
シャインは慌てて短剣を抜き、レナの馬体に届きかけていた矢を叩き落とした。
次いで、焦りながらルシードを見遣る。幸いなことに、彼にもその天馬にも被害はなさそうだった。
しかしそんなシャインの心配を余所に、ルシードはアディを急降下させていく。
明らかに、何かを見つけたと分かる動きだ。
一直線に目的を目指すその行動に、更にシャインの頭痛が増す。けれども放っておくことはできなかった。
そもそもそんなことが可能なら、ここまで追いかけて来てはいないのである。
頭の隅で鳴っている警鐘が更に大きくなるような予感を覚えながら、シャインは鬱蒼とした森を目掛けて降りて行く。
そして実際に、その懸念は的中した。
レナが地上に着いたところで、シャインは全身が粟立つような悪寒に襲われていた。
これでもかなり、シャインの勘は鋭い方である。
本音を言うと、これが自分一人であれば即行でこの場を飛び立っているところだ。
誇張ではなく、背筋がぞくぞくする。
(どうして、こんなに森の空気が荒れているの!?)
普通なら有る筈のないアルゴーの行動に、突如として現れた目的も正体も知れぬ襲撃者たち。だが、今のこの森の異様な雰囲気はそれだけでは説明がつかない。
とにかく即ここから離れるべきだと、シャインが急いであたりを見回すと、すぐに目を引く赤い髪が見えた。
すぐさま彼の元へ向かおうとしたシャインは、同時に、その周辺で生じている不可解な動きに気がつく。
数匹いるアルゴーの行動がおかしい。右往左往しているその様は、まるで逃げ場を求めているかのようだ。
(――逃げる? アルゴーが?)
大型かつ肉食であるアルゴーは、森においては食物連鎖の最上部に位置する。そんなアルゴーが、脅えている?
だが、そんなシャインの疑問は次の瞬間に氷解した。
――グルッ、グルルッ……。
突如として響き渡る低い唸り声に、シャインは弾かれたように顔をあげた。
次いでその声の主を目にしたとたん、思わず息を呑み込む。
(地狼……っ!)
そびえる木々の奥から現れたのは、漆黒の毛並みを持った巨大な狼だった。
四つ足の獣でありながら、その顔の高さが直立した大人とほぼ変わらぬ位置にあるという事実だけでその巨躯が知れよう。
漆黒の毛皮と金と緑の入り交じった瞳を持つこの地狼は、大地の守り手、あるいは森の守護者とも称される。
真偽は定かではないが、かつてシャインが聞いた話によると、古から森に存在し続けているこの獣たちはそこにいるだけで大地を支えているということらしい。
地方によっては大地母神の従者とも言い伝えられているこの獣が、どうしてここにいるのだろう。
……いや、今はそんなことを考えている場合ではない。それ以上に気掛かりなのは、目の前の地狼が放つ凄まじいまでの怒気だ。
底光りする金緑の眼は怒りと憎悪に染め抜かれており、その視線の先には、革製の鎧で武装した四人の男たちの姿がある。
――そして、彼らから少し離れた場所に立つ、一人の少年。
自分はここでどんな行動を取るべきなのか、シャインが躊躇したのはほんのわずかの時間だった。
だが、その微かな隙は、男たちが武器を構えるには十分な間だったのだ。
男の一人が先程シャインに向けて射かけたのと同じ矢を地狼に放ち、他の二人が連携しつつルシードの横を駆け抜ける。
その一瞬の間に、残っていた最後の一人、四人のうちで最も体格の優れた男が幅の広い長剣を引き抜いた。
「――だめ!」
とっさに叫んだシャインの目の前で、男の剣が深々と地狼の脚へと突き立てられる。
深く切り込んだ一撃は、地狼にとってもかなりの衝撃だったらしい。その隙を衝いて、男たちは一斉に森の奥へと駆け出していく。
思いもよらぬ展開に、シャインの体が震える。それでも、目の隅に映った赤い髪に、どうにか声を押し出した。
「……とにかく、この場を離れ――」
紡ぎかけた言葉が、不意に途切れた。
その先を、シャインは続けることはできなかった。
自分が何をどうしたのか、それすら曖昧だ。
ただ、気づいたときには、ひたすらに自分よりも小さな体を抱きしめていた。
熱さにも似た激痛の中、シャインが認識できたのは少年の絶叫と、そしてその直前によぎった爛々とした獣の瞳だけ。
その光景と声を最後に、シャインの視界は暗転した。




