第一章 過去一
現状、初対面の相手には『令嬢の鑑』、あるいは『完璧な淑女』と誉め称えられるシャインだが、幼い頃の姿を知る人間からすれば、おそらく当時との落差に愕然とすることだろう。
(あの問題児が、って言われても間違いなく反論できないもんなあ……)
伯爵家の令嬢相手にその形容はどうなのかと多少思わなくもないが、事実そうなのだから仕方がない。
そして、そんなシャインが様々なものを改めることになったきっかけが、他ならぬルシードとの出会いであったりした。
十二歳のその頃、シャインは子供であるからこそ許される最後の自由を満喫していた。
山に入って獣を狩り、川で遊び、平野を馬で駆けまわる、気ままな日々。
だが、そんな毎日がいつまでも続くわけがないことも、シャインは分かってはいた。
子供だから大目に見られる自由と、大人であるがゆえに許される自由は全く別物だ。
だからこそ、可能な限りはその一時の特権を享受していようと、シャインは幼少の頃から決めていた。
子供にはいささかそぐわぬその発想は、シャインの特異な事情にある。
これまで誰にも明かしたことのない、シャインの秘密。
それは、シャインが抱えている記憶だった。
シャインではない誰かが、シャインが全く見たことも聞いたことのない世界で生きて死んだ、遠い過去。
(生まれて即自覚したってわけじゃなくて、二~三年かけてじわじわと沁み込んで来た感じだったから、さほど混乱せずには済んだんだけど)
シャインの中にあったその記憶は、おそらく前世と呼ばれるものなのだろう。
シャインとして生まれる前に過ごしていた、別人の一生涯。
記憶の主は女性で、二十六歳での病死だったということを思い出した時には、正直どうしようかと思った。
(死因が犯罪や自殺でなかっただけ良かったのかもしれないけど、でも、二十五歳で難病を発症したんだよね。それから二年も経たずにって……)
早死にするのを看取らせた家族には申し訳なさすぎるし、親身になってくれた友人や同僚もさぞかし驚いたことだろう。
勿論、若くして死ぬことになったかつての自分だって、もしかしたら有り得たかもしれない未来には未練たらたらだった。
でももう、今となってはどうしようもない。
かつての世界やそこにいた人々を慕わしいという気持ちは消えない。それでも、人間仕方がないと諦めざるを得ないことはある。
自分はもう、シャインとしてこの世界で生きていくしかないのだ。
(幸いと言ったらなんだけど、貴族で伯爵令嬢なんて身分に生まれ変わったんだから、平民よりもずっと優位な出発点だし。しかもこの外見だもんね)
正直、ほぼ全ての記憶が馴染んだ後で改めて鏡に映る自身を見たときには驚いた。何しろそこにいたのは、真っ直ぐな金の髪に翠玉のような鮮やかな瞳をした、なんとも将来有望そうな整った顔立ちの幼女だったのだから。
ちなみにかつての己はというと、黒髪に焦げ茶の目の色をしたごくありふれた容姿だった。不美人とまでは言わないが、せいぜい中の中か中の上、というくらいの見た目である。
そして、中身についてもそれは同様だ。
(頭はそこまで悪くなかった筈だけど、特筆すべき程でもないし。他に秀でた特技があったわけでもないしなあ……)
だからこそ、困るというのもある。
そんな平凡な人間が前世の記憶を持って生まれ変わったとして、一体何をすればいいのだろうか。
しかも、かつての世界とこの世界はあまりにも色々と違い過ぎるのだ。
おそらく科学は前の世界の方が発展していただろう。だがこちらでは、以前の常識では空想の産物でしかなかった摩訶不思議な生き物や魔法っぽいものが普通に存在しているときている。
非常に簡単に説明してしまえば、よくあるファンタジー風異世界といったところだろうか。
(転生ネタって、漫画やラノベの定番だよね。それで、大概そういう場合だと、前世の知識や特殊能力とかを使って国を救ったり英雄になったりとかするんだけど……)
だが、敢えて言わせてもらおう。
そんなことは断じて無理だ。少なくとも、自分には。実際、前世の記憶など持っていても身に余るだけである。むしろ綺麗さっぱり全て忘れていた方が、余計な苦労を背負わずに済んだのではなかろうか。
乾いた笑みを浮かべ、シャインは遠い眼差しでそんなことを考える。
何しろ、二十代後半まで生きた記憶がある身に、幼児のふりはかなり大変なのである。
そもそも今の己の両親は、かつての自分よりも若いときているのだ。
勿論この秘密は生涯隠し通すつもりであるが、それでも生まれて来た娘が前世の記憶持ちだなんて事実だけでもあんまりだろうと思うのに、更に若い二人に無意味な育児の苦労を背負わせるのは不憫過ぎる。
そういうわけで、シャインはもっぱら模範的な幼児の言動を心掛けているのだが、時々自分でも「正しい幼児の行動って何?」と思ったりはしていた。
しかし、そういう点での配慮は娘として当然にせよ、シャインとしても譲れない線はあった。
伯爵家に生まれた以上、いずれ貴族として果たす義務はあるだろう。それでも、子供の内はまだ多少の自由はきく筈だ。
(それなら、ちょっとくらいは心残りを叶えてもいいよね?)
前世の自分が死ぬ前にやりたいと思ったことは、ある意味ではとてもささやかだったが、病身には到底望むことのできないことでもあった。
夏の焼け付くような日差しを浴びたり、息が切れるまで走ったり、病院から遠く離れた海や山に出かけたり……と、元気でいた頃には何というほどもなかったような願いだ。
(今のところほとんど風邪すらひかないくらいの健康優良児だし、ちいさな子供が庭を走るのなんて当たり前だもんね)
この世界で成人の、それも女性がそれをやったら奇異の目を向けられるだろうが、幼児であれば話は別である。
心の中でそんな大義名分を掲げ、シャインは今の内にと伯爵家の庭園を走り回るようになり、そして成長するにつれて今度は領内を飛び回るようになっていた。
また両親の方も、最初は元気に遊ぶ我が子を微笑ましく眺めていたものの、広がり続けるシャインの行動範囲に頭を悩ませるようになってきたようだった。
とはいえ、外見は幼くとも中身が大人である以上、当然そんな親たちの気持ちも分かる。だから、そろそろ好き勝手にできる時期は終わりだろうと、シャインがそう考え始めていたそんな頃だった。
父の昔からの友人であるラーフェン公爵が、息子を連れてリード伯爵領に来たのは。




