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第三章 婚約二

 そのノックの主が誰なのか、予想していたのはシャインだけではなかっただろう。

 ちらりと向けられた二対の眼差しは、この部屋の主人であるシャインの了解を求めるものだった。

 こちらとしては拒否する理由がない――いやむしろ、用事がある身としては招く以外の選択肢がない。


「どうぞ、お入りになって下さい」


 分厚い扉越しにでも届くよう、あえて少し声を張り上げる。正直、それだけでも体に痛みが走ったが、平然とした表情は貫き通した。

 静かに扉を開いて入室してきた少年が、真っ先にシャインの姿を認め、父譲りの紫色の瞳をわずかに見開く。

 そのわずかな合間に、シャインは寝台から下りてその場に立った。

 視界の隅に焦るケリーの顔が見えたが、無視して姿勢を正す。

 絶対安静を言い渡されてはいるものの、立つくらいは問題ない。

 シャインは真っ正面から彼と向き合い、腰をかがめて深々と一礼した。


「ルシード・ヴェルディス・ファル・ラーフェン様。この度は私の至らなさゆえに、貴方の身を危険に晒してしまいましたこと心より深く御詫びいたします。大変申し訳ございませんでした」


 身内以外の人間と話すということで、横になってはいたもののぎりぎり人前に出ても恥ずかしくない程度の衣服を身に付けていたのは幸いだった。

 さすがに、寝間着や室内着姿での謝罪は格好がつかない。

 しん、と部屋の中が静まり返った。

 頭を下げているシャインには周囲の様子が見えないので、この場にいる三人がどんな顔をしているのかは当然分からない。

 ただそれでも、呼吸一つ、身動ぎ一つ躊躇われるほどに緊迫している空気はさすがに感じられた。


(う、うーん……)


 沈黙が続く中、シャインは面には出さないもののどうしたものかと考える。


(え、ええっとー。できれば、どなたか何か発言してくれませんかね?)


 ここはシャインの私室だが、この場にいる者の中で一番低い立ち位置にいるのは自分である。

 それゆえに、この状況では何かしらの許可を得なければ顔を上げることはできないのだ。

 そのこと自体に異論はないのだが、生憎今のシャインは重症の身である。短時間であれ、この姿勢を続けるのははっきり言ってしんどい。

 フォルクに乗って体幹が鍛えられているシャインであっても、さすがに限界が近くなってきたかという頃に、狼狽したルシードの声があがった。


「いいから、すぐに頭を上げろって!」


 弾かれたように歩み寄ってくる足音に次いで、右肩に小さな手が触れる。

 ぐっと力をこめられて身を起こすと、思った以上に近い距離に相手の顔があった。


「あ、の……」


 思わず瞬くシャインの前で、ルシードが強く唇を引き結んでいる。

 その硬い表情に、シャインが戸惑って視線を揺らすと、大人二人がはっとしたようにこちらを見ているのが分かった。


「……おまえが、俺に謝ることは何もない」


 だが、すぐ傍から聞こえてきた、押し殺したような低い響きに意識を引き戻された。


「俺がろくに考えもせずに行動したせいで、こんなことになったんだ」


 すまなかった、と続いた掠れ声に、シャインは静かに、けれども強く首を振った。


「違います。ここはロレンネで、そして私はこの地の領主であるリード伯爵家の娘です。領地にいる存在を守るのは、領主一族の務めでしょう。それは客人であっても同じことです。この領内にいる誰であれ――、それが敵でないのなら、この身を張ってでも守り通すのが私の義務です」


 前世の記憶の印象が強くあるせいで、シャインは未だに貴族の価値観や在り方には馴染めないでいる。けれども、最低限の覚悟くらいはあった。


「――そして、非常事態であったにせよ、私が貴方へ十分な話をしなかったことも事実です」


 本音を明かせば、あの時点ではシャインがルシードに何をどう言ったとしても無駄だっただろうとは思っている。

 だけどそれは、言葉を尽くし、態度で示した者だけが口にできることだろう。

 だから、シャインが負ったこの傷は、単なる自業自得以外の何物でもない。

 心底そう思っているシャインに、渋い顔でケリーが言う。


「――でもね、シャイン。たとえあのとき、どれほど君が説明しても、この馬鹿息子が引き下がることはなかっただろうと思うよ。そんな強情な我が子を君に押し付けて出て行った俺も大概無責任だ」


 それに次いで、マティスの方も苦々しい目を悪友へと向ける。


「それなら、そもそも俺がおまえを連れて行ったのが原因だろう。忘れているようだが、この地における最終責任者は俺だぞ」


 この件において責められるべきは誰なのか、四人が四人共に己に咎があると主張するせいで、シャインの自室は完全に混迷した状況に陥った。

 しかも、皆が意見を取り下げないため、全く話がはかどらない。

 誰も譲らずに時間が流れていくなか、膠着状態に終止符を打ったのは不本意にもシャインの体調だった。


「おまえ、どうした!?」


 いきなり上がった焦りの滲む声に、シャインは瞬いた。


「え?」

「え、じゃないだろ。分かってないかもしれないが、明らかに血の気が失せてるぞ」


 慌てるルシードの様子からして、どうやら自分の顔色は相当に悪いようだった。たまたま同じような目の高さだったからかもしれないが、彼は青ざめていたシャインの様子にすぐに気づいたらしい。


「シャイン、君は寝台に戻りなさい」

「気づかなくて悪かった」


 大人二人にも促され、シャインは再び寝台に腰を下ろした。それから一息吐き、改めて口を開く。


「それで、話を元に戻したいのですけれど。本当に婚約以外に手はないのでしょうか?」


 かなり無理矢理な感はあるものの、シャインは最も気掛かりな件へと本題を引き戻した。

 その話題転換に最も早く応じたのは、意外なことにルシードだった。


「他に穏便な手段があるのなら、むしろ教えろ」


 溜息まじりではあるものの、彼の声音は落ち着いていた。

 内心で、シャインはふうん、と呟く。

 これなら、大人たちを相手にするよりもまともに話ができるかもしれないと、シャインは座ったまま彼の立つ方向へと向き直る。


「だって、あまりにも無理がありすぎるんじゃないですか? それはまあ、多少の傷跡は残るかもしれませんが……、婚約までするってのはやりすぎだと思います。何より、怪我をした本人である私が気にしていないんですよ?」


 他ならぬ当人が別にいいと言っているのだから、この話はすっぱりと取りやめて欲しい。

 シャインの主張に、貴族家の当主である二人は無言で視線を交わしている。どう伝えたものかと、言葉を選んでいる気配は感じるが、彼らが何を言いたいのかシャインには釈然としない。

 シャイン同様に父親とその友人の逡巡を察したのか、仕方なさそうにルシードが口を開いた。


「……おまえが、中央の貴族の考えに親しんでないことは父から聞いてる。だから、知らないのかもしれないが……。簡単に説明すると、貴族社会だと人間以外によって負わされた傷は、汚点と見做されるんだ」

「……はい?」

「建国神話にあるだろう。月の神であるシェルバが、地底の帝国を統べる闇の神デュランの従臣である獣に襲われて傷を負うっていう場面が。この国は特に月神への信仰が深いしな」

「ええっと、それはつまり……」


 シャインの予測を裏付けるように、ルシードは淡々とその先を続けて行く。


「大地の守り手とも呼ばれる地狼の爪痕なんて最悪だな。貴族なら、その事実だけでおまえを忌避する者も出てきかねない。この先結婚相手を探そうとしても、まずまともな縁談は望めないだろうな。……そもそも俺が言うようなことではないんだが」


 最後に付け足された一言は、拭いきれない罪悪感から出て来たものか。

 その点についてだけはいささか気掛かりだったものの、それ以上に無視できない説明の内容に、シャインは憤然とする。

 体の痛みよりも、怒りの方が上回った。


「何よ、それ!? 傷跡の一つや二つで人間の価値を決めるわけ!? ふざけんなっつうの!」


 普段被っている猫を放り投げ、馬鹿馬鹿しいと叫ぶシャインに、困った顔で声を掛けて来たのはマティスだった。


「君がそう思う気持ちは否定しないし、俺も同感だ。けど、彼が言っていることも事実だよ」

「ああ、そうだ。実際に王都の聖職者や高位の貴族ほどそのくだらないことにこだわるだろう」


 更にはケリーにも補足され、シャインは否応なく己の置かれている状況のややこしさを悟る。


(そういえば忘れてたけど、貴族の子なら十歳前後で婚約者が決まることも珍しくないのよね。凄いのになると生まれて即って話も聞くし。それなら確かに、適齢期の年頃だとめぼしい相手はほとんどが婚約してるって可能性もあるわけか……)


 だとしたら、この先シャインが伯爵家やそれに付随する様々な条件を含めた上で、適した男性を探し出すのはかなり難しいことになるだろう。


(それはそうなんだろうけど……。でもこれじゃあ、この子を人身御供にするようなもんじゃない)


 しつこいが、シャインのこの傷は自分で撒いた種である。ルシードがそれに巻き込まれなければならない理由はないのだ。少なくとも、シャインにとってそれは揺るがし難い事実である。


「……それなら、せめて、猶予期間を設けることはできませんか」

「猶予期間?」


 片眉を上げて聞き返してきたケリーに、シャインは己の意図を説明する。


「確かに現状では、婚約という形をとるのが最も角が立たないのかもしれません。けれど、この先時間が経過して、色々と状況に変化があれば、解消するということも可能でしょう? だったら、いずれ解消するときの条件もきちんと組み込んだ上での約束ということにしておきませんか」


 シャインはともかく、ルシードは名門公爵家の嫡男だ。そんな優良物件なら、婚約解消の一つや二つ瑕疵にもならないだろうし、相手だって選び放題だろう。

 婚約破棄であれば良識のある貴族からは眉をひそめられるかもしれないが、双方合意の上での解消であれば部外者があれこれ口出しすることではない筈だ。

 だが、シャインがそう述べるところに、ルシードが言葉を挟んで来た。その紫の眼差しは、どういうわけかひどく不機嫌そうだ。


「それだと、根本的な解決にはならないだろうが」

「根本的って……。でも、時間を稼げばいいんじゃないの? ほとぼりが冷めれば、父や小父様が懸念しているような、貴族同士の関係に及ぼす影響は少ないんじゃない?」

「違う、そうじゃない。ここで何より肝心なのは、おまえの将来についてだろう」


 頭痛を堪えるように言われ、シャインは軽く首を傾げる。


「それは、そのときになったら考えればいいんじゃない? さすがにここまで丁寧に解説されれば、私が思っていた以上にこの傷が厄介なものだったってことは了解したけど。でも、実際にそのときになってみないと分からないことなんて山ほどあるんだし」


 他でもない自分の身の振り方なのだから、真面目に考えるべきことではある。だが、シャインはまだ十二歳なのだ。ここで確定してしまうのはさすがに少々早すぎる。

 ――そしてそれは、シャインの目の前にいる彼も同じだった。


(何より、こんな仕様もない理由で、一人の子供の将来を狭めるわけにはいかないでしょうがっ)


 ここでシャインの内面が実年齢相応であれば多少話は違ってくるかもしれないが、けれども生憎、自分の場合は外見と中身の差が詐欺のようなものなのだ。


(よっぽどとんでもない事情でもない限り、本意でもない相手のところに押し掛けたりなんてできるかっての)


 さすがに人命が懸かっていたり、政治戦略的な理由でもあれば話は別ではあるけれど。

 だが、そんなシャインの内心を余所に、ルシードは可笑しそうな、それでいてどこか面白くなさそうな口振りで言う。


「随分、おまえは自分に自信があるんだな」


 揶揄するような響きに、シャインは眉を上げた。


「どういう意味?」

「だってそうだろう? それだけの不利があったとしても、問題なくどこかの男を捕まえられるって宣言してるようなもんだぞ?」

「………………………………………………あー、まあ、それは」


 全く思ってもみなかった角度から指摘され、シャインの口が多少濁った。

 そういう意味で口にしたわけではなかったのだが、確かに、聞き様によってはそうとも受け止められる発言だったかもしれない。


(だってねー、中身の年齢が年齢だし。そもそも結婚に夢や希望を持ってない……。いやむしろ、政略的な結婚をしている以外の自分を想像できないっていうだけなんだけど)


 さすがに、人前でそんな赤裸々な心情を暴露するわけにはいかないが。


「そこまでじゃないけど、やってみなければ分からないでしょう。世の中は広いんだから物好きの一人や二人いてもおかしくないんだし。というか、私にそこまで魅力がないなんて、絶対には言い切れないでしょうが」


 蓼喰う虫も好き好きだし、とシャインははっきりと言い返した。

 とりあえず、売られた喧嘩はきっちり買う主義なのだ。


「そうか? 希望的観測だけだとこっちも困るんだけどな」

「余計なお世話よ。自分の始末くらい自分でつけるわ。それで行かず後家になったとしても、一切責任なんて求めたりしないから、どうぞご安心を!」

「シャイン……」


 胸を張って宣言したシャインの耳に、呻くような呼び掛けが届く。

 声の聞こえて来た方向を振り向くと、父が額に手を当てて俯き、その隣ではケリーが盛大に眉間にしわを寄せている。


「シャイン」


 頭痛を堪えるような表情のまま、ケリーが再度シャインを呼んだ。


「はい、ケリー小父様」


 素直に答えるシャインに、何故かケリーは深い溜息を落とす。


「無礼な息子ですまない。だが、それでももしもということがあるだろう。万が一にも、君が一生を棒に振るようなことがあってはならない。だから念のため、予防線くらいは張らせて欲しい」

「……予防線、ですか?」


 首を傾げるシャインに対し、ケリーが挙げた提案は、いささか想定外のものだった。

 ただ、特別厳しい条件というわけではない。言葉にすれば簡単なことだ。

 それは、ラーフェン公爵家とリード伯爵家との婚約は交わすものの、シャインが別の相手を見つけた場合には、この契約は解消する、というものである。


「それにね。そうすれば、そのときがくるまでは、うちの名前が君を守る盾にもなる。せめて、それくらいはさせてくれ。公爵家の当主としてではなく、ただ、君の父親の友人として」


 語りかけるその顔は貴族のそれではなく、よく知る小父様のものだった。

 そうまで言われてしまうと、シャインとしてもこれ以上の強情を張るのは難しい。

 シャインはしぶしぶながら頷いた。


 ――そうしてこの日、ルシード・ヴェルディス・ファル・ラーフェンとシャイン・リードとの解消前提の婚約が結ばれたのである。


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