愛する旦那様、きっと来世でも幸せになりましょう
少しだけ、優しい日差しがさす時間が伸びた穏やかな昼下がりの午後。
メラニーは包帯で用心深く巻かれた体をベッドの上で上半身だけ起こしていた。
ベッドの傍には椅子が二つ置かれている。
片方にはメラニーの伴侶であるアンジェロが緊張した表情で座っており、もう片方には沈痛な面持ちをした白衣を纏った医者が腰を下ろしていた。
「……奥様を苛む病は、記録をさかのぼっても百年以上前の記載しかみつかりませんでした。治療法はわかりません。……余命は」
もって半年でしょう。
囁くように言われた言葉に、メラニーは視線を伏せる。
メラニーの肌に浮かぶ謎の斑点――肌を蝕む奇病に侵されてもう半年がたつ。
元々、体が強くなかったメラニーだがそれでも生活に支障はなかった。
半年前、腕に浮き出した痣が不自然に広がっていくまでは。
公爵であるアンジェロはありとあらゆる伝手を使って、国内の優秀な医者と治癒師をかき集めた。
だが、その誰もがメラニーの侵された病の原因はわからないと口を揃えた。
ようやく捕まえた隣国の優秀な医者でさえ、原因不明だと断ずる。
治療法はない。余命はもって半年。
そのように宣告されて、けれどメラニーが心を痛めたのは死にゆく自分ではなく、残されるアンジェロのことだった。
引き裂かれるような心の痛みは死への恐怖ではない。
愛する人を孤独に置き去りにすることへの恐れだ。
誰よりメラニーを愛してくれるアンジェロが、自分亡きあと一人で生きていけるのか。それだけが不安で仕方ない。
「……方法は、本当にないのか」
唸るようにアンジェロが口を開く。
大きな体を小さく丸めて、絶望の淵でそれでもかすかな希望を手放せない。そう告げる言葉に、医者が黙り込む。
ああ、いけない。そうメラニーは直感した。
「あるんだな?! 方法が!」
医者は相変わらず沈黙している。だが「ない」とは断言しない。
それがアンジェロにあってはいけない希望を宿らせようとしている。
「旦那様、おやめください」
かすれる声でメラニーはアンジェロを呼んだ。
医者に詰め寄ろうとしていたアンジェロが、メラニーを見る。
その瞳に移るのは病弱だったとはいえ、半年前からは考えられないほどやせ細った姿だ。
メラニーは枯れ木のように細くなってしまって手をアンジェロに延ばした。
医者を向いていたアンジェロが縋るようにメラニーの手を取る。
そっと手を握られて、壊れ物を扱うより慎重に握られた指先が、愛おしくてたまらない。
「私は、非合法な手段で生き延びようとは思いません」
「だが!」
「旦那様、私は旦那様を犯罪者にするくらいなら、死を選びます」
メラニーの病床に付しているとは思えない強い言葉に、アンジェロが息を飲む。
すごすごと視線を下げたアンジェロを愛おしく思いながら、メラニーは医者に向けて口を開く。
「貴方は国に帰りなさい。私が死ぬまで、領地への立ち入りを禁じます」
「はい」
隣国からきた医師を巻き込まないため。などというのは方便で。
アンジェロを甘言をもって唆す可能性のあるものを排除しなければと思ったのだ。
だからこそ、あえて厳しい声音で告げたメラニーに、医者は深く頭を下げた。
彼だって望んで犯罪の片棒を担ぎたくないだろう。
退出する背中を見送って、メラニーはそっと息を吐く。
肌を侵す奇病は、表面に見える痣だけではなく、体中を蝕んでいる。
呼吸を一つするたびに、肺がぎしぎしと痛む。
――きっと、冬は超えられない。
アンジェロが領地として賜っている土地は、冬になると雪に閉ざされる。
白銀に満ちた世界が、王都で暮らして嫁いできたメラニーは好きだった。
新鮮で、美しくて、雪の中をはしゃいで転んで呆れたアンジェロに起こしてもらったことは昨日のように思い起こせる。
けれど、病魔と闘う体は、きっと厳しい冬を超えることはできないと直感的に悟らざるを得ない。
短い人生だった。メラニーはまだ二十三歳で、アンジェロは二十五歳だ。
結婚してから五年しかたっていない。子宝には恵まれなかった。
けれど、アンジェロは「メラニーがいれば幸福だ」と笑ってくれていたから、子に恵まれないことをいままでは気にしていなかったけれど。
ああ、けれど。
死の気配を感じる今となっては、子が欲しかったと切に思う。
そうすれば、孤独をいっとう嫌う大切な人を、孤独の淵に残すことはなかったのに。
▽▲▽▲▽
医者が告げた余命まで、あと一か月という頃。
外では雪がふぶいている雪深い土地で、熱さを感じるほどに温かく保たれた部屋で、真っ白なシーツにうずもれるようにしてメラニーはアンジェロの手を握っていた。
もう、指先一本自由に動かすことができない。
きっと、このまま眠ってしまえば目が覚めることはないのだろう。
死を間近に感じる。
でもやっぱり、死ぬことより、残していくことの方が恐ろしい。
「食事を、きちんと食べてくださいね」
かすれた声でメラニーはゆっくりと口を開いた。
アンジェロもまた、メラニーが一度目を閉じれば二度とその瞳が開かれないことを察しているのだろう。
一言一句聞き逃すまいと必死になってメラニーの言葉を拾っている。
「執務は、ほどほどに。寝てくださいね」
ああ、話すのが辛い。喉の奥がひりついて、乾いている。
でも、水を飲めばむせて吐き出してしまう。
最後に水分を口からとったのはいつだっただろう。もう、記憶がおぼろげで思い出せない。
「子供を……残せなくて……。ごめん、なさい」
唯一、いや二つの心残り。
アンジェロを独り残してしまうこと。
そして、アンジェロを支えてくれるはずの子を残せなかったこと。
公爵家の血は絶やせないから、アンジェロはきっと後妻を娶ることになるだろう。
その人が、寂しいこの人を癒してくれるような人であればいいと願う。
……本当は。少しだけ。寂しいけれど。
自分以外の人を傍に置いて微笑むアンジェロを見たくないと心が叫んでいるけれど。
それは我儘だと知っている。貴族として生きて、貴族として死ぬ。矜持がメラニーにもあるから。
余計なことは、口にしない。最後まで気高い侯爵夫人としてアンジェロの記憶に残るために。
「旦那様、きっと来世でも。貴方を探します。また、お嫁さんにしてくださいますか……?」
「もちろんだ」
メラニーのほとんど音にならない声を拾い上げて、とうとうアンジェロが大粒の涙をこぼして頷く。
頬にあたる温かな水滴に、メラニーは小さく微笑む。
「ああ、でも」
でも、最後に一つだけ。我儘が叶うなら。
神様、どうか。もし、来世なるものがあるのなら。
お伽話の世界で語られる、世界が本当にこの世に存在するとしたら。
どうか、どうか、どうか。
一生に一度の願いだから。最初で最後の祈りだから。
どうか。
もう一度、アンジェロと巡り合わせてください。
もう一度、アンジェロのお嫁さんにしてください。
もう、いち、ど。
そしたら。
「こんど、は」
元気な子供を、育みたい。
▽▲▽▲▽
険しい冬が終わって、澄んだ雪解け水が川を流れ、大地が少しだけ雪の下から顔を出した頃。
エラヌーニ伯爵家の一人娘、今年五歳になるマリーズは一つ下の弟と共に伯爵家の広い庭を走り回っていた。
マリーズは両親が呆れるほどお転婆な女の子だ。
いつも弟と一緒に雪や泥だらけになるまで遊んで、母親に呆れられていた。
伯爵である父親は「元気なのは良いことだ」と鷹揚に笑っているので、マリーズはどんなにはしゃいでドレスを汚しても呆れられこそすれ怒られたことはない。
今日も今日とて弟の手を引いて庭で追いかけっこをして遊んでいたマリーズは、鬼となって弟を追いかけている途中で、溶けた雪の下に隠れていた小石に躓いて盛大に転んだ。
「おねえさまー!!」
慌てた弟が駆け寄ってくる。
そんな中、マリーズは擦りむいた膝の痛みに泣くこともなく呆けていた。
転んで頭を打った拍子に思い出したのは――前世の記憶。
メラニーと呼ばれ、病弱だった頃。
愛する父と母の元で体は弱かったけれど、大切に育てられ、やがて公爵家に嫁いだ。
この北の地を納めるヴァルガス公爵家。その当主アンジェロと愛を育んだ。
「あ、あ……」
ぽろ、ぽろ、ぽろぽろぽろ。
涙がこぼれてあふれて止まらない。泣き出したマリーズに弟が慌てて使用人を呼びに行く。
だが、痛みで泣いているわけではない。
胸を占める痛いほどの感情がある。
切なくて、愛おしくて、悲しくて、大切で。一言でまとめるなら、きっとこれを人は『愛』と呼ぶのだろう。
たまらず起き上がったマリーズは駆け出した。
遠くから使用人が呼び止める声がする。弟が必死にマリーズの名を呼んでいる。
それでも、足は止まらない。
擦りむいた膝の痛みなど忘れて、マリーズは屋敷の庭から飛び出した。
そのまま、覚えているけれど記憶にない道を走り続ける。
目指すのは小高い丘の上、領地を見渡せる一等地に構えられたお屋敷だ。
メラニーが死んでから、何年がたっただろう。
涙が視界を邪魔するたびに、両手で目元を拭って走り続ける。
五歳の子供の出せる速度なんてたかがしれていたけれど、それでも必死に走った。
上質なドレスを纏った令嬢が走っている姿に、領民たちが驚いた様子で振り返ったりもしたけれど、構わず走り続けた。
そして。
マリーズは『運命の人』と再会する。
領地の視察から戻ったところなのか、あるいは王都に召集されていたのか。
運よく馬車から降りたアンジェロの姿を見つけて、メラニーは走り続けて乾いた喉で、それでも懸命にその名を叫んだ。
「旦那様!!」
小さな子供甲高い叫びはアンジェロまで届いた。
驚いたように振り返ったアンジェロに、飛びつくように抱き着く。
アンジェロはずいぶんと老け込んでいた。きっと初老は迎えているのだろう。
つややかだった髪に白髪が混じっている。でも、年相応に落ち着いた表情と相まって、素敵な年の取り方をしていた。
「きみ、は」
「メラニーです! 旦那様!!」
不器用にマリーズ――メラニーを受け止めたアンジェロの腕にすがって、メラニーは声を上げた。
信じてもらえるかわからない。前世の記憶があるなんて頭がおかしいといわれるかもしれない。
それでも。胸に湧き上がるこの衝動を抑えることができなかった。
「貴方に嫁入りしたメラニーです! 旦那様はお肉が好きで、甘いお菓子も大好きで! 特にマカロンが好きだと仰るから、私が王都からマカロンづくりの達人を呼び寄せました!!」
アンジェロが恥ずかしがってメラニー以外の誰にも教えなかった秘密を大きな声で叫ぶ。
信じてほしい、ただその一念で。
メラニーがさらに赤裸々にアンジェロの秘密を口にしようとした瞬間、呼吸すら奪うように力強く抱きしめられた。
「メラニー……! メラニー……っ!!」
アンジェロがメラニーを呼ぶ声には隠しようのない愛が滲んでいる。
信じてくれた、骨董無形な話なのに、それが嬉しくてメラニーは小さな手を精いっぱい伸ばしてアンジェロを抱きしめ返した。
「お約束を、守りにまいりました……!」
「ああ、ああ……っ!」
「今度こそ、旦那様の子を産みたいです」
「俺も、ずっと。待っていたんだ……!」
五歳の子供が口にする内容ではない。
それでもメラニーが口にする言葉をアンジェロは一つも笑わない。
そっと体を離される。アンジェロの少し筋張って皺が浮かんだ手がメラニーの頬を撫でる。
「ああ、メラニーだ。私の妻だ……っ」
再び痛いほど抱きしめられて、メラニーはあえぐように口を開く。
再会できたのは嬉しいけれど、一つの懸念が心にずっとあった。
「後妻の方に、どう説明いたしましょう」
こんなに素敵に年をとったアンジェロには、きっと支えてくれた人がいるはずなのだ。
その思いから口にしたメラニーの言葉に、アンジェロが小さく笑った。
「ふは、その心配はいらない。……私は後妻を娶らなかった」
「旦那様……」
「私が愛したのはメラニーだけだ。他の女性など、考えられなかった」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられる。重い愛情が、けれど心地よい。
メラニーは鼻の奥がツンとして、涙を浮かべながら「仕方のない人ですね」と言葉を漏らした。
苦言のように思えて、喜びに満ちた言葉だった。
「愛しています、旦那様」
「俺もだ、メラニー」
病によって引き裂かれた二人はそうして再会を果たした。
後にアンジェロは「初めて神に感謝したよ」とメラニーを膝にのせて語るのだった。
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