水の音
「でわ、みなさん、明日から夏休みです。休みの間もしっかりと勉強をするように」
「は~い」
間延びした生徒の声が、クラス内に響く。
「日直、号令」
「起立。礼。ありがとうございますした」
挨拶と同時にみんなランドセルを背負い、靴箱に向かっていた。
「あれ、緑川くんは帰らないの」
「少しぼっとしてました。今から帰ります」
「気を付けて帰りなさいよ」
先生の声はいつも、蝉の声と変わらないほどうるさく、怒った時には近くにいる生徒が耳を塞ぐのが、お決まりとなっている。今日は、そんな声も緑川には遠く感じた。
夏休みが始まった。夏休みは学校生活で一番長い休みであり、小学生なら誰しも楽しみにしている行事である。しかし、緑川は夏が嫌いだ。
去年の夏休みのことだ。祖母の家に1週間ほど遊びに行くのが、毎年の恒例行事になっている。5年前に祖父が亡くなってからは、祖母は一人暮らしをしている。毎年行くのは、孫の成長を見せたいと母は言っていたが、祖母の安否確認という理由もあったのだろう。
祖母は80歳で、樹皮の仮面を被ったようにシワが多い。しかし見た目とは裏腹に身体は元気で、大きな怪我をしたことがない。
家はかなり古く、和風平屋で敷地は広いが、雑草が歩けるスペースを徐々に侵略している。その雑草の中に、現在は使われていない井戸がある。井戸には大きな石で蓋がされていて、滑車にはロープの後が残っていた。
ある日の晩、喉が渇いたので水を飲みにキッチンへ向かった。寝室からキッチンまで向かう時に、大きな音が聞こえた。
『ボッチャン』
何かが水に落ちた音。でも、水は家の周辺にはない。雨もここ何日も降っていない。寝ぼけていると思った。
『ボッチャン』
また聞こえた。もう分かった。でも、分かりたくなかった。その音の出所は、使われていないはずの井戸であった。蓋がされているので、そこに物を投げ入れる事は困難であるはずだった。
『ボッチャン』
思考を巡らせるほど、音が大きくなっているように感じた。まるで、存在を知らしめるように。意を決して掃き出し窓から井戸を見た。
周りには明かりがなく、はっきりとは見えないが、人のようなシルエットが見えた。ずっと目を凝らして見ていると、少しずつ原型が見えてきた。
井戸の上に人がいた。小刻みに横へ揺れている。昔のニュースで、認知症の人は、昼夜逆転し夜になると徘徊をすると聞いた事がある。祖母の家は高齢者ばかりなので、そのような人がいてもおかしくはない。
緑川は今起きている現象を納得させようと思考を巡らせたが、それは全て無意味であった。
井戸の蓋は外され、立っていたと思っていた人は、膝から下が井戸の中に入っていた。滑車から縄が垂れ下がり、その先に男性の首が結ばれていた。
その場に立ちすくしていると、男性の首がすごい勢いでこちら向いた。その顔は眼球が飛び出て、顎は外れ大きく開き、首は伸びきっていた。人間の姿をした化け物のように感じた。
次の瞬間、縄は千切れ『ボッチャン』という水の音が響いた。
気付くと、布団の中にいた。母には、廊下で倒れていたと言われた。夜起きたことを話したが、母は信用せず、夢でも見たんじゃないかとだけ言って、掃除機のスイッチを入れた。もう、話は終わりということだろう。
昨日見た窓から井戸を見たが、井戸には蓋がされていて、滑車が虚しく付いているだけで、ロープは取り外れていた。
その後の夜は、眠れなかった。井戸からした音はあの日以来聞いていない。ただ、記憶から消えなかった。あの表情。虎視眈々と確実に狙われている恐怖。もう二度と、あんな体験はしたくはない。
だが、時間は無情にも過ぎていき、出発の日を迎えた。
「もう、準備できた。じゃ、おばあちゃん家に行こうか」
嫌だ。
「おばあちゃん楽しみにしてるってよ」
行きたくない。
「スイカも準備してるって」
井戸に近づきたくない。
「あと、おじいちゃんの墓参りにも行くからね」
その瞬間、心臓を握り潰されたように、呼吸するのが苦しくなった。汗が洋服の色を変える。そうだ、あの顔。あの顔は、他人じゃない。遺影で見た。おじいちゃんだ。
「お母さん。おじいちゃんはなんで亡くなったの」
「そうね。おばあちゃんから、詳しい話は聞いてないけど、動けなくなっていく自分が嫌で、若い頃の自分に戻りたいって毎日嘆いていたんだって。それで、自殺をしたって聞いたよ。亡くなったのは、8月3日だったかな」母は運転をしながら淡々と話す。まるで、他人のことを話すように。
また、あの音だ。
『ボッチャン』
『次のニュースです。8月3日福岡県○○市○○町で行方不明となっていた、小学5年生の男の子、緑川敦くんが発見されました。井戸の中で発見され、その時点で死亡が確認されました。自殺とのことです』