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だってあなたが言ったんじゃない

ぴったり10,000文字チャレンジ。

最後までおつきあいよろしくお願いいたします。


 華やかなパーティー会場の壁際に立つナタリア・ロゼールは、退屈な時間を持てあまして盛大に溜息をついた。


 美しく見せるための化粧はしていないに等しいほど薄く、簡単に結いあげたブロンドの髪には髪飾りのひとつもついていない。


 落ちついた深緑色のドレスはナタリアの体型よりずいぶんと大きいため、手の平が袖で隠れてしまうし、裾は靴のつま先を隠してしまうほど長くて野暮ったい。


 それに、首元までしっかり覆った襟と、肩が凝るほど大きな胸のせいで、実際よりずいぶんとふくよかに見える。


 そのナタリアの視線の先には、彼女の夫であるインバーネス男爵オースティン・ロゼール。ライトブラウンの髪に碧眼のさわやかな青年だ。


 そして、彼のパートナーを務める小柄でかわいらしいラベンダー色の髪の令嬢は、このパーティーを主催しているクレモンド伯爵の三女シェリーヌ。


 二人の息はぴったりで、何度も一緒に踊っていることがわかる。ナタリアは一度もオースティンとダンスを踊ったことなんてないのに。


 ナタリアがオースティンと結婚をしたのは三年前。


 父親同士がとても親しかったため、互いの子どもが異性であれば結婚をさせよう、なんて口約束をしたのが発端だ。とはいえ、ナタリアの父親は平民。貴族と平民が結婚をするなんて、相当な事情がない限りありえない。その相当な事情、正確には借金を抱えるインバーネス男爵家を、ナタリアの実家が経済的に支援するために二人は結婚をしたのだ。


 しかしナタリアを歓迎したのはオースティンの父親だけ。それ以外の者たちはナタリアを歓迎していなかった。なぜならナタリアが平民だから。


 そのせいか、二人は結婚をして三年がたつというのに初夜を迎えておらず、くちづけも結婚式のときの一度だけ。寝室は別々で、頻繁に屋敷を空けるオースティンとナタリアが顔を合わせるのは三日に一度程度。


 当主の仕事はナタリアが代行していて、与えられる食事はとても質素だ。屋敷の使用人たちはナタリアと最低限のかかわりしか持とうとせず、用意されたドレスはまったくナタリアには似合わないのに、それ以外は着させてもらえない。


 オースティンは華やかな世界を楽しんでいるのに、ナタリアにはそれを許さず、数える程度しか出席させてもらえていない社交の場では、口を開くことさえ禁止されている。


 だから、ナタリアは笑みを張りつけたまま壁と同化する。


 しばらくするとオースティンがシェリーヌの腰に腕を回し、寄りそうようにして会場を出ていった。


 その様子を見ていたナタリアは溜息をつきながら壁から離れ、自身も二人が出ていったドアとは違うドアから会場を出た。時間を潰すために庭園に行こうとしたナタリア。しかし、少し早足で廊下を進み、角を曲がったところで、突然目の前に現れた男性とぶつかった。


「おっと、失礼」


 相手は少し驚いたように軽く謝罪をする。


「おや。あなたはオースティンの奥さんでは?」


 ナタリアがぶつかった相手は、オースティンと楽しげに話をしていた友人の一人だ。


「そんなに急いでどちらへ?」

「……」

「もしかしてオースティンを捜しているのですか?」


 友人はニヤニヤしながら、下品な視線をナタリアに向ける。


「残念ながら、あいつはこっちにはいませんよ」

「……」

「チッ、だんまりかよ。本当にオースティンが言っていたとおりだな」


 ナタリアが返事をしないことが気に入らないのか、丁寧だった口調がずいぶんと乱暴になった。


「オースティンがね、あんたのことを無愛想で、つまらない女って言っていたんだよ」

「……」

「あいつは、小さめで形のいい胸の女が好きなんだ。シェリーヌみたいなね。それを自分の手で育てるのが好きなんだと。変態だよな、あいつ。でもあんたは……」


 そう言ってナタリアの胸をいやらしい目で見る。


「……なぁ、あんた、オースティンに相手にされなくて寂しいんだろ? 俺が相手をしてやるよ」


 そう言ってナタリアの腕をつかもうとする。ナタリアは慌てて伸ばしてきた手を払って走りだした。


「お、おい!」


 ナタリアは後ろをふり返ることもせず必死に走り、しばらくして男が付いてきていないことに気がついて、ようやく走るのをやめた。


 それにしてもここはどこだろう? 庭園の近くだろうか?


 ナタリアは辺りを見まわしながら廊下を進んだ。すると。


「ああんっ……!」


 女性の艶めかしい声が聞こえ、驚いたナタリアが立ちどまった。


 もしかして、ここは客用寝室? 間違いなく自分がいてはいけない場所だ。


 ナタリアがそう思ったとき、ドアの向こうから聞きなれた声が聞こえた。


「シェリー……」


 女性の名を呼ぶ声とベッドが激しく軋む音。


「オースティンさまっ……!」

「……!」


 どうやら、夫と浮気相手が激しく求めあっている情事の現場に遭遇してしまったようだ。


「きれいだよ、シェリー」

「あなたの……奥さんより?」


 かわいらしく甘える声の主は、先ほどオースティンと華麗なダンスを披露していた、クレモンド伯爵の三女シェリーヌだろう。


「当たり前だ。あいつなんてシェリーと比べる価値もない。あのでかい胸なんて、下品で恥ずかしいったらない。シェリーのお願いじゃなかったら、絶対にあいつなんて連れてこなかった」

「フフフ、そんなこと言ったら、あ……お、奥さん、かわいそ……ああ!」

「シェリー……!」

「……」


 ナタリアは静かにその場を離れた。そしてその足で屋敷を出て、待たせてあった馬車に乗りこんだ。


「結婚をして三年も過ぎたし、そろそろ我慢も限界ねぇ」


 おっとりとした口調で一人呟くナタリア。その声は少し低めで、妙な艶っぽさがある。


「浮気をしていることは知っていたけど、まさか現場に遭遇することになるとは思わなかったわねぇ」


 それにしても、夫からあんなに嫌われていたなんて。まぁ、知らなかったわけではないけど。


「そんなに私が気に入らないのなら、さっさと離縁してくれればよかったんだけど。……そう簡単にはいかないものねぇ」


 理由もなく離縁はできないし、ナタリアと離縁をすれば資金援助を受けられなくなってしまう。それならオースティンは、シェリーヌとの関係をどうするつもりだったのだろう。まさかずっと愛人に? それともただの遊び?


「まぁ、どうでもいいけど。早くあの人との関係を終わらせて、すっきりしたいわ」


 ナタリアが向かった先はインバーネス男爵邸ではなく、ナタリアの実家。


「ナタリア、どうしたんだい」


 突然の娘の帰宅に驚いた父親のギャビンは、娘のあまりにも不格好な姿に顔をゆがめた。


「なんだい? その変なドレスは?」

「まぁ、お父さんったら。このドレスは、インバーネス男爵家に長年勤めている侍女長が選んでくれた、とっておきのパーティー用ドレスよ」


 ナタリアはそう言って美しく微笑む。


「……そうか」


 ギャビンは厳しい顔をしたままそれ以上言葉を口にすることなく歩きだし、ナタリアがあとに続く。


 二人は居間のソファーに向かいあって座り、手には赤ワイン。ワイン一本の値段は、四人家族の平民が一か月に使う生活費くらい。


 ワインの香りを楽しみ、ひと口飲むとナタリア好みの重たい味が口に広がった。


「おいしいわ」

「そうだろ? ナタリアが遊びにきたら飲もうと思ってとっておいたんだ。それなのに全然こないから、お父さん心配していたんだよ」


 実はナタリアは、結婚をしてから一度も実家に帰ってきたことがなかった。インバーネス男爵邸から馬車で二時間程度しか離れていないというのに、オースティンがそれを許さなかったのだ。だからギャビンは、オースティンがナタリアを愛するあまり、束縛をしているのだと思っていた。それが、実際には浮気をしていて、屋敷では男爵夫人として扱われてもいなかったなんて。


「許せないな」

「私も、もういいかなと思っていますわ。お義父さまとの約束を果たせないのは残念ですけど、仕方がありませんものねぇ」


 ナタリアは義父から「オースティンもいつかきっとナタリアの大切さに気がつくから、どうかしばらくのあいだ我慢をしてほしい」と言われていた。その義父は無理がたたって体を壊し、二人が結婚をして二か月後に息を引きとった。


 それから三年。ナタリアは義父の言葉に従って、オースティンに尽くし、オースティンの言葉に従って、おとなしくつつましく生きていた。


「でも、もううんざりよ」

「ああ。俺もあいつの息子だからといって大目に見る気はない。すぐに離縁をしよう」

「そうねぇ。でも、簡単に離縁するのはちょっと悔しいわ」


 そのおっとりとした口調にはそぐわない、鋭く刺すような視線を見て、ギャビンがニヤリと口角を上げた。


「それなら、お前に私の友人を紹介しよう」

「あら、どなたかしら?」

「マコーレ・リオネル」

「リオネル? まさか、フォルニア侯爵ではないわよねぇ?」


 ナタリアが聞くと、ギャビンはニッと口角を上げる。


「そのまさかだ」




 ナタリアが屋敷に戻ったのはパーティーから四日後のこと。


 ナタリアが帰ってこないと大騒ぎをしていたのは、ナタリアより一日早く屋敷に帰ってきたオースティンだった。


「ナタリア! お前、今までなにをしていたんだ!」


 馬車が見えたのか、オースティンが邸の前で顔を真っ赤にして待ちかまえていた。


「あら」


 しかし馬車を降りたナタリアはかわいらしく首を傾げただけで、憤怒の顔をして出むかえた夫の横を素通りする。


「な……っ!」


 無視をされたオースティンは、踵を返すと乱暴にナタリアの腕を握って引きとめた。


「お、おい! お前。まさか、今、この俺を無視したのか?」


 これまで一度だってナタリアがオースティンの言葉に返事をしなかったことはない。それが、断りもなくパーティーを抜けだし、四日も帰ってこなかったのに「あら」だと?


「いつから、お前は俺にそんな態度がとれるほど偉くなったんだ!」


 そう言って、無理やり握っていた腕を自身のほうへ引いた。


「やめてくださいな」


 おっとりとした、それでいて有無を言わせない口調でオースティンを見あげるナタリア。オースティンはナタリアと目が合うと、顔を真っ赤にして慌ててナタリアの腕を離した。


「お、お前、今までどこにいた?」

「まぁ、心配してくださっていたのかしら?」

「心配なんてするはずがないだろ! お前が自分の仕事を放りだして遊びまわっているから、怒っているんだ!」

「私の仕事って……? ああ、本来あなたがやるべき仕事のことかしら? いやだわぁ。あなたの仕事を私がしなかったからって、なぜ私が怒られないといけないのかしら? それに、遊びまわっていたわけではなく、三年ぶりに実家に帰っただけよ」


 行き先がわからなくても、ナタリアの実家なんて馬車で二時間もあれば着くのだから、使いでも寄こして確認をすればよかったではないか。


「わ、私に断りもなく勝手に屋敷を空けておいてなんだ、その態度は」

「あなたがご自身の行動で私に断ったことはあったかしら?」

「は? 私はこの家の当主だ! なぜ、お前に断る必要がある!」

「それを言うなら、私はあなたの金づるよ。そのお金でいい思いをしているのだから、もっと私の機嫌をとったほうがいいのではないかしら?」

「なっ――!」


 オースティンやその場にいた使用人たちは唖然として言葉を失った。これまで口答えのひとつもしなかったナタリアが、オースティンや使用人たちが一番言われたくないことを言ったのだ。


 平民に資金援助を受けることで、ようやく貴族らしい生活をしているオースティン。平民からの資金援助で給金をまかなわれている使用人たち。


 それは彼らにとってとても屈辱的なことで、ナタリアもそれを理解していたからこれまで口にすることはなかったのに。


「私は疲れているので部屋に戻ります。それから、もうあなたの仕事を代行しないので、これからはご自身でやってくださいね」

「……」


 そう言って、ナタリアはさっさとその場から離れていく。オースティンは真っ青な顔をして、見なれないナタリアの背中を見つめていた。


 その日から、ナタリアに対する使用人たちの態度は、ますます冷たいものになった。食堂の使用はできず、自室に運ばれる食事はパンとスープと水だけ。身支度の手伝いもシーツの交換もしてくれなくなったし、侍女長以外の使用人たちは、話しかけても一切返事をしなくなった。


 オースティンは、それからも変わらず屋敷を空けた。もちろん仕事なんてしていない。


 ああは言っても、結局ナタリアがこれまでどおりオースティンの仕事をするだろうし、これからもそれは変わらないと思っているのだろう。


 ナタリアが帰ってこないというあの出来事から一週間後。


 オースティンはパーティーに出席するために、新調した質のいい生地のスーツに袖を通し、鏡に映った自身の姿を見て満足そうな顔をしている。


「やはり、アンティオーク・カジュアルで仕立てたスーツはほかとは違うな」


 アンティオーク・カジュアルとは、完成するまで半年は待たないといけない、と言われている女性に人気のブティックだが、最近ではスーツも作るようになり、男性からの注目も集まっている。


「よくお似合いですよ、お坊ちゃま」


 母親代わりでもある侍女長は、我が子同然のオースティンに目を細めた。


 機嫌をよくしたオースティンは、わざわざナタリアの部屋まで足を運び、そのスーツがどれだけ素晴らしいものかを説明し、野暮ったいドレスを着るナタリアはみっともなくて、自分の隣に立つにはふさわしくないから、パーティーには絶対に連れていかない、と言った。


「お前はこれまでどおりやるべきことをやっていればいいんだ。これ以上私の機嫌を損ねるようなことがあれば、お前の食事はパンだけになるかもしれないぞ」

「まぁ」

「よくよく考えて行動するんだな」


 オースティンはニヤッと笑って、踵を返すと部屋を出ていった。


 しばらくすると遠くから馬車が走りだす音が聞こえて、ナタリアがクスリとわらう。


「フフフ。よく考えなくてはいけなかったのはあなたなのに」


 ナタリアはそう言うとクローゼットに向かい、奥にしまっておいた化粧道具を取りだした。


「この化粧道具を使うのは本当に久しぶりねぇ」


 鏡台の前に座ったナタリアは目の前に広げた化粧道具を見て、うれしそうに微笑んだ。




 侍女長は、これまでになく緊張をしていた。主人が留守をしている屋敷に先触れもなく、フォルニア侯爵マコーレ・リオネルがやってきたからだ。


 四十歳手前のマコーレは、十年前に妻に先立たれて現在は独り身。その容姿でたくさんの女性と浮名を流してきた恋多き男として有名で、気に入らない相手に対して無慈悲なことでも知られている。


 そのマコーレがナタリアに会いに来た。しかもオースティンが不在のこのときに。


「も、申し訳ございませんが、ナタリアさまは、た、体調を崩しているためお会いすることは叶いません」


 緊張で顔をこわばらせた侍女長が、深々と頭を下げる。


「それはおかしいな。先ほど、彼女が部屋から私に手を振ってくれたのだが」

「は? そ、そんなはずはありません」


 思わず侍女長が顔をゆがめた。


「そんなはずはない?」

「ナタリアさまのお部屋は建物の端にあるので、正面からは見えません」


 マコーレが眉根を寄せる。


「ナタリアの部屋が正面ではなく建物の端? なぜだい? 彼女は男爵の妻で、この屋敷の女主人だろ?」

「それは……」


 侍女長は返す言葉が見つからずに黙りこむ。すると、ドアをノックする音が聞こえた。そして入ってきたのはナタリア。侍女長がナタリアの姿を見てぎょっとする。


「な、なぜあなたがここに?」

「なぜ? 私のお客さまがいらっしゃっているのだから、私が来るのは当たり前でしょ? あなたたちこそ、私を呼びに来ないでなにをしているのかしら?」


 正論を言われて黙りこむ侍女長。しかもこの場にはマコーレもいるため、侍女長はそれ以上なにも言うことができず「申し訳ございません」と顔をゆがめながら謝罪する。


「お待たせいたしました、マコーレさま」

「ナタリア、とてもきれいだよ」


 マコーレは立ちあがるとナタリアの手をとり、手の甲にくちづけを落とした。


「こんなにうつくしい妻がいるのに見向きもしないなんて、君の夫は頭がどうかしているな」

「フフフ、そう言ってくださるのはマコーレさまだけですわ」


 ナタリアはうつくしくそして妖艶な笑みを浮かべる。


「では行こうか」


 そう言って二人が歩きだす。


「お待ちください! ナタリアさまの外出は許可されておりません」


 侍女長は二人の前に立ちふさがったが、マコーレがキッと睨みつけると、肩をビクッと震わせてうつむく。


「立場をわきまえたまえ」


 マコーレの低く鋭い声に、侍女長は顔を真っ青にして、ぎゅっとスカート部分を握りしめた。二人は侍女長を横目に部屋を出て、そのまま馬車に乗りこみ屋敷をあとにした。


 多くの人が集まり談笑する声があちこちから聞こえる、きらびやかなベルリティ侯爵邸のパーティー会場。そこに、最後の招待客となる男女がやってきた。


 フォルニア侯爵マコーレ・リオネルと……はて、隣の妖艶な美女は誰だ?


 マーメイドラインのドレスは、彼女の柔らかくしっとりとした曲線美を際立たせ、豊かな胸の谷間がホルターネックの中央部分から見えている。ブロンドのうつくしく長い髪は緩やかにうねり、大きくはっきりした瞳と、すっと通った鼻筋にぽってりとした唇の、匂いたつような色気がなんとも悩ましい。


「なんて魅力的な女性だ」

「なにを言っているの。アレは下品っていうのよ」

「フォルニア侯爵の連れということは貴族令嬢か? いやどこかの未亡人か?」

「なによ、胸が大きければいいというわけではないわ」


 なんて話す声があちこちから聞こえる。


 そこへ一人の男性が血相を変えて二人のもとへとやってきた。


「ナタリア!」


 女性の名を呼んだのはオースティン。


 その言葉に会場中の人々が一気にざわめいた。まさか、あの妖艶な女性がインバーネス男爵夫人? あの、地味で野暮ったい、夫にかまってもらえず屋敷に閉じこもっている、あの?


「あら、オースティン」


 ナタリアが夫の名を呼ぶと、ますます人々がざわめいた。これまで彼女が人前で話をしたことはなかったからだ。


 しかし聞いてみれば、少し低めのおっとりした口調が妙に色っぽく、微笑むナタリアは艶っぽい。


 周囲の男たちは頬を赤らめ、ナタリアに釘付けだ。


「なぜ、ここにいるんだ! この男は誰だ!」


 オースティンが怒りの形相でナタリアにつめ寄る。


「こちらは私のパートナーのフォルニア侯爵マコーレ・リオネルさまよ」

「は? フォルニア侯爵? なぜ、お前のパートナーを? お前は俺の妻だろ? まさか、浮気していたのか?」


 オースティンがまくし立てた。が、オースティンより十センチくらい身長が高いマコーレが、ナタリアの前に立ち、オースティンを蔑むように見おろす。


「ずっと妻以外の女性をエスコートしている君に、彼女の浮気を疑う資格があるのか?」


 その言葉にぷっと吹きだす周囲の人々。


「あ、あなたには関係ないことです!」


 オースティンは顔を赤くした。


「それなら、ナタリアが誰とパーティーに参加しようと君にも関係ないな。では、行こうか」

「ええ」


 ナタリアはマコーレの腕に自身の手をかけて、オースティンの横を抜けていく。


「ま、待て、ナタリア!」


 呼びとめられてナタリアとマコーレが足を止めた。


「離縁をされたくなかったら今すぐ屋敷に帰るんだ」


 するとナタリアがクスッと笑う。


「いやねぇ、オースティン。私が離縁されるのではなくて、あなたが離縁されたのよ」

「は?」

「だってあなたが言ったんじゃない。お前を愛するつもりはない。白い結婚をするって」

「は……?」

「フフフ、あなたが結婚と同時に私にサインさせた離縁状。ちゃんと受理されたから安心して」

「……は?」

「ああ、そうそう。離縁したから、もう実家からの資金援助はあてにしないでちょうだい。でもうちのお金で買った調度品は餞別代りに置いていってあげるわ」


 ナタリアはうつくしく微笑み、マコーレと共に会場の奥へと行ってしまった。


 あまりのことに膝から崩れ落ちるオースティン。そこへやってきたシェリーヌ。


「オースティンさま。やっと私たち、一緒になれるのね」


 シェリーヌは人々の注目を一身に浴び、芝居がかった口調でオースティンに抱きついた。しかしオースティンはシェリーヌを手で払いのけ、フラフラと立ちあがり、ナタリアのあとを追いかける。


「オースティン、さま……?」


 シェリーヌは呆然としてその背中を見つめた。


「ナタリア、ナタリア!」


 人をかき分けやっとナタリアに追いついたオースティンが、ナタリアの腕をつかんだ。


「待ってくれ。なぜ離縁なんて。君は、私のことが好きだったんじゃないのか?」

「え? 私が?」

「そうだよ。だって、これまでずっと私の言うことを聞いて、私のために尽くしてきたじゃないか。私を愛していたからだろ?」

「違うわ」

「え?」

「あなたのお父さんと、私の父にお願いされたから。そうじゃなかったら絶対に結婚なんてしなかったわ。あなたの指示に従っていたのは、面倒なことになりたくなかったから」


 今の彼女を見れば、言葉の意味がわかる。顔も体つきも声も話し方も、すべてが妖艶で、男たちはナタリアから目が離せず、中にはナタリアを直視できない者もいる。


「……そうだよ。だから君を屋敷から出したくなかった。誰にも見せたくなかったんだ……。君はとても魅力的で、ちょっとおしゃれをすればすぐに男の目を引いてしまう。だから、変なドレスを着させたし、できれば人前にも出したくなかったのに」


 その言葉に周囲の人々は呆れ顔だ。


「本当に、私たちは離縁したのか?」


 オースティンが情けない顔をしてナタリアに聞く。


「ええ、三日前に私の父が手続きをしてくれたわ」


 本当は自分で手続きをしたかったけど、閉じこめられていたからそれはできなかった。


「三日前……。いやだ、俺は離縁なんてしたくない。君のことが好きなんだ。愛しているんだよ!」


 オースティンは泣きそうな顔をしてナタリアに訴える。


「あら? でも、あなたにはクレモンド伯爵令嬢という恋人がいるじゃない」

「彼女とはわかれる。友人に紹介されてなんとなく関係が続いてしまっただけで、べつに好きでもなんでもないんだ。本当に愛しているのはナタリアなんだ」


 そう言いきったとき、人々の視線は氷より冷たいものになった。


「ひ、ひどい……!」


 震える声の主はシェリーヌ。まさか彼がそんなふうに思っていたなんて。


「ひどいわ。何度も私のことを愛しているって。奥さんのことなんて愛していないって言っていたじゃない。胸が大きすぎてウシみたいだって!」

「まぁ、オースティンたら、そんなことを言っていたの?」


 実際にその会話を聞いているけど。


「ち、違うんだ」

「ああ、そういえば、あなたの好みは、胸は小さめで形がいい女性だったかしら?」

「は?」

「あなたのお友達が、いやらしい目で私を見ながら親切に教えてくれたわ」


 そう言ってナタリアが指を指したのは、前のパーティーでナタリアに関係を迫った男。


「し、失敬な! 俺はそんなつもりはない」


 男は顔を青くしてその場から立ちさった。


「あらあら」


 ナタリアが妖艶に微笑む。


「ねぇ、オースティン。こんなにすてきなパーティーで、いつまでも私的に騒ぎを起こすのは失礼よ。だから、もう私にはかまわないでほしいの。ね?」


 まるで子どもを諭すように優しく話しかけるナタリア。


「い、いやだ。俺はナタリアを愛している。本当に好きなんだ。だから……どうしても手が出せなくて。本当は君を抱きたかったけど、君に呆れられたらと思うと怖くてできなかったんだ」


 なんて、しょうもない告白をしだしたオースティン。そしてその言葉を聞いてさらなるダメージを受けているのはシェリーヌだ。


「私を抱いたのは、たいして好きじゃないから……?」


 大粒の涙を流しながらわざわざ自身の傷を抉っている。


「ねぇ、ナタリア」


 三人の様子を見ていたマコーレが口を開く。


「ほかの招待客に迷惑だし、我々がここから離れるのはどうだい?」

「そうね。それがいいわ。では、私たちはこれで失礼しますわね」


 ナタリアとマコーレはそう言ってさっさと会場をあとにした。




 その後、オースティンはシェリーヌと再婚をしたが、彼の不誠実な振る舞いにより夫婦仲は最悪だとか。社交界からも締めだされてしまった。




 半年後。ナタリアはフォルニア侯爵邸のソファーでマコーレに膝枕をしていた。


「マコーレ」

「なんだい?」


 ナタリアがマコーレの耳元で囁く。


「愛しているわ」


 するとマコーレが柄にもなく顔を赤くした。


「君の声を聞くと変な気分になるな」

「いや?」

「まったくいやじゃない。ずっと君の声を聞いていたいよ」

「フフフ、うれしいわ」


 そう言ってナタリアがマコーレに顔を寄せ、濃厚なくちづけを交わす。


 今ならわかる。君を誰の目にも触れさせたくないと言っていた彼の気持ちが。だって君は、魅力的すぎる。


最後まで読んでくださりありがとうございます。

少しでもおもしろいと思っていただけたら、ブクマや★などで応援よろしくお願いします。



こちらもよろしくお願いします。

連載中

『いつかもう一度笑いあえたら』

https://ncode.syosetu.com/n7226kd/


『ツノあり姫』

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― 新着の感想 ―
> 「立場をわきまえたまえ」 正論に埋もれてるけどさ、フォルニア侯爵ってインバーネス男爵の寄り親じゃなさそうだし、 ナタリアを咎人として連行する状況でもインバーネス男爵家から保護する状況でもないよね?…
ナタリアっていわゆる魔性の女系の女性かなという印象。どれだけ魅力的だとしても元々の身分が平民だから、貴族社会では侮られるのでしょう。なのに侯爵に膝枕をして愛を囁く関係に? でも結婚したと言う表現はなか…
いやいやシェリーヌの伯爵家、よく結婚許したな!?Σ( ̄□ ̄; あーでも、娘を傷物にされたからその責任を取らせた……ってことになるか?でもどう考えても娘を幸せにできてない気がするが……? あと援助を失っ…
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