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少年の夢 其の一

 僕とタチバナは唖然とするしかなかった。それは、目の前にいるのが十、十一歳くらいの子供だからでも、彼の態度が歳不相応に礼儀正しかったからでもない。少年は言った。

「あの、僕、生きてるんですけど」

 タチバナは少し離れた場所に瞬間移動し、僕を手招いた。話を聞かれたくないらしい。これから会議する問題に関して早々憂鬱に苛まれつつ、僕はタチバナのもとへ向かった。

「タチバナさん、どういうことですか。なんで生きてる一般人がここにいるんですか」

 僕はタチバナに倣って腰を曲げた。

「霊力の強い一般人が、何らかの負荷がいっぱいかかると何らかのラグが起きて地獄に落っこちることがあるとかないとか」

「前例があるんですね。どう対処すればいいんでしょう」

「親父がなんか言ってたけど、なんも覚えてねーわ」

 僕はタチバナの脳天に拳骨を下すと無線機を手に取り、第四課本部につなげた。

「はい、こちら第四課本部」

 対応係の若い女性だ。

「今地獄の入り口前の大門で罪人を確認したんですけど、生きてるし、そもそも、罪人でもなさそうです。リストに載ってすらいません」

「......は?」

 間の抜けた気配があった。

「あ、だから、もう一度言いますね。生きてる子供が地獄に落ちてきて…」

「ホントにそう言ったんですね⁉私の聞き間違いではなく!」

 係は悲鳴のような声を上げた。つかの間慌てふためく泣き声のようなものが聞こえたが、無線機の遠くでセンパーイと叫んでいた。

 その後しばらくごちゃごちゃした騒ぎが耳を通り抜けていたが、先程の彼女より少し落ち着いている、おそらく先輩であろう人物が無線を代わった。そこで僕は尋ねた。

「あの、どうすれば」

 先輩にもやはり心を落ち着かせる時間が必要なようで、長い沈黙が流れる。

「...課長に繋ぎます」

 それだけ言うと、無線機の向こうで係の気配がなくなった。完全なる大事扱いの色がチカチカする。若い方の係は僕らと同じ新入りだろうが、僕は同情せざるを得なかった。こんなしょっぱなから大事件に巻き込まれるなんて!

 しかし何といっても不憫なのはこの少年である。真っ当に生きていたはずが、現在生きながらにして死者の世界、それも悪い噂のみ流れる地獄に送り込まれてしまったのだから。なんて励まそうか、いやその前にこちらの不手際を謝罪すべきか、頭を抱きしめて恐る恐る振り返った。

 僕が驚いたのは、そこに、腹を抱えてよじれるタチバナと、饒舌におしゃべりする少年の笑顔があったからだ。僕は目の前で花火が爆ぜたような衝撃を喰らった。思わず体がよろめいた。ここは地獄のはずではなかったのか。この摩訶不思議な現象は、子供の強がりなのかそれとも若い適応能力の自然な傾向なのか、全く判然としないがとにかく気味悪いことは確かである。

 しかしこの少年がどんな肝っ玉を持っていたとしても、曇天のような天井の下、反射的に僕はこう思った。

 少年よ、地獄で余裕をかますな。

「ヒメカワ、ヒメカワ」

 無線機から課長の声がした。

「あんたら、本当にお騒がせコンビなのね」

 今回は不可抗力である。

「その子は、あなた達が責任をもって地上まで送っていきなさい」

「...は?」

 ついさっきの若い係と同じ反応をしてしまった。何しろ課長はひどいことを言ったのだ。地獄の大門をくぐった者(役人以外)は、今来た道を戻ることは出来ない。たとえ生者であってもだ(地獄に落ちた生者の前例は五百年前らしい)。となると、地上への出口は一つしかない。

「この子を、最上階へ連れて行け、ということですか」

 課長のツーンとした声は答えた。

「ええ、それ以外ないもの」

 無謀無理難題を言うな!と声が出そうになって危ない。最低階が持ち場の僕たちは上の階の事情なんて机上でしか知らない。我々が一つミスを犯すだけで、この少年も、僕らも死んでしまう可能性があるのだ。我々役人は罪人では無いので、ひとたび槍で貫かれれば普通に死ぬし、ましてや子供をそんな危険な所へ連れて行くなんて希望がなさすぎる。しかも失敗したらクビの予感。最悪の状況を回避するため僕は口を開きかけたが、ポン、と白い手が肩を叩いた。タチバナはこちらを一瞥してニイッ、と白い歯を見せると、そのまま僕が持つ無線機に朗明な声でこう言った。

「いいですぜ、引き受けても」

 ノオォォォッッ!!!!

 僕の必死かつ全力否定の顔面をフル無視してタチバナは続ける。

「どうせ他の奴らに任せても混乱するだけでしょう。そのかわり、今回の不幸を一掃したら、私の正当防衛で下がった評価を無かったことにしてくれませんか?特に、ヒメさんの方を」

 なぜこいつは簡単にそんなこと言ってしまうのか。てか今は評価の話なんてしている場合ではない。失敗したらクビにされるかもしれないのに。少なくとも僕は。状況を分かっているのか否か、後方で少年は呆然としていた。だが子供ごときに構っていられない。僕は予想される厄介を避けるべくタチバナにしがみついた。

(ちょっと、大丈夫なんですか。まだ子供ですよ。危険レベル100ですよ)

 しかし彼の腕が僕の首に回ってきて逆に身動きできなくなる。

(心配すんな、あの少年なら行ける。お前もすぐに分かるぜ)

 タチバナは、取り返しがつかなくなることを自信満々に言ってしまう。

「...正当防衛では、評価は下がらないわよ」

 課長は疑るように言った。何故か余裕そうなタチバナは、僕の肩に馴れ馴れしく肘を置いて嫌味ったらしく笑った。

「いいや、下がります。正当防衛といえども、印象悪ければ黒い噂しか流れないでしょうから、私らのことであれば。いくら課長でも、バイアスかかっちゃ正当な評価をするのは難しいと思うなぁ」

 偉い身分が上司に食ってかかる。流石地獄カンパニーの御曹司なのか、中流家庭の僕らと言うことが違う。まさか僕をかばってくれるとは思わんだが。無線機越しに溜め息が聞こえた。

「随分と強気なのね」

「はい」

「…あなたの行為は打ち消せないけど、気の毒な相方に免じて、社内の君たちに関する誤解は解いとくわよ」

 ブツ、と無線機が切れた。課長と僕はタチバナに折られてしまった。本人はくつくつ笑っている。腹立たしい。僕はタチバナの邪魔なひじをどけた。

「あの姐さんなー、頭いいけど絶対オレらのこと嫌いだよなぁ。理解ある人らしいけど。なぁ、ヒメさん」

「やめてくださいその女子みたいな呼び名」

「よし行くぞ少年!」

 タチバナは勢いよく180度回転して彷徨いの子供に手を差し出した。少年はその手をじっと見つめて言った。

「これから僕はどうなるんですか」

 彼は初めて不安そうな声を出した。何も言わない僕より先にタチバナは冷たい笑みを浮かべた。そして少年の心配を掻き消すほど元気に、

「地上へ帰るんだよ。ただし、道中地獄さ」 

 と宣って少年の返答を待った。彼はかえって不安げに、というか不満げにその大人の手を睨んだが、最早引く瀬などないことも承知しているようでその眼を逸らさなかった。少年がそおっと大人の手を掴むと、かっちり白く小さい手は握り返された。少年の口元に微かな安堵の息が聴こえた。彼は強ばっていた肩をゆっくり下ろした。そうしてタチバナと僕を見上げると小さく笑った。

「ヒメさん!ヒメさんも手握ってもらったらどう?」

 こんな生意気なことを言いやがったのはタチバナではなく少年の方であった。僕は微笑んだ。

「思ったより元気そうだねェ」

 少年とタチバナに拳骨をお見舞いしてあげて僕はさっさと扉へ向かった。後ろでふざけたうめき声が響く。確かに、この少年なら地獄を進んでいけるだろう。





「それにしても、地獄って本当にあったんですね。迷信だとばかり思ってました」

 少年はキョロキョロ地獄の底を見回して耳も塞がず進んでいく。やかましさと暑さで一般ピーポーでは十分(じゅっぷん)で限界が来そうなものなのだが、彼は表情一つ変えずなんならタチバナの手を離してしまった。興味津々で火が滲み出ている険しい道をテクテクスタスタ行進する。僕ら役人は彼の両脇を固めて万一がないように警戒しながら進む。正直、生モノを扱うのは就職祝いで家族と会った以来なので普段の仕事より緊張している。僕は地上で生者を相手に仕事をする人々の大変さに思いを馳せた。どこかで蒸気の吹き上がる振動が響いた。

 まさか生きた子供がここにいるなんて役人たちは思わないだろうが、地獄に子供がいるというだけでとてつもなく目立つ。そのためぼくら若人一行は地獄の底のど真ん中を行く大通りではなく、地上で言う商店街の八百屋や肉屋の如く並ぶ巨大な拷問器具(崖、大鍋など)に身が隠れるように端っこを歩く。また、少年にグロテスクなシーンを無闇やたらに見せないためでもあったのだが、

「地獄って言うからどんくらいヤバいのかなって内心おっかなかったけど、なんだ、全然怖くないや。杞憂だったな」

 このような態度なのでそこまで配慮する必要はなかったかもしれん。

「お前、ほんとに怖くないのか?」

 タチバナがごく不思議そうに訊いた。僕も気になっていた。

「ええ?うーん」

 少年は可愛い声で首を傾げた。

「学校とかにある画鋲の方が怖いかなぁ。割と落ちてるし、指でしっかり掴んでも、うっかり刺さったら嫌じゃないですか」

 彼にとって地獄とはその程度らしい。地獄が画鋲に負けた。

 少年はやや離れた位置に並ぶ数々の拷問器具を僕越しに見た。現在地獄の底は普段よりずっと人が少ない。恐らく、課長が緊急事態のためにこの時間帯に処罰される罪人の人数を調節したんだろう。純粋無垢な子供を丁重に扱いたがる地獄では、今回の件は大問題である。この罪人と役人の少なさから、子供に不謹慎なことをあまり見せたくないという思いが分かりやすいくらいに伝わってくる。

 一方、この少年はそんな大人の配慮を一蹴するように僅かな処刑シーンを目に収めようとしている。むしろ痛々しい場面が期待したほどの迫力と回数でなかったのか、目を細めて肩を落とした。興ざめらしい。血が飛び散っても平気な顔をしている。どうやら彼は怖いもの見たさに大変素直であるようだ。

「僕、さっきの入口のところで言ってもらったこと、すごく嬉しかったんです」

 思い出したことを少年は呟いた。

「僕子供だから、こういう時には、おうちに帰ろう、お母さんに会いたいよね、って慰められるのが常です。でもタチバナさんは、地上に帰るって言ってくれて、その言い回しが嬉しかったんです。人は歳を取ってしまうと、子供一人一人の区別がつかなくなるようだから」

 熱風が吹き付けて少年の髪を払った。それなりに歩いて、流石の少年も額に汗が流れている。

「あ」

 少年は突然立ち止まった。彼の視線の先には、自販機があった。それも、結構新品の。

「なんで地獄に自販機があるんですか」

「役人専用自販機。役人だって疲れるのだ。なんか買ってくか」

 タチバナはひとり自販機に向かっていくと、程なくしてペットボトル三つを抱え戻ってきた。僕は自分の胸の前に突き出されたペットボトルの滴を見て尋ねた。

「僕も貰っちゃていいんですか」

「ばか。お前は金返せ。少年は今度正式に地獄に堕っこちたときでいいよ」

 僕と少年は肩を寄せた。「あいつイジワルだな」「さらにケチですね」「てかなんで全部甘いヤツなの」「口ベタベタになっちゃう」

「うるせえ!」

 タチバナは見せつけるようにいちごミルクを呷った。背景を除けばただの温泉上がりの人に見える。少年はしばらく大人気ない大人を見つめたままだったが、僕も飲み始めるとようやく蓋を開けた。全員でいちごミルクを呷るという謎の光景が繰り出されるなか、他の役人二人が自販機に近づいてきていた。彼らは僕たちに気づいていないようだった。微かに話し声が聞こえる。

「ねぇ、聞いた?あの御曹司の話」

「ええ、もちろん。いくら正当防衛だからって、二個目の仕事で殺っちゃうなんて頭おかしいわよ」

「やっぱり生まれながらに地獄を知ってる人なんて、ろくな奴に育たないのね。人のことなんとも思ってないのよ」

「そういえば、これは知ってる?御曹司の相方、優等生な子」

「嫌だわ。その話しないで。そいつが試験の話引っ張てくるから思い出しちゃうんじゃない。それより聞いてよ、このネイルさぁ...」

 彼女らは飲み物を買って表通りに帰っていった。僕は話を盗み聞きしている間、いちごミルクを飲んでいるポーズのまま実は何も口に入れずにいた。チラリと横を見るとタチバナは空になったペットボトルをくわえたまま平気そうな顔で自分の爪を見ている。これが僕らの「自分あの話関係ないっすけど」という精一杯の態度であった。しかしながら案の定、勘のいい少年にはバレた。

「ネイルかぁ。お兄さんたちはやったことあります?」

「重そうだから、ない」

「右に同じ」

「……」

 少年は大人のそっけない態度にちょっと俯いてしまった。僕たちは自分の身を守ることに神経を使っていて、ここにいるのが十歳の少年であることを忘れていた。子供にとって、大人の冷たさがどれほど恐怖になりうるのかを。

 タチバナには特に動揺や苛立ちの色は見られない。なんでもなかったように、彼は空っぽのペットボトルを下から投げ入れようとした。それに気が付いた僕はどうしてか、無性にそれを止めたくなった。

「タチバナさん…」

「なに?」

「それ、ぶん投げないでくださいよ…丁寧に入れたがいい…」

「でーじょーぶ。入る」

 僕は淡々と言うように努めた。自分が言われたことよりも、彼を見ている方が悲しくなっていることに気づいたのだ。

「入らなくっても、僕、取り行きませんよ」

 そこで彼は素直にゴミ箱へ寄って捨てた。なんかこれはこれで腹が立つ。

 僕らはまた少年を真ん中に脇を固め、その場を後にした。僕は虚空を見つめ、無線機で課長が言っていた「誤解」という言葉を思い出していた。

 誤解を解く、それは、タチバナが無差別に罪人殺しをするような横暴な調子こきのお坊ちゃんではない、ということを証明する、という意味なのだろう。しかし、実際は誤解でも何でもないのだ。黒い悪意の籠った噂がすべて本当だとは言えないが、彼は、無抵抗の非力な老人を殺した。魂を消滅させたのだ。僕の心の底で、見えないように押さえつけていた冷たい不安が目の前を覆いつくそうとしている。一体、彼に何の目的があるのか。

……結果的に、あの占い師の予言は当たってしまった。あの老人は、輪廻転生に縋らなかった。自分の人生は一回きりだと信じていた。

 地響きは足元をぐらつかせ、上から小さな岩の破片がパラパラ落ちてくる。原因の大きな処刑器具を見上げ、そろそろ”地獄の底”中盤に入ろうとしていることに気づいた。まだ先は長い。





 僕らが通過していった道のりのずっと奥から、徐々に喧騒が激しく響く。地上少年がすでに去った地点では、押したスケジュールをなんとか巻こうとてんやわんや忙しくしているのだろう。いつでも絶えずに罪人というものは生産され続ける。それに地獄の一日は地上のおよそ一週間に相当するから、それも罪人がたくさん来る原因だろう。休暇で久しぶりに地上へ出た同僚は、時間間隔が全く違うので世間話すらできない状況に毎度追い込まれているという。時間差のストレスで体調を崩してしまう人もいるらしい。つくづく第四課とは厄介な役目である。他の課はわざわざ地獄に来て仕事をしない。でもあんまり文句を言うべきではない。給料を十分にもらっているのだ。

 僕らを遮る崖は途切れ、そのため轟音は直接身体に体当たりしてくる。視界はぐんと開けた。ようやっと、地獄の底の中盤を通り過ぎた。地獄は一本道である。そのせいでただでさえ長い距離がひっくり返るほど長く感じられる。

 少年はまた表通りをちらちら見始めた。タチバナが見かねて言った。

「おい、そんなもん見ても気分悪くなるだけだぞ」

 言ったそばから断末魔が響いた。少年は注意されたことにかえって自信を持ったらしく、飛び跳ねたり体を曲げたりして堂々と見ている。タチバナはやれやれと苦笑した。

 十字架に(はりつけ)にされて、何度も串刺しにされる女性の罪人がいた。そういう罰である。当然髪はガサガサで、頬はこけて全身の色が黒っぽくなっていた。機械がリズムよく罪人を突き刺し、彼女は口の中で呻くような悲鳴を上げ、その十メートル先で役人が雑談をしていた。叫び声の大きさからして終盤だ。

「ねぇ、あの女性はどんな罪を犯したんですか?」

 少年は地獄の入口にいた時と全く同じ口調で僕に訊いた。僕はポケットにある罪人リストを取り出して彼女を探した。当然、あまり教えたくはない内容である。

「…自分の子供を殺したらしく」

「へぇ、天国はないんですか、地獄は人が経営しているようですけど」

「あるっちゃあるけど」

 鬼から人が営むようになった地獄とは違い、天国は未だに天使らが経営中、そこではごく少数の人々で栄えていると聞いた。大層楽しい所なんだろう。行ったことないし興味もないから詳しくはない。

「僕は、あの女性に天国へ行ってもらいたいな」

 少年は突拍子もないことを言った。

「どうして?」

「だって生前の不幸を、死後にでも幸せになって清算できなきゃ損じゃないですか。みんな幸せのほうがいいです」

 少年は自明のように話す。しかし役人としての僕には納得がいかない。

「でも、閻魔様がお決めになられたことだ。それは彼女が、身勝手な理由でこれからを生きるはずだった赤子を潰しただけに過ぎないという証拠になりえる。一度穢れた魂は、地獄で浄化しなければ、来世で幸福にはなれない」

「僕の母は?」

 ただ前方だけを眺めていた僕は、やっと少年がこちらを見つめていることに気が付いた。そして一度目を合わせると離せなくなった。彼の二つ眼に怪しい光が宿っていた。

「僕の母は、地獄に堕ちましたか、それとも、天国に行きましたか」

 少年の口元は歪んで笑っているように見えたが、しばらく見つめるとそれは真顔であった。タチバナも、僕の何も言えなかった。嫌な気配に圧倒されるだけだった。

「僕は母に幸せになってもらいたい。生前に全てを失って不幸になった彼女が、死んででも幸せになっていて欲しいんです。閻魔様の判決が正しくても間違ってても」

 少年は急に純粋な笑みを湛えた。と思うや否や、少年は表通りに突っ込んでいった。僕とタチバナは追いかけようと踏み出したが、視界が突如真っ暗になった。驚く間もなく体が浮いた。背に風が突き抜ける衝撃と、次に後頭部と背中が痛みでジンジンする。偶然、天井の破片が目の前へ墜落した衝撃で後ろに吹っ飛ばされてしまったのだ。風を受けて燃え上がる火と黒い砂ぼこりで、僕らは少年を完全に見失ってしまった。





「何してんのよあんたたち!」

 血眼で探し回った努力もむなしく、少年は見つからず人員要請をする羽目になってしまった。

 以下は課長に連絡する一分前の状況である。

「どうしましょう、全然見つかりませんよ。もう三十分くらい経っちゃいます」

「ちっ仕方ねぇ、捜索の人員を手配してもらうか。ヒメカワ君、頼んだ!」

「嫌です」

「まーそんなこと言いなさんな」

「怒られるの僕じゃないですか」

「そうとも言う…が、怒られない可能性もゼロじゃない」

「嫌ですよ。なけなしの可能性ですよ」

「なんか奢ってあげるから」

「嫌です」

「次はおれが電話するから」

「もう一声」

「裏に手回ししてもしもの減給防ぐのはいかが」

 以降、現在進行形。

「ホントウに、最初あんなに啖呵切ってたのは何だったの」

 僕は先ほどから、すみません、申し訳ないです、情けないです、しか発言を許されず謝罪マシーンになっている。タチバナは遠くを見回してあっち行ってキョロキョロ、こっち行ってキョロキョロして少年を探す身振りだが、実のところ魔の無線機から距離を取りたいだけなのでこちらとしては腹立たしい限りである。これで給料下がったらこいつに生活費送ってもらおう。

 説教は永遠かと思えるほど長く続き、地上では何時間たったのだろうと思いにふける。

「しっかりなさいよ、捜索班手配したから、こっちが先に見つけたら減給するからね。もちろん、その子が死んでたらクビよ」

 乱暴に無線が切られた。僕は肺がしおれるほど深いため息をついた。減給は御免こうむりたいが、既に地獄の底には捜索人員らしい役人が活動を開始している。流石課長は仕事が早い。しかし僕が連絡してすぐに人の手配を済ませていたならばあの長い説教は何だったんだろう。

 無線機は侘しくツーツー鳴いていた。なぜ、少年は見つからないんだろう。





 私は地獄の中を駆けていた。私の手を引く天使のような少年は、突然目の前に現れた。

「君のこと救ってあげる」

 見た目の幼さの割に凛とした声だった。彼の背後では物凄い砂嵐と炎の大きな花が咲き、憎き役人どもは何事かとそちらに行ってしまった。風に吹かれた少年は私に救いの手を差し伸べた。奇跡だった。地獄でこんなにも美しい人に出会えるなんて。これは現実だろうか。

 丁度私の罰は終わって、縛り付けられた手足や胴は解放されていたが、尖った地面に落ち込むと自分の体ではないようだった。ぐしゃぐしゃの腹に罰の際出てしまった内臓や血肉が次々と飛び込んできて苦しかった。全身は疲れ果て、力を足に込められず、心臓は激しく喚き続けている。しかし、天使が助けてくれるというこのチャンスを、むざむざ失うわけにはいかなかった。気が遠くなりながら、震える焦げた手を伸ばした。彼の腕は白く光り、掴まれると温かい。私を叩く役人の氷の熱さとはてんで別物だった。私はぐい、と体を引っ張られて少年とともに駆けだした。重かった体が嘘のように簡単に動いた。浮かれた私は自由になった。…しかし、この少年の行く先に当てはあるのだろうか。いや、無いに決まっている。ここは地獄の底。どれだけ遠くに走っていっても、畢竟どこにもいけない。一等悔しいのは、私もこの子も、そんなことは分かっているということだ。





 地獄は一本道だ。それでも私たちは迷ってしまった。いつの間にか一面真っ白の靄がかかった空間に来ていた。手をつないでいる少年の姿は見えるが、それでも手を放せばすぐに離れ離れになってしまいそうなほど深い靄で、世界の端っこに二人ぼっちのような気がした。私はその方がいいと思った。足元に厄介な火が滲み出ていることだけが、ここは地獄であるということを忘れさせなかった。

「僕、運だけは良いんだ」

 少年は都合よく火の気がない所に置かれた平べったい石に座った。私も彼の隣に座った。私は尋ねた。

「あの、あなたは?」

「僕?僕はリョウ。さっき役人のお兄さんたちから逃げてきたんだ。僕の事、面倒に思ってたらしいし。今頃ゼッタイ慌てふためいてるでしょーね」

 彼は悪戯っぽい笑みを浮かべた。少年の少年らしい笑顔。

「お姉さんの名前は?」

「私は…」

 私の名前?思い出せない。自分の名前が分からないなんて、私は死んでから一体どれくらいの時間ここにいたのだろう。名前は使い捨てらしい。

 言葉に詰まった私を気遣ったのか、ただ興味がなかったのか、少年は私が何か言う前に口を開いた。

「お姉さんは何で、地獄に堕ちたの?」

 その質問が特に深い意味もなく、単純な興味本位で聴かれたことに私は半ば驚いた。

「閻魔が堕としたのよ、私を」

 少年は楽器のような声でまた質問してきた。

「閻魔はどうして堕としたの?」

「知らないわよ、そんなの」

「役人のお兄さんたちは、お姉さんが子供を殺したからだって言ってたよ」

 私は全身の血が突然上って熱くなった気がした。

「なっ、何⁉どうしてそんなこと私に言うの!終わったことじゃない。どうせ赤ん坊よ。何にも分かっていやしないわ。あなた、子供だからって何言ってもいいって思ってるんでしょ」

 私は思わず立ち上がって少年と距離を取った。唇や手や膝の力を制御できなかった。自分でも不格好な息と痙攣をしていると分かった。走ってこの場から逃げ出したかった。なんてことを訊く子なの!

 息を尋常に保つことに集中しようとした。それでもだめだ。何かおかしい。目の前が真っ赤な海だ。粘り気のある液体は自分の手から目の前の赤子にリボンみたくつながっている。傍には同じ色のナイフが転がる。私の手は小刻みに震え、逆に子供はびくとも動かない。私はゆっくり膝を暗い床につけた。惜しいと思った。自分が誰からも愛されなかった分、この子にはそんな思いをさせまいとやってきたのに。どうしてか今膝の前に置いてあるのは、目にも入れたくない汚い物体だ。そういえば、私はよく潔癖だとか言われてきたな。ぼーっとしてたら、警察に連れていかれた。

「反省の色を見せなさい。このままでは、あなたは死刑になってしまいます。どうして、自分の赤ちゃんを殺してしまったのですか」

「……」

「何とか言いなさい!」

「……汚かったからです。分かりませんか」

 私は潔癖だと言われた。会った人には大体言われた。しかし、彼らはなにも理解していないだけなのだ。私の腹から生まれるものが、私の血を引き継ぐ者が、これから生きていくなんて、なんて汚らわしいことだろう……。

「どうしてよ!私よりずっと悪くてひどいことする奴なんていっぱいいるのに、どうして私がこんな目に合わなくちゃいけないのよ。私が罰せられるくらいなら、私の親も、私と会った奴ら全員、地獄に堕ちるべきなのに!どうして私なのよ!」

 私はうずくまって拳で地面を叩いた。血が飛び、肉がはみ出し、骨はぼろぼろで、でも何度地を殴っても憎い怒りは発散できない。こんなことしても私の人格は治らない。誰も反省しない。しかしこれ以外に何が出来ようか。

 力はだんだん弱まって痛みも分からなくなってきた。それでも振り上げた枝の手に、小さな手が重なった。

 見上げると、そこには少年の微笑みがあった。

「僕も、閻魔様には不満があります。それに、役人たちは自分で考えないで言いなりになってるだけなんだ。こんなにひどいことをしているのに、閻魔様に依存して自分を正当化してばっかり」

 天使は、火も構わず私の目の前にしゃがんで私の眼を覗き込んだ。彼は楽しそうだった。

「僕はきっと、あなたを楽にしてあげるために地獄に落ちてきたんだ」





 少年が失踪してから半日ほど経とうとしている。地上では三日目か四日目に相当してしまう。日常生活で子供が突如いなくなったとなれば、大事件になっていることだろう。心配している人もいるだろうし、何とか見つけ出さなくてはいけないのだが。

「罪人も消えた?」

「ああ。235番の奴だってさ」

 少年が見ていた女性だ。タチバナは困ったように首を振った。

「だからその罪人が生きてる少年を連れて行ったんじゃないかってみんな噂してるんだけどさぁ、おれ達からしたら逆にしか思えんよな」

「偶然かもしれませんけどね」

 しかし偶然として片づけるのは大分無理があるのも確かだ。それにしても、かなりの人数が捜索しているはずなのにどうしてここまで見つからないのだろう。地上の生モノを探すだけあって、みんな血眼となって必死なのに。それに、確かに地獄は広いが、一本道であって道が入り組んでいるわけではない。あのふざけた少年によって大人がここまで翻弄されるとは、もはや滑稽ですらある。

 僕は少年の寂しく俯いた顔を思い出した。彼は大人びていて、人のことをよく理解しているように見えた。何でも理解に富んだ人は、人間の明るくないことをよく知っているように思える。その闇が差すから、彼は人に何も言わないで消えてしまうのか。小学生のころなんて皆のっぺらぼうに見えていた僕には、彼は非常に解しがたい存在だ。

「あいついねーなぁ」

「いませんねぇ」

 隣でタチバナは笑った。全然笑うところじゃない。でも僕も笑ってしまった。これは気が抜けたとか、怠惰になったとかいう笑みではない。結局のところ、僕は彼が罪人殺しという重罪を負っていることを時々忘れているのだ。

 探しつくしてしまってもう探す当てなどないが、探すしかない。捜索を再び本格的に開始しようと僕らは辺りを見回すと、こっちに近づいてくる人が見えた。同じ服の女性版を着ている。

「やぁー、ひさしぶりだねー」

 誰だろう。

「何そのとぼけたお顔はー。この前教えてあげたでしょー相棒の居場所」

 僕は記憶をたどって心当たりを調べた。薄ぼんやりと顔が浮かんでくるが、同じ顔面といえば同じだし、違うと言われれば違う気もする。たぶんおそらく、彼女はタチバナを探していた僕に助言をくれた役人ではなかったか。喋り方が気だるそう。目の下にうっすらクマがあるが、それが艶やかさを倍にしている。歳は近そうだが先輩だろう。僕らにわざわざ話しかけてくるということは、我々の噂を全く知らないか、知ってても興味がないかのどちらかである。

「どうしましたか」

「あたし、捜索班じゃないんだけど、見たよー、子供と罪人が一緒にいるの」

「どこにいたんですか⁉」

「ずっと後ろの方。エレベーター付近にいるんだけど、罪人の方が罰を全部終えていないから靄の中になってる。案内するよー」

 そう言うなり、彼女は役人が任意で被る専用の帽子をかぶり直すと僕らに背中を向けて歩き出した。ゆらゆら揺れるくせっけの髪の毛に僕らは素直について行くことにした。彼女が捜索班でないことは喜ばしい。減給は避けられそうだ。

「おい、ひめっちこんな美女と知り合いだったのか」

 タチバナが肩を寄せてこそこそ話しかけてきた。なんだ、ひめっちとは。

「知り合いっていうか一瞬話しかけただけですよ」

「そうよぉーだから全然顔憶えてくんないしねぇ」

 それはすまん。

「お姉さん、おれとこの後地獄温泉巡りしませんか。一目惚れしたんです」

 口説くな。というか休日にも地上の地獄に行くってどうなんだ。

「やーだ。あなた暗そうなんだもの」

「がーん」

 すると今度は彼女が肩を寄せてきた。

「あたし…温泉巡りならひめっちさんと行きたいわぁ。あなた大人しそうだし」

「な、ひめっち、おれから女性人気を奪おうとしているのか!」

 どうやら聞く価値のない話が展開される気配がするので僕は真面目に聞くのをやめた。どういうわけか、先では白い靄が一面にかかって”地獄の底”出口が全く見えなくなっていた。捜索の時にはこんなものはなかった。どうやって見つけたのか後で訊いてみよう。タチバナは彼女にやり込められている。

「暗いと大人しいは一緒じゃダメなんすかぁ」

「だめよー。全然違うんだから」





 私を助けてくれるといった天使は、また私の手を引き道を知っているように歩く。私にはそれが気味悪く、しかし敵いっこない神聖なものに感じれらた。彼は時々こちらを振り返りにっこり笑った。私も微笑み返した。

 やがて私たちは靄を抜けた。視界いっぱいに溶岩の大河が飛び込んだ。ドロドロの液体であっても濁流のように速い。この世の全てを飲み込みそうな赤い光。そこから熱風が巻き上り肌を焼き付けそうだ。少し足を滑らせたら吸い込まれてしまう近い距離に脱出したらしい。

「どうして抜けられたの?」

「うーん、ずっと出る道のりは分かってたんだけど、なんで靄が出てきたのかは分からないな」

 そう言って照れたように俯いた。ああ、なぜこんなにかわいい子が地獄なんかに落っこちてきてしまったんだろうか。閻魔とやらの神判は全く杜撰(ずさん)であるようだ。だってこの子は美しい。ここにいるべきではない。

「じゃあ、行きましょうか」

 私が溶岩沿いに足を出しかけた時、彼は私の手を強くつかんだ。

「お姉さん」

 無邪気な声が私を呼んだ。溶岩がどこかで跳ね上がった音がひしめいている。彼が引っ張るから私は動けなかった。

「お姉さん、どこ行くの?」

 私は背中に、何か恐ろしいものを感じて振り返った。少年は笑っていた。眼に異様な光を宿していた。

「僕たちは、どこにも逃げられないよ」

 私は自分の呼吸の音を聞いた。額の汗がしたたり落ちた。

「誰も期待していないから、誰も許してくれない。でもね」

 息が荒くなる音がした。あの日と同じような緊張だった。

「でもね、僕は許してあげる。お姉さんと一緒にいてあげる。だからお姉さんも…」

 そこにいたのは、もはや少年とは呼べない存在だった。天使のような、悪魔であった。

 突然、彼は私に抱きついた。腰を細い手で縛られたその時、私は良い実験台にされたことにやっと気づいたのだ。可哀想なこの子の、母親代わり、心中相手、いたずら、実験、正義感、悪意の対象。しかし遅かった。


 私の全身は大きく真横に傾き、鮮血より光る溶岩の熱と煮立つ音を見た。火の川と水平になって私は固く目を閉じた。何もかもがゆっくりに感じられた。

 

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