痣
「っつぅー、あんにゃろ痕残しやがったな」
門の傍にいるタチバナが手鏡をのぞいて何やらぶつぶつ言っている。後から着いた僕は目を丸くした。
「今日は時間を守ってる…」
タチバナは顔を上げて不満げな表情を浮かべた。
「別におれ遅刻魔じゃないよ…そんなことより」
大きく足音を立ててこちらにやってくると、びっ、と彼は自分の頬骨を指して訴えた。
「……はい?」
「んっ!」
「うん?」
「んっっ!」
「…どうかしましたか?」
タチバナは目じりを吊り上げてものすごい剣幕で僕の顔面すれすれまで接近してきた。
「ほら!見て!おれの白い頬に痣ができてる!」
僕はやっとそこで彼が指さすものに気づいた。見るからに痛々しい青黒い痣が残っている。
「ああ、なんということだ!昨日あいつに殴られたせいだ。おれの真っ白で整った顔に何という無惨な」
タチバナは手鏡を僕に投げつけると、膝を落として地面に手をついた。やれやれ。小学生でもあるまいし。僕は彼の横暴を無視して正面の門を確認した。今日も霧深いところから罪人がやってくるのだ。
彼ら罪人は、死んで三途の川を渡ると閻魔様の判決を受けてからただっぴろい荒野を歩かされる。何となく適当に歩けばやがて地獄を守る門へとたどり着くのだ。地獄の門は一つではない。罪人の数だけ”地獄の底”にいわゆるワープする仕組みの入口と待ち受ける役人は用意され、予め分析された罪人の歩く速さと門へと進む根気によって毎度門の設置場所は変わり、我々役人のシフトも変わる。つまり罪人の都合によって役人の私生活は左右されるので第四課は体力勝負でもある。
靄がかかって真っ白い正面の門の外に人影が見えた。罪人が来たのだ。彼が閻魔様に判決を下されてからここまで着くまでの予想時間は短い方だった。今回の相手は罪人の中でもタフで厄介な奴かもしれない。僕はタチバナに呼びかけた。
「もう人来ましたよ。立ってください」
タチバナは土にしがみついて一向に起き上がろうとしない。
「もう無理だ…仕事したくないよー」
罪人の影はどんどん迫り、輪郭が鮮明になってくる。しかしこいつは仕事を放棄しかけている。僕は仕事もまだ始まらないのに盛大な溜息をついた。僕は間違えて子守の仕事にでも就いてしまったのだろうか。
「……あーなんかこう、痣のおかげで…色気が増しましたよ。色白で華奢な普段もいいですけど、今はなんかこう、影のある感じが一層儚げな感じを醸し出していて…」
「そう言ってくれると信じてたよ」
僕が言い終わらないうちにタチバナは立ち上がった。
やかましいタチバナが黙ると次第に罪人の足音が聞こえてきた。
淡い影の背丈は低く、ここからだと幼い子供に見えないこともないが、実際は腰の曲がった小賢しい老人であるということを知っている。
地獄の門の一歩手前で立ち止まった彼は、その古めかしくも荘厳な構えを仰いで息をついた。旅人が長い道のりを経て休憩の宿屋に着いた時のような溜息だった。極悪非道の罪人も初対面ではちょっと怪しい旅客程度にしか見えないのが不思議だった。悪いことをする人々全員の顔面にでも「これから私は悪いことをします」とか書かれていればみんな幸せになるのになあ。
「おお、ここが”地獄の底”の入口かい?思ってたよりもずっと古臭いなぁ」
背骨の曲がった老人は僕とタチバナを交互に見て、ニヤリと笑った。昨日の老人とは全く違う嫌な笑みだった。
「ようこそ地獄へ。僕らがあなたを担当させていただきます」
罪人は僕らの傍まで寄って見上げた。
「ふむ。タチバナ君とヒメカワ君だね。よろしく」
僕は自分の耳を疑った。何で僕らの名前を知っている。閻魔様は罪人にわざわざそれをお教えにはならないのに。タチバナも首をひねって老人を見つめている。
「何で…」
「君たち、占いは信じるかね?」
罪人はしゃがれた声で言った。
「というと?」
「君たちのような人間は、地獄の閻魔の言うことだけを聞いていればいいと思っているのだろう。まぁ、彼はこの地底の世界で最も偉い存在だからその考えもおおむね正しい。しかしだ」
罪人は人差し指を立てた。
「私の占いは必ず当たる。そして閻魔よりも正しい答えを出す。ほとんど予言みたいなもんだ」
僕は手元にある罪人プロフィールを見た。そこには、職業:占い師 と書かれていた。
僕と資料を覗き見ていたタチバナは顔を見合わせた。胡散臭すぎる。
僕らの反応に罪人は不満そうだった。
「名前を当てるだけじゃ信用なしか…厳しいな、若者の審査は。時にタチバナ君」
「なんすか?」
顔を上げたタチバナの表情は疑心暗鬼に満ち満ち、何故か刀を入れた鞘を固く握っている。意外に人を疑うところは感心したが、癪に障ったらすぐに斬るという奴だったらすごく困る。
「…君は子供の時分、新星の輝く光と宣われるほどの美少年だったんだろう。占いにそうでている」
わずかな沈黙。
「いやぁ、実はおれ、占い疑ったことないんすよ。生粋の信者なんすよねぇ」
こんな真剣に掌返しができるのだから彼は大したもんである。
「次にヒメカワ君、君は大分理屈をこねる性分らしいからもっと驚かせてあげよう」
「はぁ」
僕は確実にやる気のない声色で応答した。
「そうだな…ああ、私がこれから受ける罰を当ててみせようじゃないか」
「どーぞ」
「まず初めに爪剥ぎ、次に串刺し、針山、火鍋になるな」
僕は罰リストを確認した。
「順番は合っていますが、後半が抜けています。溺水、骨砕き、落下、内臓抜きもありますよ」
半分脅しのつもりで言ってみたが、老人のヘラヘラした態度は変わらなかった。
「おや、やはり私の占いよりも閻魔の判決を信じるんだね」
「当たり前でしょ」
実際、当たってない。
「悲しいなぁ。痛い目見るぞい」
「そうだぞ、この人の占いは当たるんだぞ」
「あなたは黙ってなさい」
くだらない占いごっこはやめにして、もう罪人を引っ張て行く事にした。
タチバナは一足先に地獄の小屋のドアを開けに駆け出して行った。僕は罪人につながれている手錠の綱を引いて罪人とそこへ向かう。
「タチバナ君には気を付けた方がいい」
僕のすぐ後ろで罪人は呟いた。
「まともに彼と付き合ってもろくなことが無いぞ」
「そうですね」
「君らはある意味、とても相性がいい。互いを不幸にするにはね。君は今すぐにでも相方を代えた方がいい」
突然何なんだろう。どういうつもりで言っているのか僕には皆目見当がつかなかったが、罪人のやけに真面目な口調がしっかり耳に残ってしまう。
「…人の心配なんて、随分と余裕そうですね。これからのご自分の行く末を案じた方がよっぽど賢明では?」
僕は罪人に真面目な話をしてほしくなかったので茶化そうとした。しかし罪人は感情を出さずに話を続けた。
「私はこの地獄で最も最悪で幸せな終わりを迎える。すでに決まったことに対して鬱々と思考を巡らせるは楽しくない」
罪人の声は明るかった。
「楽しくない、か。地獄に堕ちて考えることがそれとは」
「分からないか?そんなことはないはずだ。楽しいかそうでないか以上に大切なことなどない」
「ここは地獄で、あなたはもう死んでいるんですよ」
「…ああ、それが問題なんだ。切羽詰まったために私は簡単に命を堕としてしまった。しかしながら、楽しいことも、決定した未来を変えることも、全ては生きているうちにしかできないことだったんだ」
罪人は淡々と言い放ったが、その声にどこからか乾いた風が重なって少し悲しそうに聞こえた。僕は振り返って後ろにいる罪人の顔を確認してみたいと思った。声の具合だけでは僕には分からないことが多かった。
「人でなしが、人らしいことを言うんですね」
「悪いかい」
「いいえ」
老人はゆたゆた呑気に歩く。風は一回僕らを横切っただけでもう現れる気配はなかった。
「君はまだ若い…。勘違いしてはいけない、地獄は地上にもあるんだよ」
老人はケラケラ笑った。全く以て気色悪い笑い声だった。
「ちょっと、何話し込んでんだよ」
ようやく小屋の入り口に立った僕らは、タチバナに怒られながら地獄の熱風を浴びた。罪人は炎が燃え上がり血が飛び交う景色を見ても尚、奇妙に涼しい顔をする。
「とにかく、忠告したからね」
老人は上がった口角でそう言うと、先陣切って地獄の底へ身を投じた。前日の罪人とはてんで覚悟が違う。
「二人でなに話してたの?」
タチバナが訊いた。
「…占いについて熱弁されてただけだよ」
「ふうん」
タチバナは手綱を僕と代わって罪人を追った。足を地面に着くたび揺れる刀を手で押し付けていた。僕も同じ格好で彼らの後ろをついていった。
罪人の態度は一貫して変わらなかった。罰が執行される際はそれ相応に苦しむのだが、ことが終わって体が元通りになると、また飄々とした態度に戻って、「次の刑は?」とか「体が再生するときは肩がこるね」などと呑気にほざくのだった。
罪人があまりにも淡々と刑をこなしてしまうので、僕らはあっという間に三つ目の刑、針山に来た。
地獄は広い。天井もあり得ないほど高い。そのため巨大な刑場も多く、針山はその一つである。この痛々しい山は、地獄広しといえども入口から薄ぼんやり、「あー、なんか遠くにでっかい山見える気がするなー」「針なかったとしてもあんまり登りたくないなー」と思わせる規模である。針山は麓から頂上、そこからまた麓に戻るといういたってシンプルな罰であり、ただの山登りなのだ。
無論、ちゃんと名前の通り針てんこ盛りの山であるというのが地獄の山の特徴である。地獄の刑で使う器具はたいてい性格の悪すぎる超変態が作るので、罪人はまずズルが出来ない。例えばこの針山、昔は針を踏まないようにする輩が表れていたらしいのだが、それはすぐさま改良が加えられた。不揃いだった針の大きさは、足やら手やらとにかく人体を刺すためにちょうどいい鋭さ大きさの針に代えられ、針と針の間に足を入れて痛みを軽減できないように、全ての針が常に大きな波のように動くようにされたのだ。動く針ではいくら命がけの罪人でも回避は出来まい。
しかしこの似非占い師は目の前に聳え立つその恐ろしい山に一切目もくれず、呑気にタチバナとだべっていた。
「君たちが腰につけているその刀はなんだい?護身用かね。我々罪人はこうして手錠をかけられているのに、用心なことだ」
老人は右と左の手錠をカチリと擦り合わせた。
「占い師さんみたいなおじいちゃんばっかじゃないんだ。罪人に手錠つけたままでも、役人に刀が無ければボコボコにされる例が多々あったらしいぜ、昔は」
タチバナは剣を固く握って答えた。
「ほほう…しかしその刀、なにやら怪しいオーラが醸し出ておる。ただの刀でないのだろう」
「さっすが先生!なんでもお見通しってわけだ。これでね、罪人を斬ると、魂ごと殺して輪廻転生の輪にもう戻れなくしちゃう代物なんだよな。魂はそれを非常に恐れているから、暴れた罪人を黙らせるにはこれが最適なのね」
敬意を払って先生なんて呼ぶ割に、意地悪と完全に皮肉の混じった言葉だった。地獄を恐れない罪人の態度に、流石のタチバナも困惑しているようだった。
「そういえば、占い師さん。僕たちの未来は、もう見た?」
「ああ」
「どれくらい先まで?」
「正式に占ったわけではないから何年も先とはいかないが…しかし君、見られて怖いのは未来だけかい?」
老人の口角が歪んでいた。タチバナは黙ったままだった。
「次、火鍋に行きますよ」
針山でさえもこの罪人は淡々とこなしてしまい、次へ次へと罰が進んで行った。仕事が早く終わるのは僕としては有難いのだが、役人の仕事を全う出来ているのかと今聞かれてしまったら素直に肯定できる立場でもなかった。それぞれの罰へと向かう最中、罪人は気楽そうにタチバナと喋って暇を潰していた(役人は黙るべし)。一方タチバナはこの罪人らしくない罪人を気に入っていないようだったが、今では諦めたように明るく雑談している。切り替えが早い。
僕らはサッカーコート並みに大きい黒い鍋に、老人を連れてきた。火鍋という名前は地上では料理の一種として扱われるのでなんか変な感じがするが、地獄ではただの恐怖対象である。同じ罪人たちが満員電車の如くぎゅうぎゅうに詰めて茹でられ、頭や脚が不自然に浮かんでいる。ここら一帯は鍋からの水蒸気で特に暑く、声にならない呻きや血の混じった液体がぐつぐつ沸騰する音で人間をおかしくさせる。”地獄の底”の中でも酷く罪人や役人に嫌われている地点である。
タチバナが突然僕に何か囁いた。
「ヒメカワ君、申し訳ないんだけど、これ」
彼はぐい、と何枚かの紙を僕に押し付けてきた。
「これ、昨日の罪人の報告書じゃないですか」
「提出すんの忘れちゃって、お願い、火鍋ちゃんと監視しとくから、戻って提出してきてくだせい」
「ええー」
自分でやれよ、と普通に思ったが、ここは本当に暑かったので一刻も早く逃げられるのならば、と僕は引き受けた。タチバナは報告書を受け取った僕に腹立たしいウインクを放つと、罪人を引き連れて黒い鍋に近づいて行った。
この地獄の入口の傍に、報告書を受け渡す窓口がある。上司の居る第四課は地上にあるが、僕たち役人は銘々が担当する罪人を引きずり回す役目を最後まで果たさなければ帰ることが許されていないのだ。この窓口にいるのは鬼さんではなく第四課の先輩である。
「おお、グロ耐満点のサイコパス優等生じゃねえか。社長の御曹司押し付けられて、調子はどうだい」
この人とは初日である昨日に少しばかり挨拶しただけで接点が全くなかった。そのため彼がこの言葉を親しみを込めて言ったのか、それとも皮肉だったのか分からなかった。分からないなりに会話を進める。
「その御曹司が、先ほど報告書を提出するのを忘れました。これ、お願いします」
「はは、大変だな。まぁ、変わり者同士、気が合うかもしれんぞ」
聞き捨てならんことを聞いた。
「僕が奴と一緒にされるなんて、心外です」
「そうか?お前、グロ耐で満点取ったっていうのがどういうことなのか、未だにわかっていないんだな」
先輩は苦々しく笑った。人と出会う先々でこの試験について言及されるが、一体みんなは僕にどんな反応を求めているのだろう。しかも、誰もがその内容については深く話したりしない。今思えば、最初にこの入課試験について説明してくれた僕の上司も、僕を高く評価したわけではなく嫌煙して、これまた嫌煙された社長の厄介な御曹司とくっつけてしまおうと考えたのかもしれない。そうなると結局、僕をグロ耐関連で嫌悪しなかったのはタチバナだけだということになる。僕は先輩に尋ねた。
「入課試験のことで人を普通の人間じゃないみたいなレッテルを貼られてしまうのは、こちらとしては心が痛みます」
途端に、窓口越しの先輩は苦手な虫でも見てしまったかのような表情で僕を睨んだ。
「あの試験で満点なんか取る奴が人の心を語るな」
先輩はそっぽを向いてしまった。ここにいても仕方ないので僕は彼に背を向けて御曹司のもとへまた戻る。何らかの言葉の選択を間違ったらしいが、その何らかが何なのかは分からない。僕が何かしてしまったのならば謝罪するが、あっちが勝手に怒り出したので絶対に自分は悪くないと思う。僕にとってはすれ違った人がわざとぶつかってきたくせにこちらのせいだと騒ぎ出す当たり屋に遭遇したようなものである。この先も会う人々にグロ耐とか言うテストのことでいちゃもんを付けられてしまうのかもしれないと思うと誰かに相談してみたくもなるが、いかんせん誰に相談すればよいのか分からない。というか適任がいない。
僕には他人のことが何一つとして分からない。もしかしたらそういう態度があからさまに出てしまってそれが不快だったのかもしれない。
僕は地獄の真ん中にある大きな道を速足で歩いた。俯いていたが横目にちらちらと罪人たちが映る。
この地獄に堕ちてくるような人間は、他人から分かってもらえなかった人達だ。多数の人達にとって罪人とは、理解が及ぶはずもなくて、不可解で、迷惑で、これらの程度が甚だしくて諦めるべき人達なのだ。本来僕は、こんな罪人たちのことなんて考えなくてもいい。閻魔様がすべてをお決めになられるからだ。しかし僕は腹立たしかった。窓口にいた先輩は、自分の身の回りにいて自分に親切にしてくれる人間たちのことを理解していて、だからその反対にいた僕に攻撃したかったのか。彼にとっては僕のような不可解な人間が地獄に堕ちるべき人だったのかもしれない。でも僕は彼に教えてあげたいと思った。人と人は互いのことをあんまり分かっていないのだということを。
そう思うと何故だか僕の頭にはタチバナの調子に乗った顔が浮かんできた。僕も彼に対して否定的な態度を取っていたような気がしないでもない。もし彼が入課試験を受けていたら、僕に何て言っただろう。
真っ黒な鍋まで戻ってきたのにタチバナと占い師が見当たらない。地獄はとてつもなく広いので、入口から火鍋までまっすぐ歩いても往復で地上の二時間に相当する長さなのだ。ここに着くころには火鍋の刑は終わっているであろうと踏んでいたが、まだ続いているのだろうか。しかし役人も一緒に鍋にダイブするわけではないのでタチバナがいないのはおかしい。僕はキョロキョロ見回したり鍋の周りをぐるぐる回ったりした。でも見つからない。僕はだんだんイライラしてきた。役人がきちんと二人そろわなければ先に進んではいけないという決まりがある。つまりあいつが近場で僕から身を隠しているという可能性が一番高い。
僕は罪人を火鍋にぶち込んでただ待つのみとなっている暇そうな先輩に訊いた。
「あの、この近くでひとりかくれんぼをしている不審な役人を見ませんでしたか」
「見てないわよ、そんなの」
「…じゃぁ、腰の低い老いた罪人と、女顔で顔に痣のある役人の二人組を見ませんでしたか」
「うーん?」
先輩の役人は何か覚えがあるように短い髪をくるくる指で弄ぶ。
「あー、思い出したわー。なんかね、その人の火鍋の刑が終わったところですれ違ったんだけど、女顔の青年がすっごい美人さんだったから印象残ったんだなー。そんで、二人でごにょごにょ話したかと思えば、岩落としの刑の崖の後ろに向かっててさー、あそこ、大通り側から見ると死角が多すぎて、何にも見えないや。それが、ついさっきだったよ」
「ありがとうございます」
やはり僕が近くに来たことを察知してかくれんぼを始めたのか。全く、人の手を煩わせる。
僕は火鍋から大通りを挟んで反対側にある立派な崖に向かった。ここでは地面に固定された罪人に崖の上からごつごつした岩を落として潰したり、罪人を落として下にいる罪人を潰したりする刑が待っている。これまた悪趣味である。崖は恐ろしく高く、実際に岩や人を落とす頂上ではジャンプで天井に手が届く人もいる。
僕は崖の裏側にそっと近づいた。来ているのがバレたらそれはそれでいたずらされそうだとなんとなく思ったからである。
でも僕は裏に回る前に動けなくなった。タチバナの声が聞こえたからだ。何を言っているのかはよく聞こえなかったので、こちら側から覗くようにして崖の裏側に顔を出した。何か嫌な気配がする。どうして僕はこんなに慎重な行動を取っているのだろう。大通り側の人に見られたら崖の後ろに何があるんだろうと十分疑問を持たせられる格好であることが少々恥ずかしくないこともない。
僕の視線の先では、やはりタチバナと似非占い師が対峙していた。タチバナがこちらに背を向け、老人と向かい合っている。…なんか違和感がある。二人の微妙な距離感はなんなんだろう。どこかで轟音が響いた。地獄の雑音は大きい。僕はじっと耳を傾けた。
「…思うか…」
「いや…でも」
いったい何の話をしているのだろうか。二人の足元には火の粉が踊っていてすごく熱そうだが、彼らはそれを避けようともしない。というか、そんな事を気にする余裕などない様子だった。
「怖いか…あなたは…」
「…しかし…若い…」
突然に緊張が走った。
タチバナの腰から鋭い光が滑った。
状況の割に、タチバナの挙動はゆったりと落ち着いていた。僕にはこれが脅しのための行動だとは思えなかった。本気だ、と直感した。
抜かれた切っ先がギラギラ輝いている。この刀は、護身用とはいえ簡単に魂を奪える。浄化して輪廻転生の輪に魂を戻すという作業が目的の地獄であるはずが、この代物ひとつでそれを果たせなくなってしまうのだ。だから、そうやすやすと抜いていいものではない。
この刀のルールはこれだけではない。刀が抜かれた瞬間、僕の脳裏によぎってきたのはむしろもう一つの方だ。我々役人が最も避けるべきこと。それは、役人が正当防衛以外の理由で罪人の魂を殺害することだ。もし私的な理由で罪人の魂を殺害すれば、役人は閻魔様に謁見しなくてはならない。そして高い確率で罪人として地獄に堕ちる。刀の使用は僕ら役人にとってもハイリスクなのだ。そして殆どリターンはない。僕は今、恐らく役人と罪人のやりとり一部始終を見ているのだろう。どこからどう見ても正当防衛にならない。
だから僕は、今すぐにタチバナを止めなければいけなかった。
この危機的状況で、不意に罪人と目が合った。それから罪人は、助けを求めるでもなく、逃げようともせず、不敵な笑みを浮かべたまま僕から目を逸らした。
それが彼の答えであった。そのせいで僕は動けなくなってしまった。老人は僕なんていなかったようにタチバナを見据える。僕は正解の行動を蹴ってしまった。
「タチバナさん?何してるんですか?」
「おっ、久しぶり。報告書、ありがとな」
「久しくないでしょ。ごまかさないでください。どうしたんですか」
「や、占い師さんがさ、占いが当たらないって騒ぎ出したかと思えばおれに襲い掛かってきてさ。意外だろ、この人めっちゃ力強かったんだぜ。刀抜くしかなかったんだ」
「…そうだったんですか…仕方ないことです。正当防衛で報告しましょう」
「うわ、また報告書」
「殺っても殺らなくても報告書は書く。魂が消えるのを見届けたら、帰りますよ」
「はーい。ごめんな、就職二日目で罪人処分なんて、オレのせいでヒメカワ君の評価も下がるかも」
「...そうなったらパートナー代えよう」
「えっ」
タチバナの足元に転がった罪人は鮮血にまみれていた。それらはみるみる黒い塵と化して消えていった。
こちらを振り返ったタチバナの半身は返り血で赤かった。彼はがらんどうな眼を誤魔化すために明るく笑っていた。彼の頬に付いた悲しい液体もやがて消えていき、青い痣が見えた。