000_精霊との邂逅
泥でぬかるんだ薄暗い路地を青年は全力で駆ける。
街並みの変化など気にしている余裕はない。
背後から迫りくる恐怖から目を逸らし、呼吸すらも忘れて走り続ける。
迷路のように入り組んだ巨大な街を一目散に逃げており、現在の位置は自分にもわかっていない。
息を切らして足が止まったとき、生ゴミが散らばり腐敗臭の漂う路地に立っていた。
耳元では蠅が飛び回っていて煩わしく、そんな最悪な環境の中でも路上で寝転がり寝ている人々がいる。
だが、『あいつ』からは逃げ切れたのだと確信した。
暫くの間はここで大人しくしていれば良い。
張り裂けそうなほど痛む胸を押さえ、乱れた呼吸を正そうと深く吸い込む。
汚染された空気が肺に入り込み、軽く咳き込んでしまう。
次の瞬間、強烈な爆発音と振動が路地に響き渡った。
振り向くと、路地の奥にある壁が粉々に粉砕され、砂煙の中に人影を見つける。
反射的に走り出した青年は、強い後悔を抱く。
手を出す相手を間違えたことに。
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オーガン・トラスファーは田舎出身の青年だ。
知識、教養、身体能力、その他諸々に突出したものはなく、冴えないところがあるのは自負している。
そんな彼だが、魔術師の養成学校に入るため、華やかな街の中心部を訪れていた。
古びた教本を手に、勇んで受験した結果――落ちた。
問題はその後にある。
彼はこの試験に全てを捧げており、有り金すらも全て費やしてしまっていた。
背水の陣で自身を追い込んでいたため、故郷へ帰る金も用意してない。
さらには、受験に失敗した彼が街の中心部で立ちすくんでいると、食料や教本の入っている麻袋が奪い取られてしまった。
よろけたオーガンが顔を上げたときには、盗人の姿は人混みに紛れていた。
詰んでいる状況に絶望しながらも、何か行動を起こすしかない。
行き行く人々に声をかけ、簡単な仕事を貰いながら食い繋ぐが、数日後には空腹の限界が訪れた。
そして、彼は自身の運命を大きく変えてしまう決断をする。
飢えに耐え兼ね、盗みに手を出したのだ。
自分がそうされたように、自分も誰かから物を盗めばよい。
幸い、この街の人通りは激しく、雑踏に紛れて盗むことは容易に思える。
これが最大の間違いだった。
オーガンが標的に選んだのは、煌びやかな装飾が施されたローブを纏った男。
男が懐からポーチを取り出したとき、強引にひったくる。
そのとき、盗みに慣れていないオーガンは思わず目を合わせてしまった。
彼の瞳に映ったのは、只者とは思えないほど雄々しく、力強い眼力の持ち主だった。
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いくら逃げても撒くことが出来ず、一般人ではないことにオーガンは薄々気付いていた。
身なりだけで人を判断し、成り上がりの商人か何かだろうと高を括っていたのだ。
壁が爆破されて粉々になった破片が頬を掠めたとき、予想は確信へと変わった。
追いかけてきている男は魔術師に違いないと。
「はあ……はあ……これは返します! だから……もう……」
乾いた声を張り上げ、謝罪の意思を見せるが、背後から襲い来る殺気は収まる気配がない。
魔術師を目指していたオーガンは、彼らが持っている絶大な力というものを理解している。
特に、この男の立ち振る舞いは、絶対的な強者のそれだ。
ちょこまかと細い路地を逃げ回るオーガンと、壁をぶち抜いて最短距離で追い詰めてくる男。
結末は目に見えている。
「はっ……はっ……」
五度目の爆発で街全体が大きく揺れたあと、よろめきながら走り続けていたオーガンは自分の影が濃くなっていること気付く。
恐る恐る振り向くと、崩れた壁から姿を現した男の頭上に巨大な火球が浮かんでいた。
男は灼熱のように赤い髪を炎熱で揺らしながら、ただただ鋭い瞳でオーガンを睨みつけた。
「嘘だろ……」
――殺される。
そう思ったのも束の間、剛速球で放たれた火球はオーガンの身体を包み込んだ。
「うわぁあああ!!」
じたばたと転げまわるが、炎の勢いは増していく一方。
髪が、肌が、服の繊維が、身の回りのあらゆるものが焦げる臭いが鼻を突く。
たった一つの幸運は、転がった先に水たまりがあったことだ。
前日に降った雨が、薄暗い路地では陽光から守られていたのである。
泥水に全身を突っ込み、燃え盛る炎を消化できたオーガン。
四つん這いになりながら顔を上げると、そこには見下ろしている男の姿があった。
「無様だ。貴様は自分がしたことを理解しているのか?」
重厚で冷酷な声色がオーガンを問う。
「俺は……ただ、金を――」
「違う。その程度の金など問題ではない」
盗んだポーチを返そうと差し出すが、男は受け取ろうとしない。
推し量るように、鋭い視線でオーガンを睨み続ける。
そして、男は告げる。
「ディアック・レイスだ。その中には徽章が入っている」
オーガンは口を開いたまま絶句していた。
聞いたことのある名だった。
いや、魔術師を目指したことのある人間であれば、知らない人はいないと断言できる。
最高位の魔術師の一人。
市民の平和を脅かす脅威を全て焼き払ってきた偉人。
彼を英雄と称する者も少なくない。
そんな人物から徽章を盗んだオーガンは、焼き払われて当然であるといえる。
「あ……ぁ……」
言い訳をしようにも顔の筋肉が強張り、呂律が回らない。
「覚悟を決めろ」
ディアックの手には炎で作られた剣が握られていた。
超高温まで熱せられた剣は眩しく輝き出す。
その熱によってオーガンを服に纏わりついていた泥が砂へと変わり剥がれ落ちていった。
ディアックが剣を振り上げたとき、恐怖の限界に達したオーガンは叫び、逃げ出した。
両手両足を地面に付けながら、走っているのか転んでいるのかわからない動きで、一歩でも遠くへ離れようとする。
どうせすぐに追いつかれて殺される。
そうわかっていても大人しく首を差し出すことなどできなかった。
そのとき、オーガンの視界にあるものが入る。
「……あっ」
古びたローブに身を包み、フードを頭まで深く被っている女性だった。
細い路地から出て来た彼女は歩みを止める。
彼女の脚にしがみつき、オーガンは訴える。
「た、助け――」
途中まで言いかけた言葉をオーガンは飲み込んだ。
冷静に考えれば、爆発音が鳴り響いた薄暗い路地に人が入ってくることなどありえないのだ。
女性はオーガンを見下す。
その瞳に生気はなく、憎しみに満ちていた。
彼女が何者かはわからないが、どう見ても味方ではない。
オーガンに魔術師の実力を測る目はないが、後方で控えているディアックに負けない威圧感を感じていた。
出会い頭に殺されなかっただけでも幸運といえるかもしれない。
「あ……はは……」
逃げ場を失ったオーガンは崩れ落ち、弱弱しく笑う。
人生の終わりを悟る。
生にしがみ付く気は失せ、走馬灯を思い浮かべていた。
助かる道を模索して恐怖心に立ち向かえるほど、オーガンの心は強くない。
数秒が経過したとき、オーガンの耳に届いたのは自身の首が飛ばされる音ではなく――
「貴様は何をしに此処へ来た」
ディアックの高圧的な問いだ。
彼女はオーガンに向けていた視線をゆっくりと持ち上げ、深淵のように暗くて底の知れない瞳で見つめ返す。
何も答えない。しかし、瞳に込められた殺意だけで答えはわかる。
両者に挟まれたオーガンは生きた心地がしなかった。
次に瞬きをした瞬間、もしかしたら自分は跡形もなく消されているかもしれないのだ。
とはいえ、選択肢を持つことが許されていないオーガンは行く末を見守るしかない。
睨み合いが続き、次に口を開けたのは、再びディアックだった。
「貴様の正体は精霊だな」
オーガンは驚きの表情を見せた。
精霊が如何に危険な存在であるかを理解しており、そんな精霊が街の中心部にまで入り込んでいたという事実に驚愕する。
「だとしたら……なんなの?」
重い口調で答えた彼女に、ディアックは苦笑する。
「俺から逃げ出す精霊は数多くいたが、立ち向かってくる精霊は珍しくてな。こいつもそうだが、この街では誰も俺のことを知らないようだ」
「よく喋る。能書きを垂れてないで、殺しに来たらどう? 返り討ちにしてあげる」
ついに戦闘が始まるかと思ったとき、ディアックは溜息を吐き出した。
「わかった。だが、その前に奴を始末させろ」
指差されたのはオーガンだ。
血の気が引き、身が凍るような感覚に震えだす。
「奴は貴様と無関係だろ。だったら、邪魔者は排除した方が戦いに集中できると思うが」
僅かに存在していたオーガンの生き残る道が途絶えた。
二者が戦っている最中、どさくさに紛れて逃げ出すという道が。
精霊がその提案を受け入れた瞬間が、オーガンの人生の終わりだ。
だが、以外にもその提案は退けられた。
「拒絶する」
「……なぜだ。もう一度問うが、そいつとは関係ないのではないか」
「貴方のような弱者に、私が従う道理はない。それに、私のことを戦闘に魅了された異常者と勘違いしてない?」
「尚更理解できん。だったなぜ、この俺に戦いを挑む。貴様であれば人間の捕食は容易なはずだ。危険を冒してまで強者に挑む理由がない」
「ただ、気に入らないから。貴方のような合理性でしか物を考えられない人間が、利害で他者を貶められる人間が――」
彼女の言葉が詰まる。
何もない虚空を見つめながら放つ次の言葉には計り知れない重みがあった。
「……憎い」
「正気を失った精霊に出会ったのは初めてだ。少しは話が出来ると思ったのだが」
地面を揺らすほど強く踏み込んだディアックは精霊に向かって突進する。
姿勢を低くし、たった一歩で距離を詰め、手にしていた炎の剣で切り上げた。
精霊は避けるわけでもなく、防ぐわけでもなく、怨嗟の籠った瞳でディレアックを見つめていた。
炎の切っ先が精霊に届いた瞬間、剣は強く弾かれ、ディレアックが態勢を崩す。
「なっ……!」
がら空きとなったディアックの腹部に強烈な蹴りが炸裂した。
まるで水風船が弾けるような、人を蹴ったとは到底思えない異音と共に、ディアックの身体は目で追えない速度で後方へと吹き飛ぶ。
少なくとも、オーガンの瞳では何が起こったのか、彼の姿がどこへ消えたのか追い切れていない。
壁や建物を数度突き破った後、ディアックは壁に寄りかかる姿勢で停止した。
常人であれば確実に死んでいる威力だが、彼は何事もなかったかのように立ち上がる。
服についてしまった土汚れを軽く叩き落とし、炎の剣をもう一度作り出す。
その剣はさらに練り上げられていき、槍の形状へと至る。
「……まずい」
次の展開を予想できたオーガンは走り出す。
この時のオーガンは偶然にも思考が冴えていた。
ただし、安全地帯に逃げ込むには時間が足りていない。
ディアックは炎の槍を投じる。
高速で移動する槍は、瞬き一つする時間もないほど短時間で精霊に到達した。
次の瞬間、爆発と共に路地全体は炎に包まれ、空高く巨大な火柱を上げる。