暗い部屋で
その頃、庵子は大きなベッドの上で、夢も見ずに眠りこけていた。
窓のないその部屋は日が沈まないうちから薄暗く、小さなテーブルとソファが備え付けられていた。
TVだけは立派な薄型の液晶で、今は何もついていなかった。
室内にはツンと鼻をつくアルコール臭が立ちこめる。
どうやら、臭いのもとはテーブルに置かれた日本酒の瓶のようだった。
銘柄は「鬼殺し」。
中々辛口な選択である。
ベッドの上の庵子が寝返りを打った。
金色の髪が白い枕で乱れ散る。
その白い素肌には白いバスローブがまとわれていた。
部屋の奥からは水の流れる音が聞こえる。
半透明のドア越しに黒い人影が見え隠れする。
どうやらここに泊まっていたのは庵子一人ではないらしい。
誰かがシャワーを浴びている様だった。
数分もしないうちに、よく日に焼けた筋肉質の男が湯気をまといながら庵子の寝ている部屋に現れた。
素早くランニングシャツとトランクスを身にまとう。
そして、おもむろに庵子の眠っているベッドの掛け布団を引きはがした。
「おいっ、若いの!いつまで寝てるんじゃい!」
「う、う〜ん…おじいちゃん、もう一杯…むにゃむにゃ…」
「未成年が何言うちょる!そろそろ帰らんと、親御さんが心配するじゃろが!」
「う〜ん、うるさい………。」
掛け布団を取り戻そうとする庵子に、その男は容赦なく室内の灯りを最大に明るくした。
「ま、まぶしい………。」
「さ、起きた起きた。こんなに眠っていたんじゃ、体が鈍っちまうね。わしはもう今日のトレーニングに行く。」
「お、おじいちゃん!!!」
突然庵子が飛び起きた。
「何言ってるんですか!今日は病院に行かないと!だって、昨日胸が苦しいって…」
「かっかっかっ。胸が苦しくなるのは持病じゃ。元自衛官はそんなの気にしておられん。」
「駄目ですよ!だから、昨日はここで休む事になったんじゃないですか!」
「まぁ、それは世話をかけたな、中村君。しかし、今朝元気に目覚めてラジオ体操に励んでいたわしを鬼殺しで誘惑したのは君じゃろ。」
「それは、そうですけど…すみません。」
「気にするな。旅は道ずれ世は情け、じゃ。」
「何か、私のもう亡くなった本当のおじいちゃんに似てるんです。私のおじいちゃんも毎朝10キロのマラソンと腹筋背筋腕立て300回は欠かしてなくて。私が小さい頃は、私を肩車したままうさぎ跳びで神社の長い階段を上りきってくれたの、懐かしいな。だから、道を走られていた大山さんが突然胸を押さえてうずくまったのも、おじいちゃんを思い出しちゃって…本当に心配だったんです。」
「なかなかやりおる爺さんに育てられたんじゃな、君も。で、心配しながらも鬼殺しを勧めてわしを引き止めたのは、何かあるんじゃろう?」
「………。」
ぐずぐずと時間を稼ごうと粘る庵子に、ついに老人も諦めたようにベッドの隣に腰を下ろした。
…ように見えたが、実際は空気椅子であった。
老人のトレーニングへの意欲は凄まじく、昨日胸を押さえて苦しんでいたその人とは思い難かった。
「まぁ、わしも老人じゃ。自衛官として一世を風靡したのも昔の話。今はゆっくり話を聞く時間もたっぷりある。中村君の話を一つ聞こうじゃないか。」
庵子はほっと安心した様に顔を上げ、その老人を見つめた。
「ありがとうございます、大山さん。」