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今ここでコーヒーを飲む

作者: hajimemasite

人生において人々はその現実に生きているというリアリティを失いかけている。失いかけていると言うのはまだ大丈夫であって欲しいと言う希望である。もしかしたらすでに失っているのかもしれない。でもいつか何かのきっかけで本当に大切なものを取り戻すという体験はきっとある。少々の苦味を味わって目を覚ますのだ。そして今僕も目を覚まそうとしている。眠たい。すごく眠たい。昨日も遅くまで夜更かししたせいだ。そうこうしているうちに誰かの声がする。

「お父さんが外の落ち葉集め手伝ってほしいだって」

弟の声だ。布団の中でまどろんでいる僕はまだもう少し寝ていたかった。でも本当に少し体調がすぐれないのだ。弟に体調が悪いと伝えると「わかった」とだけ答えて階段を降りていった。

僕は実家に帰ってきていた。遠方で仕事をしていたのだが、ある日ふっと、夢と現実の境目がわからなくなるような感覚に襲われて苦しくなり、長期の休みをもらって実家で休んでいる。

元々実家があまり好きではなかった。家にいるだけで今日みたいに何かと用事に使われる。そんなこともあって悠々自適な1人暮らしをしていたわけだが、もちろんずっと1人がいいわけでもない。そんな矛盾を解決してくれるように最近は便利なもので、スマートフォンで人と繋がれる。

癒しだった。お気に入りの配信が。1人暮らしを始めた時からずっとファンだった。

夜更かししてしまった理由もその配信があったからだった。実家は窮屈だ。常に誰かといる感覚、その中で唯一の心の安らぎを与えてくれるのが配信を聞いてる時間だった。

もちろん、仕事を休んでいる間に僕を家に置いてくれている両親には感謝している。

だが、感謝していても理屈で割り切れないのが人間というものだ。季節は秋。紅葉が見頃の時期だった。

「体調はどうなんだ」

夕飯どき父親が僕に言った。食卓には他に母親と弟が席についていた。

「まあまあかな」とだけ僕は答えた。

父親の顔をチラッと見たが表情が読み取れない。今日落ち葉集めを手伝えなかったことをどう思っているのだろう。いくら僕の体調がすぐれないとは言え、家にいながら手伝いをしない奴だと思っただろうか。

その時、スマホがポケットの中で振動した。ああ、配信が始まるなと思った僕はろくに食卓の会話に参加せず、早々に食事を切り上げて自分の部屋に戻った。

 配信が始まった。僕はスマートフォンに齧り付く。食卓での数少ない会話も忘れ、食べた料理の味も思い出せなくなる。急にスマートフォン以外の光が失われて、自分の部屋の空間がグニャっと歪んだように今そこにいる感覚を失う。

「こんばんは。きてくれてありがとう」

配信の声だ。そうなると僕はもう画面の世界しか見えなくなった。ああ、この感覚。

夢と現実の境目がわからなくなる感覚。

確かに現実の世界で配信を聞いているが、今ここにいる感覚が失われて、違う世界にいってしまう。でもそれが現実の苦しみから逃げられる唯一の手段。僕はまた夜遅くまでその世界を楽しんだ。

 翌日。父親は寝込んでいた。元々風邪気味であったのだが、昨日の落ち葉集めを無理して1人でしたら体調を崩してしまった。それで僕に手伝ってほしいと言ったのだろう。

罪悪感を感じた。でも確かに僕もあまり体調はよくなかったのだ。そう自分に言い聞かせた。

 その日の夜、僕はものすごく眠たかった。これからまた配信が始まるというのに。コーヒーをブラックで飲む。まるで味がしない。苦味も感じない。これではダメだと、僕は外に出た。どこか目の覚ませる場所にいこう。そう思って街へ向かって歩いていくと、今は寂れてしまった商店街の一角にオレンジ色の光が漏れている。看板にはカフェ・ヨルマチと掲げられていた。昔は栄えていた商店街も時代の流れでほとんどシャッターが閉まっているのに、今時こんな時間に店を開いているなんて、珍しい。だが外装もそれなりに年季が入っている。よし、今夜はここでのんびり配信を聞こう。そう思って店に入る。

 店に入ると1人のおじさんがいた。店主だろう。僕以外の客はいなかった。

どこに座ろうか迷ったが、小ぢんまりした店内はカウンター席しかなかった。僕はしょうがなくカウンターに座り、すぐにスマートフォンを取り出そとしたその時。

「お客さん。困ります。ここではそれをおしまいください」

店主のおじさんがニコニコとした顔で言う。

「これから大切な配信が始まるんです、いいでしょう僕の自由なんですから」

そんなことを言われるとは思っていなかったので、一瞬驚いたが僕はそう言い返した。

「このカフェ・ヨルマチではコーヒーの味をしっかりと味わってほしいのです。それに私がこの店にカウンター席しか設けなかったのはお客様との出会いと時間を大切にしたいのです。その配信とやら、本当に今大切なことですか」

僕は面倒な店に入ってしまったと思った。

すると店主は続けた。

「失礼ですが、あなたは最近何かリアリティというものを失ってはいませんか?現実にいながらどこか違うところを見ていて、違うことを考えている。今あなたはすごく眠たいのでしょう?人生の苦味から逃げているから。そうでしょう」

僕は急に怖くなった。何もかも言い当てられた気がしたからだ。僕のせいで父親が風邪をひいてしまった罪悪感。そこから逃れようとしているのだ。父親ももう年だから、無理はさせたくない。そう思っているのだが実際は難しい。頭の中でグルグルとそう言った思いが巡りだし、ついに僕はカフェ・ヨルマチから逃げるように飛び出した。

 朝起きて僕はコーヒーを飲んでいた。相変わらず味はまったくしない。昨日は結局どう帰ったのかも覚えていない、もしかしたら悪夢だったのかもしれない。

今日は配信が午前中にある。だから僕は早く起きた。今日の配信は特別な配信だ。絶対に参加しなくては。そう意気込んでいた。今朝から両親は家にいなかったので、リビングにいると後ろから声がした。

「お母さんがお父さんと一緒に病院に行って来るだって」

弟だった。ドキッとした。喉が詰まるような感覚に襲われた。そんなに父親の体調が悪いのだろうか。

そうこうしているうちに配信が始まった。僕はイヤホンをして、配信を聴く。この配信で上手くいけば抽選で今夜リスナーの1人が配信者と一対一で話せるチャンスを得ることができるのだ。嘘みたいだった。抽選の結果、今夜僕は憧れの配信者と2人で話すことができるのだ。

 配信者と何を話そうかと考えてるうちに夜は近づいた。不安と期待が入り混じる中、また別の不安も感じていた。夕方になっても父親と母親は帰って来ない。母親に連絡しても返事はなく、弟はどこかへ出掛けてしまっている。配信がもうすぐ始まる夜。とてつもない眠気に襲われた。眠たい。でも起きていないと。しかし、いくら眠気覚ましにコーヒーを飲んでも目覚める気配はなかった。ふと、

カフェ・ヨルマチの店主の言葉を思い出した。「今あなたはすごく眠たいのでしょう?人生の苦味から逃げているから。そうでしょう」

僕はカフェ・ヨルマチに向けて駆け出した。

 店に入ると前に来た時と同じように店主だけがいた。僕のことを見ると笑顔で「いらっしゃい」と言った。

なぜかもうすでにカウンターの上にはホットコーヒーが置かれていた。僕が来るのをわかっていたのだろうか。

「どうぞ、お客様。秋の夜長に温かいコーヒーを。ぜひ向き合ってお飲みください」

僕はカウンターに座る。スマートフォンはポケットの奥にねじ込んである。先ほどまでの眠気が和らいできた。おもむろに、カウンターの木目を指でなぞる。ゴツゴツとしながらも木の温かみを感じる。ホットコーヒーの入ったマグカップを持ち上げてみた。ずっしりとした厚みのあるマグカップから、コーヒーの香ばしい香りが登ってくる。久しぶりに鼻が通ったかのような感覚だ。こんなにもいい香りだとは。淹れたてで熱いコーヒーを一口ずつ飲んだ。熱いものが喉を通り過ぎて、胃に落ちる感覚がした。そして口に残るほのかな苦味。間違いない。これがコーヒーであって、それを今僕がここカフェ・ヨルマチで飲んでいる。だんだんと目が覚めてくる。

店主の言っていたリアリティとはこの事なのだ。僕は時間を気にせず、存分に秋の涼しさの中で温かなコーヒーを飲むという贅沢を味わった。

「どうやら、おわかりいただけたようですね」店主は声をかけてきた。

「ありがとうございます」

僕は店主にお礼を言った。何か大切なものを取り戻したのだ。

 家に帰って玄関に入るとリビングから家族の笑い声が聞こえる。父親と母親が帰ってきている。弟もいるみたいだ。

「おかえり。配信は楽しめたの?」

母親が声をかけてくる。

「どうして、配信のこと知ってるの」

僕は配信のことは家族の誰にも言ってなかったから不思議に思った。

「それくらい一緒に過ごしてるとわかるわ」

とだけ母親は答える。

「お父さん、今日はこの間の健康診断の結果を聞きに行って来て、結果がよかったんだって」

弟が遅めの夕食を食べながら話しかけてくる。

父の風邪はだいぶ良くなったため、病院には前に受けた健康診断の結果を聞きに行っていただけであった。

父と母は病院の帰り、久しぶりに2人で夕飯を食べてきたそうだ。それで帰りが遅くなったらしい。

僕は心配になって連絡したのにどうして返信をくれなかったのか母親に尋ねる。

「グループチャットに遅くなるって送ったわ」

そう言われて僕はハッとした。かなり前に家族のグループチャットからの通知が疎ましく、そのグループチャットから退出していたことを思い出す。

僕はしばらく家族との会話を楽しんだ。

みんなの表情と言葉が今は伝わってくる。

「あんた今日は元気そうな顔してるね。こっちに帰ってきてからずっとぼーっとしてたからみんな心配してたのよ」

母親がそう言った。

 翌朝僕は朝早くに起きた。結局昨夜、配信者からの通知がきていたが、まったく気がつかなかった。でも後悔はしていない。それよりも大切なことに気づけたのだから。

その日は父親が集めておいた落ち葉を燃やして焼き芋を食べた。子供の頃を思い出すような本当に甘い味がした。

 数週間経った。僕は明日には1人暮らしのアパートに戻る。

実家での療養のおかげでかなり元気になったからだ。もうそろそろ仕事が始まる。僕はもう一度カフェ・ヨルマチに行って驚いた。寂れた商店街の他の店と同様、その場所はシャッターが閉じられていて、つい最近まで営業している気配などまったくなかったからだ。

僕は思わずカフェ・ヨルマチのことを調べようとスマホを取り出したが思いとどまった。

世の中には夢とも現実ともつかないこともあるのだ。その代わり、招待されている家族のグループチャットに参加した。

 僕は仕方なく近くのコンビニでドリップコーヒーを買って飲んだ。カフェ・ヨルマチで味わったコーヒーには及ばないが、とても美味しい。今まさしくコンビニの前で白い息を吐きながら、コーヒーの苦味を味わっているのだ。人は人生の苦味を味わって、目を覚ますのだ。そしてリアリティを取り戻す。

今の僕は全然眠たくなかった。


        〜完〜

        


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