大きな株の信用取引
昔々、60過ぎても女性と手を繋いだこともないおじいさんがいました。
おじいさんは最近特に憂鬱でした。
というのも、独りぼっちのおじいさんにとって唯一の慰めであった1000万円の預金が、株の信用取引で大損した際の追証金の支払いによって殆ど形骸と化してしまったのです。
「あーもうチクショウ! 何でだよもぉ……何なんだよこの人生……マジ意味わかんねえよ!」
おじいさんがイライラしながら河川敷を散歩していると、畑に青首大根のせり上がった青首が並んでいるのが見えました。
「チクショウ……!」
おじいさんは大根からカブ、カブから株取引の損失を連想ゲーム的に思い出してしまい、とてもイライラしました。
「何なんだよクソ……何もかもが俺をイラつかせやがる……この俺をイライラさせる為に存在してんのか? このクソみてーな世界はよぉ……」
おじいさんは、腹いせに脳内で大根を引き抜いて、大根おろしにした所をシラスとポン酢で混ぜて、焼酎のツマミにしてやろうと思い至りました。
しかし……
「お笑いですね。あなた如きの雑魚に私を抜けるとお思いですか? いえ、抜ける筈がございません」
おじいさんの脳内の大根は、それほど大きくはなかったのですが、『冬場の蜂蜜瓶の蓋かこの野郎!』ってくらい大地との摩擦抵抗が高く、脳内のお爺さんがいくら頑張っても抜ける気がしませんでした。
「ウアアアア! ドチクショウ! クッソ……オラァ! ああチクショウ! ああもう!」
「力弱いですねぇ。そんなんだから株取引で多額の損失を被る事になるんですよ? その上、60になっても童貞のままなんですよ?」
「うるさい黙れ馬鹿! ああもうチクショウ! ドチクショウ!」
それでも大根は抜けません。
「てめぇ……絶対ぶっ殺してやる……」
意地になったお爺さんは、唯一と言っていい長所である妄想力をフル回転させ、
「ほぉっ! オラァ! 出でよ!!」
猫耳美少女を脳内に顕在化させました。
「ンニャ……隆史、何か用かニャ?」
「ベルベルちゃん! このクソ生意気なクソ大根を引き抜いて大根おろしにしてやりてーんだ! 力を貸してくれ!」
「面倒臭いから嫌だニャ」
「出でよ! ホゥオラッ! マタタビ!」
「……ンニャ!? スーハースーハー……シーハーシーハー……フーム……美味……恍惚……ニャ……」
「ベルベルちゃん!」
「シャラップ……ビークワイエッツ……今ひと時……余韻を……味わい尽くすまで……待つニャ……ゴロゴロ……」
「早くしてくれよ!」
それから大根を引き抜こうと奮闘するおじいさんを尻目に、小一時間心地よいまどろみを堪能したベルベルちゃんでしたが、流石に罪悪感があったのでしょう。
トリップが完全に切れた頃、やっとこさ猫の手を貸す気になったようで、おじいさんのヨレヨレのジャージを1ニュートンくらいの力で引っ張るのでした。
「ンァッ! ンンンン! クッソ……オラァ! ああチクショウ!」
「えんやこらえんやこら頑張るニャー」
しかし、大根は微動だにしません。
「クックック……無能雑魚完全童貞の分際で、スーパーエリート大根であるこの私を引き抜いて大根おろしにしようなどと……思い上がりも甚だしいですね!」
大根が苦笑交じりの高音ハスキーボイスを漏らしました。
「チクショウ……! こうなったら自棄だ!! こちらも最終兵器を用意させて貰うぜ……!」
「最終兵器!?」
「そうだ、最終兵器だ! 出でよ……! ネズミのネズ君!」
「僕に任せるチュー!」
鈍い拡散光と共にネズミが現出しました。
別に擬人化されていない、薄汚い普通のドブネズミでした。
「なっ……ネズミだと!?」
「フッフッフ……詰み筋に気づいたようだなぁ! お前も知っている筈……おおきなカブにおいて、カブは最終的にネズミの加勢によって引き抜かれた! カブ的な物を引き抜く上で、ネズミ君は正にイベント特攻キャラと言えるのだ! 屁理屈と言ってくれるなよ、青首! 脳内世界節理において、屁理屈は圧倒的、直接的な力と成る!」
「く……貴様……」
「お前の負けだ。大人しくすり下ろされて肴になれ。……シラスとポン酢と共になぁ!」
「クックックックック……」
「――!? 何がおかしい!?」
驚き訝しむおじいさんへと、大根のハスキー高笑いがまた響きました。
「アーヒヒヒ! アハハハハハ! 雑魚童貞人間! やはり馬鹿ですね、あなたは!」
「負け惜しみを……!」
「負け惜しみではありません。……では、言わせて頂きますが、あなたの人生において、ネズミ程度の力が何かの役に立った事が一度でもおありですか?」
「……!」
「ネズミは所詮ネズミ! いくら努力しようが、何の役にも立たない……! あなたのような無能雑魚童貞は、その現実を嫌という程思い知って来た筈ですよね? 現実は昔話じゃありません! 屁理屈じゃ圧倒的現実には勝てないんですよ!」
おじいさんは、大根の突き付けた現実に、うっかり納得してしまったのでした。
ネズミの力があれば大根を引き抜ける……そんなお爺さんの屁理屈は、完全に力を失ってしまいました。
「グッ……グウッ……グッ……」
「隆史君! あんな青首野郎の言う事真に受けちゃ駄目チュー! 気をしっかり持つチュー!」
「グウッ……グッ……クソォ……!」
おじいさんはこげ茶色の畑の淵にへたり込んで、臍と下唇を噛む事しか出来ませんでした。
「ネズミ……美味しそうニャ……でも流れ的に食べたらダメっぽいニャ……マタタビはもうないのかニャァ? ねぇ……隆史君ってばぁ……」
「……お……終わり……だ……」
「隆史君! 諦めたら駄目チュー!」
「もう無駄ですよ、その雑魚人間は再起不能です。クックック……雑魚ネズミさん……あなたも自らの無力さを呪いながら、干からびて車に潰され、ネズミせんべいにでもなってカラスの餌になるといいでしょう」
「……めるな」
「ん?」
「舐めるなチュー!」
「ほう……まだやる気ですか」
「僕は、絶対に諦めないチュー!」
ネズミは大根の大根葉の根本にとびかかり、必死の形相で引き抜こうともがきます。
「馬鹿ですね……本当に……あなたは……」
その時です。
ネズミは、土と大根の境目に、大きな歯を突きたてました。
「なっ!!??」
ネズミは歯を突き立てながらも、不敵にモゴモゴと言い放ちました。
「何を驚いているチュー? 確かに、僕の力でお前を引き抜く事は難しいチュ……! だが、お前を大根おろしにするのに、必ずしも抜き取る必要は無いんだチュー! このまま自慢の歯ですりおろしてくれるチュー!」
「貴様……! や……やめ……! やめろっ!」
「散々舐めた口叩いてくれたお返しだチュー! 小さきものの力を、思い知るチュー! ガジガジガジガシ!」
「やめっ……! グッ……! グアアアアアアアアアアアアァ!!?? 私の……青首があああああああああ!! 薄汚いネズミ如きにいいいいいいいいいいいいいいぃ!?」
「僕を舐めた事、脳内煉獄で半永久的に後悔するがいいチュー!」
「ヒッ……ヒギイイイイイイイイイイイィッ!?」
断末魔が響く中、ネズミは容赦なく大根へとその歯を突き立て、大根おろしを生成していきました。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
「……うううぅ……俺はクズだ……俺の人生は……ゴミだ……」
「隆史、いい加減起きるニャ」
猫が肩をゆすって、死んだ鯛の切り落としのような淀んだ目で絶望を享受するおじいさんを引き戻しました。
「ん……何だよ……」
「ほら、起きるニャ。隆史、大根おろしが出来てるニャ」
「うわっ! マジだ! あの生意気な大根野郎を、どうやって!?」
「ネズミの奴がなんか頑張ってたニャ」
「ふーん。まあ、折角だし、ちょっと食べてみるか」
しかし……
「うわっ! ゲロマズ! 土入ってるし、味がボヤッとしてて全然辛くない!」
「まあそんなもんだニャ」
「そういやネズミ君は?」
「……知らないニャ。別に食べてなんかないニャ」
「ああそう」
猫が咄嗟に隠したネズミ君の亡骸が浮かべる微笑には、達成感がじっとりと綻んでいました。
「ところで、隆史!」
「ん?」
「ハーバード大教授も賛同しているという、脳内マタタビ生成健康法についての重要な提言があるんニャけど……」
「はいはい。ちょっと待っててね……出でよ!」
「あっ……恍惚……悦楽……ニャ……愉悦……」
やがておじいさんは現実世界に回帰し、スーパーに行って青首大根とフルーツグラノーラとカップ麺と焼酎ボトルを買って帰宅しました。
そして大根おろしを作り、シラスを混ぜ、ポン酢を垂らして焼酎のツマミにしました。
めでたしめでたし。