いざ、ゲームの世界へ
~再生された英雄譚~
淡い光に包まれている。
目を開けてはいないが、瞼の裏から光がなだれ込んでくるように視界を照らしてくれている。
暖かな感覚に肌を撫でられながら、これから始まる物語に思いを巡らせて。
ゲーム、冒険、異世界。
多分きっと楽しい暮らしが始まるだろう。
躍る胸を必死に抑えようとしてもにやけてしまう。
おそらく自分は今、ものすごい顔をしていること間違いないだろう。
思考や感情はあるからこそ、考える頭が止まらない。
特に思い入れもない世界との別れから、これからの人生への期待、とばかりに言うつもりは毛頭ない。
それこそゲームの世界など、その気になればログアウトしてしまえばいいのだから...
「あれ、ログアウトの仕方、教えてもらったっけ。」
そこまで思考して、改めて考えてみてもその疑問に答えてくれる記憶が存在していないことに気が付く。
しかし藍らしいというのか、ここは「まぁいいか。」と思考を転換。
再度どこかに落ちていくような感覚を覚えながら、暖かみのあるそれに身をゆだねる。
そして辺りから失われた音が戻りつつあることを聴覚か感じ取り、段々と束縛されていたように開かなかった瞼の枷が外れたのも感じた。
もうそろそろ目を開けてもいいだろう。
心の中でそう思うと、辺りから喧騒や鳥のさえずりもが聞こえる世界へと、重い漕がれた希望の詰まった世界へと、いざその身を落としていった。
―――――目を開けた。
そこに待っていたのは、おそらく天井であろう。
体の違和感は何も感じない。
ただ恐ろしく体がだるさに悲鳴を上げ、さらに至る所が痛むことで寝返りどころか首一つ動かすことも叶わないでいる。
「うぅ...。」
声を出そうにも、お腹や喉までが悲鳴を上げるよう、痛みに喘ぐ声しか出てこない始末。
こっちの世界に来たら、何不自由なく暮らせるようなステータスにするって言ってなかったっけ。
誰にともない愚痴をこぼしながら、物思いにふけってみる。
(なんか、思ってたのと違う。)
その思考は果たして誰にも届くことはない。
助けを求めようとしたところで、声すらも出ない自分を誰が介抱してくれよう。
これすらも誰かに届くこともない―――――
ガチャ―――――
と、そう思っていた藍の元に、今度は思いが届いたとばかりに、近くの扉が開いた音と、来客した何者かの足音をしっかりと耳が聞いてくれていた。
(助かった...。)
心底安堵を浮かべる藍は、何とかこの状況を打破することができると、有無を言わずこちらに近づいてくる何者かの影に声をかけるために最初で最後の力を振り絞る。
「た、すけて。」
「っ!?...」
こういう状況で、いざなんと声をかけたらいいのか、そんな疑問に直面した藍がとりあえず出した救助要請の声。
未だ視界に移ることのない誰かは、返事の代わりに何か重そうなものと、液体状のものを床に落としたような不快音で返事をくれたよう。
風邪をひいたときと同じだるさを感じる体には、やけに刺さって感じる聴覚の痛みをこらえながら、再度瞼を瞑った藍。
視界がなくなって、余計な情報を脳が感じることがなくなったからなのだろうか、藍の頭の中には、とある言葉が引っかかって思い出された。
(そうだ、なんか、言えって言ってたな。)
そこまで思い出したら後は簡単。
教えてもらった訳の分からない単語をとりあえずは口にすることが大切だ。
思い出しながら、今も見えない何者かに向かって、もうひと踏ん張りの掠れた声をあげた。
「ただいま、愛しき愛娘。」
「...本当に、戻ってきてくれたんですね。」
明らかに涙混じりの声が耳に届く。
それは綺麗な女性の声だった。
ずっとそこにいたのが女性だったとわかったと同時に、何となく安心感を覚えた藍の思考に他様々な疑問の念が駆け巡り始めた。
(あれ、俺、日本語喋ったか?)
確か口にしたのはあの意味不明な単語の集まりだったはず。
しかし脳はそれを理解して、意味のある言語へと変換させていた。
それは言い換えればあの謎の単語が常用語として用いられているという証拠。
だがしかし、特に難しいことを考える必要はないであろうと、ゲームの仕様であることに落ち着かせて閉じていた目を開ける。
代り映えしない天井が見えると思っていた。
しかし視界に移りこんだのは涙を浮かべる一人の少女。
それもよく言うところの耳の長い種族、森召種に間違いないだろう。
これまで日本国にて、美女という者の姿をたくさん見てきていた。
しかしその誰よりも勝る美貌、まさに美しさそのものであると言える存在。
肌荒れはもってのほか、しわやその他一般的に低印象とされている肌トラブルは見受けられない。
そして輝かしいほどに自身を見据える零れ落ちそうなほど大きな翠の相貌。
そしてぷるんッとした瑞々しく艶めかしい淡いピンクの唇と、スッと通った鼻筋。
輪郭は女の子らしく丸みを帯び、この体勢からだとなんとも際立って見える長いまつげ、さらにこれでもかと整った金の髪。
他の言葉はもういらない。
彼女の存在こそが異世界を、それもゲームの世界を物語っているのは間違いない。
そんな彼女は藍の手を掴んでから、自身の頬にその手を押し当てる。
正直手首から左ひじ、左肩に、つられる首辺りまでがとてつもなく痛んでいるが、それも仕方ないとばかりにその光景に癒されていた。
そして彼女はひとしきり藍の手を肌で堪能すると、今度はその手を伝って藍の体に倒れこみ、寝ている身体をそっと抱きしめてくれる。
(あぁ、なんと気持ちのいいものなのか。)
現実世界で、女性経験のない藍。
そのくせ、妙にリアルなゲームの世界に至って、今までの枠を飛び越えた美女に抱かれている現状。
この状況から考えると当然の事であるが、今まで止まっていたのかと勘違いするほど体の中の血液が巡り、うるさいほどに心臓が活動を再開したように動き出す。
ハグをすることでストレス解消になると。
日本国での知識は何の根拠もないリアルを充実しているもの達の戯言だと思っていた。
しかし今の自分なら、過去の自分を殴ってやることができるだろう。
そんなことを思えるほどに、だんだんと自分の中の痛みやだるさといった悪感情がスッと抜けていく。
(あぁ、誰かに抱きしめられることが、こんなにも心地のいいものだったとは。)
痛みなどもう関係ない。
この形容しがたい胸の痛み。
これは間違いなく後悔するなとのお達しだ。
だからこそ痛みを我慢しながらも胸の上で自分を抱きしめてくれている彼女を抱きしめ返すため腕を上げ、彼女の背にそっと手を回す。
と、ビクッと体をこわばらせた美女。
しかし一瞬のうちにこれまで以上に力を抜き、改めて藍と完全に重なるように体を預けてくれた。
そのビクつきも、今の藍にとってはなんとも嬉しいもので、腕の中の彼女をこれ以上ないほどかわいく思ってしまう。
恐らく今自分はものすごい顔をしているだろう。
体をビクつかせるという反応、それがなんとも現実―――――おっぱい。
いや、現実的過ぎてまるで生きているかのように―――――おっぱい。
んん、生きているかのようでここがゲームの世界であることを忘れるかのように...いい匂いがするな。
じゃなくて、ここがゲームの世界ではないかのようにリアルな感触を、感触を堪能しつつッて...
「あれ、体の痛みがなくなっているんだが。」
「うわッ、アプ―――――」
そこで彼女を差し置いて、唐突に体を起こした藍。
今までの信じられない痛みとだるさが、勘違いでもストレス解消効果でもなく明らかになくなっていることを実感する。
そして体を起こしたことと、それに驚いたことで吹っ飛ばされた彼女はバランスを崩し、座っていた椅子から転倒。
可愛らしい声を出しながら床に尻もちをついた。
「いたーー、ビックリしたなぁもぅ。」
「あ、すみません。」
ゲームの世界ならば何でもありか、この体の痛みがどこへ吹き飛んだのか、それは未だ謎のままにしつつ、とりあえず失礼を働いたことの謝罪を彼女に述べ、起き上がるのを待った藍。
第一印象が大事だというのなら、おそらく二人の間には違和感という名の壁が立ちはだかったであろう。
美女と変人、物語の始まりとしては、なんとも満足のいく書き出しだと、笑顔で頷いた内心の藍だった。
立ち上がってからお尻を叩いて、履いていたスカートの裾を正す美女。
金髪だと思っていたそれは、どことなく銀髪も混じった個性盛々の超ロングヘア。
そしてこれまた金銀の混じり合う三つ編みをどこやかしこに作り、明らかに遊んでいることが見え見えの、それでいてとてつもない美しさを露わにしているヘアスタイル。
衣服は森召種と言えば、の緑ではなく、銀と青の高級品と思われるものを身に着け、しかしこれがまた様になっていた。
そして改めて見る彼女は案外小さく見える。
スラっとした立ち姿から長身であるのかと思っていたがそんなことはなく、女性らしいと言えばらしい小柄な体躯。
細身ではあるが、柔らかさも兼ね備えた男性とは違う魅力を持ちながら、それでいて細身ゆえに出るところは出ている身体。
それでも抱擁されたときに感じた胸の感触からは想定外である小ぶりな...いや服装やら色々で目立っていないだけだろう、うん。
女性の体形を事細かに見るのは失礼、であるが整った顔同様に美しいと言えばと称されるほど、その体形も美しさの才能を秘めているようである。
それはまるで美を象るかのような。
そんな彼女は倒れている椅子を置きなおして再度そこに座り、改まって藍の目を見て自己紹介から始めてくれた。
「私の名前はリンデラル。
近しいものはリルと呼んでくれている。
藍、私の言葉は通じているかな?」
「うん、通じてる、よ。
というより、俺の名前...あれ?」
「ん、どうかしたのか?」
「俺、いつから俺って...
まぁいいか。
俺の名前知っているんだな。」
リルと名乗った森召種の美女。
涙を拭き終えてからは、ずっとこれまた様になっている笑顔を向け続けてくれている。
そんな彼女に山ほど聞きたいことがある藍。
いつの間にか一人称が僕から俺へと変わっていることはおいておいて、その他多少の身体的な違和感の正体やら、このゲームの目的やストーリー性はどうなっているのかなど。
この世界は既にある知識通りのゲームなら、目の前の美女はNPC。
そしてチュートリアルが始まっていると考えて間違いないだろう。
それにしても彼女の肌の質感と言い、周りの風景と言い、何もかもがまるで現実かのような世界に来てしまった。
まるで意識していなければ、ゲームであることを簡単に忘れてしまえるほどに。
とりあえず確認しておかなければならないことを先に聞いておこうと、彼女の目を見る。
そして何もかもすっ飛ばして最初にして最重要の質問を飛ばした。
「それで、まず確認なんだけど、この世界では何をすればいいんだ?」
「えっと、ごめんなさい。
そこまで詳しい状況説明はされていないの。
あなたが目を覚ます、その時まであなたを守るのが私の役目だったから。」
(なんという不親切設計...いや。
これは真の自由を探求したゲーム設計なのか。
プレイヤーの本当に望む結末を迎えることがこのゲームの真のエンディングになる、的な?)
いまいち話の噛み合っていない感じのするリルとの会話で、次から次へと藍の妄想は止まることを知らないかのように膨れ上がっていく。
ゲームの世界の主人公って、こんな気持ちなんだろうか。
未だに笑顔が抜けない藍はさっきから周りをきょろきょろしながら、謎に浮いているインテリアや現実味のない発光体の装飾品を目を輝かせて見ている。
少し暗い室内に、その灯がキラキラと光り輝いては、その先にある窓から外の景色を見ろとばかりに光線が伸びていた。
つられるように外の景色を見る。
異世界には、いくつか種類があると思っている。
一つ目は文明がまだ発展していない異世界。
それは日本国からしてみれば考えられないほど発展が遅れていて、田舎とはまた違う不便さを感じるようなところ。
しかし最も風景が美しいのはこれと言っていいだろう、そんなものだ。
二つ目は、それなりに文明が発展しているようなところ。
イメージでは石畳の街並みから、木材だけではなく石材もしっかりと使われた建築物に、どの位置からでも街の灯が絶えない、そんなところ。
異世界で暮らしたいと言えば、という感じの良い異世界がこれだ。
そして三つ目は、明らかに文明が進んでいるようなところ。
日本国で言うところの都会と、異世界の魔術的なもの、そして異世界だからこその文化が入り混じったこれまた異世界と言えばと思えるようなところ。
高層ビルなんてものも見えるくらいになれば相当なものであろうが。
果たして今目の前に見えている景色というと、二番目の雰囲気の良い街並みの広がる異世界だ。
窓枠を仕切りとして額縁を見ているのであれば、お洒落なカフェが立ち並ぶ、石畳の街並みに白よりは暖かみのある橙色の灯りが見えている。
さらにその光を遮り、目の前に影を運んでくれる人間とは違う特徴も持ったもの達の姿も。
見たところ、耳長の森召種にずんぐりむっくりな地槌種、単眼の者から、ケモミミの集団まで。
そんな彼らが日本国ではありえないような杖を持ち、剣を携え、笑い合いながら店先の簡易的なテーブルを囲み、笑い合って何かを飲んでいる。
恐らく酒であろう、そしておそらくあれは冒険者なのだろう。
その光景を間近で見ている藍に対し、彼らがひしひしと訴えかけてくる。
この世界は楽しいぞと、この世界は夢が満ち溢れているぞと。
こんなもの、心躍らないはずがない。
興奮する胸を抑え切ることもせず、今度は室内に目を落とし、改めてリルの姿をしっかりと見据えた。
「それはありがとう。
それで、さっそくなんだけど、ここから出てもいいかな?」
「それはだめよ、まだ安静にしておいて。」
「え、ちょ。
なんでだよいいじゃんか。」
「ダメったらダメ。
私の言うことをちゃんと聞いておかないと、ひどい目に合うわよ。」
これぞゲームの世界、そして異世界というのか。
脅し文句であろうが、こんな言葉がこんな種族から聞けるなんて、それはそれで藍の心を躍らせる一要因になってしまった。
「うんうん、そういうの良いよな。
で、ちなみにどんな目に合うんだ?」
「18年間、あなたの体を守り続けた私が、これまで溜まりに溜まった制裁をくらわします。」
(あぁ、素敵な笑顔でなんて恐ろしいことをいう子なんだろう。)
非現実なもの、それに目が笑っていないだけで、これほどにまで説得力があるとは。
制裁をくらわすと、案外過激な言葉を扱うリルはこれまた丁寧に厭味ったらしい笑みを浮かべ、同じ目線から顔を覗き込んでくる。
しかしそんな状況でもこの娘をかわいいと思ってしまう自分、これはどういった感情なのか...。
と藍があれこれ物思いを浮かべつつ顔をほころばせていたところふとある言葉が脳裏に引っかかった。
「って今、18年間って言った?」
「ん、そうだけど。」
18年間自分の体を守り続けてくれていたと。
現実世界での自分の歳は既に上回っている、かなり若めの設定らしい。
何せ高校は卒業していたし。
(これは、俺の年齢ととって間違いないのか?)
ゲーム用に修正の入ったお年頃、そして少し感じていた体の違和感。
薄々気が付いていたが、その正体を突き詰めようと、目の前の女性にお願いを飛ばした。
「俺の歳っていくつ?」
「わからないわ、少なくとも18よりは上よ。」
「ふむ、なるほど。
あ、それと何か鏡のようなものないか?」
「鏡?
ちょっと待っててね...ほいッ。」
とそこでリルが手を藍の前に差し出し、何かを見せてくれるかのように手のひらを上にした。
その瞬間、彼女の手の上に浮かんだ小さめの鏡が顕現した。
それはまるで魔法のように。
そう、それはまるで...。
「すげぇ!
魔法なのか?」
「えっ、いやこれは魔導具。
魔道具の一種よ。」
「すげぇ、やっぱり魔法じゃんか、って...あれ?」
と興奮止まない藍が瞳を輝かせながら彼女と鏡を交互に見てから、ようやく本来の目的を思い出したかのように首を傾げた。
鏡を見た藍、そこに移っているのは。
間違いなく自分だった。
顔は同じ、それは20年間見続けてきたものである。
ただ、明らかにこれまでとは違う箇所が二つ。
「すっごい筋肉だな。
それに、なんか身長のびてね?」
今までの自分は太ってはいなかったものの運動なんてさらさらする気もなく、筋肉のない体形をしていた。
そして全く持って同年代の平均身長と変わらない体躯をしていたはず。
それが小さな鏡で見てもわかるくらいの細マッチョから、長身へと進化を遂げていた。
これは、まさに。
「ゲーム様様か。」
自分との第一印象は完璧。
自分好みの体形に修正が入っていることは間違いない。
後は気が抜けばリアルと勘違いしてしまうこの世界を楽しむことに尽きる。
魔道具なるものの存在も知れた。
それに外は灯りがランランと光るほど、夜も更けているよう。
今日はとりあえずリルの言うことを聞いて、ゆっくりするとしよう。
そう思い改めて裸でベッドに座る自分の姿を確認した鏡を、お礼とともにリルに仕舞わせて、再度ベッドに寝転んだ。
今日一日驚きは確かにあった。
今まで通りバイトから始まり、あの二人に誘われ、御古都さんに出会って、ゲームの世界に飛び込んだ。
それなのに全く困惑すらしていない藍は改めて顔だけをリルに向ける。
その様子に笑って応えてくれるリルはもうすでに涙の跡もないように、落ち着きを取り戻してくれているよう。
何とも雰囲気のいいこの空間。
(これが、いつまでも。
いつまでも続けばいいのに。)
明日からもシフトが入っている。
働かなければ今住んでいるマンションの家賃を払うこともできない。
ただ、今だけは。
そう今だけは全て忘れ、こんな何もない空間の、ただただ感じの良い世界を楽しむことに全神経を注いでいよう。
それに、バイトが終わっても何度だってこの世界に入ってこれるのだ。
セーブ&ロード。
これだけ完璧なゲームの世界に、初歩的なその二つがないなんてことはないだろう。
そう高を括って藍はリルに微笑みを返す。
セーブ、&、ロード。
セーブ、セーブ...?
「あれ、どうやってログアウトするんだっけ。」
「さっきから何訳のわからないことばかり言ってるの、寝なさい。」
どうやら根本的に問題があるのは変わっていないようだ。