八、無邪気な思い出たち
それからの数日間、後から考えればコウキチと過ごした最後の時期だ。
その頃にはすでに僕たちの間にはしっかりした友情関係があって、だからこそ気ままに、それこそ思いっきり手足を伸ばすように存分に、夏を謳歌できた日々だった。
僕は毎日コウキチと顔を合わせたし、必ず昼食やアイスなんかをご馳走になっていた。
その時期にはコウキチは図書館で読みたいものにだいたい目を通し終えていたので、やや図書館通いに飽きてたのではないかと僕は思っている。
だから書館の入り口でぼんやりしていることが多くなり、それを発見すると僕はあわててプールを出て二人で一緒によく遊んだ。
従って僕もプールに入る時間がだんだん短くなっていった。
プールの金網ごしに図書館の入り口がよく見えるので、休憩時間になるとプールの仕切りである金網の方へ寄ってはコウキチを探した。
コウキチはたぶん僕と遊ぶのを習慣のように思っていただろうし、僕にしたらコウキチが気分良く夏休み気分を味わえるように付き合ってやらなくちゃという気持ちにもなっていた。
「今日は地理誌っていう世界中の地形のことが書いてある本を読んでいたんだけどさ、誰かの旅行記に珍しいカブトムシのことが書いてあったら、ちょっとカブトムシの図鑑も開いてみたんだ。日本の昔見かけたカブトムシでさえ、もうどんな形だったのか覚えていないことが分かった。」
食堂の僕たちのお気に入りのテーブル席でコウキチが言う。
地理とカブトムシが僕の頭の中では簡単に結びつかない。
僕はカブトムシやクワガタを採るのは苦手だったが、コウキチの小さい頃はどうだったのだろう。
「このあたりにはいるの?」
「さあ、わからん。でもまあ朝早く出なきゃな。」
「カブトムシとかクワガタって自分じゃ捕まえたことないなあ。」
「それは探している所がよくないだけかもしれない。単純にタケシの家のまわりにはいないんじゃいのか。」
「この辺には巣みたいなのあるの。」
「俺もよく知らない。ちょっと探してみるか。」
なんとなく幼い頃のコウキチもカブトムシやクワガタをとるのが得意じゃない気がしたが、案の定その日はプールの裏やアラジン山のわき道をさぐってみても何の成果もなかった。
カブトムシもクワガタも採取するどころか姿を見かけることさえ出来なかった。
「やっぱりいないね。本には捕りかたは書いてなかったの。」
結局図書館に戻って本を漁るがたいしたことは書いていない。
コウキチが根気よく虫の本のページをめくっている間、僕は成果の上がらないカブトムシやクワガタの本に飽きて近くの書棚で目に付いた飛行機の本を読んでいた。
「飛行機、好きか? カブトムシよりはずいぶん高い所を飛ぶけど。」
「飛行機雲とかってよく見るでしょ。ずいぶん高い所を飛んでいるんだろうね。」
「まあ、そうだな。」
「ねえねえ、なんで飛ぶんだろうね。すごいね。」
それからひとしきり飛行機の話を僕たちはして、またアラジン山の中でカブトムシを探して歩き続けた。
その頃になると僕には新たな習慣が始まっていた。
それはアラジン山から帰った後、夕食までの時間に散歩をすることだ。
すこし前までは駅前の本屋に行っていたが、最近は本屋に行ってもお気に入りの本棚の列を一回りするくらいで、それよりもずっと長い時間ひたすらにその街を歩いた。
コースはだいたい決まっていて駅の近くを流れる川に沿って上流下流を行ったり来たりして、橋があれば渡ってまた反対岸の川上、川下で行き来を繰り返す。
頃合いを見て川から垂直に五分ほど歩けば駅前通りで、駅へ出て一直線に通りを歩いて最後に本屋に寄る。
その頃には外もだいぶ暗くなっているのでそのまま伯母の家へ、それがだいたいの順序だ。時には時間の調整を失敗して夕食時間に間に合わないこともあったが、よほど遅れでもしない限り伯母たちがとやかく言うことはなかった。
川べりを歩く時はだいたい僕はぼんやりしていて頭の中では形にならないことばかり考えていた。
川というのは眺めるのにとても良く、また川のそばというのはだいたい空への視界が開けているので、だから空と川の両方を眺めることが出来る。
しかも夕暮れ時ということになればいよいよ景色は素晴らしくて、僕は余計に頭の中の空想と目の前の現実の違いが分からなくなっていく。
ゆったりとした時間、僕はコウキチから聞いた話を思い出したり、あるいは一緒に見たことを反復することが多かった。
昔の言い伝えの話や雲の育ち方とか機関車の手入れ方法、あるいは緑色の服を来た友達のことなんかを考えて、ふと川面に目をやる。
そして空の色を確認したりしてからまた別のことを考える。
その繰り返しだ。
僕が歩く道のわきを流れているのは天竜川で、すこし行くと支流とぶつかる。
そして川と川がぶつかる所からさらに下流へ行けばアラジン山へと続く道だ。
そこを歩くのはだいたい午後の遅い時間だったので、空の色が変わる様子がよく見てとれた。
夕暮れが近づくのにつれて一面に広がる青い空がやがて色褪せてくる。
それは濃いオレンジになり、やがて暗い桃色、いや綺麗な紫色になっていく。
そして徐々に暗い青がその上に覆いかかるのだ。
僕が読んだ空の本ではその変化をグラデーションと表現していた。
時にまだ薄明るい空の下の方にはセキランウンやセキウンのシルエットが見えることもある、
勇ましかった雲たちがすこし小さくなったようにも思える瞬間、あっちの山ではまだ雲ががんばっているのだろう。
そして空の色が川面に移ってまたいつもと違った色合いを見せる。
あれやこれやと眺めていて、すこしの間でまた空の方々で様子が変わっていく。
その変化は僕をなかなか飽きさせなかった。
そういえば今日コウキチは川の言い伝えの話をしていた。
僕は昼間の会話を思い出す。
川というのは竜のことだと言ったコウキチ、あまり興奮しないよう心がけているような、確かそんな顔をしていた。
コウキチが言うには川は竜のように暴れまわるし、何より蛇行を繰り返す形が竜を思い起こさせる、だから昔の人は同じものだと思って川である竜神様を奉っていたと言う。
「でも、それだけじゃないんだぜ。」
そうコウキチが言った時、やっと面白いことを見つけたように口調を変えた。
たぶん話し続けているうちに興奮を抑えられなくなってきたのだろう。
「大きな雲、それもじつは川と同じなんだ。昔は今よりずっと見通しが良かったから、川の流れの山から降りてくる様子が分かって、山の近くには立派な雲が出てくるからそれは同じものと考えたみたいだ。だから川と雲と竜はおんなじようなもんなんだぜ。」
「へえ。」
コウキチは性急に言葉を続ける。
「さらに言えば、昔は海の神さまは海蛇だったと考えられている。海蛇は陸では竜に姿を変えただけかもしれない。」
「へえ。よく分からないけど・・、それじゃあなんだか全部おんなじに聞こえるなあ。」
「ああ、自然は等しく全て同じだったのかもしれないぜ。」
そう言ってコウキチは笑った。コウキチの話はたまにすごく飛ぶので、ついていけない時がある。
その時も僕は突然違う景色を見せられたような、頭の中が追いつかずに呆然としているようなそんな心持ちになった。
だけど僕は雲は嫌いじゃなかったし、目の前の大きな川だって最近のお気に入りだ。
優しげな悠々とした川が竜の化身とはどうも思えなかったが、それだって大雨になればひょっとしたらその片鱗が見えるかもしれない。
言い伝えがあってコウキチもそう思っているなら、信じてみるのも悪くないと思った。
その日の夕暮れ、空の上の方でも竜のような影を見かけた。ケンウンというやつだろうか。
夏休みに入ってからはじめてみる形の雲、それは秋を告げる雲なのかもしれない。
濃い青と薄いオレンジ色のグラデーションを、蛇のように黒い影が切り裂いていた。
空に浮かぶ竜と言われればまさにその通りだ。
僕はまたコウキチの話を思い出す。
そうだ、竜や水の話と別に、空の神さまについても教えてくれたっけ、竜の話の後にコウキチが言っていたこと。
「竜と海と同じような関係なのが鳥と太陽さ。これは大陸の中の方の国とか、山に囲まれたところで多いんだけどな。その場合は太陽が信仰されていて、神の化身は太陽に近い、空を飛べる鳥ということになる。それも大きな空の高い所を飛ぶ鳥さ、モウキン類なんか。あるいはとっても高い山でも良かったんだろうし。太陽と山と鳥の関係が、海と川と海蛇の関係なわけさ。」
民話を一通り読みつくしたコウキチは最近神話や伝説の話なんかも読みふけっていた。
だから僕に語る内容でオオカミやキツネの昔話は減ってきていて、頭の中はすこし大仕立てなストーリーが増えている。
「人は神様にすこしでも近づこうと山へ登ったこともあったし、海へ大事なものを流したこともあった。それは神様になろうとしたんじゃなくてさ、どちらかと言うと助けてもらいに伺ったって感じじゃないかな。人がツライ時や決められなくて困っている時、最後は神頼みで祈ったんだろうな。でも、それは今のお祈りっていうのとは質が違うもんだよ。きっと。」
「僕は別に祈ったことないけど。」
「ああ、悩みごとなさそうだもんな。それは健全なことだ。だけどさ、想像してみなよ。自分が祈る時のことを。」
「祈る時?」
「ああ、何かあってもたいていは自分の力や周りに助けられて、なんとかなるもんだ。自分が歯を食いしばってさ、いくらキツくても頑張り抜いてさ。だけどさ、もし、それでもなんとも出来ない時、あるいは全てやるべきことはやった後、そういう場合にだけ人は昔の人と同じように祈るんだと思うなあ。まあこの平和な世の中なら、祈らなきゃいけない自体なんて一生に何度もないと思うけどさ。祈るには資格みたいなものがいるのさ。」
「へえ。よく分からないけど・・。」
僕はなんと言って良いか分からずに曖昧な返事をした。
少なくともコウキチと一緒にそれを語れるほどの知識や経験は当時の僕にはなかった。
「最近神話とか読み過ぎなだけなのかもしれないけど、それはそれで有益なんだなあ。」
コウキチはたぶん僕に聞かせるだけで満足なようだった。
僕はそうしたコウキチの話をずっと覚えていて、何年かしてその意味が分かることもあった。
「川と雲と竜・・、それと山に鳥ねえ。」
「蛇と太陽も忘れるなよ。」
僕は川べりの道から空にたなびく雲へ視線を戻す。
竜神さまのシルエット、それは昼間に消えそびれた飛行機雲が上空の風で部分部分が流されて変形したもののようだった。
そこだけが空のまわりより先駆けて黒くて、まるで神話の世界で、できればコウキチにも見せてやりたいと思った。
そうだ、明日はコウキチにこの雲の話をしよう。
次の日、アラジン山でコウキチを見かけると、その手には長細いパッケージを持っていた。
「なにそれ。」
「飛行機さ。面白そうだったからここに来る前に二つ買ったんだ。」
コウキチはパッケージの中のパーツ一式を確かめながら説明してくれる。
「この模型はゴムがエンジンがわりだ。ゴムのねじれの力をこのプロペラで推進力にして空を飛ぶんだ。」
コウキチがプロペラの軸を右手で持って左手でプロペラを回す。僕の顔に向けられたプロペラは弱々しく回って、すぐに止まった。
「ゴムの力を使えばずっと力強く回る。その時、風はこっち側で起こるんだ。」
コウキチはそう言うと、今度はプロペラの向きを変えて後ろ側を僕に見せた。
「その風で空を飛べるの。」
「これだけじゃダメだ。こっちの羽根、これがあるからな。」
次にコウキチは組み立て前の主翼を見せる。
「なんで羽根が必要なの。」
「羽根がこう、縦についてたら飛行機は飛ばない。横についてると空に浮かんでいられるんだ。」
「だからなんで。」
「空気の上に乗っているのさ。同じ重さのものでもな、例えば紙をそのまま落とすとヒラヒラって落ちるだろ。でも、丸めるとストンって落ちる。飛んでる時間を長くできるのさ。」
「ふうん。」
僕はコウキチが持っている包みの中に手を入れて紙切れを取り出す。
それを頭の上から離して実験してみた。
ヒラヒラとはいかないが、まあふらつきながら気持ちゆっくり落ちてはいた。
僕の実験が終わるのを確かめてからコウキチはさらに言葉を続ける。
「でも、この翼の形にも秘密があるらしい。この模型じゃダメだけど実際の飛行機は膨らみが上と下とで違うんだ。上側の方が曲がっているらしい。そのへん、よく分からなかったんだよな。」
コウキチがブツブツと何か言っている間に、僕は曖昧に頷きながらコウキチが持っているパッケージにもう一度手を伸ばした。
今度は包み全部を取るとそれを地面に広げて中を念入りに精査する。
そうするとコウキチももう一つのパッケージの中の部品を地面に並べだして、しばらくの間、僕たちは模型ヒコーキを組み上げることに専念した。
思っていたよりも簡単に、模型ヒコーキが二つ完成した。
両機とも試験飛行は良好で、僕たちはいよいよ本格的な離陸を試みることにする。
飛び立つ場所は見晴らし台がいいだろうと話がまとまり、二人で真夏の太陽の下を歩きだした。
しかし、ほんのすこし歩いて蒸気機関車が見えた時に僕はふと寄り道をしたくなる。
「ねえ、今、機関車に登ったらいけないかな。」
「ちょっと乗るくらいならいいけど、この前みたいに本格的に登るのはまずいだろ。職員さんが見回りにくるかもしれない。」
「ちょっとだけさ。本に載ってたみたいに右側から本当に登れるものなのか確かめてみるんだ。」
そんなことをしていたら、またあっという間に時間は過ぎる。
僕たちは本に出ていた機関車を手入れする人の挿絵を思い出しながら足と手を右に左にと動かした。
やはり僕では身長が足りなかったが、足をかけて手をかける順番はなんとか推測することができ、結局、見事コウキチによって運転席の右側の地面から機関車へ上がることが可能であることが証明された。
気がつけばまたお昼を十分に回っていたので、しかたなく僕たちは一旦食堂へ向かうことにした。
楽しいことがあって時間がうまく制御できない。
必ずしも毎年そんな夏が来ないことに気がついたのはだいぶ経ってからで、当時の僕は夏という季節は時計が狂いやすいのだろうとしか思っていなかった。
お昼は図書館と同じ建物にあるいつもの食堂で、僕たちはカレーライスを注文した。
すでにその店のランチメニューは全て一度は食べていたので、ここ数日は毎回カレーライスを頼むことで落ち着いている。
僕とコウキチはいつもの窓側のテーブルに座ってランチをしながら他愛のない話をした。
それはこれから飛ばす飛行機のことやコウキチが最近読んだ神話の話なんかだ。
簡単な昼食を終えて、僕たちはいよいよ見晴らし台へ向かう。
青い空の下、気持ちの良い風の吹く丘の上、見晴らし台のわきに立って僕たちは模型ヒコーキを飛ばした。
離陸は順調、あっという間に風に乗って僕とコウキチのヒコーキは自由を手に入れていた。
「ヒコーキってなんかいいね。」
「ああ、なんかいいだろ。好きだから見てみる。調べてみる。そうしたらもっと好きになって楽しくなる。」
「そうだね。そうかもしれない。」
僕はなんとなくさっきまで座っていた図書館の食堂のテーブルのことを思い出していた。
あそこだってコウキチがなんだか良さそうだと言って、そのうちに僕も好きになっていた。
カレーライスの味だって悪くない。
好きということ、自分らしく過ごすことに誠実であるということ、結局のところ、コウキチが僕に教えてくれたのはそのことだけだったのかもしれない。
「飛行場があっちの方にあるんだよな」
自分の言葉に照れくさくなったのか、急にコウキチは北の方を臨んで言った。
「今度一緒に行こうよ。」
僕もすぐに話を合わせた。
その頃の僕たちはとても仲良しだったので、単純にそのうちコウキチと旅行に行くこともあるんだろうと思っていた。実際は別れはすぐ近くまで来ていたのに。
「ああ、でも俺、電車好きじゃないんだよな。」
僕はこの町へ来る電車から見た緑の友達のことを思い出した。
そして白い塔の下でその話をコウキチにした情景もよみがえる。
しかし、コウキチの頭に浮かんでいたのはそれとは関係ない話だった。
「電車って人が多いしさ。それに優先席ってあるだろ。あれが苦手なんだ。できれば近づきたくない。席を譲るってのは自然にやるのが難しいんだよな。たぶんそれは本当は人に気づかれないようにする親切を目に見えてしろということだから、じゃないかと思うんだ。なんかさ、優先席に若い人が座っているのを見るだけでも緊張しちゃうんだよな。」
「席を替わるのはいいことなんだから優先席っていいんじゃないの。おかしくない?」
「親切にすること、されることに決まりがあるなんてさ。ルールを守るように親切もするって、なんか慣れないんだよな。タケシ、お前はそういうの分かんないか?」
「・・・・よく分からないけど、なんとなく。」
「なんとなくはそう思う?」
「・・僕まだオルガンがうまく弾けないからさ。おばあちゃんの部屋のオルガンでいつか弾いてあげたいと思っている。オルガンで曲が聴けたらきっとおばあちゃんは喜ぶと思うから。だけど、それってまだおばあちゃんに言い出しづらいし出来てない。なんか恥ずかしいって思っちゃうんだ。きっとそんな感じのことなのかなって。」
そういえば祖母は目が見えないということを僕はコウキチにしただろうか。
そのあたりはよく覚えていなかった。
「おばあちゃんに聞かせてあげるために練習してるんだろ。自分でそう思うなら大丈夫じゃないか?」
「・・うん。そうだね。」
「タケシ、それはいいことなんだぞ。少なくともタケシは自分でおばあちゃんにオルガンを弾いてあげたら喜ぶんじゃないかって気づいたんだ。だったらそれをやればいい。それは優先席が一番喜ばれるのかって考えられない状態じゃなくって、ちゃんと自分で気づいた結果なんだから。それなら絶対やるべきだよ。」
コウキチの声が珍しく大きくなり、そしてなんだか何かすごい発見をしたように嬉しそうだった。そんなコウキチを見ていたら僕もなんだかすごいことを思いついたんだという不思議な実感が出てきてしまった。
「うん、うまく弾けるようになるか分からないけどやってみるよ。」
「そうだ。おばあちゃんに優しくしてやれよ。もうずっと昔からタケシが誰かにしてもらってきたこと、気にしてもらったことがたくさんある。きっとおばあちゃんからもだろう。それにおばあちゃんだっていろんな人に優しくしてもらってるし、だからこそ優しくしてあげている。タケシもな、そうしてあげなきゃな。」
「うん、そうだね。」
コウキチの言いたいことがその時は半分も分からなかったけど僕はたまらなく嬉しかった。
それはたぶん夏休みの目標とか宿題の意味が当時の自分なりにしっかり理解できたのがその時だったからだ。
いつかオルガンで祖母を喜ばせることが出来るようになったり、あるいは野菜中心の食事が好きになったりするかもしれない。
それらはみんな僕のこの夏の目標とか宿題とかなんだ。宿題は悲しい顔をなくすことだし、目標は笑顔をつくること、どっちだってそのうちメドはつくはずだ。
自分の目標も宿題もようやく何か分かったんだから後はもう心配ない。
その時期になって目標と宿題の意味が分かる自分も情けなかったが、とにかくは素晴らしい発見をコウキチは教えてくれたような気がした。
それからコウキチは一度飛ばした紙ヒコーキを拾いに斜面を降りていた。
ちょっと照れたような、いつもの感じだ。でも、それがひどく寂しそうに見える時もある。
コウキチの宿題ってなんなんだろう。
子ども心を取り戻したいという彼は、僕の宿題や目標のことまでもをうらやましく思っていたんだろうか。
当時の僕は、たぶんそんなことを考えていたように思う。
そして、そのすぐ後に僕はコウキチの宿題の意味を知ることになる。