七、雲の塔までの冒険
翌日にはアラジン山はあるべき夏の姿に戻っていた。
僕はプールが開くのとほぼ同時に更衣室に駆け込んで水の中へ飛び込む。
熱気に満ちた夏の空気感、プールの中までしっかり届く日差し、そんな中で自分の身体が水に包まれる幸せな感じは本当に久しぶりだ。
ひとしきり泳いだ後、プールサイドの金網越しにコウキチが図書館に入っていくのに気づいた。
それが重大な発見であるかのようにワクワクする自分がいる。
休憩時間二回分しっかりプール中を泳ぎ続けてその日に必要な練習量を十分したつもりになる。
それで水泳を切り上げると更衣室に戻ってコウキチの所へ向かった。
水泳も面白いが、なんだかコウキチと早く話をしたい気分になったからだ。
僕が着替え終えてプール場から出た時、コウキチは図書館の入り口に出ていてぼんやり空を見上げていた。
そして僕を見つけるといつもの調子で声をかけてくる。
「蒸気機関車の本を見つけたんだ。見てみるか。」
「うん。」
そうして僕たちはつれだって図書館に入った。
コウキチが見つけたのは子ども向けの書棚でなく専門書が並ぶ書棚にあったが、まわりの本と比べたら絵が多い本だ。
蒸気機関車の手入れの様子が図示してあって、それぞれの挿絵ごとに青いオーバーオールを着た運転手らしき人たちが描かれている。
地面から汽車をつたってその場所へ到達する方法や、整備のための道具なんかも細かく描き込まれていた。
「ここは登らなかったね。」
僕は運転席の奥側の地面から足をかけている絵を指して小声で言う。
「そうだな。」
閲覧室ではあまり話せないので本を持って僕たちは図書館の廊下に出た。
そうしてからようやくコウキチは声のボリュームをいつもの感じに戻して言う。
「こっち側から登るんじゃちょっとタケシの身長がまだ足りないかもしれないな。」
「うん、そうだねえ。ところでさ、昨日言ってた雲の本はあったの。」
「あ、あれか。ちょっと難しそうなんだよな。雨上がりの空は汚染物質が雨に流されて綺麗になるって書いてある本はあったけどさあ。それに雲の成長のしかたって複雑なんだよなあ。」
「・・・そう。」
僕が落胆したのを察したのかコウキチは別の提案をした。
「自然科学の基本は観察だ。今日の雲は成長しているのかちょっと見てみようぜ。」
それからコウキチと僕は丘の上の見晴らし台まで登ってみた。
その日は雲がすこし多かったが、白い印象的な雲は少なかった。
ちょっとぼんやりした雲が集まっている感じだ。
「ねえ、今日の雲ってあんまり元気じゃないね。」
「ああ、あんまり発達してないのかもな。白と下の方の影にメリハリがない。」
「うん、上側の雲と空の青の違いもはっきりしてないものね。」
「なるほど、そう言えばそうかもしれないな。」
成長した雲がなければ背が高くなるかどうかも分かりっこない。
しばらく僕はぼんやりしていた。
「雲がどこまで成長するかにはいくつかの条件があるらしい。雲自体がモクモクして発達中かってのはもちろんだけど、成長できる限界っていうのがその日の大気の温度によってあるんだ。だから雲がモクモク発達するかっていうのと別に、上空のどこまで昇ることが出来るのかという条件があって、あと水分が空に少なくてもダメだそうだ。そんな条件が絡み合っているからそれを絵にしても見ても随分と複雑なんだぜ。・・うーん、それくらいまでしかやっぱり分からなかったなあ。」
「そうなんだ。でもこうやって毎日見ていればきっと分かるようになるよ。」
「そうだな。そうかもしれないな。」
その日の雲はすこし風に流されているようで、左から右へわずかに動いているように見える。
「ねえ、雲ってどこから来るのかな。」
「どこからっていうか出たり消えたりするらしいぜ。」
「ふうん、そうなんだ。でもさ、雲の工場みたいなのがどこかにあってさ。そこから雲が出てたら面白いね。」
「そんなのがあるとしたらきっと山の上にあるんだろうな。」
「うん、きっとあんな感じだよ。白いエントツみたいなさ。」
僕はそう言ってすこし遠くの山の上の白い塔を指した。
前から目に止まって気になっていたものだ。
「へえ。そう思うのか?」
「うん。行ってみたいな。あそこ。」
その思いつきはすぐに僕の頭の中で動き出す。
あの塔から白い立派な雲が生まれて空を移動していく姿がイメージされて、僕はもうその思いつきに頭の中が占拠されてしまった。
「絶対そうだよね。ピッタリだもん。あんな塔が世界中に幾つくらいあるのかなあ。」
「雲ができる所だと決まったわけではないけどな。まあ、じゃあ、明日行ってみるか?」
「うん。」
そうして僕たちの新しい小さな冒険は簡単に決まった。
その頃には僕はコウキチをすこし年の離れた親戚のお兄さんみたいに感じていたし、コウキチもなぜか僕とは付き合わなくてはいけないと決めている節があった。
どれもこれも夏休みだったことに起因しているのは間違いない。
冒険当日、その朝僕はアラジン山へ向かわずに駅近くの本屋の前で立っていると、待ち合わせの時間通りにコウキチはやってきた。
「おはよう。」
「おはよう。自転車なの?」
コウキチはいつもの青い自転車に乗っていて、その時になってようやく僕はどうやってあの白い塔まで行くか決めていなかったことに気づく。
歩けばなんとかなるくらいの考えしかなかったが、実際は歩くにはちょっと遠すぎるかもしれない。
「この先の自転車屋、レンタルもやってるらしいんだ。お前の分はあそこで借りて行こうぜ。」
素晴らしいアイデア、僕は心の中で感嘆し、それから二人で近くの自転車屋に向かう。
コウキチは手際よく僕の分の自転車を借りてきてくれた。
僕の黄色の自転車はまだ新しいらしくコウキチのよりピカピカしていた。
「そっちの方が格好いいな。」
「うん。」
「でも、俺のだって悪くないんだぜ。よく手入れしてるからな。今日も油を差し直してきたし、空気圧もチェック済みだ。この自転車は今日はクルクルッてよく動くぜ。」
「それってどうやるの。」
「油差しとメーターつきの空気入れが必要だ。どっちも今日は持ってきてないけど、機会があったら今度教えてやるよ。じゃあ、行くか?」
「うん、行こう。」
青い空の下には生い茂る緑、夏の道路、黄色のピカピカ自転車と青色のクルクル自転車。
コウキチと僕は二台の自転車を並べて走り出した。
目的地はあの山の上、白い塔の正体を暴くのだ。すぐに小さな街の中心部を抜けて緩やかな坂道へと自転車を進める。
家の数が減り田畑がさらに目立ってきた。
熱気を感じるほどの濃い緑だ。街と川、駅から延々続く線路も見える。
このあたりは景色が良い。
山肌に映る雲の影。
そして影を落としている雲の全容も見渡すことができた。
浮かぶ雲はゆっくりと風に流されていて、その動きは雲そのものより雲の影の位置で比べた方がよく分かる。
「本当にこの道でいいの。」
「ああ、そのはずさ。」
見上げれば低い山の頭と空と雲、白い塔はまだ全然見えないが、この山を越えたまだ先にきっとあるんだろう。
僕たちは自転車で右へ左へと曲がる道を走る。
そこまで坂道はあまり急ではなかったが、しばらくすると道の曲がり方にはしっかりとした上下が加わるようになった。
舗装された歩道のない道路、車はあまり通らない。
「ねえ、水があるみたいだよ。」
「あれは逃げ水っていうんだ。かげろうだよ。」
「カゲロウ?」
コウキチがカゲロウと呼んだものはすこし先の坂が緩んだ所で路面の上に浮かんでいた。
水たまりのように見えたが、その場所に行くと路面は乾いている。そのくせ、またそのすこし先に新たな水たまりが登場していた。
だから逃げ水という呼び名はなんとなく分かったが、カゲロウとはどういうものなんだろう。
今までもカゲロウという単語は知っていたけど、その正体を僕は何一つ知らないことに気づいた。コウキチと付き合うようになってから図書館で調べなくてはいけないことが多くなったと思う。
それはコウキチはいろんなことをよく知っているし、分からないことは調べようとするからで、それってなんだかすごいことだと思う。
雲はどこで生まれるんだろう。
青い空にぽっかり浮かぶ雲は風に乗ってゆっくり動く。
きっと山の向こうあたりに雲の工場があるに違いない。
そうだ、きっとそうに違いない。
昨日の記憶、ペダルを漕ぎながらそれをなぞる。
雲を作り出す真っ白な塔、その様子を頭の中でイメージし直す。
それを繰り返すうちにイメージは確信に変わった。
まあ、暗示というやつだろう。
何度かカーブを繰り返していくといよいよ家屋はなくなり、むせ返るような緑は熱気に溢れもはや動物のように生命力を誇示し始めていた。
「ソ、ラ、ソ、ド。ソ、ラ、ソ。合ってる?」
僕はオルガンの練習を頭でしながらペダルを漕ぎ続けた。
今僕が覚えようとしているのはアマリリスだ。
「ソ、ラ、ソ、ド。ソ、ラ、ソ。ラ、ラ、ソ、ラ、ソファミレ、ミー、ド。」
「うん、たぶん合ってるんじゃないか。」
「ソ、ラ、ソ、ド。ソ、ラ、ソ。ラ、ラ、ソ、ラ、ソファミレド。」
「そんな感じだ。もうだいたい覚えてるじゃないか。」
「うん。最近寝る前に楽譜を見てるんだ。」
元気なうちはそんな会話をして坂道を上がっていった。
しかし、坂道はいつまで経っても終わりがなく、だんだんとペダルの重さが増していく。
アマリリスの曲は頭の中で続いていたが、じつはそれは二ページ目の半分くらいまで。
その先の音符はまだ全然覚えていない。
でも、僕がアマリリスを声に出さなくなったのは後半の音符が浮かばないからではなく、単純に体力の余裕がなくなってきたからだ。
自転車を引いて歩き出そうかと躊躇しながらコウキチを見るとコウキチも無言でペダルを漕いでいた。
コウキチが歩き出すまでは、もうすこし頑張ってみようか、よろめくような速さになりながらもまだ自転車にまたがってペダルを左右順番に踏み込み続けた。
僕は頭の中でひたすらアマリリスの半分を繰り返していた。
・・ソ、ラ、ソ、ド、最初はもう覚えた。
・・ラ、ラ、ソ、ラ、ここもオウケイ。
・・ソファミレ、ミー、ド、そこも覚えた。
その次の・・ソファミレド、そう、ここも大丈夫。
その次は、・・・ミだ、・・ミ、ミ、ミ、ミ、ミ、ミ。
ミを何度繰り返すんだっけ。
その後は・・ミ、ミ、ミ、なんだっけ。
斜度を増した道路にはもう逃げ水は見えなかった。
本当にどこか僕の手の届かない所まで逃げてしまったんだろう。
あの時はすぐにたどり着けると思っていた、あの坂道の先。その時も目の前には坂道だけが残っていて、気がつくとその先には青く輝く空があった。
逃げ水はなくなっても僕たちはその先に行けば空に飛び出せるに違いない。
吸い込まれそうな青い空、飛び乗れそうな白い低い雲、僕たちはまるでその景色を独り占めしているように思えた。
「あれじゃないか。」
「そうだね。真っ白だ。」
意地を張る力よりも体力の消耗が上回ってコウキチと僕が自転車を引いて三十分ほど、目的の建物は突然目の前に現れた。
すこし前から見えていたのかもしれないが、僕たちにはすぐに気づくほどの余裕がすでになかった。
飲み物をコウキチが二人分用意しておいてくれなかったら、きっと僕は真夏の暑さに干上がってしまっていたはずだ。
もはや山と空と道路しかない所、山の頂上のすこし手前のなだらかな斜面に塔はあった。
僕たちは青と黄色の自転車を草原に乗り入れて、白い塔に向かって歩き出す。
「本当にここで雲ができてんのか。まあ、そういう風に見えなくもないが。」
「じゃなきゃこの建物はなんなのさ。」
観察しながらゆっくり歩いても、塔のまわりを一周するのには五分もかからなかった。
入り口らしきものが一つあったが、ドアには鍵がかかっている。
そこには何かの機関の名前やそのほかにも細かな漢字だらけの文字が入った表が書いてあったが、その機関の役割は僕には分からない。
「電波系のものみたいだな。」
コウキチはそうつぶやいたが、それ以上のことはコウキチでも読み取れないようだ。
「ねえ、図書館に戻ったら何か分かるかな。」
「さあ、どうだろうな。国や県の施設だったら、たいした資料はないだろうし。」
その扉には窓はなかったが、隙間から何か見えないものかと僕は必死にドアにかじりついて中を覗きこもうとした。
「おーい、ここから見てみなよ。」
すこし遠くからコウキチの声がしたので僕は振り返る。コウキチはさっきまでの場所にいなかった。
「こっちこっち。」
低い所から声がした。僕は声の出元を確認しようと目をやるとコウキチは塔の方に頭を向けて近くの芝生で寝っころがっていた。
「ねえ、なにしてるの?」
「こうして塔を見上げてみろよ。」
僕はわけも分からずにコウキチの隣に寝っころがった。
「ちょっと落ち着くだろ。」
「うーん。」
自転車でここまで来るのに相当体力を使っていたし、まだ汗はひいていない。
頬に当たる風は緑の匂いをはらんでいてとても心地良かった。
視界には空と白い塔の頂きだけが広がっていて、塔の先を雲が横切るのが見える。
「塔の先から雲が出てきたみたいじゃないか。」
視界の上の端からのびる白い塔、雲は視界の上から下へ流れている。
確かに白い塔の先端から雲が生まれてきたように見えた。
「ようはものの見かたなんだろうな。ここから見てる限り、タケシの言ってたことは正しいんだと思うよ。」
「うん。」
それからしばらく僕たちは空の雲と白い塔を眺めていた。
ひょっとしたらすこしの間、僕たちはそこで寝ていたかもしれない。
曖昧な記憶がしばらく続いた後、ふいにボンヤリとしていた意識が戻る。
誰かと目が合ったような気がしたのでわきの緑を見てみるがそこには優しい緑がいるだけ。
一瞬、僕には緑色の服を着た友達がそこにいたような気がしたのだ。
「あのさあ、こういう話って信じる?」
「・・なんだい?」
その時、コウキチの声は確か半分寝ぼけていた。
「山とか田んぼとかでだけ現れる緑色の友達がいてさ。その友達は目に見える緑色の所からしか顔を出さない。そして緑色から緑色にどんどんジャンプしてさ、僕に手を振るんだ。電車から見てても上手に緑から緑へ渡ってついてくるんだよ。」
「へえ。」
「そいつさ、手を振っていろいろ話しかけてくるんだけどいまだに僕はうまく会話できない。なのにあいつは僕のことはとってもよく知ってるんだ。僕はそいつのこと、全然知らないのにね。なんだか不思議なんだ。」
「ふうん、ひょっとしたら俺も小さい頃、会ったことのある人なのかもしれないな。」
「え、なんで? そうなの。」
「小さい頃、山の中とか、木とかしかない所に一人でも晴れてたら全然怖くなかった。緑の中に一人でいても一人の気がしないんだ。」
「そうなの。」
「それにさ。」
「え、なに。」
ここでコウキチはすこし言葉を切ってなぜだかすこし笑った。
「ひょっとしたら俺も今その友達の声を聞いたような気がする。」
「えっ? どんな。」
「ソラソド、ソラソって声が今聞こえてたから。」
「へえ、コウキチが聞いたんならそうかもしれないな。やっぱりあいつは今、僕がアマリリスの練習をしていることを知っているんだ。」
白い塔のたもとでコウキチが持ってきたおにぎりを食べて、僕たちはそろそろ帰ることにした。
帰るとなった途端、コウキチは下り坂のブレーキのかけかたをしつこく説明してくる。
「いいか左の後ろブレーキを必ずかけておいて、右の前ブレーキでスピードを調節するんだ。前ブレーキを強くするなら、それに合わせて後ろブレーキも強くする。前を弱くするなら後ろも弱く、そうしないと転んで大怪我だぞ。この道は車ほとんど通ってないけど、転んだ時に運悪くトラックなんかが近づいてきたら大事故。だから休み休み行く、いいな。」
「うん、分かっているよ。」
「でも、ブレーキをかけっぱなしじゃダメだ。スピードが落ちている時はすこし緩めてやる。それを繰り返して絶対に無理はしない。」
コウキチがずいぶんと真剣な顔なので僕は不思議に思って聞く。
「なんでそんなに怖く言うの?」
「それはそれだけ危険だからだ。蒸気機関車の時に言ったろ。なんでルールがあるのか考えろって。ブレーキをしっかりかけなきゃいけない、守らなきゃいけないルールだ。それにこの下り坂の責任は俺にある。だからちゃんと言うこと聞いてくれ。いいな。」
「うん、分かっているよ。」
そして何分か行くごとにコウキチは自転車を止めて、下から僕の自転車の動向を見守った。
それを繰り返しながら苦労して上った坂を呆気ないほど簡単に降りていく。
遠くにあった街並みがずいぶんと近づいてきた。
両側は相変わらずの濃い緑で一直線の坂道だ。斜度の緩くなった先も見通しがいい。
「ここは安全そうだな。じゃあ、すこし長い距離を行ってみるか。」
何度目かの休みをとった後、その坂道の始まりの所でコウキチは言った。
「この道、ちょっと長いね。」
「いいか、一気に行くぞ。無理に急ブレーキをするなよ。」
そうしてコウキチはすました顔をしてまた自転車にまたがる。
「すこし遅れてついて来いよ。」
そう言うとコウキチは一気に坂を駆け下りた。
今までのようにブレーキはあまり使わない。
コウキチと青い自転車はあっという間に豆つぶみたいに小さくなって夏の景色になっていく。
「ウォーーー。」
コウキチの変な声が夏の空気に溶け込んだ。僕もすぐにそれを見習って自転車に乗る。
「ウァーーーアーー。」
コウキチと僕は奇声をあげて長い下り坂を駆け抜けた。
どこまでブレーキをかけずに進めるか、そんな高揚した気持ち。それはとびきりの夏の風景のうちの一枚になった。