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五、タイミングの悪い週末

 次の日は土曜日で、伯父の発案によりスミエさんと三人で連れだってマレットゴルフをすることになった。

 伯父にしたらボードゲームがわりに考えた末の提案だったのかもしれない。

 一方の僕はといえば、すでにボードゲームよりずっとアラジン山の方が気になっていたのだが無下に断るわけにもいかなかった。


 その日はあいにくの天気だった。

 朝から曇り空が広がっていて、その曖昧な空の色が僕をすこし憂鬱にさせる。

 この街に来て今まで青空を見ない日はなかったこともあるし、なにより曇り空でのプールというのはなんだか格好がつかないからだ。

 その日、僕は午後からアラジン山へ行くつもりだった。

「マレットゴルフっていうのは信州発祥なんだよ。山ばかりの所でやるのにいいスポーツなんだ。まあ、スポーツと言ってもワシらみたいな年寄りでもできるもんだがね。」

 僕はその時までマレットゴルフというのをやったことはなかった。

「どうやるの?」

「パターゴルフみたいなものだよ。スティックでボールをたたくんだ。」

「パターゴルフってやったことない。」

 伯父は自慢の道具を見せてくれた。棒の先に小さな丸太がついていて、なんだか細身の木槌みたいな形だ。

「山の中でやるから気分がいいんだよ。」

 伯父の講釈をすこし聞いて、それから伯父が仲間とよく行くというマレットゴルフ場に三人で向かった。

 車で二十分くらいの所にある県道わきの山肌に広がる施設だ。

 単なる山としか思えない公園の入り口には丸太でできた小屋と看板、それに駐車場があるだけだ。

 駐車場の先には里山があるようにしか見えなかったが、どうやらそこがマレットゴルフ専用の公園ということらしかった。

 車を降りて空を見上げると相変わらずの曇り空、ポツポツとした雨さえ頬のあたりに感じられた。

「まだ空はずいぶん明るいし、半日くらいはもちそうだな。」

「そうねー。おばあちゃんも今日は雨だけど、すぐは降りそうにないって。」

 伯父とスミエさんはそう会話していたが、僕にはこの先の天気は全く予想がつかない。白と灰色が混ざった空の色、それは立ち読みしていた本に載っていただろうか。

 伯父もスミエさんも空を見てこの先の天気を感じとっているようだが、そのやりかたが全く僕には分からなかった。

 伯母の家ではその日の天気を最も把握しているのは祖母ということになっていて、伯母もスミエさんもその日の天気を祖母に聞いているようだ。

 目の見えない祖母は一体どうやって天気を予知しているんだろう。

 図書館によくこもっているコウキチなら天気の本も読んでいるだろうから何か知ってるのかもしれない、そう思ったらまたアラジン山のことを思い出してしまった。


 道具持参の伯父を除き、スミエさんと僕はレンタルで道具を手に入れた。

 受付を済ますとスコアを書く小さな紙と筆記用具をもらい、いよいよスタートだ。

 伯父の道具を見た時にマレットゴルフとはキコリがやるゴルフのようなものかと思ったのだが、そのイメージはそれほど間違ってはいなかった。

 ルールは簡単でスティックと呼ばれる木槌状の棒を使って目標の旗を目指して山道からボールを打つ。

 旗の下には大きめの穴があって、そこに入れればそのホールは終了。打数の少ない人が勝ちというものだ。

 ただ、まわりの自然の木や茂み、それに斜面が脈絡なく現れるのでそう単純なゲームではないらしい。

 伯父の言葉を借りればどういうルートで進むか、臨機応変な作戦づくりが上達のポイントだそうだ。


 僕たちは木々の間を行き来しつつスティックでボールを飛ばす。

 マレットゴルフは多少の腕前の差があっても成り立つゲームだった。

 一つのコースはあまり広くなく一息で走れるくらい。

 初心者が失敗してもすぐ打ち直せるので時間のロスがあまりない。

 それに打ち損じるたびに近くで順番待ちの伯父が指導をしてくれた。

 僕のように目的の場所までうまく転がせないというのは論外にしても、伯父のスコアはゆうに平均を上回っていて、余裕のある立ち振る舞いや、思いもつかない攻略法などを総合すると伯父はなかなかの腕前と言っていいだろう。

「定年になったら毎日これをやろうと思っている。」

 伯父は冗談半分に笑ってみせたがたぶんそれは本気のことだ。

 穏やかな伯父が老後に穏やかに毎日キコリのゴルフをして人生を終えるなら、本当に穏やかなままなのだなと思った。


 コースを回ってゲームが終了したのはお昼すぎ。最終スコアは比べるまでもなかった。

 多い順で言えば、僕、スミエさん、伯父の順だが成績はその逆だ。

 最終ホールの頃には空がすこし暗くなった感じがしていて、再び車に乗り込んだ時にはポツポツとした雨は数えられないくらいまで増えてきた。

「運転するか?」

 駐車場で伯父はスミエさんにカギを見せて言った。

「いいの? 大丈夫かな。」

「オートマだからな。」

「でも、私のより大きいから。幼稚園のも小さいし。」

 伯父は自分の車の運転を免許取りたてのスミエさんと替わった。

 行きは自分で運転していたのだが、マレットゴルフで一人大勝してすこし気が大きくなっていたのかもしれない。帰りの車中は伯父が先生役を務める運転とマレットゴルフの勉強会になっていた。


 家に戻ると伯母がタオル類を受け取りかわりに三人分のお茶を出してくれた。

 伯母は何度かマレットゴルフをしたことがあるが、ずいぶん前から上達はあきらめているそうで今日は留守番をしていた。

「あー、しっかり降りだしたわよ。ちょうど良かったね。」

 食卓でスミエさんが外の様子を窓から覗き込んで口にする。

 さすが楽天的な家族の一員で物事を良い方向に捉える。

 僕の家族であれば『晴れている日に行った方が良かった』などとぼやくところだ。

 マレットゴルフ中に降り出さなかったのは良かったが、雨が止まなければ午後からの僕の予定は狂ってしまう。

「これからアラジン山に行こうと思ったのにな。」

「雨だよ。今日は無理じゃない。お友達だって来てないわよ。」

 僕とコウキチが並んで歩いていた話はしっかり伯母たちにも伝わっていた。

 幼稚園の園長先生の知り合いというだけで、なぜだか伯母たちは会ったことのないコウキチを信用している様子だった。

「そうだな。おじさんと人生ゲームでもするか?」

「いいよ、別に。」

「どうした遠慮して。この前までは何度も誘ってくれたじゃないか。」

「いや、別に理由はないけど。」

「このところ毎日プールに行ってるし、今日もゴルフしたんじゃ午後はうちで何もせずにのんびりしてた方がいいんじゃない。」

 僕に気を使ってか、伯父に気を使ってか分からないが伯母がそう言うと、女性陣のチームワークなのだろうかスミエさんが口を開く。

「タケちゃん、お昼終わったら私の部屋に行きましょうよ。好きそうな本を選んであげるわ。」

「うーん、そうだね。雨が止まなかったらね。」



 結局その日の午後はスミエさんの部屋で本の話をしたり、雑誌を読んだりして過ごした。

「どのお話が面白かった?」

 この前読み終えたショートショートの感想をスミエさんが聞いたので、その本の目次を眺めながら僕はいくつかタイトルを挙げた。

「エスエフみたいなのよりもっと大人っぽい本の方がいいかもね。」

「じゃあ、今度はそういうの貸してよ。」

 スミエさんの部屋には大きな本棚が二つもあって、そこにいくつもの文庫本が並べてある。

 その本の森の案内人は目下スミエさんしか出来ないことだ。

「推理小説とかかな。でも男の子はハードボイルドなんかいいかもしれないわ。」

「なんだか難しそう。」

「まあ、そうね。難しくなさそうなのを探してみるわよ。」

 スミエさんが本棚から選び出した本をパラパラとめくり、僕は借りる本を選り好みしながら雨が止むのを待っていた。

「ねえ、ユウコちゃんは帰って来ないの。」

 僕はスミエさんの妹のことを聞いてみる。

 去年この街に来た時はよくユウコさんに遊んでもらったが、この夏はまだ顔を合わせていなかった。

「サークルか何かの活動が忙しいみたいよ。戻ってくるのは八月の最後の週だって。」

「ふうん。」

 時間を持て余した午後、その時に僕はスミエさんにこの前から聞きたかったことがあったのを思い出した。

「ねえ、コウキチってどんな人なの?」

「コウキチ?」

「この前、車で幼稚園の買い出ししている時に会った人。」

「ああ、岡田さんの息子さんね。うちの幼稚園の園長先生と岡田さんが仲良しでね、二人とも幼稚園の経営をしてて。そこの息子なら保父さんの勉強もした方がいいって、できれば親元じゃない環境の方がいいだろうってことで一緒に働く予定だったのよ。」

「コウキチが子どもの相手か。向いてるような気もするけど。」

「私もそう思ったわ。ただ、子どもと一緒になって遊び過ぎて、ケジメがつかない先生になりそうだったかな。」

「そういえばそうかもね。」

 スミエさんのイメージは僕の中にいるコウスケの様子とほぼ一致する。

「岡田さんところは息子さんが二人いてね。長男は今、経営とかに参加しているみたいだけど、次男のコウキチさんは結局あんまりやりたくないって違う道に進んだらしいの。」

「今の会社で働くのが向いているのか分からないけど、まあ楽しそうだよ。」

「本当は一人でのびのびやりたいって言っていたわ。まあ、たいていのことは楽しくやれる人なんじゃない。根が明るいから。」

「スミエちゃんと仲良かったんだ?」

 スミエさんがやたらと笑顔になるので僕が何気なくそう言うとひどくスミエさんは慌てて言った。

「別にそうでもなかったわよ。もうずっと会ってなかったしね。」

 その時、たぶんスミエさんはすこし照れていたんだと思う。

 でも、その頬がすこし赤くなったと思ったのは窓からは夕日が差してきたからだった。

 やっと雨が止んだようで、窓の外をよく見ると雲の隙間から夕日がわずかに射していて、オレンジ色と黒が混在しているような空があった。

 この空を見てコウキチなら何が分かるんだろうか、そんなことがまた脳裏をよぎる。



 日曜日の朝、暑い真夏の空を期待して僕は早起きし過ぎたのだが、空は元気を削ぐような灰色だった。

 ただ、まだアラジン山のプールも図書館も開くまでに時間がある。

 午前のうちに天気が回復してくれることを願うしかなかった。

 目が覚めてしまったのでとりあえず着替えて部屋を出ると、家で一番早起きの祖母はもうお茶を飲んでいた。

「あ、おはよう。」

 祖母を見たら僕はすぐに声をかける。

 突然暗闇から物音がしてそれが何か分からなければ不安になるだろう。だから僕はいつもそうしていた。

「あら、タケちゃん。」

「うん、僕だよ。」

 祖母の声は穏やかで僕はまたそれで安心する。

「早いわね。」

「うん。」

「ごはん食べる? おばあちゃんがつくってあげようか。」

 祖母はできるだけ自分のことは自分でやりたい性質で、朝食も一人だけで用意して食べることが多かった。

 目が見えないから余計に祖母は他人の世話になりたくないと思っている、そんな気もした。

「うん、ありがとう。」

僕のご飯はだいたい伯母が用意してくれるのだが、たまに祖母がソウメンなんかをご馳走してくれることがある。

 このあたりは祖母と伯母の二人で事前に分担を決めているようだ。

「何つくってるの。」

「ご飯とお味噌汁よ。あとはお漬物と昨日の煮物と、あとは何かしら。」

 祖母の出してくれる食事も肉類や揚げ物はほとんど出なかったが、まだサラダの登場回数は少なめだ。

 僕はしばらく祖母の台所仕事をぼんやり眺めていた。

 ゆっくりだが丁寧で間違いが少ない、そんな感じの所作だった。

 そろりそろりと手を動かして目的のものを確認してようやくしっかりと道具や食材を手にする。

 そうしてまたそろそろと手を動かす、それでも料理は気がつけば出来上がっている。

 数年前まで祖父の食事も必ず祖母が用意していたそうだ。


 その朝は料理を運ぶ役目を祖母に頼まれた。

 自分のことはなるべく自分でやる習慣をつけておく、だから自分の食事の用意は自分も手伝う。

 このあたりは祖母が母へ教えたことで、母が僕によく言うことと似ていた。

 だけど、母に言われるより自然に受け入れられるのはなんでなんだろう。

 お箸を手前の真ん中にして手で持つ方を右にして置く。

 次にご飯を左、お味噌汁を右に並べる。

 三段目には煮物や卵焼きやお漬物、少しの量でも必ず別々の入れ物に入れておく。

 食べ物を並べる順番は祖母が何度も教えてくれた。

 それをしないと祖母は毎回食卓の配列を覚え直さなくてはいけないからだ。

 僕は祖母のためにお茶碗やお椀、いくつかの小鉢たちを慎重にきちんと並べて食卓を完成させた。

「食べ終わったら、おばちゃんに言っておいてね。朝ごはん余計につくらないように。」

「うん、分かったよ。」

「今日もお天気よくないみたいね。夕方には雨らしいわ。にわか雨とかじゃなくてしっかり降るみたいだからあいにくね。」

「そうなんだ。プール行けるかな。」

 ともかくも昨日のような天気は勘弁してほしかった。

「どうかしら。まあ晴れて暑いことはなさそうね。」

 祖母は明確に否定はしなかったが、少なくともプール日和ではなさそうだ。

「ところで、タケちゃん。ちょっとお願いがあるんだけど。」

「うん、いいよ。」

 その瞬間僕はいろんなことを考えてしまってから、内容を聞く前に返事をした。

 祖母は物事を自分で片付けようとする人なので頼みごとをすることは極めて少ない。小学生の僕への頼みごととなると、あるとすれば自分の食事の準備の手伝いとか、しつけ的なことばかりだ。

 だから祖母に頼まれたとあっては僕は断るわけはなかった。

 ひょっとしたら困っていることがあって、それを頼むタイミングが今までなかったのかもと思うとすこし切なくなる。

 そういえばアラジン山通いをするようになってから祖母と過ごす時間がめっきり減っていたから、すこし自分に後ろめたさがあったのかもしれない。

「裏にね。生ゴミを捨てる穴を掘ってほしいのよ。この前、一郎おじさんが掘ってくれたのはもういっぱいになっちゃってね。」

「どうやって掘るの?」

「大きいシャベルがあるわ。タケちゃんもずいぶん大きくなったしもう使えるわよ。」

「面白そうだね。」

 どのみちアラジン山が開くまでの僕はヒマ人だ。

 母屋へちょっと寄った後にすぐ開始したが、穴堀りは一時間もかからずにあっけなく終わった。

 祖母に報告して、できたばかりの穴に生ゴミを入れればそれでおしまい。

 どうやら今日はかなり早起きし過ぎたようで、それでもまだ時間には余裕があった。

 空の様子は相変わらず灰色、いや太陽が昇っているはずなのにむしろ暗さが増しているように思えた。

 もう一度空に願いをかけた後、手を洗いながら祖母に追加の用事を聞く。

「ほかにすることない?」

「そうねえ・・。」

 祖母は考え込みながらもすこし嬉しそうだった。

 そういう祖母を見ると僕も嬉しくなる。

 ただ問題はその頃の僕は誰かが喜ぶというのをひどく瞬間的な行動でしか感じていなかったことだ。

「おじいちゃんのものの整理が終わってないのよ。良ければそれをやってもらおうかしら。」

 祖父が他界してからすこし経つし、僕がさらに幼い頃のことなのであまり祖父のことを覚えていない。

 母に言わせるとずいぶんと怖い人で、褒められたり優しくしてもらった記憶はないらしい。

 伯母と母の会話によれば、祖母は祖父が亡くなった後もなかなか祖父の部屋を片付けようとせずにいて、それには祖母の心の整理がつくまでという意味もあるらしかった。

 祖父の部屋は今も生前と同様にあって、それは僕が今寝起きしている部屋の隣だ。

 僕には『おじいちゃんのものの整理』というのが何を意味するのか分からなかったので具体的に聞いてみる。

「部屋を掃除すればいいの?」

「掃除はおばあちゃんがするからいいんだけど、本とかね、紙のものがいっぱいあるんだけど分類ができないから、どれをとっておいて、どれを捨てていいか分からないのよ。古本屋さんに引き取ってもらえるものもあると思うし。」

 祖母が部屋の整理をすこしずつ始めようという気持ちになったのはたぶんいい傾向なのだろうが、その手伝いは小学生の僕にはすこし難しいことに思えた。

「何を捨てていいか分からないよ。」

「分からなければ聞いてね。中身をよく確かめて教えてくれればいいから。」

 そう言うと祖母は台所へ行く。

 祖母はたぶん台所にあるものと同じように祖父の部屋のどんな形のものがどこにあるか完全に覚えているはずだ。

 そしてその場所にいる限り、祖母は視力のいい主婦よりもよっぽど手際がいい。

 だから僕に頼みたいこととは、祖母が形だけでは分からないものを見てそれを祖母の言う通り分類するということらしかった。


 僕はいつも寝ている部屋の隣、すこしホコリっぽい祖父の部屋に入る。

 祖母の言う紙類は何カ所かに積まれていて押入れにも存在していた。

 最初に分かりやすいものから手をつける。

 祖父の生前の趣味は書道で自分で雅号をつけて色紙や掛け軸に昔の漢詩や自作の詩を書いては悦に入っていたそうだ。そのせいか部屋の中には書道に関する本が圧倒的に多い。

「難しそうな本は全部一つにまとめておけばいいんだよね。」

「書道と囲碁の本はそうしておいて。」

「新聞も一緒?」

「いつの新聞かしら。印とか切り抜きとかある?」

「ええと、ちょっと待って。」

 台所と祖父の部屋を何度も往復する。

 そうしているうちに僕にはだんだんと祖母の真意が分かってきた。

 本当は祖母は整理を自分でゆっくり入念にやりたいのだ。

 その証拠に本や新聞の分類が終わった後も祖父がつけた目印や大切にしていたものとかで何か分かることがないかを考えているようだった。

 ただ一人ではそれができないので一つ一つきちんと把握してから整理するための目の役を僕に頼んだというわけなのだろう。


 すこしずつではあったが、部屋の整理は着実に進んでいった。

 昔の本は古本屋に持っていく。

 昔の雑誌も処分する方にまとめておく。何も書いていないノートの切れ端は一旦祖父の机の上に重ねておく。

 紙というだけが共通で仕分けするとなれば意外と手こずったが、結局要らないものが多かった。


 時間がかかったのは祖母が何であるのか想像できないもの、つまりは生前の祖父が祖母にあまり話さなかったものだ。

 書きかけのノートの読める所だけ探して声に出したり、色や模様を詳しく説明したりとこれも意外に時間がかかる。

 そして中には祖父のものでないものも紛れ込んでいた。

「おばあちゃん、子ども用の古い楽譜は?」

 その日、何十度目かの台所訪問、僕は薄くなったカラー冊子を手にしていた。

「どんなの?」

「子どもの字でドとかミとか書いてある。昔は青だったのかな。表紙はまわりが薄い青でまんなかにウサギの親子がいるやつ。」

 そして僕は冊子を手渡した。祖母は冊子の縁を持って一周させて大きさと形を確認すると、それから手で表面を触って質感から思い出そうとした。

「ああ、ユウコちゃんの子どもの時のね。おじいちゃんの部屋で練習してたから。」

「ふうん。これどうする?」

「楽譜の本はどのくらいあるの?」

「それとあとあっちに二、三冊あるよ。」

 そう言って僕は祖父の部屋を指差す。見えていないと分かっていてもなぜだか僕はたまにそうしてしまう。

「もうユウコちゃんもオルガン弾かなくなっちゃったし、捨てていいわよ。」

 その時、祖母の声はすこし寂しそうにも思えた。

 祖父の部屋に戻ってからも僕はなんだかそれが気になって、楽譜が大きくて見やすそうな一冊だけ捨てるものとは別にして置いておくことにした。

 それを読んだらひょっとしたら僕もオルガンが上手に弾けるようになるかもしれない、その頃の僕にありがちな短絡的な思いだった。


 そんなことをしているうちにいつのまにかお昼の時間になっていた。

 お昼も祖母と二人で食べたのだが、その時には外ではまた雨がポツポツと雨が降り出していた。

 祖母によれば、朝の段階よりも空の状況は悪くなっていて、午後はもっとしっかり降るらしい。

 今日もアラジン山行きは絶望的だ。


 祖父の部屋の片付けが中途半端だったので結局午後も僕はそれを続けた。

 床や下の押入れに入っていたものはだいたい整理が済んだ。

 オルガンのイスを持ってきてさらに上の押入れの奥や見える範囲の戸袋の奥を探す。

 紙類以外のものも祖母に都度報告する。

 さすがに押入れの奥は祖母の記憶の力が及んでいないものが多かった。

「おばあちゃん、おじいちゃんの昔の日記みたいなのはどうする?」

「そんなものあったのかねえ。いつのかしら。」

 僕は最初のページの日付を告げた。万年筆で崩し字なのでたぶんなのだが。

「それは今こっちへちょうだい。」

 僕はその日記を祖母に手渡した。

「おじいちゃん、日記つけてたの。」

「たぶんこの頃だけだと思うわ。」

 それ以上、祖母は何も言わなかった。

 その後は祖父の日記は発見できず、祖母の予想通り部屋に残っていたのは、わずかその一冊だけだった。



 気がつけば夕方。

 その日は結局アラジン山へ行くことが出来なかったが、祖父の部屋の整理はなんとか終えることができた。

 部屋の整理が終わったら点字の練習に祖母が付き合ってもらおうかと思っていたのだが、なんとなくそんな気も失せて伯母の家ですこし休んだ。

 こういう時、伯母がお茶をすぐ出してくれることがすごくありがたい。

「ねえ、この本ってユウコちゃんの?」

 僕は祖父の部屋から持っていた楽譜の本を伯母に見せた。

 すこしの間、伯母はその本を眺めていたが、すぐに思い出したようだ。

「ああ、ユウコが小さい頃に使ってたやつね。結局簡単なのを何曲か覚えておしまいだったけど。」

「ふうん、おじいちゃんの部屋にあったんだけどもう要らないかな。」

「もう要らないわよ。本人も覚えていないんじゃない。でも、なんでおじいちゃんの所にあったのかしら。おじいちゃんが練習していた時に使ったのかな。」

「え、おじいちゃんの趣味って書道と囲碁じゃなかったの? オルガンなんかやってたんだ。」

「なんだか一時音楽に凝ってたわ。おばあちゃんの所にあるオルガン、ある日、突然おじいちゃんが買ってきたのよ。それきり当分誰も使わなかったかったけどね。スミエとユウコがすこし大きくなったら二人にもこんな本を買ってやったりしてね。」

「ふうん。」

「ユウコはスミエに対抗意識を燃やして一時期まじめに練習してたわ。おばあちゃんに聞かせてあげるんだって意気込んでた時期があったけど。まあ昔から飽きっぽいから。」

 結局、オルガンはスミエさんの方が上手なままで終わったようだ。

「ふうん、僕には難しそうだな。」

「練習しなきゃいけないわよね。」

 それからしばらくその本を眺めていた。

 楽譜を見てもとてもそんな風に指が動かせるとは思えなかったが、僕は気まぐれにページをめくる。

 音符がなんとなく美しくて親しみやすそうに見えたのは『アマリリス』という曲だ。楽譜が滑らかに上下していて繰り返しが多くて、なんだか面白そうに思えた。

 僕でも一冊くらい弾けるようにならないのだろうか。そんなことを考えていたらスミエさんが帰ってきた。

「ねえ、この曲弾ける?」

「そうねえ、幼稚園でやっているから弾けることは弾けるけど。」

 夕ごはんの後にスミエさんは自分の部屋から電子ピアノを持ってきてアマリリスを弾いてくれた。

 僕がスミエさんのように音楽が出来たなら、そうしたら何曲か祖母に聞かせてあげたいな、そんなことをぼんやり考えながらスミエさんのアマリリスを聞いていた。

「今夜は雨だから、すこしぐらい音を大きくしても大丈夫ね。」

 その伯母の言葉で、夜になっても雨がまだ降っていることに気がついた。

 その週末、結局雨が続いてしまった。


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