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四、僕の荷物と彼の荷物

 僕がアラジン山通いをはじめて三日目。

 プールで目一杯泳いだ後に図書館のまわりを探したが、午後になってもコウキチは見つからなかった。

 しかたないので売店でパンを買って一人で食べる。

 それから僕は特にすることがなく、入り口近くの池に面した日陰のベンチで時間を過ごすことにした。

 従姉のスミエさんが貸してくれた本を持ち歩いていたので、その場所で昨日の夜の続きを読む。

 僕が毎晩寝ている部屋にはテレビやゲームなんかはもちろんなく、夜は本を読むくらいしかすることはない。

 だから毎晩スミエさんの貸してくれる本だけが娯楽だった。

 スミエさんが今までまともに小説を読んだことのない僕のために厳選してくれた本たち、それは新たな、そして楽しい遊び相手だ。

「ショートショートって言うの。短いお話がいくつも入っている本よ。面白くなかったら読み飛ばして次のお話読めばいいから。試しに読んでごらんなさいよ。」

 彼女にとっては見立てた本を貸すということが、ボードゲームの相手を務めることよりもずっと誠実なことのようだった。

 スミエさんが貸してくれたのはすこし不思議な本で、本当に五分くらいで読める短いお話が集まったものだ。

 宇宙の話、魔法の話、気持ちの話、、内容は確かに脈絡なくそれでいて共通する何か不思議感があった。

 すごく面白いというわけではなかったが、本の描写に出てくる夜の酒場の雰囲気とか、研究所でやっていることとか、すこし大人の世界が覗き見えるような気もして、次々と現れるお話の世界はなかなかに飽きることはなかった。

 そんな風にして、僕は気持ちの良い風の吹く水辺でその日の午後を過ごした。



 夕方になり、一旦家へ戻った僕はそれから駅前へ向かう。

 昨日からプールから戻ると駅前を散歩して最後に曲がり角にある本屋に入るのを習慣にしていた。

 夕方の時間は伯母も祖母も特に忙しそうだから、なんとなく家にいるより落ち着くからだ。

 本屋さんで立ち読みすることの楽しみを覚えたのはこの夏だ。

 スミエさんが教えてくれた作家を探してみたり、よっぽど暇でなければ見ようと思うことのない山や空の写真集を眺めたり、あとは意味がほとんど分からない科学入門の本を読んだりして、そうしてのんびりとした時を過ごすのだ。

 その日の僕は写真集でセキランウンの成長する見本を眺めていた。


 そんな夕暮れどき、本屋に一人ワイシャツ姿の男が入ってくる。

 僕は最初見過ごした。だけど何かが気になってもう一度本から目を移すとその顔が誰かを知る。

「コウキチじゃん。」

 その言葉に反応してコウキチは手を挙げた。

 だけど目の光がアラジン山で見かける時よりも弱々しい。すこし疲れている感じだ。

「なんなのその格好。」

「ああ、本屋では静かにしろよ。」

 この頃からなんとなくは分かっていたことだが、コウキチは変な所で厳格だ。

 図書館や本屋では静かにするとか、ゴミ箱のそばのゴミを見つけたらきちんとゴミ箱に入れ直すとか、そういうこと。

 アラジン山のプールで半日過ごしている僕に何も言わないくせに、食堂で蕎麦を食べる時には箸の持ち方をやたら指導された。

 ふつうの大人は勉強をちゃんとやることとか、好き嫌いをなくすことをまず注意するはずだ。

 しかし、コウキチからはそういう話はなくて、むしろ年寄りくさい注意事項が多い。

 コウキチがキチンとしないといけないと指摘することはだいたいが他の人に迷惑をかけないこととか、昔から誰かがきちんと守ってきたことを引き継ぐこととか、どうもそんな場合に限られているような気がする。


 本屋の中ではあまり話は出来ないので、コウキチと僕は店の外に出た。

 外の自販機でコウキチはペットボトルの飲み物を二つ買って、その一つを僕に手渡してくれる。

 それにしても今日のコウキチの姿はひどくチグハグな感じだ。

 初めて会った日はワイシャツ姿が似合っていなかったが、今日はワイシャツ姿が似合っているのに中身が伴っていない感じ、それは疲れ顔ですこし猫背になっていることが関係しているのかもしれなかった。

「今日、図書館来なかったね。」

「見ての通りだ。会社に行ってたんだよ。急遽ヘルプに入ったんだ。」

「ヘルプ?」

「馬鹿な話さ。お婆さんが亡くなったんだけど、シフトが変更しづらいだろうから、告別式だけでいいっていうんだ。そんな馬鹿なこと言う奴を誰も止めなかったんだぜ。たまたま僕に知らせてくれた女の子がいたから今日は僕がシフトを肩代わりしたのさ。」

「・・・、コウキチじゃなきゃいけなかったの?」

「告別式のところは調整つくだろうから今日だけさ。」

「ふうん、その人もコウキチに知らせるなら自分が代わってあげればいいのにね。」

「・・まあ、そう簡単にはいかないんだよ。うちの会社では交代でコールセンターの対応があるんだ。必ず誰か一人は毎日しなきゃいけないけど誰でも出来るわけじゃない。その順番はずいぶん前から決まっててさ。・・まあいいや。それにしてもなんだか今日は疲れたな。」

 そう言ってコウキチは肩をぐるぐると回した。

 どうも考えるのが面倒になったようだ。

 確かに今日のコウキチは顔色が悪く別人みたいだったが、これが働いた日のコウキチの本来の姿なのかもしれない。

 親や親類、学校の先生たちなど、僕の知る大人なら見せない顔だ。

 昨日言っていた子ども心の話と関係があるんだろうか。

 このあたりがコウキチがやっぱり変わっている所なんだろう。

 少なくとも一緒にいてなんだか楽しいし、それでいて僕の前で平気で弱音を吐いてみせる、そんな大人に全く慣れておらず、短絡的で浅はかだった僕は単純に助けてやらなくちゃと思った。

「明日さ、プール入ろうよ。」

「ん?」

「プールで泳ごうよ。気持ちいいんだ。明日一緒にさ。」

「まあ、アラジン山は行くつもりだけどな。」

「じゃあ約束だよ。」

「わかったわかった。とにかく今日は疲れてるんだ。仕事にじゃなくて遠慮のしかたが分からない人にさ。」

 僕の誘いの意図が伝わったかは定かではないが、コウキチはちょっと頷いてそして家路についた。

 最後にコウキチは僕に背中を向けて片手でバイバイをしてみせたが、その仕草はすこしだけ緑色の服の友達に似ていた。



 次の日、アラジン山でプールに向かう最後の坂を上っていくと、のんびり顔のコウキチが坂道の先から現れた。

 昨日見せた疲れ顔は微塵もなくアラジン山の図書館に似合う明るい顔のコウキチに戻っていた。

 図書館の入り口にいたコウキチの方から先に、僕に話しかけてくる。

「昨日は悪かったな。」

 それは昨日本屋で会った時のことではなくアラジン山に来なかったことを指しているのがすぐ分かった。

「別にいいよ。」

 約束をすっぽかされたわけではないし、コウキチだってきちんとした理由があったのだから僕が怒るわけはないはずだ。しかし、コウキチはなんだか居心地が悪そうにしている。

「海水パンツ持ってきたんだ。楽しそうだと思ってな。昨日約束していたし。」

 昨日僕がプールに誘ったのは確かだが、それほど重要な約束なわけではない。

 少なくとも午前の早い時間から僕を待ち伏せて水着の用意を見せるほどではないはずだ。

 どうもコウキチは子どもとの会話について生真面目な所がある。いやそれは誰と話す時でもそうだったのかもしれない。

「今日は図書館はいいの。」

「一時間だけちょっと読みたいのがあるけど、その後はプールに行くよ。今日はそっちが優先だ。」

 プールと図書館、どちらもきっとコウキチには似合う場所だ。元気になったコウキチを見るだけで僕は嬉しくなっていた。



 僕が先に更衣室で一人で着替えて二十五メートルプールで潜水の練習をしていると、すぐにコウキチがプールサイドに現れた。

 それはたぶん図書館の入り口の所で話してから一時間も経ってはいなかっただろう。

 コウキチは僕を見つけると自分の方へ呼び寄せた。

「こっちにしようぜ。」

 コウキチはあっさりと大人用の五十メートルプールへ向かう。

 僕がエイッと気合を入れないと足が向かない方へ当たり前のように誘ってきた。

 困った、と思ったが僕に付き合わされていると思っているコウキチには嫌とも言いづらい。

 結局とぼとぼとプールサイドに水でできたコウキチの足跡をたどった。


 コウキチは泳ぎがうまかった。

 競泳選手のようにがんがん泳ぐというよりは水に慣れている感じだ。

 クロールでは全然僕のスピードと合わないことに気づくと今度は潜水のしかたを教えてくれた。

 潜水は僕がアラジン山で最も得意とする所だったが、五十メートルプールでの潜水はまだ一度もプールの床に手がついたことがなかった。

 なんとか中途半端な潜水を披露する。

「もっと真下に潜れないか?」

 わきでコウキチが何かアドバイスをくれたのだが、僕にはコウキチの声はまるで耳に入らない。

 五十メートルプールに長くいることだけで精いっぱいだった。


 休憩時間になった時に相談して、それからの時間は自分のホームグラウンドの二十五メートルプールの方で潜水を教えてもらうことにした。

 足がしっかりつくようになった僕はやっと落ち着いて泳ぎだす。

 偶然に例の錠剤を見つけたので素早く拾ってコウキチに差し出して見せた。

 ここ数日で二十五メートルプールでの錠剤拾いの腕前はかなり上達しているのだ。

「塩素だな。」

 コウキチは錠剤を一瞥してあっさりとその秘密を言い当てた。

「塩素? これが。錠剤でしょ。」

「錠剤だよ。水に溶けるように作られた薬さ。プールにあるんだから塩素だろ。」

 僕にとっての大きな謎は急に塩素という具体的なものになってしまった。

「塩素って薬品?」

「水を消毒するのさ。あっちにある腰洗い場とかにも入ってる。

 いろんな人が入る水だからばい菌が繁殖しないようにしてるのさ。」

「ふうん。」

 そう言われてしまうとなんだか面白くない。

 錠剤の魅力が半減してしまったような気がした。

「塩素をもっとうまく拾いたいなら、まずは潜水の練習だ。潜水したら自分の胸をプールの床にすりつけるような感じさ、それで前を見るんだ。やってみな。」

 コウキチは僕の錠剤拾いのワザを見ても感動はないようだったが、潜水の練習は塩素拾いに役立つことをすぐに見抜いたようだった。

 コウキチはなぜか僕に泳ぎを教えるのに情熱的だった。

「うん、分かった。やってみる。」

 僕はプールのへりを蹴って数メートル潜って見せた。

「なんか変だな。息どうしてる。」

「どうって。ふつうにうーってとめてるよ。」

「水中でそんなに口ふくらましてたらやりづらいだろ。それより肺、胸に息入れた方がいいぞ。胸に入れた息をプールの底にこすりつける感じだ。やってみなよ。」

「うん。分かった。」

 そうして休憩三回分の時間、コウキチは僕に付き合ってくれた。



 更衣室を出た後、食堂に寄ってから僕たちは一緒に山を下ることにした。

 アラジン山の入口の方へコウキチは僕と並んで歩いた。

 初めて会った時にも見た青い自転車を引きながらだ。

 それまでは僕が帰る時間にはコウキチはまだ図書館にいたから、こうして一緒に並んでアラジン山の坂道を下るのは初めてだ。

 知り合いなどいるはずもないのに誰かに見つけられたら恥ずかしいような、それでいて逆になんだか嬉しいような、そんな変な気持ちだった。

「タケシの泊ってる親戚のうちってどこだっけ?」

「アラジン山を出て左にずっと行くと川が分かれてるでしょ、その右側の方。」

「あの本屋よりは向こう?」

「こっち。」

「ふうん。じゃあおんなじ方向だな。」

 それで分かるとは思えなかったがコウキチは位置関係を把握したようだ。

「今日うちに寄ってくか。」

 突然コウキチが誘う。

 なんだか今日はひどく僕に優しい。

 それは昨日会社に行ったことと関係あるのだろうか。

「うん。」

 それからの帰り道、僕は錠剤の話をした。

 初めて見つけた日のことや今まで錠剤を使ってどんな潜水の練習をしてきたかなんかを。

 コウキチは興味のなさそうな顔をしながらも僕の話を聞いてくれた。

「確かに意外と塩素に気づいていない人が多いのかもしれないな。」

 一通り僕が話し終えた後になってコウキチは言った。また錠剤を塩素と呼んだが、少なくとも僕の気持ちは通じたようだ。

「タケちゃん?」

 スミエさんの声に気づいたのはアラジン山を左へ出てすこし先、まもなく川沿いへと出る所でだった。

 スミエさんは『ナノハナ幼稚園』という大きな文字とクマさんやゾウさんなんかのイラストが並んでいる小型車に乗っていて、その運転席から顔を出していた。

「あ、どうしたの?」

 僕はびっくりして声を出す。

 誰かに見つけられたら嬉しいような恥ずかしいようなと思っていたら本当に声をかけられたのでなおさら驚いたのだ。

 でもスミエさんの方は驚くというより二人連れの僕に警戒している感じの声だった。

「今、幼稚園のお遊戯会用の買出しに行ってきた所なの。」

「へえ。」

「そっちの人は誰?」

 あからさまに不審がっている感じ、その対象は僕ではなくコウキチに対してだった。

 だってその時、コウキチはなぜだか僕の後ろに入って顔をスミエさんの方からそらしていたから。

 まるで会話したくない、顔を見られなくないという感じだったのだ。

「コウキチさん、友達だよ。」

「友達って、何か変なことされたんじゃないの。」

 スミエさんは道の真ん中でハザードランプをつけて車を停車させると僕たちの方へ来た。

 車通りが少ないとはいえ、いくらなんでも大胆過ぎる。

 とても初心者マークのついた車の行動とは思えない。

 それに僕はスミエさんの顔がかなり強張っているのに気づいた。

 それは園児たちが普段見ることのない表情で、たぶん大きなトラブルが発生した時にだけ見せる顔なんだろう。

「あなた、一体なにするつもりだったの!」

「別におかしいことないんだってば。」

 スミエさんはもう僕のことなどお構いなしでただコウキチを追い込もうとしている感じだ。

 コウキチは別に悪いわけじゃないんだし、僕にしたらもうどうしていいか分からない状況だった。

「ねえ、あなたなんとか言いなさい。」

 スミエさんはコウキチの肩を持ってこっちを向かせた。

 それはなんというかかなり迫力のある感じ。

 一方、コウキチはどうしたかと言うと無理やりスミエさんの方に向き直る形になって曖昧に笑っていた。

「ねえ、なんとか言いなさいよ。」

「・・・すまない、別に俺はタケシくんに危害を加えたりしないさ。」

「・・・。」

 はじめてスミエさんとコウキチが目が合った瞬間、なぜだかちょっと時間が止まったような気がした。

「あ、あなたって、岡田さんところの・・。」

「どうも、ご無沙汰です。俺のこと覚えてました?」

 気まずい沈黙、僕はどうなっているのか分からないのでまずコウキチに聞いた。

「知り合いなの?」

「別に友達なわけじゃないけど、前に何度か幼稚園にお邪魔したことがある。親父と一緒にさ。」

「親父?」

「・・こちらの幼稚園の園長さんと親父が親しかったんだ。それで俺をそこの幼稚園に修行に出す予定だったんだ。」

 コウキチはなんとかどうでもいい話だと伝わるように苦心しているように思えた。

 僕の頭の中ではサラリーマンのコウキチと幼稚園というのがどうしても結びつかない。

「そうですよね。でも、確かお父様のお仕事を継ぐ気がないって、結局その話はなくなったような。私がまだ入って二、三年目のことでしたよね。」

「・・ははは。」

 コウキチはまた力なく笑って、スミエさんの方は拍子抜けした感じになる。

 僕はどうして良いか分からなくって目先のことだけ確認することにした。

「ねえ、あの車、あのままじゃマズいんじゃない。」

「・・ああ、そうね。」

 スミエさんはそう言って幼稚園の車の方に向きを変える。

 スミエさんの顔は先ほどまでの迫力はなくなり、困惑顔になっていた。

「今日、これからコウキチの家に遊びに行こうと思うんだけどいいかな。」

「あら・・そお・・。でも早く帰らなきゃダメよ。ご迷惑になるから。」

「あ、いや、全然そんなことはないんです。はい。」

 なんとなく不完全燃焼な感じでスミエさんは幼稚園に戻り、その場は終わった。動物たちのイラストが入った車が見えなくなってからコウキチは言った。

「やばいなと思ったんだよな。あの車見た時。でも、俺のこと覚えている人が乗っているとはな。」

「コウキチはスミエちゃんに会ったことがあったんだ。」

「ああ、本当なら俺の教育係になる人だった。若いけどとっても優秀だってナノハナの園長先生がずいぶんと買ってたからなあ。」

 結局僕たちの予定は変わることはなく、コウキチと僕はまた一緒にトボトボ歩いたが、心なしかコウキチはすこし元気をなくしたようにも思えた。

 その原因はスミエさんなのか、岡田さんという親父さんなのか、それとも幼稚園というものになのか、その時の僕には分からなかったし、歩いているうちにすこしずつコウキチはいつもの調子に戻ってきたから僕はそんなことがあったのを大して気にはとめなかった。

 たぶん昨日からコウキチは運が悪かったから、まあその程度のことと思っていた。



 コウキチのアパートはわりと駅前、本屋の近くにあって、ずいぶんとぼろ家であることにまず僕は驚いた。

 こげ茶色のペンキが剥げかけていて、門のわきに各部屋分あるはずのポストのいくつかが欠けている。

 その上、ドアの建てつけが悪くノブ側をすこし浮かせてやらないときちんと閉まらないのだ。

 中には一応風呂とトイレはあるようだったが、コウキチの部屋は照明の具合かずいぶんと暗くて狭い感じがした。

「なんかおっかなくない。」

「そんなことないさ。今は慣れた。ちょっと狭いのが難点だけどな。前の部屋はこの三倍くらいあったからさ。」

 目が慣れてくるとコウキチの部屋は整理整頓されているとは言いがたいことが分かる。

 ただ、たまにすごく高そうな辞典とか、どこの国のものか分からない置物とかハッとしたものが目についた。

「でも、ちょっとものが多すぎじゃない。前は別の所借りてたの? なら越さなければ良かったのに。」

「ちょっと前に友達に金を貸してさ。たぶん返ってこない金になるって分かってたから、その時にここに越してきたんだ。安いから。」

 それは本当はとんでもない話なのかもしれないが、僕への説明はそれだけで終わった。

 コウキチにとってはこんなお化けが出そうな部屋に住み替えることも別にたいした問題じゃないんだろう。


 コウキチは冷えた麦茶を出してくれて、何か僕が遊べそうなものがないかと部屋のアチコチを探していたが、結局出てきたのは昔の空想科学雑誌と古びた百人一首くらいのものだった。

 それならボードゲームの方がずっと良い。

「まあ、楽にしなよ。」

「うん、そうしてるよ。」

「そうだな・・。その麦茶は昨日の夜につくったんだ。結構簡単なんだぜ。」

「ふうん。」

 コウキチはポツリポツリと話を繋ぐ。

 僕と同じで世間話はそんなに得意じゃないみたいだ。

「なにかしたいことあるか?」

「うん、とりあえずは別にないよ。」

「そうか、よし分かった。」

 コウキチは僕を家に招待したはいいが、麦茶以外にもてなすものがないのにようやく気づいたようだ。だから無理やり会話を探しているって感じだった。たぶんコウキチにとって家に招待することが好意の意味だったろうし、招待してから先にはあまり頭が及んでいなかったんだろう。しかたがないので僕の方からいろいろ質問をしてみる。

「ふだんここで何してるの。」

「最近は家に帰ったら、読んだ民話のメモをまとめたりしてる。」

「ふうん。それ以外は?」

「そうだなあ。働いている時は帰って寝るだけだからな。テレビ見たりぼんやりしたり・・・まあたいしたことはしていない。アラジン山の方がずっと文化的だ。」

「なんか他に面白いことないの。」

 大人に呆れるというのはあんまりなかったが、その時僕は本当に呆れた気持ちで聞いてみた。

 こんな部屋に平気で住んでいられること、たぶん生活に対してあまりに粗雑で無神経なことに。

 僕だって物は元あった所に戻しなさいとか、洗面台に水をこぼさないとか、母からいろいろ言われるが、コウキチはそういうのが僕よりずいぶん苦手に違いない。

「面白いことなあ・・好きなこととまた違うんだよな。」

 またちょっとの間があってコウキチは応える。

「好きなものやテーマを見つけて調べたりするのはいいんだよな。でも、なにか集中してそれだけを考えてできることって、例えばすごい好きな仕事とか、すごい素敵な仲間たちとか、スポーツとか、そういうのって瞬間的にはあるんだけど続かないんだ。恋と愛とかってのもよく分からない。なんだか巻き込まれることはあるけど、あれって面白いんだろうかってね。結局それよりも好きになったことをコツコツ集めていく方が自分の性に合ってるかなあ。」

 恋とか愛とかを小学生の僕に言われても困るが、好きなことをコツコツ集めていくっていうのはなんだか納得した。

 そういえばコウキチの部屋は、乱雑であるにしろそんな感じがしたからだ。

 それにしても仕事の話がさっきからよく話題に出るような気がしたのでためしに聞いてみる。

「コウキチは今の仕事が好きなの。何してるんだっけ?」

「ソフト会社さ。」

「ふうん。」

「プログラム書くための準備とか、デザイナーと打ち合わせとか、その手前の交渉ごととかさ。本社は東京なんだけど制作とか運営部門はこっちなんだ。」

「ふうん。」

 僕にはよく分からない話であることだけが分かった。

「自分がやるよりみんなに上手くやってもらうようにするのがメインの仕事さ。チーム一丸となってなんていうけど実際は大変なんだぜ。みんな仕事への情熱に浮き沈みがあるし、その時のベストっていうのしか答えはないんだからさ。」

「うん、そうなんだろうね。」

 僕はわけも分からずに頷いてみせる。ただ、仕事の話をするコウキチはなんだか楽しそうな口調になるのにはすぐに気づいた。

「泣いたふりされることなんかざらさ。まわりと調和させる役が少ない上にいろんな人がいるから。」

「うん、そうなんだろうね。」

 僕はまた頷きながら、コウキチの話をもっと聞いてみたいと思った。

「この前、デザイナーが一人、パソコンのアプリ班へ異動してきたんだけどさ。デザイナーをあきらめろって意味の異動だったらしいんだけど、そしたらその娘、自分はイラストを描くのが仕事だからって、一日中パソコンの絵を何十枚も描いてるんだ。」

「パソコンの絵?」

「そう。アプリの勉強なんかしやしない。せめてアプリで使うデザインを描いてくれればまだいいのに、パソコンの形とか色とか各機種ごとに細かく書き分けてさ。そんなのなんにも使えないのに。そんなことがあると、どうやらそれも俺がフォローしなくちゃいけないんだ。」

「フォローって何するの。」

「まずは聞いて話すのさ。それから決めるって感じだ。誰かが決めたことを別の誰かにやってもらうだけじゃ大概はうまくいかないからさ。」

 そこでコウキチは笑ったが僕には何が面白いのか分からなかった。

 だけど会社の話をしているコウキチはやっぱり楽しそうで、それはなんだかとても意外だった。


 そこで会話が一度途切れると部屋の中は妙に静かになった。

 そして、いよいよもてなす方法がなくなったコウキチは百人一首をやろうと言い出した。

 僕は夏休みに百人一首の暗記なんかしたくなかったからその提案は辞退する。

 コウキチにしたら、ようは今日は僕にいろいろ罪滅ぼしをしてくれているのだったがそれはもう十分だし、こんな部屋に長居しても本当に意味がない。僕は早々に帰ることにした。


 コウキチは今の仕事が嫌だけど愛着も持っていてそのあたりに悩みでもあるんだろうと、その日ぼんやりと感じた。

 コウキチの心の荷物は今のソフト会社の仕事と別のところから来たものだったのだが、そのことを当時の僕はまだ気づかずにいた。

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