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三、プールと図書館と

 次の日の朝には伯父とのボードゲームに全く頓着しない薄情な自分がいた。

 前日アラジン山に行ったことで、その日の僕は朝から興奮ぎみだった。

「今日はプールに行くんだ。」

 朝食の時間、野菜がたっぷり盛られたサラダボウル、濃い味のドレッシングを駆使してなんとか量を減らしながら僕は伯母に言った。

「あら、どこのプール?」

「アラジン山。」

「歩いたらすこしかかるわよ。迷うかもしれないし。」

「大丈夫だよ。昨日も行ったから。それに昔お父さんとも行ったことあるし。」

 一人で行ったことを誇らしげに言う。この夏、僕は一人旅づいているのだ。

「そう言えばそうだったかもしれないわね。昨日は迷わなかったの。」

「一本道だもん。迷いようがないよ。」

 その言葉で伯母は一人で行かせておいても大丈夫だろうと判断したらしくそれ以上のことは言ってこなかった。

「そうねえ、おばあちゃんが今日もいい天気で暑くなるって言っていたから帽子はかぶっていた方がいいわ。」

「うん、分かってるよ。」



 確かにその日もいい天気で、日差しが強かった。

 帽子をかぶって水着を持った僕は玄関を勢い良く飛び出す。

 まず天竜川に出てそこから川下へ、昨日の道を忠実にたどった。

 僕がプールに飛び込む頃にはかなり暑くなっているだろう。

 泳ぐことは昔から好きだったが、あの場所で、アラジン山で泳ぐというのが僕がウキウキしてしまう理由だ。

 あの丘から見えた景色、その一部に今日はなるのだから。


 迷いなくアラジン山の入り口まで着いてそのままの勢いに坂道を上がる。

 入り口の発券機で缶ジュース一個分の入場料金を払った。

 素早く着替えて、あっという間に僕はプールサイドへ自分の身を運んだ。

 アラジン山の町営プールは大人用の五十メートルと小さい二十五メートル、あとは幼児用の水遊び場のようなプールの三つで構成されていて、僕は小さい方の二十五メートルプールに入って早速泳ぎだした。


 小学校の授業で水泳はあったけど夏休みに入ってから泳ぐのは今日が初めてだ。

 早足で歩いていたため汗だくで体温が上がっていたのだが、暑さは一瞬で忘れられた。

 自分の体重がどこかに預けられたようで水の中は気持ち良かった。

 思うままに手足を動かして水面を進む。

 なんとか形になっているのはクロールで、平泳ぎはどうもおぼつかない。

 学校ではまあまあ泳げる方だったが、僕はこのプールで学校で習うようなことをやりたいわけではない。

 単に水に浮かんだり、自分が考えたやりかたで犬かきや潜水の練習なんかをするのが面白いのだ。


 アラジン山のプールでは一時間ごとに休憩時間があった。

 一人で来ている僕はその十分間が一番落ち着かない。

 家族や友達同士がじゃれあったり話したりしている間、僕はすることがないからだ。

 ぼんやりとプールサイドを眺めていると目につくのは監視員たち。

 その時間、一番活発に動いているのは彼らであり、結局僕は監視員を観察することで休憩時間を過ごした。

 三つのプールを数人で担当している監視員は、遊びに来ている全員がプールから上がったのを確認した後、不審なものがないかプールを潜水、時に小石や小枝を拾う。

 その滑らかな動作は僕なんかと比べものにならなかった。

 その後に身体の水を拭くと黄色と赤のゆったりした服を着て、プールサイドを歩きながら何かを投げ込んだ。

 なんだろう、不思議な白いものだ。監視員が小枝や小石を拾うように、あの白いものを僕はプールの底から拾い上げたりは出来るだろうか。


 やがてホイッスルが鳴って休憩時間の終了が告げられる。

 休憩時間が終わると僕は投げ込んだものを確かめに落下地点あたりまで泳いだ。

 何度か潜水を繰り返す。

 しかし、泳ぎに来ているのは僕だけじゃないからいつまでも同じ場所に沈んでいるとは限らない。

 沈んだはずの場所をいくら探しても見つからないのだ。

 あきらめてしばらくするとホイッスルが鳴り休憩時間は適度なタイミングでまたやってきた。


 何度目かの休憩時間の後、僕はようやくその一つを発見した。なんだろうか、手で持ってみると白い錠剤のようなもの、としか分からない。

 角が丸まって薄くなっているから、ゆっくりプールに溶け出す性質のようだ。

 何かの薬なのかなと思い底へ置く。

 白い錠剤の正体は不明のままだったが、その錠剤を自力で手に取ることが出来たのは少なからず潜水が上達したことの証でもある。

 もっとがんばれば溶けかける前の原形をしっかりとどめている錠剤を手に入れることも可能かもしれない。

 もっともっと上手になって大人用のプールでも同じことが出来たらいいなと僕は思った。

 その日に満足して僕はようやくプールから上がり更衣室へ向かう。

 昼をだいぶ過ぎた時間だった。

 更衣室を出るとプールの向かいの図書館の入り口がちょうど視界に入ってきた。

 その入り口のそばでコウキチが手を伸ばして自販機からジュースを取り出したところで、缶を手に取って振り返ったコウキチと目が合う。

 すこし間があって二人とも気づいた。

「ああ、昨日の子か。」

 昨日と違って今日は色つきシャツにジーンズ姿だったのでずいぶん印象が違っていたが、全てが人ごとのようなのんびりした感じは昨日と同じだ。

「何してるの?」

 コウキチは僕の方を向いたまま後ろの図書館を親指で指した。

「夏休みは図書館に通うことにしたんだ。民話を調べてる。」

「民話?」

 コウキチはジュースの口を開けた。

「このあたりの昔話さ。戦国武将とか源氏と平家の話とかじゃなくてさ。

 もっとその、橋ができた謂れとか山と山が喧嘩する話とかさ。」

「・・・うーん、よく分かんないけどそれ面白いの。」

「徹底的にやりたいだけさ。少なくともここにある本に載っているのは全部目を通しておきたいんだ。」

「それでどうするの? 学者さんの研究とか。」

そこでコウキチはジュースをすこし飲んでから、言葉を返した。

「いいや、昔気になったことがあるから、時間がある時にきちんと調べようと思っただけさ。」

「ふうん。」

 小学生の僕には理解できない行動だった。休みになったから勉強するという感覚自体がよく分からない。

「きみ、名前は?」

「タケシ。」

「俺はそうだな・・、下の名前はコウキチだ。

 夏休みなんだからたまには下の名前で呼ばれるのもいい。ところでタケシくん、夏休みの目標ってあるか。」

「特にないけど五十メートル泳げるようになるくらいかな。明日も来て大人用のプールに挑戦するんだ。」

「そうか。お互いがんばろうな。今度会ったらあそこの食堂でアイスくらいおごってやるよ。」

「本当?」

「ああ、一人だとなんだか入りづらかったからな。あそこの窓側の席は気持ちが良さそうだ。日があんまり当たってないし、イスもちゃんとしてそうだと思ってたんだ。」

「うん、そうだね。きっと座り心地いいと思うよ。」

 確かに僕にとってもその席は魅力的に思えた。お気に入りの場所を見つけるというのは楽しいし、なんだかとっても重要なことだと思う。

「じゃあ、またな。水泳がんばれよ。」

 そう言ってコウキチは図書館に戻る。なんだか颯爽とした後ろ姿だった。

 僕は明日、アイスをおごってもらうのも悪くないと思って、コウキチの名前を忘れないように何度か頭の中で繰り返した。

 そういえばお腹が減ったななどと思いながら、僕は長い坂に向かって歩き出す。

 行きほどの速さではなかったが、やはり早足でアラジン山を下ると伯母の家へ戻った。



 家に帰ると伯母はびっくりしたような顔で迎えてくれた。

 お昼時はとっくに過ぎていたので、遊び過ぎてお昼を食べ忘れた僕に気づいて驚いているようだ。

 そういえば伯母の家は娘二人で男の子がいないので、僕を見て変な所で驚くことがある。

 それはロケットの絵を描いたり虫に興味を持ったりとそんな程度のことだが、伯母はそのたびに目を見張っては口をあんぐりと開けるので僕は少々ばつが悪い。

「ずいぶん遅かったじゃない。なにか食べる?」

「うーん。何かあるの。」

 ここでまた野菜だけだとかなわないのでやや警戒して僕は聞く。

 でもお腹はそうとう空いていた。

「すぐに出来るものならトースト焼いてあげるわよ。」

「うん。ありがとう。」

 たぶんサラダもつけられるのだろうが、少なくとも野菜でできたパンはないはずだ。

「じゃあ、ちょっと待っててね。」

「明日はさ、プールに食堂があったからそこに行こうかな。」

「別にいいけど。じゃあ、プールの時はお昼要らないってこと?」

「うーん。それでもいいかな。」

 それは野菜を食べたくないのとコウキチとお昼を食べたいのと両方の気持ちによるものだ。

 コウキチはアイスをおごってくれると言ったが、たぶんお昼も平気な顔で食べさせてくれそうな予感もあった。

「まあ、その方が長く遊べるでしょうからね。」

 伯母は一人で納得したようで、すぐに明日の準備の方を心配し始めてくれた。

「じゃあ、水着とバスタオルはすぐに干さなきゃだめよ。朝までに乾かないから。」

「うん、分かってるよ。」 

伯母とそんな話をしながら僕はかなり遅い昼食をすませる。

 それから祖母の所へ行って点字を習おうとしたが、どうしても眠かったので結局止めてしまった。

 眠気でぼんやりした頭の中ではもう次の日のプールのことばかり。

 アラジン山が気になってしかたないのだ。

 一人で歩いていく、潜水をうまくなる、そしてコウキチを見つける。

 どれをとってもワクワクする計画だ。

 夏休みにおける僕の気持ちの一番はこの家の中からアラジン山へと完全に移行していた。



 次の日も午前中からアラジン山へ行った。

 水の中から見る空は今日も青く、コウキチがセキランウンと呼んでいた雲の小さいものがプールの管理棟の屋根の上から覗いている。

 それにしてもその日は昨日にも増してずいぶんと暑かった。


 二十五メートルプールで僕の潜水はなんとか形になり始めていた。

 息が続く限りはまあプールの下の方を悠々と回遊できるくらいにはなったのだ。

 それで錠剤を見つける確率がぐっと増える。

 ただ錠剤を見つけてもそれを手で掴むことに成功する確率はまだ高くない。

 錠剤は十五分もすれば完全に溶け出してなくなってしまうようで、休憩時間終了のホイッスルが鳴ってからの短い時間が勝負だ。

 いくつかの錠剤を拾ったが、どの錠剤も次の休憩時間まで持つことはなく僕の手の中ですぐに粉々に溶けていった。

 そうして数時間も遊んだ後に大人用のプールにも入ってみた。

 クロールをすこしだけ試してみてはプールサイドにしがみつく。

 五十メートルのプールは足がつく所とつかない所があって、やはりちょっと怖かった。


 お腹が空いてきたので昨日よりもすこし早くプールから上がると僕はプールの向かいの図書館へ入った。

 それはもちろんコウキチを探すためで、ほどなくして長机で本を読み漁っている男を見つける。

「きみ、今日も来てたの?」

 先に声をかけてきたのはコウキチだ。

 静かな図書館の中だからか、すこし声を落としていた。

「コウキチ、だよね。僕はタケシって昨日。」

 きみ、と呼びかけられたのでちょっと気分が悪くなり試しにコウキチを呼び捨てにしてみた。

 でもそれがとってもピッタリだった。

 コウキチさん、お兄さん、おじさん、どれもこの人には似合わない。

「そうだ、下の名前だけで呼ばれた方が夏休みっぽいって昨日思ったんだ。悪い悪い、もう二度ときみの名前は忘れないよ。」

「まあ、そうしてよ。僕はちゃんと覚えてたんだから。」

「まあ、タケシくん。ちょうど腹減ったんだけど、あっちの売店に行かないか。」



 食堂は図書館と同じ建物にあって、外からの入り口と別に図書館の中からも出入りできるようになっている。

 僕たちはコウキチが良さそうだという窓際の一番奥の席に陣取った。

 別にとりたててイスが上等だとか見晴らしがいいとかそういうことはなかったが、まあなかなかだ。

 食堂のメニューはそれほど多くはない。

 ランチになりそうなのはカレーライスと麺類くらいで、あとはアイスやカキ氷といった感じだ。

 愛想の良い店員さんにコウキチと僕はざるそばのセットを二つ頼んだ。

 二人で食堂に入ることがひどく自然に感じられて僕は不思議に思ったが、それはたぶんこの男が変わっているからで、変わっている分だけ物事を受け入れる幅が広いからなのだろう。

 家族や親戚以外の人と二人きりで食事をするのはこの時が初めてだったと思うが、すこしも初めてという気がしなかった。

 コウキチは今日読んだ本の話をしてくれた。

 キツネが憑く、オオカミが憑く、といった憑依の話が今日は多かったそうだ。

 なんでも人が動物に憑かれると変な行動をしたりするが、何が憑いてるかでその後の対応がだいぶ違うんだそうだ。

 何がついているのかの見極めかたがコウキチにとってはひどく重要らしかった。

「動物に憑かれた話はいくつもあるんだけどな、今日読んだ中ではヘビが憑くのが多かった。村人の誰かの様子がおかしくなった時だいたいがすぐに何かが憑いているんじゃないかと思う。でも、何がついてるかは謎のまま話が進むことが多いんだよな。」

「へえ。コーンて鳴いたらキツネとか、キュウリを食べたらカッパとかそういうんじゃないの。」

 自分で言っておいてゲンナリする。僕はカッパがいたら会いたいと思うが、キュウリはできれば食卓で会いたくなかった。

「まあ、そんなマンガっぽい感じじゃないよ。だいいち仮名のふりかたとかが昔の方式だから読むのも時間かかるし疲れるんだけどさ。」

「ふうん。疲れるのに面白いの。」

「泳ぐのだってそうだろう?」

「あんまり疲れないよ。眠くなるけど。」

 僕がそう言うとふとコウキチの動きが止まる。

 まるで意識がどこか遠くへ一瞬飛んでいったような感じ。

 コウキチと話しているとたまにそういうことがあった。

 すこし間があってからコウキチはまた話し始める。

「疲れないけど眠くなるか・・。まあ、そう思えるのが大事なんだろうな。俺は今、子ども心を充電してるんだ。もう働くのが当たり前になったけど半年分、いや三か月分でいいから今のきみみたいな気持ちが途切れないようにしたい。だから気を抜く時は徹底的にするんだ。」

「ふうん。やっぱよく分からないや。働くのに子どもになりたいの。」

「働いていると子ども心ってのがだんだんなくなるんだ。みんなある程度心の中に貯金してるんだけどそれも使い果たしちゃう。この前までの俺もそうだった。夏休みが終わった後たぶんいろいろ新しいことをしなきゃいけなくなるはずだから、そのために今補給してるんだ。」

「それとオオカミが憑くのとどういう関係があるの。」

 そう言うとそこでなぜかコウキチは声を出さずに笑って、また嬉しそうに話してくれる。

「子どもの時に思ったこと、それを無駄にしないんだ。よく覚えてないんだけど確か俺が子どもの頃に動物が人に憑くというのがえらく面白く感じた。もっと知りたいと思ったけど当時はそのままほっぽっていたんだ。それを今掘り起こしているのさ。」

「でも、せっかくの夏休みにそんな調べものしてたら勿体なくないかなー。」

「無駄に思えることでも意味はあるはずだ。自分がなんだか分からないけど好きだと思ったことなんかさ。それはいつもうまく行くとは限らないけど。大事に持っておくことが大事なんだ。そうしたら大切にしなきゃいけないことが分かってくるかもしれない。そう思うんだ。」

 やっぱりなんだか分からない大人だったが、コウキチになら今日がんばって拾った錠剤の話をしてもいいなとその時たしか僕は思ったはずだ。その頃の僕の好きなことと言えばそういう類いのことばっかりだったから。


「きちんと生きていく、だんだん荷物が重くなる。それをたまに整理して、それぞれが自分に必要なんだと一つ一つ確認してそしてまたしょい直す。何か好きなものを大事にするっていうのはそんなもんさ。」

「うん。」

 それから僕はしばらく、どうコウキチに話したら錠剤探しの面白さを分かってもらえるかを考えていたと思う。でも、結局その日は話し出せなかった。

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