二、アラジン山
長野に来て四日目の月曜日、伯母の家の方で朝食を頂いた。
僕が食卓に着いた時はすでに伯父もスミエさんもそれぞれ役所と幼稚園へ出かけた後だったので、僕だけ一人遅れた格好になる。
水仕事をしながら伯母が話し相手になってくれた。
「食べ終わったらお茶を出すからね。」
「うん、大丈夫だよ。」
「今日はどうするの。おじさんもいないからゲームできないしね。」
「これから考えるけど、なんか予定がないのも好き。」
「タケちゃんはのんびり屋さんでいいね。」
僕が知っている中で最ものんびりした家族にそんなことを言われるとは思わなかったが、それは伯母のご愛嬌なのだろう。そう思いながら箸をゆっくり動かす。
朝食はご飯に味噌汁、納豆に漬物、それに生野菜。
この家の朝の定番で、たまにこれに目玉焼きなんかが加わる。
野菜が不得意な僕としては慎重に時間をかけるのだが、やはり楽しくはならない。
レタスとトマト、どちらがより嫌いじゃないかで食べる順番を決めていく。
なんとか朝食を終えたあと、僕はしばらくぼんやりしていた。
ボードゲームを誘う相手がいなくなることは分かっていたが、かといって他に特にすることを決めているわけではない。
ぼんやり窓の外の緑と夏の日差しを眺めていたら閃いて、結局僕はすこし本格的な散歩をすることにした。
それまでも家の近くをウロチョロしてはいたが、その日はあてもないまま歩き続けて距離を稼いだ。
伯母たちの家の近くには大きな川、天竜川が流れていて、その両脇には緑道がある。
家々の敷地内にも樹木が多く、僕がふだん暮らす街と比べるとまるで緑に包まれているようだった。
真夏の日差しを受けて歩いていると僕の心に緑色の意味が伝わってくる。
生命力を感じる色、眩しい色、そして僕が好きになった色だ。
僕は行きの電車の中で出会った緑色の服の友達のことを思い出した。
残念ながらいくら緑に溢れていても僕の歩く速さくらいじゃ友達は現れてはくれない。
この街から帰る時、その時まではもう会えないんだろうか、そんなことを考えながらさらにしばらく歩く。
あの曲がり角まで行ってみようとか、煙突の方に向かおうとか、意味ない目標を立てては冒険気分を味わった。
新しい目的を決めるたびに距離はさらにのびていく。真夏の暑さ、でも標高がすこし高くて心地良い風が吹いているせいか妙に浮わついた気持ちが加速していった。
午前中の散歩が意外に面白く気分を良くして家に帰ると、お昼はアスパラの入ったスパゲティとキュウリの入っていないサラダだった。
僕は伯母が気を悪くしない程度の分量と自分が見定めた分のアスパラを残して、そそくさと再び外へ出る。
よく怒る母と違って、伯母は野菜を残してもすこしの間困ったような顔をするだけなのだが、まさか日に三度必ず困らせるとわけにもいかない。
この家では野菜が食卓から減ることはなさそうなので残る方法は僕が野菜を好きになることだろう。
そうすればたぶん丸く収まるのだ、それは頭では分かる話だった。
午後の長い時間、ずっと散歩をしようと決める。
この家の人は暇そうに居間に座っているといろいろ気を使ってくれるが、食事時以外ではいてもいなくても一向に気にとめない。
野菜を残して困った顔はされても無理強いされることはない。
でも、なんだかふだん母親に言われるより野菜を残した時の罪悪感が強い気がするのはなぜだろう。
再び夏の眩しい日差しの下へ。
家を出てすこし歩けば天竜川にあたる。
ちょうど支流がぶつかって大きな大きな流れに合流している所だ。
午前は川沿いを上がっていった。もうすこし先まで行きたい気もしたが、全く未知のエリアも気になり、午後は川下側へ進むことにした。
川面を眺めながら歩いてほどなくすると、どうも通りに見覚えがあることに気づく。
以前に父とこの道を歩いた。道路わきにある看板を見て父が何か言った記憶がある。
たぶん『ちゃんこ』という看板を見て父が相撲取りの話を始めたので、不思議に思って質問したのを覚えている。
僕はまだそれを食べたことがなくて『ちゃんこ』という食べ物が存在することをその時はじめて知ったのだ。
それからちゃんこ番とか関取とか、相撲取りの位について教えてくれたような気がするが、もはや細かい話までは記憶に残っていない。
その時の僕は水着やバスタオルを入れたバックを持っていた。
確かプールに向かう途中だったのだ。
たぶん当時の父は母の実家で時間を持て余していたのだろう。
親子で遊べる所があるのを知って早速出かけたはずで、きっとその時の思い出だ。父と二度か三度くらいはプールに通ったような気がする。
それは数年前に過ごした夏のこと。
仕事が忙しい父と長く遊べたのはあの時くらいだったかもしれない。
父とともに歩いた道のりを僕はまた歩いている、
そのことをはっきりと意識した時に僕はもう一つ、この夏のすこし前の記憶も蘇った。
たぶん放ったままになっている荷物の中には母が持たせてくれた水着があったはずだ。
それはもう数日前のこと、特急の電車の中で出発待ちをしている時、勉強をしっかりして、それでももし時間が余ったらアラジン山のプールにでも行きなさい、と母が付け足すように言っていた。
その前に祖母に迷惑かけるなとか、伯母の言うことを聞けとかのどうでもいい話があったのでほとんど聞き流していた気がする。
アラジン山、正しくは荒神山と書くのだが当時の僕が記憶していたのはその覚えやすい音の響きだけだ。
アラジン山のプール、確か山の上にあるプールだった。
そうだ、今日はそこに行ってみよう、一人旅づいていた僕は昔の思い出の中からその日の冒険の行き先を決めた。
「一本道だからこれならタケシでも迷わないな。」
「迷いようがないよ。まっすぐいけばいいだけじゃん。」
あの時の父との会話を思い出す。実際まっすぐ歩いていくと、いつの間にか川から道が離れて斜度が出てきた。間違いない確かこの先だ。
アラジン山の入り口、小さな申し訳程度の看板があった。うっそうとした林に囲まれた道、鳥の声が聞こえる。僕は緩やかな坂から続く道へと足を進めた。
遊具場、花壇のある小さな広場、湖と名づけられた池には白鳥がいて、その先には丘があった。
舗装された道は丘の裾野を通ってその先まで続いている。
でも、僕は丘の上に続く別の道があることに気づいていた。
以前来た時はたぶん登っていないはずだ、冒険心にくすぐられるように僕はその細い小道へ足を進め、土崩れ防止の木の階段を一気に登りきった。
登ったのはほんの十分くらいだったと思う。
その丘の上、見晴らし台にはすでに一人の男がいた。
腕まくりしたワイシャツ姿、はじめて見るコウキチの第一印象を僕はあまり覚えていない。
見た目は会社員のようだったが、それがのどかな丘の上にいるという不釣合いな状況であったため、曖昧な第一印象になってしまったのだと思う。
なによりその時はコウキチをちらっと見た後すぐに目の前に広がる眺望に目を奪われてしまった。
その見晴らし台から見える景色に圧倒されて、完全に意識が丘の上からのパノラマへいってしまったのだ。
眼下いっぱいには夏の空気に息づく緑が広がっていた。
山々が生きていると実感する風景、緑が続く景色には野球場とそれにその先に小さな建物が並んだエリアがあった。金網に囲まれた白い枠のようなもの、それが今日の目的のプールなのだろう。
それらの構造物はあたりを囲む山々と調和して、あたかも自然に守られるように見える。
山なみの所々にある送電線や小さな白い塔も完全に景色の一つとして馴染んでいた。
「わあ、すごい。」
その日はよく晴れていたが、晴れた空の素晴らしさに気づいたのは見晴らし台でだった。
空の青さ、遠くにそびえる山々、空のたもとには下側が黒くて上部が輝いた立体感のある大きな雲があって、それは確固たる意思を持つように強くせり上がって空の上を目指していた。
雲の影はしっかりと山腹に存在してみせる。それは今まで見てきた中で最も力強く瑞々しい風景だ。
「見晴らしいいよな。」
先にいた男、コウキチは気軽に相槌を打ってきた。
その声は見た目よりずいぶんと若く感じられる。
「あの雲、おっきいね。」
「入道雲っていうやつだな。積乱雲だ。」
「セキランウン? なんかすごいね。白くてモクモクしてて。雲の影もおっきい。あの建物なにかな。」
「どれ。」
「プールの向かいの・・」
「ああ、図書館だよ。」
「ふうん、僕は明日はあのプールで泳ぐんだ。野球場もあるし、遊ぶ所がいっぱいだね。」
明日の予定はアラジン山のプール、心の中で言葉にしただけでもうなんだかわくわくした。
こんな素敵な景色の中で遊べるなんてボードゲームよりも素敵な計画であることは間違いない。
「きみ、夏休みだからってはしゃぎ過ぎじゃないか。」
「ここはいいな。毎日来ようっと。」
たぶん僕はちょっと気分が高揚してしまって楽しいとか嬉しいとかいう感情が制御しきれなくなっていた。
それは夏の空気と景色にだ。
そんなものがその丘の上には充満していて特に密度の濃い場所だったんだと思う。
「いいなあ子どもは。俺もじつは夏休みなんだ。何年ぶりか分からないが今年やっととれた。」
その時、僕がハイな感じになっている分、コウキチも口が軽くなっているようだった。
「ここで何してるの?」
自分の計画に夢見心地になりながらも大人の夏休みというのが気になったので聞いてみる。
少なくともこの濃厚な夏の空気はサラリーマンが似合うようには見えなかった。
「明日から通うつもりで図書館を下見したんだけど、その用事もすんだし、気持ちの良さそうな所があったから来た。」
「ワイシャツで?」
「仕事帰りなのさ。俺の夏休みは二時間くらい前から始まったってこと。」
「ふうん、なんでここ登ってきたの。」
「だから、眺めが良くて気持ち良さそうだったからさ。」
それなら僕と大差ない、そう思うとその大人に対しての警戒心が緩んでいく自分に気づいた。
その頃の僕はすでに世の中には変態と呼ばれる危ない大人がいることくらい知っていたが、目の前の男はどう見てもそういうタイプではなさそうだし、乱暴者にも思えない。
むしろ放っておいたらのんびりフラフラしてそうな、夏休みみたいな雰囲気を身にまとっていた。
「僕も気持ち良さそうだったから登ってきたんだ。」
そう口にするとコウキチからすぐに言葉が返ってくる。
「でも、きみは入り口から入ってすぐにここを目指した。
俺の方は図書館に行って開館時間や休日を確認してやることを済ませて、それでやっとここに気づいた。
行きなのか、帰りなのか、この差は大きいんだよな。」
「ふうん、そんなことが重要なんだ。」
なんだかこの大人は変わっている。
でも自分の嫌な変わり方じゃないと、そう思った。
その頃の僕は大人には敬語で話しかけることを知っていたはずだったが、コウキチには結局一度も敬語を使わなかったような気がする。
それもコウキチが身にまとっている雰囲気に何か関係があったのかもしれない。
「じゃあ、帰るかな。」
そう言ってコウキチは歩き始めて、僕が登ったのと反対側にある木の階段へ向かった。
僕もそっちに行くつもりだったのでコウキチの後をついていく形になる。
「俺にはさ、時間がきみたちみたいにたっぷりあるわけじゃない。
次の夏休みなんてもう一生ないかもしれない。
なのに今回の夏休みはたった二週間、でも、それだけでもかなり贅沢なんだぜ。」
「ふうん。」
「まったく小学生がうらやましいよ。」
「ねえ、あの自転車、誰の?」
「俺のさ。会社から乗って来たんだ。これで家に帰る。」
「ふうん。」
再び道路に戻るとコウキチは颯爽と入り口の方へ走り去っていった。
なんとなく僕はその男とまた明日会うだろうと思った。
そして今日よりももっと親しくなれるだろうと。
気構えも何もない、なのにすっと近い存在であることに落ち着く、大事な友達や大切なものと初めて出会った時はたぶんいつもそういう雰囲気なのだ。