九、涼しい風
毎日が充実していた夏休み、楽しくてしかたがなくって、青空も夏休みもアラジン山も、全部がそのまま続くと思っていた。
だけど、あっという間に時は過ぎていく。
太陽の出ている時間がすこしずつ短くなっていく時期、たぶん僕は一日の長さにもの足りなさを感じていたと思う。
その夏はじめて風を涼しく感じた朝、そんなわずかな予感があった日に、その男は昼下がりのアラジン山にやってきた。
「今日行くって言っといたろ。迎えに来ないにしても家にくらい居ろよ。」
アラジン山の池のほとり、のんびり白鳥を眺めていたコウキチと僕は突然の声に振り返ると、そこには一人の男がいた。
ちょっと前に車の音がしたが、それは男の背後に見える車が止まった音だったのかもしれない。
「ああ、ごめん。よくここが分かったな。」
「このへんで図書館って言ったら、山の上のだって教えてもらったんだ。」
「まあ、このへんじゃ一番悪くない図書館ではあるよ。」
コウキチの声の調子がさっきまでと違う。
相手はコウキチの知り合いで、今が緊張を強いられるシーンであることが分かる。その男は柄つきのワイシャツがよく似合っていて、なんだか忙しそうなしゃべり方、コウキチとは全く違うタイプの人間だ。
「ねえ・・。」
僕はこの場にいてはいけないのかもしれない、漠然とそう感じたので不安になってコウキチの顔を見る。
「ああ、兄貴なんだ。」
心配するなというようにコウキチは頷いた。
「この子は?」
コウキチの兄だという男が僕を見て言う。
「友達さ。ここで知り合ったんだ。」
「今、こんなとこでのんびりしている場合なのか?」
「・・分かってるよ。このところずっと考えたんだ。だから会社だって休んでいる。」
「聞いたよ。考える時間は十分とったんじゃないのか。すぐに戻ってこい。お前に頼みたいことがもう山ほどたまってるんだ。」
「・・ああ、そうだよな。」
コウキチの兄だという男は僕がいようがいまいがお構いなしにまくし立てた。
「タケシ、今日はもう遊べないや。そろそろ兄貴と話をしなきゃいけないと思ってたし、せっかくだから見晴らしのいい所で話した方が気分もいいしな。」
「ねえ、コウキチはどっかに行っちゃうの?」
「そりゃあ夏休みが終わったら、ここにはあんまり来れなくなる。ひょっとしたら引越して仕事を変えるかもしれない。その話をするのさ。」
「・・・。」
コウキチの夏休みが終わったらもう会えなくなる、当たり前かもしれなかったが、その時まで僕はそんなことを考えたことなかった。
「タケシだってずっとここにいられるわけじゃないんだろう。」
「・・・うん。」
夏休みの終わり、今まで直面していなかったそのことに呆然としながらも、でも僕は、今コウキチが抱えている問題についても心配になる。
「いいから行きな。明日また会おう。」
コウキチは優しい目をして言う。そんなことはわざわざ言わなくても分かっているはずだったのに。
「・・うん、分かった。今日はもう帰るよ。」
反射的に僕は小走りでその場を離れた。
そしてアラジン山の入り口への道をたどりながら考えた。
その時の僕はとんでもなく真剣に思考を巡らせていたと思う。
それほどコウキチのことが心配でたまらなかった。
そう言えばコウキチの宿題って結局なんだったんだろう。
この夏のコウキチの目標は民話を読破したり子ども心を充電することだと、前はそう言っていた。
宿題があるんだとしたらきっと仕事のことだろうと思っていたけど、やっぱり大人の事情は僕が思っているよりは複雑らしい。
スミエさんに相談しようか、今なら幼稚園にいるはずだ。
頭の中ではいろんな考えが錯綜してうまくまとまらない。
僕は走りながら自分が今何をしたらいいか必死に決めようとした。
一番最初にすべきこと、とにかくも落ち着くことだ。
それを学んだのは確かこの時だったと思う。
アラジン山を出た所で一旦振り返る。
いつもより鳥の声が遠くで響いているような気がした。
今、一体コウキチは兄と何を話しているんだろう、そして何が結論になるんだろうか。
そういえば一昨日コウキチとアラジン山の裏手にカブトムシ探しの冒険をしたのを思い出す。
あの道を通れば、池の反対側へ出られるはずだ。二人の様子がすこしは見えるかもしれない。
僕は向きを変えて、その細い道へ向かった。
ほどなくして僕は目的の場所にたどりつく。
池のほとりの斜面にある林の中の道だ。
そこに僕はしゃがみこんで二人の様子を探ると、遠くのベンチにコウキチと兄の姿が確認できた。
表情とかはよく分からないし、もちろん何をしゃべっているのかは想像するしかない。
僕の想像の中ではコウキチがずいぶんと無表情に兄の話を聞いていて、そんな現実が幻か分からない影法師のような二人の様子を僕はしばらく見ていた。
コウキチの宿題ってきっと覚悟みたいなものがいるんだろう、コウキチはたぶんもう心の中では決めていて、だから今の仕事のことをなんだかんだ言っても楽しそうに語っていたんじゃないかなんて思いながら。
いや、そう思ったのはずいぶん後になってからで、小学四年生だったその時の僕はただ漠然とした不安を抱いていただけだったような気もする。それはもう今となっては確かめようがない。
二人はしばらく話をした後、車に乗ってプールの方へ向かった。僕は車が動き出すと慌ててわき道を通って池のほとりへ出る。
二人のいたベンチまで急いだ。
僕が道路わきのベンチにたどりついた直後、コウキチの兄の車が僕のわきを駆け抜けた。
さっきと逆でプールの方からアラジン山の入り口へ向かっていて、助手席には誰もいなかった。
車とすれ違った後、僕はどこへ向かったらいいのか分からなくなり、コウキチの兄の車を見送るように立ち止まった。
コウキチはどこへ行ったんだろう。
まさか、もうあの人がどこかへ隠しちゃったんだろうか、池のほとりでしばらく僕は一人で呆然としていた。
「おい、まだ帰ってなかったのか。」
自転車にまたがったコウキチが肩を叩いてきたのはその時だ。
「どうしたの?」
「どうしたのって、俺の部屋に戻ることにしたんだ。自転車置いていけないからさ、兄貴だけ先に向かっている。」
「そうだったんだ。よかった。」
「なにが?」
「なにがって・・」
コウキチはしばらく僕の顔を不思議そうに眺めていたが、それから急に思い出したように僕に言う。
「俺の夏休み、予定より二日ほど早いけどもうおしまいにしようとさっき決めたんだ。」
やっぱり、と僕は心の中で思った。
「もう図書館に行かなくていいの。読みたいものは全部読んだの。」
「ああ、気は済んだ。それより兄貴の方の頼みを優先してやらないとな。
この夏休みはいろんな人にわがままを聞いてもらった。この先はうまく出来なかったら迷惑がかかる人がいる。
他人を喜ばせることは大事だけど、悲しませることはしちゃいけない。
この違いってのは意外と大きい。だから両方のバランスって難しいんだ。」
やっぱり夏休みの目標と宿題の話をしていると僕は思った。
そしてコウキチはどちらもやり抜くつもりなんだ。
きっとそうだ、そのことを少なくとも僕は知っていて、誰よりもきっと無邪気に信じていた。
「なあ、明日の朝、集合しないか。」
こんな時でもコウキチの話は突然違う所へ飛んでいく。
いつもの調子で僕に別の話を持ちかけてきた。
その時の僕はまだ頭の中をいろんなことが駆け巡っていてコウキチの言うことがすぐにはピンと来ない。
「集合?」
「明日の朝五時半、あの見晴らし台で待ってる。来れるか?」
「うん、たぶん。でも、なんで。」
「あそこから見える朝日を一度タケシに見せてやりたいと思ってたんだ。
そのチャンスがもう明日しかなくなったからな。」
「明日しかって、明後日だってその次の日だってあるじゃん。もういなくなるの。」
僕の問いかけにはコウキチは答えず、ただ笑ってみせた。
「じゃあ、兄貴が待ってるから先行くわ。車と自転車じゃどうやったって敵わないけどな。」
コウキチはそう言って背中を見せると青い自転車を漕ぎ出した。
「おばあちゃん、オルガン弾いていい。」
コウキチの兄だという人が現れた日の夜、僕は祖母をオルガンの前に誘った。
たぶんその時僕は単純にオルガンを練習しようとか、祖母を喜ばせてやろうとか、そういう気持ちではなくて、ただ祖母が喜んだと、コウキチに次の日に報告したかっただけなんだと思う。
「あら、いいわよ。おばあちゃんすこし聞いてていいかしら。」
「うん、ここにいてよ。」
それから僕はアマリリスを弾き出した。
ソ、ラ、ソ、ド。ソ、ラ、ソ。ラ、ラ、ソ、ラ、ソファミレ、ミー、ド。
ソ、ラ、ソ、ド。ソ、ラ、ソ。ラ、ラ、ソ、ラ、ソファミレド。
ミ、ミ、ミー。ミ、ミ、ミー・・そのあたりから先はどうもうまくいかない。
僕は途中で何度かつっかえながらも、なんとか最後まで弾き終えた。
「すごいわね。上手になったわねー。」
祖母は優しい声で褒めてくれる。
しかし僕の中では全然予定が違っていた。
「今は失敗したからもう一度やるね。聞いててね。」
ソ、ラ、ソ、ド。ソ、ラ、ソ・・僕はもう一度最初から弾き出した。
やっぱり、ミ、ミ、ミー・・のあたりで一度指が止まってしまう。
何度も何度も繰り返したが、結局僕は最後まで一回もつっかえずに弾くことは出来なかった。
「とっても上手ねえー。」
祖母は何度も褒めてくれたが、僕の中では全くうまくいっていない。
予定では僕はもっとうまく弾けるはずだった。
「本当は最後までつっかえずに弾けるんだよ。本当だよ。」
いらだっている自分に気づく。
その夜、僕の感情はとても無制御な状態で、祖母をいたわることなんて出来なかったのだ。
だから、たぶん僕は失敗していた。
「どうしたの。そんなにムキになって。今までで一番上手く弾けたんだからいいじゃないの。」
「だって本当はもっと上手く出来るんだもん。」
嘘だった。
夜に楽譜を見ているだけでたいして上達なんかするわけない。
だけどその時の僕は自分の努力以上に上手くなっていて祖母に褒められないといけないと思い込んでいた。
そうしないと明日うまくコウキチと話が出来ないんじゃないかと変に決めつけていた。
結局すこし変な雰囲気のまま祖母は台所へ戻り、僕はふて腐れたようにそのまま寝てしまった。
次の日の朝、起こしてくれたのは祖母だった。
前の日の夕方に早く起きると言ったら、朝の散歩に行く時に声をかけてあげると祖母が引き受けてくれたからで、昨夜オルガンを披露する前にした約束を祖母はちゃんと覚えていたのだ。
「タケちゃんおはよう、起きてる。」
「うーん・・」
僕はなんとか顔を上げたが目の見えない祖母はそれでは判断できない。
「タケちゃん、起きてる。」
「うん・・。」
「起きてるの?」
「・・うん、・・起きたよ。」
「本当に起きてる?」
「・・うん、もう大丈夫。ありがとう。」
それからようやく僕はノロノロと着替えをする。そして顔を洗おうと廊下に出たら玄関に人の気配がした。
「あら、こんにちは。」
「あ、はい。こんにちは。」
祖母と違う声だった。だんだんと目の焦点が合ってくる。
「あら、今はおはようございます、だったわね。」
「あ、はい。おはようございます。」
「はい、おはようございます。あなたタケちゃんね。」
「あ、はい。」
その人は近所に住む祖母の妹で、年は祖母とあまり変わらないが背筋はピンとしている。
その夏、顔を合わせたのはその時がはじめてだった。
「これからおばあちゃんとお散歩するの。二人でいつも毎朝散歩してるのよ。」
「あ、そうなんですか。」
そうすると背後で祖母の気配がして、祖母は手をのばしながら玄関にやってきた。
「ああ、おはよう。今日はタケちゃんが早起きだっていうから起こしたのよ。」
「ああ、そうなの。」
「うん、そう。」
祖母の妹はまた僕の方へ向き直って言葉をかけてきた。
「タケちゃん、良かったら一緒にお散歩行かない。おばあちゃんも喜ぶわよ。」
「そうねえ、どおタケちゃん。」
さらに祖母が返事を促してくる。
「うん、これから外に出るからちょっとだけならいいよ。」
昨日のことで祖母にすこし申し訳ない気持ちがあったし、アラジン山での待ち合わせにはまだすこし余裕があるはずだ。
だから僕はちょっとだけ二人の散歩に付き合うことにした。
この街の朝は静謐と言っていいくらい本当に静かで穏やかだった。
すこし霧が出ていたような気がするのは朝の景色の記憶が曖昧だからか、それとも街を流れる川からの水分のせいだったかは分からない。
朝の景色に投げかけられるのは僕たち三人の足音、あとはわずかに鳥の声がするだけだ。
「こんなに早くにどこへ行くの。」
祖母の手を引きながら祖母の妹はゆっくりと歩いている。
その様子はこの街の様子に似て、とても穏やかだった。
「うん、朝早くにアラジン山へ行ってみたかったんだ。」
「アラジン山ねえ、それはいいねえ。」
「うん、緑が多いだろうから。そういう所ならやっぱり朝が気持ちがいいわよねえ。」
「あのあたりまで散歩でいけたらいいんだけど、やっぱりちょっと遠いかしら。」
後半は祖母と祖母の妹の二人の会話になる。
それ以上早く起きた訳は聞かれなかった。
祖母たち二人も伯母たちと同じくおおらかであまり僕の行動を詮索しなかった。
だからこそ僕はこの街で自由にさせてもらえた。
今さら僕の気ままな行動が一つ増えても誰も気にはしていないだろう。
「タケちゃんもやっぱり朝は気持ちがいいでしょ。」
思い出したように祖母が僕に声をかける。
「うん、気持ちがいいね。」
「そうでしょう。おばあちゃんの楽しみなのよ。朝のお散歩。」
「おねえさん、散歩の後にラジオ体操もするでしょう。それに点字で俳句もやってるし。」
「そうだねえ。一番の楽しみがいっぱいあるわねえ。」
僕は祖母の部屋に古いラジオが置いてあるのを思い出す。
それから点字でびっしり埋まった紙が何枚も重ねてある様子も。
点字で打った祖母の俳句を僕はいまだに一つも読みとることが出来ずにいた。
「毎日散歩しているなんて全然知らなかった。」
「散歩が終わったら、ラジオ体操。それからラジオを聴きながらお茶を飲むの。ニュースや天気予報とかを聴いて、それからもう一度お茶を入れ直すとだいたい誰かが起き出してくるのよ。」
「へえ。」
そういえば祖母の家ではよくラジオがついていた。
だから僕が起き出している頃には祖母はその日の天気予報を実感を持って話すことも出来るのだろう。
祖母がなんでもよく知っている理由がすこし分かったような気がした。
「タケちゃんはねえ、昨日オルガンを弾いてくれたのよ。」
すこし自慢げに祖母は妹に話した。
僕は昨日のことを思い出したが、その朝はあまり悲しい気持ちにはならなかった。
まだすこし寝ぼけていたというのもあるし、昨日は全然上手く弾けなかったけど少なくとも祖母は喜んでこうして話してくれているのだから、それだけで良いのかもしれない。
「へえ、すごいじゃない。オルガンが出来るなんてね。タケちゃんがここに居てくれる間はいいことばっかりだね。」
妹は僕のことをよく知っているようだったが、それはたぶん毎朝こうして祖母と話しているからだろう。
祖母の手の引く様子はずいぶんとこの街の朝の風景に馴染んでいた。
「ねえ、朝のお散歩ってずっとしてるの。」
「ええ、もう何年も前から。十年くらいになるかしら。」
「確か十二年前よ。この人の旦那さんが亡くなってしばらくしてからよねえ。ちょっとあなた、落ち込んでいたから。」
祖母はその年を正確に記憶していて、祖母の妹もそれに同意した。
「ええ、そうだったかもしれないわね。」
「始めたのは夏だったわ。今日みたいに緑の匂いがして、気持ちのいい朝だったわねえ。」
「そうねえ。そうだったわね。」
それからまた似たような会話が繰り返される。
それは今まで何年も続いてきたことで、きっとこの先も続くことなんだろう。
それは、とても静かで素敵な散歩だった。
今まで僕が知らなかった祖母の楽しみ。
姉思いの妹は雨や雪が降っていなければ毎日誘いに来てくれるのだ。
コウキチが言っていた通り祖母を気にしてくれている人がここにもいて、逆に祖母も妹のことをずっと気にかけているのだろう。
そんなことを僕は今まで全く知らないでいた。
「ところで昨日のニュースでね・・」
その後、ラジオで聞いたという世界や経済の話題を祖母は始めた。
それは僕が全然知らなかった祖母の一面だ。ニュースや天気予報を知らせてくれるラジオは祖母の好きなものの一つで、きっと朝の散歩やオルガンの音色なんかと同じなのだ。
祖母もそうして自分の好きなものを集めてきた。
祖母の好きなもの、それを考えたら僕はなんだかいたたまれない気持ちになる。
昨夜の僕は失敗をしたし、なのに祖母はとても喜んでくれていて、失敗しなければきっともっと喜んでくれたはずなのだ。
「今度、僕が散歩に連れてってあげるね。じゃあ。」
「ありがとうね。」
「じゃあ、またね、タケちゃん。」
二人と別れてそれから僕はすこし早歩きでアラジン山へ向かった。
今日がこんな日じゃなかったら本当はもうすこし祖母たちの散歩に付き合ってみたかった。
祖母の好きな日常、それはきっと僕も好きになるんだろうという確信がなぜだかあった。
祖母たちが見えなくなって、川沿いを歩いてしばらくすると急に自分が今そこを歩いていることが不安になった。
祖母たちのことがすっと頭の奥へ押し込められて昨日のコウキチとコウキチの兄の話す様子が浮かんできたからだ。
そしてそれを池の向こうから覗き込んでいた自分。
それはこの夏、この街で暮らしている自分そのもので、全くしっかりとした存在ではなかった。
自分は今ここにいていいのか、そんなことを思ってしまう。
そんな僕と仲良くなってくれたコウキチ。
コウキチは本当に今日アラジン山で待っているのだろうか、その存在自体が夢や幻じゃなかったのだろうかと。
そうコウキチは例えばあの緑色の服を着た友達と同じで、本当は人間じゃなかったのかもしれない。
そんな風に思考がグルグルと回っていく。
僕はもう僕自身の不安や不満がなんだか分からなくなって、気がつけば駆け出していた。すこしでも早くコウキチに会うために。
すこしでも不安をかき消すために。
アラジン山に入って見晴らし台を見上げるとコウキチらしき人影が大きく手を振っていた。
僕はそこですこし呼吸を整えて、でもやっぱり早足で丘を登り見晴らし台へ向かった。
今は何時だろう、ひょっとしたら僕は遅刻をしたのかもしれない。
また、そんな小さな不安を胸の内に持ちながら。
とっておきの朝の景色。
田畑の向こうの山、朝霧がまだ散らばっていた。
コウキチが僕に見せておきたかったという景色だ。
太陽はまだ空の低い所にあって昇りきっていないから、目的の景色には間に合っていてそれで僕は自分が遅刻はしていないことを知る。
朝の優しい原風景、一日の始まりを示す新鮮な空気、確かに気持ちが良かった。
僕とコウキチはしばらく何も言わずに朝の景色を眺めていた。
僕はぼんやりと一昨日ここからコウキチと二人で模型ヒコーキを飛ばしたことなんかを思い出しながらあたりを見回した。
点々と散らばるアラジン山の施設を一つ一つ確認する。
まだ一度も使ったことのない野球場、向こうの丘の上には図書館と食堂が入っている建物、管理事務所の隣の小さいのはあれは確か倉庫だ。
機関車は建物に隠れてここからは全身が見えない。
フェンスで囲まれたプールは全部で三つあって五十メートルのと二十五メートルのと、あとは幼児用の小さいやつ。
そうだ、雲をつくっている白い塔が遠くの山に見えるのも忘れてはいけない。
しばらく経ってもコウキチはやはり黙っていて、何かを躊躇しているようにも見えた。
たぶんコウキチはこの景色を僕に見せたかったというよりは、この景色を見ながら話したいことがあったのだと僕は気づく。
やがて静かに呼吸を整え終えたかのように、コウキチはやっと口を開いた。
「明日からもうここには来ない。」
コウキチは僕の方を向かずにそう言った。
「これからどうするの?」
「実家に戻るよ。親父の会社を今は兄貴が会社をやってるんだけどさ、人が足りないらしいんだ。どうも信頼できる部下ってのに恵まれてないらしい。」
コウキチの視線の先には相変わらず遠くの地平線がある。
「ねえ、大人ってなんだか面倒くさくない。」
「大人にならなきゃ出来ないことってあるんだよ。もちろん子どもにしか出来ないこともあるけど。違うのはな、もっと年とった時にどんな大人だったかで、出来ることや楽しめることも変わってくるっていうことさ。だからさ、一生懸命いろんなことをしなくちゃいけないんだって。最近、特にそう思うんだ。」
「やっぱり面倒くさい。」
「そんなことない。順番を間違えなければいいんだ。面白いと思ってやりたいことがある、それが一番。どうせならそれをいろいろ知りたいし、できればうまくなりたい。それが二番目。それが他の誰かにも認められて、お金がもらえたりしたら最高だ。でもそれは三番目でしかない。好きだからやる、それならうまくやりたい、認めてほしい、この順番はきっとさ、絶対に変わることがない。」
「・・・」
そんなことを小学生の僕にコウキチは真剣に言った。
コウキチは最後にたぶん何かを伝えようとしてくれていたんだろう。
その意味を当時の僕が分かったとは言いがたかったが、コウキチの真剣さはしっかり感じ取っていたはずだ。
「今やるべきことを好きになる、なんて人もいる、それもいいだろう。でも、本当に好きになるって二番目よりも三番目よりも強いはずだから、・・だから、そう簡単じゃないんだぜ。」
「・・ごめん、僕よく分かんないよ。」
コウキチがこれから向かっていくこと、ひょっとしたら今のコウキチはそれは好きではないのかもしれない。今やるべきことを好きになろうとしているのと、コウキチにとってはどう違うんだろう。
「だから一番好きなことって意外と単純だったりするのさ。目標と宿題も全部そう。だから、それだけのことさ。」
「・・・」
「まあ、そんなに深く考えることはない。そのうち分かるよ。」
「でも、本当にさ、全然分からないんだ・・・」
僕はまたコウキチにそう言った。その時、それが分からなかった僕はかなり悔しかったはずだ。
「まあ、いいさ。それよりもな。俺は図書館通いはもうやめるよ。この街からは出ていく。きっとそれでいいんだよ。」
好きになること、そして上手になること、やがて認めてもらうこと。
夏休みを終えようとしているコウキチは必ずしもその順番だけで行動していないように僕には思えた。
だからこそ僕にこっそり優しくしてくれるんだろうし、兄のところへ行くんじゃないかと。
「あのさ、昨日の夜、おばあちゃんにオルガンを聞かせてあげたよ。あんまり上手に弾けなかったけどおばあちゃんは随分と喜んでくれてた。」
「そうか、良かったじゃないか。夏休みの目標を一つ達成したな。」
「うん。そうなんだ。」
「それはいいことだ。目標を達成したらそれはきちんと覚えておきなよ。そうしたら次の目標のことも考えられるはずだ。」
「うん、そうだね。分かったよ。」
今この時がコウキチとの最後の会話になるかもしれない。
僕にもそれがなんとなくは分かっていた。
だから僕は矢継ぎ早にいろんなことを言いたくなったし、たぶんそうすることで寂しさが自分の中に充満してしまうのを防いでいたんだと思う。
「それからね。言うのを忘れていたんだけど、この前の夕方、竜みたいな雲を見たんだ。まわりが夕焼けなのにそこだけ黒くて、蛇みたいにうねうね身体がしていたんだ。」
「へえ、顔や手のツメは見えたかい?」
「ううん、そこまでは見えなかったんだ。だってすごく空の高い方にあったんだもの。」
「そうか。じゃあ、次に見かけたら雲の形をスケッチしておいてくれ。それを後でよくよく見れば分かるかもしれない。」
「うん、分かったよ。」
「前にも言ったろ。自然科学の基本は観察だって。」
「うん、そうだね。分かったよ。」
「ところでタケシ、自分じゃ気づいてないかもしれないけど、きみは同じ返事を繰り返すくせがある。うん、そうだね、とか、ふうん、とかだ。」
「え? そうかな。」
「ああ、別にいいんだけどな。すこし返事のしかたを気をつけるといい。そうすれば自分のことをきちんと聞いてるって人も思ってくれるからさ。」
「うん、分かったよ。」
「それだけだ。じゃあな。」
最後の最後になんでコウキチが僕の言葉づかいのことを言い出したのかは分からない。でも、それがコウキチとの最後の思い出になった。
それからコウキチは丘を下っていった。僕はその後も見晴らし台に残って一人で長いこと空を見続けていたような気がする。ほんのりと紫色なのに白い空がやがて青くなるまで。空にケンウンが出て、季節が進んでいることを思い知らされるまで。
呆然としていたらコウキチの兄が丘にやってきて僕に声をかけてきたような気もするがそれは夢だったのか現実だったのか今でも分からない。
確かコウキチの兄は僕の肩に手をかけて言った。
「悪いな。コウキチだって寂しいんだろうがしようがない。コウキチだってその方がいいはずなんだ。これがコウキチにとっても一番いいことなんだよ。」
コウキチの兄はもっと冷徹で怖い印象の人だった。
だけどその時の声はひどく優しくて、その分僕を余計に悲しい気持ちにさせた。
その声は僕の内面が生み出したものなのかもしれなかったが、コウキチにとって最善の選択だったのだと信じることが、今でも僕の心のバランスを保たせているのは確かだ。