277
不安になることがある。
自分のこれまでと、これからの人生について。
眩しい日差し。揺れる陽炎。入道雲が空高く立つ、夏真っ盛りの通学路を歩いていると、不意に誰かの肩にぶつかった。
「あっ……すいません──」
しかし声をかけるはずの人は既にそこにいない。後ろを見ると、駆け足で人々の中に紛れていく、まだスーツに着られた感じの若い男の姿があった。──社会人か。
ずれた肩掛けバッグを直しながら、男を見送る自分の表情が暗くなるのを感じた。彼のような姿はそう遠くない未来のことなのに、まだ上の空と言った感覚の自分に溜め息が出る。
正直言えば、今のところなりたい職業はない。職業に活かせそうな才能もない。こんな俺でも、スーツを着て、どこかしらに勤め、幸せな生活が送れるもんなのだろうか。
ふと、向かいから歩いてくる親子に目が留まる。男の子と見えるその小さな子は、交番の側を通りかかると「ボクもお巡りさんになる!」などと言って母親に向かってピシっと敬礼をした。
そうだ。俺にも確かに、あんな時期があったはずなんだ。夢を持って、そのために才能を磨こうと必死になれた、そんな時が。なのに、一体どうしてこうなったのか。
(こんな人生、いっそ変えちまいてぇ……)
そんなことを思っていると、不意になにかが手の甲に当たる。慌てて現実を見るといつの間にか日差しは消え失せ、どんよりとした灰色の雲が青空を隠していた。挙句、遠くの方ではゴロゴロと不穏な音が響きだし、怪しい風も吹き始める。──やばい。
家を出る前の自分を呪いながら、とにかく全速力で走った。だが雲はそれが気に入らないのか、降る雨は急に強くなる。
どこかで止むのを待つしかない。そう思い、慌てて辺りを見たとき、一つの扉が目に入った。
古ぼけた感じの木製の扉。そこにぶら下がる看板を見ると、『277』とだけ書かれている。
その不思議な引力に抗うことなく、俺はその扉を乱暴に開けた。
「おや……お客様とは珍しい」
少し奥にあるカウンター席。その向こう側にいる若い男は明らかに驚いた顔でこちらを見ていた。しかしそれはほんの一瞬。すぐに優しい笑顔を作ると、彼はサラリとした声でこう言った。
「ようこそ。277へ」
✱✱✱
背中で扉の閉まる音を聞きながら、俺は男を凝視する。
三〇代前半と見える彼。七三に分けた黒髪は短く艶やか。目が非常に細く、狐を連想する。肌の白さは陶器のそれに似ていた。
「雨が降り出したようですね。よかったら座ってください。あ、お茶でもどうです?」
「え? あぁ、ありがとうございます」
声に促され、足の長い木製の椅子に座る。なんだかそわそわしてしまい、首だけを回して周りを見る。
新しくはないフローリングの空間。窓が無く、代わりに天井から吊らされた球体のランプが、橙の柔らかな光で全体を照らしている。家具はカウンターと、そこに並ぶ椅子以外は何もない。扉は先ほど入ってきた真後ろの出入り口と、右側にある焦げ茶色をした木の扉だけ。目につくものはそれくらいしかない。
「あのー……貴方の名前、これで合ってますか?」
「えっ!?」
慌てて声の方を振り返る。目の前に差し出されていたのは、手のひらサイズの一つの瓶。
「えーと、これは?」
「貴方の紅茶です。名前さえ合っていればですが」
意味が解らないまま細い指の示すラベルを見る。それには『MAKOTO NAKAZORA』と書かれていた。
(真 中空……完璧に俺の名前だ……)
呆然としていると、次に聞こえてきた声はどこか困り気味だった。
「たぶん間違ってないと思うんですけど、あってます?」
「あ、あぁ、はい……え、でもなんで……」
しかし俺が訊くより前に、彼はお茶の準備を始めていた。あえてもう一度訊ねる勇気も出ず、俺はただ座ってその様子を眺めるしかできなかった。
しばらくして湯気に乗ってきた紅茶の匂いが、優しく鼻をくすぐってくる。嗅ぎなれないその不思議な香気は、好奇心を掻き立ててしょうがない。結局誘惑に負けて、自分から話しかけてしまった。
「果物のお茶っすか?マスカットにも似てますけど……ミント入ってます?」
「不思議な香りでしょう? 僕がミックスした紅茶なんですよ」
聞きなれない言葉に首を傾げる。
「ミックス? ブレンドじゃなくて?」
「ブレンドはプロの技ですからねぇ。僕ができるのは、既成の茶葉をただ混ぜることだけです」
残念そうに言う割に、茶葉を見つめるその目はどこか楽しげだ。
「じゃあ、プロじゃないんすか?」
「えぇ、ただの趣味です」
「へぇ……なんか、いかにも『マスター』って感じの雰囲気なのに」
「本当ですか?それは嬉しいなぁ! そうだ、よかったら是非、マスターって呼んでくれません?」
男のその声音と笑みは、子供を思わせるほど無邪気なものだった。
「じゃあ、せっかくだし」
「ありがとうございます」
マスターとなった男はそう言うと、湯通ししたティーカップに静かに茶を注ぐ。
「はい、どうぞ」
にこやかに差し出された琥珀色の茶は、白い陶磁器のカップによく映えていた。
「ど、どうも……」
正直、茶の味の違いなんて俺にはさっぱり分からない。きっとこれだって、そこら辺に溢れかえっている既成品と変わらないだろう。失礼だが、そんな程度の気持ちで飲んでいた。……しかしすぐにその考えは吹き飛ぶ。── 一口飲んですぐに覚えたのは、強烈な違和感だった。
思わずカップを口から離し、茶の色を確認する。匂いも、見た目も、何も変化はない。なのに──
(味が……ない……?)
勘違いかと思ってもう一度飲んでみる。でもやっぱり、無い。あの仄かな甘みも、苦味も、雑味すらない。舌触りだってただのお湯と同じ。紅茶特有の滑らかな柔らかさがない。飲んでいて、とてもつまらない。
「……なるほど。貴方がここに来た理由がよく分かりました」
見るとマスターも一緒に飲んでいたらしく、カップを片手に、何か思案していた。
「そうですね……いっそ作り直してみましょうか」
「作り直すって?」
訝しげに眉間に皺を寄せる俺に向かって、マスターは穏やかに微笑む。狐のような目を、もっと細くして。
✱✱✱
マスターは空になったカップを静かに置くと、代わりに俺の名前の瓶を手のひらに乗せる。そしてパチンと指を鳴らすと、中に入っていた茶葉は音もなく姿を消した。
「えっ?! い、今何を!?」
「作り直すんですから、古い茶葉はいらないでしょう?」
聞きたいのはそういうことじゃない。
しかし、口を開けたままの俺を放置したまま、マスターは鼻歌交じりに足元を探っている。しばらくして彼がテーブルに並べたのは、また茶葉の入っている瓶だった。俺の瓶の二倍の高さはあるそれらも、やはり全てラベルが貼られている。記されているのは【夢】、【才】、【巡】、そして【運】。
「僕の紅茶は全部、この四つの組み合わせからできてるんですよ」
「これって……」
「平たく言えば、貴方の紅茶の素。人生の要素です」
何者だあんた。
そうツッコみたくなったが、その前にマスターの言葉を思い出してハッとした。人生の要素。確かに彼はそう言った。冷たい汗が背中を伝っていく中、恐る恐るマスターに訊ねてみる。
「つまり……さっきの指パッチンで俺の人生は──」
「消えましたね」
驚くほどあっさりと認めるマスター。
「でも、また作れば何にも問題ないですよ」
そういう問題じゃない!
絶望から目の前が一気に暗くなる。本当になんてことをしてくれたのか。しかし起きてしまったことは変わらない。今はテーブルに突っ伏して泣くしかない。するとマスターは──きっと俺のオーバーリアクションを見てやっと、考えていることが分かったのだろう──のんびりとした口調で訂正を入れてくる。
「僕の紅茶で決められるのは『あっても無くてもどうにかなる要素』だけですよ。真さんがこれまで歩んできた人生や思い出、命の根本に係わるようなものは何も変わりません」
変わるのはあくまでも未来です。マスターは相変わらず飄々とした表情のままそう言った。
訝しげな目線をマスターに向けたが、彼は全く動じない。本当なのだろう。そう思うことにする。
「まぁまずは匂いを嗅いでみませんか?」
マスターに促され、なんとなく慎重になりながら一つ一つ瓶の蓋を開けてみた。
【夢】は甘ったるかった。薔薇や桜、金木犀……とにかく色んな花をかき集めて何も考えず詰め込んだような、ねっとりと鼻にこびりつく臭い。ちょっと嗅いだだけで胸が焼け、頭が痛くなった。
【才】は嗅いだ瞬間、その凶暴な爽快さで息すらできなくなる。ミントやハッカの飴をいくら口に詰め込んだって、ここまで強烈な刺激になるとは思えない。一瞬嗅いだだけで鼻と喉と胃はキンと冷え、頭はしばらくまともに働かなかった。
【巡】はフルーツの香りだとすぐ分かる。ただ、まだ青いものから熟れたもの、東西南北のフルーツを凝縮したような感じと言ったらいいか。柑橘特有の甘酸っぱい、夢とはまた違ったしつこさがあった。ただししつこいとは言っても後には残らない。果実を食べた後と同じで、嗅いだ後はどこかさっぱりする。
最後の【運】はというと──
「あ、それは香りがないんですよ」
瓶を鼻に近づけたところで、マスターがのんびりとそう告げる。
「【運】は残りの三つのまとめ役なんです。その茶葉が入って初めて、クセの強い茶葉がうまく調和するんです。時間が経つにつれて風味を変えたりする悪戯っ子でもあるんですが……」
完成の時にどうなるかは、それこそ本当に運次第です──瓶の蓋を締めながらそう言うマスターは、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。しかし不意に、「そうだ!」と珍しく少し大きな声──と言っても元の声が小さいから、実際は俺の普段の声量と変わらないくらいだが──でそう呟くと、俺に向かってあまりに突飛な提案をしてきた。
「どうせなら、自分で作ってみませんか?」
「は?」
何を言っているのか分からず聞き直すと、マスターははしゃぎめの声でさらに続ける。
「せっかくここに来たんです。自分で自分の人生を作るのも面白いんじゃないですか?」
「自分の人生……」
並べられた四つの瓶とマスターの手の中にある自分の瓶を交互に見る。
もしこれが本当なら、これは絶好のチャンスじゃないか。いや、そもそも冴えない自分を変えられる、最初で最後の機会なのかもしれない。そうとなれば、答えは一つ。
俺は、微小を浮かべるマスターの手から自分の瓶を受け取った。
✱✱✱
「……で、これはなんすか?」
「いやぁ、さすがにいきなりは作れないだろうと思いまして」
カウンター席の奥にある扉から出てきたマスターの手には、お盆の上に大量に乗せられた瓶があった。そしてどのラベルにも、人の名前が書かれている。
「まずは人のを飲んでみましょう。幸い、時間はたくさんありますから」
「人のって、飲んで平気なんすか? その人の寿命減ったりとか人生が変わっちゃったりとかって……」
「心配はご無用ですよ。使い果たしさえしなければ……ね。それに、他人のものを飲むことで分かることもありますから」
いつの間に準備をしたのか、さっそく差し出されたカップには湯気が立ち、華やかな香りが部屋に広がった。
(花の香り……【夢】か!)
花には疎いから何の匂いかまでは分からなかった。多分、薔薇に近いかもしれない。だが間違いなく俺のときには無かった、なんとも魅惑的な香りだった。
「これは【夢】が際立っているお茶ですね。まぁまずは飲んでみてください」
四種の茶葉の中でも一番気になっていた【夢】。少し高揚した気分のまま俺はそれを一口飲んでみる。──直後、視界が揺らいだ。やがて目がチカチカする感覚に堪えられず、目を瞑って落ち着くのを待つ。次に目を開けた時、周りの風景は一変していた。
「どこだ、ここ……」
あの紅茶の匂いが充満するのは、五歩歩けば部屋の隅から隅へと行ける狭い部屋。窓から差し込むはずの日差しはカーテンに遮られている上に、照明すらついていない。置かれているのはクローゼット、小さな本棚、ブラウン管テレビ、ベッド、そして風景が描かれた大量のキャンバス。そこでなんとなく部屋の隅に目を向けた時、初めて人影が目に映った。
「うおっ……」
声を上げたのは仕方がなかったと思う。なにせ一つのキャンバスの前で俯いたまま動かないその男は、ひどく亡霊じみていたのだから。粗雑にまとめられた黒い髪は縮れていて、長い前髪は彼の顔を隠している。赤や青の絵具が付いたTシャツを着たその背は丸い。男に近づくと、あの紅茶の匂いが強く香った。
彼の前には美しい、海岸と見られる風景画があった。緻密に描かれているその絵は今にも波が動き出しそうで、空を飛ぶカモメたちの声が聞こえてくるような臨場感に溢れる作品だ。そして絵の真ん中には、白いワンピースを着た女性の後ろ姿があった。
((なんでダメなんだ……))
「え?」
不意に頭に声が響く。声の主を探すが、それらしい人物はどう考えても目の前の男しかいない。
((これだけ頑張っているのに、なんで認められないんだ。こんだけ一生懸描いたのに!))
響く声は切実で、聞いているだけで心がきりきりと痛みを訴えた。
((いつになったら理想のものが描けるようになる? こんなの全然理想と違う。これじゃ画家になんてなれるわけがない!))
((色彩も何も、全部気に入らない! 俺に画家は無理なのか?二〇代の全てを絵に捧げてきたっていうのに、どうしてここまで報われない! くそっ!))
男はガタッと音を立てて立ち上がると、カッターで大胆にキャンバスを引き裂いた。輝く小さな海が、音を立てて崩れていく──
「何やってんだよ!」
慌てて男を止めようとその襟首めがけて手を伸ばす。しかし、その手は空を切る。いや、正確には男の体をすり抜けた。しかも声すら届いていないのか、男は無心にキャンバスを裂き続ける。
(何だ今の……!? まさか俺、透けてんのか……?)
俺が呆然と自分の手を見つめている間にも、キャンバスはどんどん傷を増やしていく。
((気に入らない、気に入らない、気に入らない、気にいらない、気にいらない──!))
「もうやめろって!」
腹の底から叫んでもやはり彼には聞こえないらしい。とうとう堪えきれず、耳を塞いでその痛ましい光景に目を背けた。
やがて音は止み、再び部屋は静かになる。意を決して再び男の方を見ると、男は原形が分からなくなったキャンバスを留めとばかりに蹴り飛ばした。ヒラリと宙に何かが舞う。それはあの女の人の背中だった。男はそれを一瞥すると、わざとらしく足を踏み鳴らしながら部屋を出ていく。男が俺の体を通り抜けた時の残り香は、確かにあのくどい紅茶の香りだった。
✱✱✱
「あ、起きました?」
俺の顔を覗きこむのは、やっぱりあの狐の目。
(さっきのは何だ……? 夢か……?)
気づけばテーブルに突っ伏していたらしく、部屋の明かりがなんだか眩しかった。
「人が人の紅茶を飲むと眠ってしまうんですね。新たな発見がありました」
「……まさか、今まで一度も飲ませたことなかったんすか」
「えぇ。貴方が初めてです」
そんなにこやかな笑顔で言われても困る。
「ところでさっきの人生はどうでした?」
マスターの言葉を聞いてハッとすると、一気に湧いた疑問が口から溢れる。
「そうだ!あれは一体何ですか?!幻かなんかっすか?! なんかいきなり部屋変わったし、知らない男がいるし──」
まくしたてる俺を抑え込んだのはマスターから伸ばされた人差し指だった。
「まぁまぁ落ち着いて。……貴方が見たのは『紅茶の主の今』です。時間限定で主の人生を覗き見る……そんな感じと思っていただければと。もちろん、覗かれていることに本人は気づきませんけど」
マスターは飄々と説明し、俺を簡単に宥めた。そしてまた、同じ質問を投げてくる。
「で、成果の方は?」
どことなく期待した声音に、俺は軽くうつむいた。
「ただ、怖かったとしか……執着って怖いっすね……」
今も脳裏に、あの男の悲痛な叫びは焼き付いている。思い出したくなくて、何度も頭を横に振る。
「そうですか……ふーむ、やはり上手くいかないものですね。そこがまた面白いのですが」
サラリと言うが、かなり残酷だと思う。
淡々としたマスターの横で、抑えきれなかった溜息が小さくこぼれた。
「……夢を見るって、もっと純粋で、綺麗なものだと思ってた……」
独り言ちただけのつもりだったが、マスターはそれをしっかり拾ってくれた。
「確かに夢というのは綺麗です。非常に強い輝きを持つ。でもそれは、時に目を眩ますほど強力なものになります」
何事も加減が大事なんです。他の三つも、それは同じです──
初めて、マスターの言葉がすんなりと入っていった気がした。
✱✱✱
「これ、何杯目でしたっけ……」
「うーん、もう三十杯は飲まれたんじゃないですかね?」
追加のクッキーを出しながら、マスターはその長い指で律儀に数え始めた。
結局あの後も様々な紅茶を飲んでみたが、一向にピンとくるものが見つからない。
とりあえず分かったことは、【夢】が司るものは恐らく、将来の夢とか自分の目標で、【才】は学問、芸術、スポーツ……とにかく全ての才能。そして【巡】が家族や友人、ときにはペットや花など、生き物との巡りあわせだろう……ということだけ。
どれも確かに無くても生きることはできるだろうが、やはり生きる上で持っていたい要素ばかりだ。
「あぁ、そうだ。真さん、貴方には誰か、尊敬できる人はいますか?」
「はい?」
「いえ、闇雲に知らない人のものを飲むよりも、その人の紅茶を探して飲んだほうが効率がいいのではないかと思いまして」
今さらな気もするが、なるほど。このアイディアは非常に有能なものだろう。しかし、俺の場合は少し話が違う。
「……マスター。紅茶って、死んだ人のものでもあったりしますかね?」
俺の問いに、マスターは難しい顔をした。
「うーん、亡くなった方の紅茶……ですか。そういうものは、基本的に消してしまいますから……」
申し訳なさそうに眉を下げる彼。きっと察してくれたんだろう。
そう、俺の尊敬する人は、既にこの世にいない。そしてマスターの反応からして、きっとその人の紅茶は残っていない。
「……どんな方だったんです?その人は」
マスターの遠慮がちな質問に、なるべく明るい調子で答えた。
「俺の祖母ちゃんです。頭が良くて、ピアノが得意な人でした。ピアニストも目指していたみたいでしたけど、さすがにそれは叶えられなかったみたいっすね」
そういえば祖母ちゃんも紅茶が大好きだった。生きていたころ頃、一緒にピアノを弾いた後、手作りの紅茶を淹れてもらったのは良い思い出だ。
「俺の初めての夢も、ピアニストだったんです。祖母ちゃんみたいになりたくて。……まぁ、高校生になる前に諦めましたけど」
「そうでしたか……しかし、うーん、なるほど……」
マスターはしばらく考え込むように口に手を当てていたが、やがてポンと手を打った。
「よし、それなら僕のとっておきをご用意しましょう」
「とっておき?」
俺の言葉を聞くよりも前にマスターは拭いていたカップを置き、出入り口ではない方の扉の奥へ消えていく。しばらくして戻ってきた彼の手には、今までの瓶とは明らかに違う形の瓶があった。マスターがテーブルに瓶を置いたのを見ると、こっそりその瓶を手に取る。今までの瓶より、それは一回りほど小さい。しかもこれには、名前が無かった。
不思議そうに瓶を見つめる俺を見て、マスターはクスリと初めて声に出して笑う。
「気に入ってもらえると嬉しいのですが」
やがて漂ってきたのは、優しく、そして懐かしいサクランボのような芳香。出されたその紅茶の色は、少し今までのものより薄い。
「さ、召し上がれ」
しばらくその色に見惚れていたが、やがて目を瞑ってそっと口に含んだ。
……どれくらいそうしていたか。意を決してゆっくり目を開けると、そこは上下左右どこまでもが真っ白な空間だった。
わけが分からずせわしなく辺りを見渡していると──
「真ちゃん」
声が聞こえた。とても懐かしい声が。
「真ちゃん」
ありえない。でも、間違えるはずがない。
「祖母ちゃん……?」
震える声のまま後ろを振り返ると、その人物はにっこりと笑う。
蓬色の着物を着こなす、凛とした立ち姿。柔らかい表情でも、確かな力強さを持つ目。右の目元の泣き黒子。その人は確かに……俺の祖母ちゃんだった。
✱✱✱
「そう……不思議な話ねぇ」
ここに来た経緯を全て話すと、祖母ちゃんは懐かしそうに呟いた。
「まさか祖母ちゃんの紅茶だとは思わなかったよ」
「私もびっくりだよ。でもそのお陰で、またこうして会えたんだ。感謝しなくちゃあね」
互いに何もない地面に座りながら、そんなのんびりとした会話を交わす。こんなありきたりな会話でも、当たり前ではなくなった今はたまらなく嬉しい。
「これでピアノがあったら最高だったのに」
「贅沢は言っちゃいけないよ。今一緒にいられる事自体、奇跡のようなものだからね」
「……そうだね」
できればずっとこうしていたい。でも、それが無理なのは分かっている。そもそも俺の目的は、俺の人生探しなわけで。
「それで……答えは見つかったの?」
まるで心を読んだようなタイミングだ。
真面目な語調になった祖母ちゃんの声に、俺は縮こまりながら答える。
「全然だよ。祖母ちゃんのを飲めば何か分かるかもと思ったけど──」
結果はやっぱり、変わらなかった。俺には、俺がまだ分かっていない。
確かに祖母ちゃんのことは尊敬しているし、憧れてもいる。でも、紅茶をいくら似せたって、きっとそれは納得のできるものにならないだろう。隣から香るサクランボの匂いは、俺にはきっと似合わない。
「私には、もう答えが分かっているように見えるけどねぇ」
「え?」
「だってそうでしょう?真ちゃんは、もう自分の紅茶を飲んでいるんだから」
「……どういうこと?」
そう訊ねると、祖母ちゃんは当然のように答える。
「自分の紅茶を一度知ってしまえば、そう簡単にそれを変えることはできないさ」
「でも、味がしなかったんだよ? そうなったら、変えるしかないんじゃない?」
「それはただ、真ちゃんが自分の人生を愛せていないからさ。自分の人生を愛せれば、紅茶は自然と味を教えてくれるよ」
「愛するって……どうすれば……」
「そうねぇ……自分の人生に、誇りを持つことかしら」
「誇り?!そんなの無理だよ! 俺、誰かに自慢できるものなんて一つもないし」
「なんてことをいうんだい! いいかい、真ちゃん。自分の人生には誇りを持ちなさい。そんなの、自分に失礼よ!」
久々の迫力あるお叱りの声に、もうただ押し黙ることしかできない。祖母ちゃんはその射抜くような視線のまま、厳しい口調でなお続ける。
「で、でも俺、才能も、夢も無いし!人間関係だって、器用なわけじゃない! 祖母ちゃんは簡単かもしれないけど、俺にはそんなの──」
祖母ちゃんはそれを聞くと、さらに目を鋭くする。しかし声は少し抑え、言い聞かせるようなものに変わっていた。
「真ちゃん。私は隣で一緒にピアノを弾いていたから、真ちゃんの実力はよく知ってる。天才とまでは行かないけれど、貴方には間違いなく才能があるわ」
「でもそんなの、もうピアニストを目指してないのに何の役に立つっていうのさ……」
「人間関係だって、自分ではそう言っているけれど、私はちゃんと見ていたよ。真ちゃんは自分から、困っている人に声をかけていたじゃない。あれは誰でもできることじゃあないんだよ?」
「そ、それは……なんか、見捨てるのも気分が悪いというか……どうしても気になるからで……」
「それでも誇れることに変わりはない。ピアノのこともそうだけど、自分の良さに気づけないのはただの損だよ。卑下なんてつまらないことはやめなさい。それに、夢だって?そんなの簡単に見つかるものじゃない。焦るものじゃないよ。それに、それだけが人生の目標にはならないのは、賢い真ちゃんなら分かるだろう?」
そこまで言うと、祖母ちゃんはフッと目の力を抜き、微笑みを湛えながら俺の手を握った。ひんやりとした感覚が伝わってくる。
「祖母ちゃん……俺──」
「私はね、真ちゃん」
俺の言葉を遮ったまま、祖母ちゃんは優しく続けた。
「私は……夢を叶えられなかったけど、ちゃんと幸せだったよ。それは、子供や孫に恵まれて、大好きな人と出会えて、極めたいと思えるものに出会えたから。偶然、そういう運命に巡り合えたからだ」
「……てことは、全部は【運】だっていうこと?」
俺のその言葉を、祖母ちゃんは笑って否定する。
「偶然と必然っていうのは、同時に起きるもんだ。『あの時、仲良くなるために勇気を振り絞って声をかけたから』『あの時、楽しさをバネに辛くても弾くことを止めなかったから』そんな必然の連鎖が、運を引き込んでくれたのさ。必然……つまり、努力っていうのはね、唯一神様が決められない、特別な力なんだよ」
そう言うと、黙ったままの俺の頭を祖母ちゃんは優しく撫でた。
「最後は全て、自分の努力次第だよ。ちゃーんと、見守っているからね」
サクランボの匂いが、不意に強くなる。祖母ちゃんが俺を抱きしめてくれたからだと気づいたときには、世界は白い靄に覆われていた。
✱✱✱
「あの紅茶、実は僕に初めて紅茶を教えてくれた人のものなんですよ。亡くなったのは知っていたのですが、どうしてもあれだけは捨てきれなくて」
……まさか、真さんのお祖母様のものとは思いませんでしたが。
俺が紅茶を詰めている横で、マスターは懐かし気にそう語る。
「じゃあ、紅茶を作り出したのは本当に最近のことなんすね」
「えぇ。まだほんの数十年前のことですよ」
マスターが言い終わったところで、俺の茶葉が完成した。
「さっそく、淹れてみましょうか」
淹れられたお茶は、狙ったわけでもないのに、あの甘くさわやかな果実の香りがした。そして口に入れてみると、今度はちゃんと、紅茶あの優しい甘みと柔らかさがしっかりと広がった。ちょっと雑味はあるがそれは仕方がない。味がないよりは、ずっといい。
「ふふっ消す前のものとほとんど変わりませんね。でもちょっと【夢】を足しました?」
「バレました?やっぱり、ちょっとは欲しくって」
穏やかな笑い声が部屋に広がる。しかしマスターはしばらくすると、スッと笑いを収めた。そして穏やかに、でもどこか寂し気に俺に告げる。
「もう、大丈夫でしょう。雨も上がっているはずです」
そう言われて初めて、ここに飛び込んだ理由を思い出した。
「……俺、また、ここに来れますか?」
マスターはその言葉に小さく笑う。
「また迷ったら。恐らく」
その言葉を聞くと、くいっとお茶を飲み干した。そしてニッと笑い返す。
「迷わずに、また来ます」
「……楽しみにしています」
互いに笑みを交わし終え、無言で席を立つ。見送りの視線を感じながら、振り返ることなく店を出た。
蒸し暑い、いつもの通学路が目の前に広がる。扉が閉まるのを待たずに、歩き始める。
青く果てしない空には、一つの飛行機雲が走っていた。