竹を取り、萬のことに使う夜(卅と一夜の短篇第15回)
むかしむかしではない今日のこの日に、おじいさんとおばあさんがおりました。
おじいさんは竹をとって暮らしているわけではなく、長年勤めた会社を定年退職した後、おばあさんと二人分の年金で細々と暮らしているのですが、今日はちょっと訳あって山で竹を切っているのでした。
ぎこぎこぎこ。
山の中に響くのは、竹をのこぎりで切る音です。ひと気のない山ではありますが、昼間の山は静かとはいえません。手入れされていない山では竹が伸びたい放題に伸び、風を受けてはしなるので、互いにぶつかって高い音を立てています。汗を垂らしてのこぎりを動かすおじいさんの耳元では、蚊が飛び回ってうっとおしい羽音を立てています。
慣れない力仕事をするおじいさんが倒れやしないかと監視についてきたおばあさんは、わずかな涼を求めてハンカチを振り動かしては、どこからか聞こえる鳥の声を薄気味悪く思っているのでしょう。あちらこちらへと首を動かしては、姿の見えぬ鳥の羽ばたきに眉間のしわを深くさせています。
しばらくの間、おじいさんのふうふうと言う息づかいと、おばあさんがぱたぱたと手巾を振る音ばかりが続きました。
やっとのことで背の低い細い竹を切り終えた、そのときです。鬱蒼と茂る木々に囲まれた竹林に、明るい光が満ちました。そして、その光に包まれてひとりの少女が現れたのです。
「おじいちゃん、おばあちゃん!」
驚くおじいさんたちの元へ、少女が駆け寄ります。愛くるしい少女の笑顔を向けられたおじいさんたちは、相好を崩しました。目尻どころか眉毛も下げて、ついつい上がる口角もそのままに、でこぼこした地面をえっちらおっちら進んでくる少女を見つめています。いつもはしわが目立つからと澄ました顔を崩さないおばあさんさえ、しわくちゃの顔をして笑っています。
すると、その背に降り注ぐ光の中から、野暮な声が聞こえました。
「こら、先に行っちゃ駄目だろ、かぐや」
男が言いながら足を進め、竹を抑えていた手をどけると、竹林を照らしていた光は消えました。鬱蒼と生い茂りすぎた竹の葉に、陽光が遮られてしまうのです。
まばゆい光に包まれておらずとも可愛らしい少女、かぐやを見つめていたおじいさんは、歩いてきた男が派手な桃色の合成樹脂製のつっかけを履いていることに顔をしかめました。
「お前、そんなもの履いて山を歩くと怪我するぞ」
「山を歩くつもりなんかなかったんだよ。家でじいさんたちが竹切ってくるの待とう、って言ったのに、かぐやが待ちきれない、って走り出しちまったから」
面倒臭そうに言う二人の息子の言葉には返事をせず、おじいさんとおばあさんは可愛い孫に構いに行きます。
「少し見ないうちに、ずいぶん大きくなったんじゃないかい?」
おじいさんが挨拶がわりに言うと、孫のかぐやは嬉しそうに頬を染めます。
「本当に。ついこの間までほんの小さな赤ん坊だったのに、もうこんなに大きくなって」
にこにこと頷くおばあさんの言葉に、かぐやは丸く柔らかな頬をぷうっと膨らませて眉を吊り上げました。
「かぐやは赤ちゃんじゃないよ! 赤ちゃんは、おしゃべりしないんだから」
この春、幼稚園に入ってからぐんと語彙の増えたかぐやに、おじいさんとおばあさんはめろめろです。
楽しげに言葉を交わす三人の横で、おじいさんの息子が先ほど切った竹を回収しています。幹の部分を切断された竹は、枝葉の部分が他の竹と絡まり合っているため、倒れることなくぶら下がっていました。それを力技で引き倒した息子は、竹の葉をざわざわと鳴らしながら人里へと向かいます。
その後ろを揺れる竹の葉を嬉しそうに眺めながらかぐやが歩き、そんなかぐやを締まりのない顔で見つめるおじいさんとおばあさんが続きました。
おじいさんとおばあさんの家に着くと、息子は庭に停めてあった自分の車に竹を乗せました。家族向けの大きな車なので、小ぶりな竹は難なく収まります。
「そんじゃあ、帰るか」
かぐやに向けられた息子の言葉に、おじいさんとおばあさんは落胆しました。けれど、そう簡単にはへこたれません。息子の言葉にかぐやが返事をする前に、素早く口を挟みます。
「かぐやちゃん、ちょっとおばあちゃんたちの家に寄って行ったらいかが? おいしいおやつがあるんだよ」
おばあさんが言うと、かぐやは少し考えて、首を横に振りました。
「お昼ごはんを食べたら、お星さまのかたちのおかし、おかあさんと作るの。だから、おやつはいらない」
まっとうな断り文句に切り捨てられ、おばあさんが沈黙します。すかさず、おじいさんが討って出ました。
「まだ朝だから、もう少しゆっくりしても大丈夫だろう。実はね、おじいちゃんたちから贈り物があるんだよ。でも家の中に置いてきてしまったから、一緒に取りにおいで」
食べ物が駄目なら物で釣ろう、というおじいさんの作戦は、幼いかぐやの心を揺らしたようです。
早く帰らねばという気持ちと、贈り物をもらいたいという気持ちの間でさまようかぐやは、そっと己の父の顔を仰ぎ見ました。
「あー、そしたらもらって帰るから、持ってきてくれよ」
かぐやの視線に気づいた息子は、しかしおじいさんたちの気持ちにはまったく気付かず、非情な言葉を吐き出します。けれど、そんな息子に慣れているおじいさんは素直に頷きはしません。
「いや、実は今日の夕に着たらいいかと思ってな、甚平を買ったんだよ。女の子用の可愛いやつでな、せっかくだからちょっと着て見せてほしいなあ、と思ってなあ」
言いながら、赤い金魚柄の甚平を着た孫の姿を想像したのでしょう。おじいさんは、早くも目尻を下げています。その横では衝撃から立ち直ったおばあさんも、似たような表情を浮かべています。
それでも、期待に満ちた二人の様子に息子は気がつきません。
「そしたら、家で着たら写真送るわ。そしたら飾りつけした竹とも一緒に写せるし。それでいいっしょ」
気がきいているようでまったくきいていない息子の言葉に、おじいさんとおばあさんは力なく頷きました。そして足取り重く、家の中から贈り物の入った包み紙を持ってきます。
ああ、これを渡してしまえば、かぐやは帰ってしまう。遠い場所へと、旅立ってしまう。
おじいさんとおばあさんが深い悲しみに飲み込まれそうになったとき、一行のもとへ一台の自転車が駆け込んできました。
「ふーっ、間に合った! かぐやちゃん、久しぶり!」
自転車にまたがったまま声をかけてきたのは、おじいさんたちの娘です。二十代後半、独身、実家住まいの娘です。ちなみに、結婚の予定はまだありません。
「あれ、おまえまだ仕事中じゃないの」
息子が問うと、娘はほこらしげに胸をそらして答えます。
「休憩時間に抜け出してきた! かぐやちゃんに会える貴重な好機を逃すなんて、できないよ」
言うが早いか、自転車から降りた娘はかぐやを抱きしめます。そしてそのまま脇を掴んで持ち上げると、高い高いをした状態でくるくると回りはじめました。なかなかやってもらえない刺激的な遊びに、かぐやがはしゃいだ声をあげます。
おばちゃん大好き、というかぐやの言葉に娘への嫉妬を覚えるおじいさんとおばあさんですが、娘が生み出した輝かんばかりのかぐやの笑顔に顔が蕩けます。
この幸せな時間が少しでも長く続くように、と願う思いが通じたのでしょうか。娘が仕事に戻らねば、と後ろ髪を引かれつつ立ち去ってすぐ、近所の人が犬を連れて通りがかりました。
大の動物好きであるかぐやは人懐こい犬を撫でさせてもらい、さらに笑顔を振り撒きます。立ち去る犬を見送ったかぐやが車に乗ってしまおうとしたとき、声をかけてきた者がありました。
「あらー、息子さんが帰ってきてるの? あらあ、可愛い子を連れてー。お嬢ちゃん、とうもろこし好き?」
挨拶をする間も与えず、ずんずんと近寄ってきたのはおじいさんの家の隣人です。農作業をしていたのでしょう。広いひさしのついた帽子に首元まで覆われたその人は、手に下げた竹籠からとうもろこしを取り出し、かぐやの返事も聞かずに押し付けるようにして手渡します。
「これね、採れたてだから甘いのよ。茹でてもらって食べるといいわー。そうそう、おたくはきゅうり育ててる? ちょっとうちのは一度にたくさん出来すぎて食べきれなくて。ちょうどいいわあ、今採るから、持って帰ってちょうだい!」
誰も返事をしていないのに話を進める隣人に、さすがの息子も呆気に取られたようです。止める間も無く畑に向かった隣人は、きゅうりだけではなくなぜかなすや枝豆まで収穫してきています。
「あら、ちょっとこれじゃあ入れ物がいるわね。何か袋ある? いま入れるから、ちょっと袋広げてくれる? 悪いわね。これね、きゅうりとげが痛いから気をつけてね。それからなすは素揚げがおすすめ。あつあつ揚げたてにぽん酢をかけたら、最高においしいから。枝豆は茹でて、晩酌のお供にしてね」
隣人はおばあさんに言って小売店等で渡される買い物袋を用意させ、野菜を入れる手伝いをおじいさんにさせました。かぐやに新鮮な野菜に気をつけるよう伝え、息子には食べ方について助言しました。次々に声をかけた隣人は、誰ひとり返事をしないうちに次の話題へと移っていきます。
「まあしかし、えらいわねえ、おたくの息子さん。うちなんか孫を見せろ、って言ってもなかなか連れてきてくれやしないのに。もう、こんな可愛い時期なんてすぐ過ぎちゃうんだから。たくさん会わせてあげてよ。うちの子にも言っとかなきゃ」
そう言ってひとりで話を終わらせた隣人は、またおいでよ、とかぐやに手を振り去って行きました。
賑やかな隣人が去った後に、沈黙が流れます。もう、かぐやを引き止めるものはありません。ついに、別れのときがやってきたのです。
「……帰ってしまうんだね」
寂しげにつぶやくおじいさんに、かぐやがにっこり笑います。
「ぜったいまた来るよ。おじいちゃんとおばあちゃんに会いに来るよ」
優しい言葉に、おじいさんとおばあさんは目を潤ませました。閉められていく車の窓の向こうにいるかぐやに見えるように、深くうなずきます。遠ざかっていく車の後ろ姿が見えなくなるまで、手を振り続けます。
その夜。おじいさんとおばあさんと娘は、かぐやの笑顔を思い出しながら夜空に輝く月を見上げていました。よく晴れた、静かな夜です。空にかかる天の川も、きれいに見えます。
三人がしんみりとした気持ちになったそのとき、場違いな電子音が静寂をやぶりました。
「あ、兄ちゃんから写真きた!」
娘の言葉に、おじいさんとおばあさんはいつにない敏捷さを見せて、集まってきました。そして、娘の携帯電話の画面に表示された写真を見て、三人そろってしまりのない顔を浮かべます。
写真に写っていたのは、折り紙で飾りつけられた竹の横に立つ、赤い甚平を着たかぐやの姿。そして次の写真には、竹に下がる短冊に書かれた二つの願いごとが写し出されていました。
『おじいちゃんとおばあちゃんにまたあいたい』
『おばちゃんとまたあそびたい』
どうにか判読できる字で書かれた願いごとに三人は蕩けた笑顔になって、そして、一年に一度の夜は幸せに更けていくのでした。
ちなみにかぐやたちは、おじいさんの家から車で三十分くらいの距離に住んでいます。いつでも会える距離だからこそ、なかなか行きづらい現状。