第九話
目を覚ました先にはよく知っている真っ白な天井が広がっていた。稲穂はかすむ視界で、自分の部屋を見渡す。
頭もぼやけていて、昨日のことは良く思い出せないが気を失ったことは覚えている。
どうやって自分の部屋まで帰ってきたのだろうか。朦朧とする意識の中でも歩いて来たのだろうか。
額に手を当てるとここでようやく、自分の額の上にタオルが乗せられていることに気がつく。
自分で乗せたのか、それとも誰かが乗せてくれたのか。
「おはようございます……津田さん」
声がする方に身体を起こすと、千歳が台所で何か作業をしていた。
ますます状況が分からない。
どうして彼女が家にいるのか、そもそも彼女はどうして自分の家を知っているのか。
混乱している稲穂に千歳は近づき、床に膝を着き彼の額に手を当てる。冷たい手だが考え事をして熱くなっている彼の頭には丁度良かった。
「熱は、下がっているみたいですね……良かったです」
千歳はにこりと笑い、手を離す。
額から離れた感触がなんとも口惜しかったが、稲穂は千歳に質問をした。
「どうして、僕の部屋に? そもそも昨日はあの後どうなったんですか?」
稲穂の質問に千歳はゆっくりと答えた。
「津田さんは昨日、ファミレスで気を失いました……。失礼ながら持ち物を調べさせていただきました。そうすると、住所を書いている紙を見つけたものですから……タクシーを呼んでからここまで津田さんを運んできた次第です」
住所を書いた紙と言ったらあれしかない。東に口もきけなくなるぐらい酔わされたときに、タクシーの運転手に渡す為のあの紙だ。
まさかこんなところで役に立つとは思いもよらなかった。
そうなると、彼女は稲穂を担いで部屋まで運んできたことになる。
彼女の細い体に成人している男を運べるだけの力はあるのだろうか。稲穂はじっと細枝のような腕を不思議そうに見つめる。
「今……私が本当に運んできたか疑いましたね?」
まさかあの占い師以外に考えていることを言い当てられて、稲穂は目を見開いて首を何度も振って否定をする。
「いえまさか!」
彼女はふふっと微笑むとこう言った。
「私、こう見えても力はあるんですよ……」
少し自慢げな顔をする彼女がとても可愛らしかった。カーテンの隙間から入り込む朝日が部屋を初夏の色に彩る。
窓の外から見える緑の葉は穏やかで柔らかい風に触れ、右へ左へ揺れてまるで季節の移ろいを唄っているようだった。
彼にはしばらく無縁だった緩く優しい時間。
ここ最近は呪いのこともあってか、彼の時間は激しく動いていた。
周りの人を見ればいつも急いでいた。余裕のない人が多かった。おそらく稲穂も大衆の波に呑まれて、心の必要な隙間を作れていなかった。もしくはその隙間を無理に埋めていた。
稲穂はもっぱらゆっくりとした時間の中で生きる方が好きだ。
しかし、その時間は唐突に終わる。
彼の部屋に来客を知らせるインターホンが鳴る。
「津田さんは無理しないでください。……私が出てきます」
「すいません、ありがとうござ――」
す。と言い切る前に稲穂は大事なことを思い出す。
急いで机の上の置時計で時刻を確認した。時刻は十時を三十分程度過ぎたところ。今日は一時限目から授業がある。
完全に遅刻というか欠席なのだが、この時間に一時限目の授業を欠席した時点で誰が訪問してくるのか決まっている。
そして、ドアの向こうにいる者は部屋着姿の稲穂が出て来ると思っている。開いたら見知らぬ女性が出て来る。ややこしいどころの騒ぎじゃない。
稲穂の呼びかけも間に合わず、千歳は何の悪気もなくただ彼の為を思って玄関のドアを開く。
「おはようございます、稲穂せん――!?」
夕夏梨の瞳に飛び込んできたのは部屋着の彼ではなく、雪のように真っ白な肌をして黒く艶やかな長い髪の見知らぬ女性だった。
相手は目を泳がせ困った顔をしている。女の夕夏梨からしてもその表情をされると守ってあげたくなる。
自分の数倍綺麗で可愛らしい女性が、先輩の部屋にいる。
しかも当の本人はベッドで、しまったという顔をしているではないか。夕夏梨の頭は混乱を極めていた。
「あの、どちら様ですか?」
夕夏梨がまず初めに声を出した。
「わっ、私は日比谷千歳と申します……」
何故か申し訳なさそうにおずおずと答える。その答え方はあらぬ疑いを生み出す可能性があることを千歳はまだ知らない。
稲穂もあの状態の二人を放っておくわけにはいかない。ベッドから飛び起き、戸惑っている二人の間に割って入る。
「日比谷さん、あとは僕は話しますから」
千歳はコクリを頷き、夕夏梨に頭を下げて稲穂と交代する。
稲穂と夕夏梨の目が合う瞬間、彼女から説明してくださいと無言だったがたしかに彼に伝わっていた。
「どうして先輩の部屋に女の人がいるんですか? しかも朝で先輩の服は昨日のままですよ、これは疑うなっていう方が無理です。先輩も人が悪いです、彼女がいるならいるって言ってくださいよ」
明らかに怒っている。ものすごく。
そして瞳が潤んでいる。理由が分からなかったが、取り敢えず稲穂は色々な誤解を解かねばならなかった。
「誤解しないでくれ……! 日比谷さんはそんなのじゃない」
「じゃあどんな関係なんですか? 私だってまだ先輩の部屋に入ったことないのに」
これはどうやって言い訳をして誤魔化せばいいだろうか。親戚と言えば何の滞りのなく説明できるだろうか、いやダメだ。名字で呼んでしまっているからその手は使えない。
親族という線が消えて、あとは学校の友人と言うしかない。
苦肉の策が過ぎる。学友と言っても男性ならまだしも女性でしかも一人となると難しい。
しかし、これしか手がない。
ええいままよ。
「ゼミの友達なんだ。ほら言ったじゃないか、ゼミの宿題のことで相談していたんだ。そうしたらお互いに寝てて。不可抗力だったんだ」
夕夏梨の疑いの視線が痛い。
しかしながら、本当のことを話してしまうわけにはいかない。実は自分は呪われていて、呪いを解いてくれる解呪師の日比谷千歳さんと紹介するという回答はしてはいけない。
何度も言うが、夕夏梨には余計な心配をかけたくないのだ。彼女の先輩として、一人の男として。
「頼む、信じてくれ」
稲穂は手を合わせてさらに頭を下げる。
夕夏梨もさすがにこれ以上は追及しなかった。稲穂は平気で嘘をつく人物ではないと信じているからだ。
「分かりました信じます。だけど先輩、女性を朝になるまで家に帰さないのはダメですよ。私みたいに変な誤解が生まれますからね」
稲穂はホッとして胸を撫で下ろし、深い息を吐く。
「それでこの後の授業はもちろん来るんですよね?」
忘れていた。今日は一時限目から四時限目までびっしりと入っているのだ。しかし呪いのこともある、実家に戻って小学生のときの写真を探さなければならない。
ちらりと後ろに心配そうに立っている千歳に目をやる。
彼女のこともある。いつでも稲穂ばかりに構っていられないだろう。他の仕事が入ってしまってはいつまでも呪いは解けないまま。
それでは困る。
「ごめん、今日の授業は出れそうにない。迎えに来てくれたことは感謝している、ありがとう」
「……分かりましたよ。私が先輩の分まで授業のノートをとればいいんですね? て言っても、同じ授業二つしかないですけどね」
彼女はハハハと笑う。
「そう言っている訳じゃなくて」
稲穂が弁明するが、夕夏梨は申し訳なさそうに目線を下げながらこう言う。
「いいんです、私なりの罪滅ぼしです。その、変な誤解しちゃったわけですから」
「でも迷惑じゃないか?」
夕夏梨はかぶりを振る。
「いえとんでも。むしろテストが近いので良い機会です。先輩より良い評価取ってみせますから」
ふふん。と得意げな顔をする夕夏梨を見て、稲穂も観念したのか彼女の気持ちを汲んでノートを手渡す。こうでもしなければ彼女が引かないのは、彼はよく分かっている。
「では、お邪魔しました」
最後に夕夏梨は千歳に頭を下げて、稲穂の部屋をあとにするのだった。
稲穂は、ふう。と一仕事終えた感覚になっているが、まだ一日は始まったばかりである。これで疲れていてはこの先が思いやられると言うものだ。
実家に帰るまでの電車で一時間ほど揺られ、降りてからもまた歩くのだ。
「お騒がせしました」
千歳に向かって軽く頭を下げる。
「いいえ。彼女……余程、津田さんを慕っているんですね」
彼女はあの光景を微笑ましく思っているのか、ふふふと笑う。だが稲穂はこの発言に首を傾げた。
「そうですか?」
「はい。そうでなかったら、わざわざ迎えに来ませんよ……それも男性の家なら尚更です」
頭を掻き、あとでもう一度夕夏梨に謝っておこうと思う稲穂だった。
「その様子だと、もう大丈夫ですね。体の痣を見てください。きっともう引いていると思いますよ」
続けて言った千歳の言葉通り、稲穂は服をめくり体を確認すると痣は綺麗さっぱり無くなっていた。久し振りに見る真っ白な体。無性に嬉しくなったが、あまり大声で喜ぶわけにもいかず、噛み締めた。
しかし納得がいかない。昨日は胸のところまで這い上がってきていたはずだ。ついでに腕の痣も確認するが、これも無くなっていた。
自分が見たのは幻覚なのか。
すべて千歳が稲穂が尋ねる前に解答をくれた。
「以前にも言った通り、その呪いは真実に近づくごとに弱まっていきます。元々呪いとしても呪いとしても半端でしたから、抵抗もそれほど強くありません。大方あれが最後の抵抗と言ったところでしょう。ですが、昨日あのままご実家に向かっていたら津田さんはもっと大変なことになっていました。あとは喧嘩したのは誰なのか分かれば、呪いは解けます」
呪いも、消えかけのロウソクの火のように強く燃えたということか。たしかにあのまま実家に行っていたらと想像するだけで空恐ろしい。
しかし、呪いは解けるということは稲穂にとってこれ以上にない吉報だった。
それならば、今から行くべきだ。
「じゃあ、すぐに行きましょう!」
稲穂が勢いよく意気込む。
「はい……。ですが、誠に勝手ながら朝ごはんを作らせていただいたので、まずは朝ごはんを食べてからにしましょう。一日の活力ですから大切です」
彼女の手料理を食べられると知って、稲穂は呪いを解きたい逸る気持ちを抑え、せっかくなので好意に甘えさせてもらうことにしたのだった。
*****
朝食も食べ終わり、稲穂たちは電車で一時間も揺られながら彼の実家に到着したのだった。
家にいるであろう母に事前に連絡しなかったのはさすがにまずいと思ったが、どうにかなるだろうと決めつけていた。
本当の問題はそこではない。
問題は稲穂が一人で帰省している訳ではないことだ。しかも隣には女性がいる。
前に夕夏梨を家に連れてきたことがあったのだが、それでも大騒ぎ。何度もただの後輩だと言い聞かせて落ち着かせたが、今回はどうする。
ゼミの友人とでも答えるか。いや、それならここまでついて来てることを説明できない。また余計な誤解が生まれる。
無論避けたい。
玄関の前で何分も立ち尽くすのもどうかと思う。
仕方ない、母親にだけなら本当のことを打ち明けてもいいだろうか。
悩む稲穂を見て、千歳が話しかける。
「私に……いい考えがあります。任せていただけますか?」
ここは千歳に任せることにし、深呼吸をして玄関を開ける。
「ただいま」
「お邪魔いたします」
家の奥から稲穂の母親が急ぎ足で来る。
「あら、稲穂じゃない。どうしたのいきなり帰ってきて。それに隣のその綺麗な子は?」
彼女は驚きながらも、ついに息子にも春が来たのかと安心していた。
稲穂は黙って見守ることしか出来ない。千歳がまず一歩前に出て至極丁寧に挨拶をする。
「おはようございます。稲穂さんと、お付き合いさせていただいている日比谷千歳と申します。今日は……お母様にご挨拶をと思い参った次第です」
稲穂は口が開いたまま鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
まさか自ら誤解に突っ込んでいくとは思いもよらなかった。しかし、これならばスムーズに二人とも入ることが出来る。
彼女の名女優並みの演技について行かなければ。
「そういうことでさ。母さんお茶出してよ。ちっ、千歳がどうしても親に会いたいっていうから。サプライズで紹介しようって思って」
表情が石のように硬い。小学校の学芸会でも稲穂は演技が下手だったせいで喋らない役しか演じたことがなかったのだ。
「そう言うことなら早く言ってよ! もう、お母さんにだって予定とかあるんだからね。千歳ちゃん、何もないところだけどゆっくりしていってね」
意外とすんなり騙されてくれた。
靴を脱ぎ、二階に上がって自分の部屋に入る。
高校を卒業したときと何も変わっていない。これならばすんなりと小学校のアルバムを見つけられる。
千歳を自分の部屋に招き入れるのは恥ずかしかったが、そうとも言ってられない。
早速思い出の品を漁る。すべて押し入れにしまっているはずだ。
「日比谷さん、探すのでちょっと待っていてください」
すると千歳は「あっ」と声を出す。
「あの、ご実家にいる間は千歳と呼んでいただいた方が」
そうだった。母がお茶を運んでくるときに名字でしかも互いに敬語で話していれば、おかしいと思われる。
まだ慣れなく恥ずかしいが、演技を続けるしかない。
「私も、稲穂さんと呼ぶように努力しますから」
頬を桜のように淡く染め照れながらも頑張る彼女の姿に胸がどきりと高鳴る。稲穂は変な妄想を振り払うように何度も頭を振り、押入れの捜索を始める。
小学校のアルバムを見つけた。
分かりやすいところに置いておいて良かった。
懐かしい気持ち半分、どこか後ろめたい気分でページをめくる。
千歳も静観している。
ただ紙が擦れる音だけが響く。めくる手が自然と震えていた。
とあるページをめくると二つに破れた写真が挟まっていた。
写真に惹かれるように手を伸ばす。誰かが頭の中で「止めろ。また苦しくなるだけだぞ」と囁く。たとえまた傷つくことになっても、自分の記憶を取り戻す。
稲穂の意志は固かった。
写真を確認すると、子どもの頃の稲穂と肩を組んだもう一人の男との子がいた。二人とも笑顔だった。そして別れを表すように真ん中から破れている。
いや、破いたのだ。稲穂自身が。彼はすべてを思い出した。彼の名前も、どうして喧嘩をしたのかも、どうしてこれほど後悔しているのかも。




