第八話
稲穂が夕夏梨を家の近くまで送った小一時間後。
空はすっかりと暗くなり、あの赤色の太陽は沈み、稲穂の頭上には笑っているように見える三日月が座していた。
淡い月の光は決して人の足元を照らすことはない。街灯が普及して役目を取って代われたのだ。実家に帰れば子どものころ見上げた月がまた見えるだろうか。
稲穂は駅前で一人立っていた。
用もなくこのような場所に来るはずがない。稲穂は千歳に呼び出せれたのだ。
占い師が予言したメールの内容が『私も丁度、仕事の関係で街に来ています。ご迷惑でなければ、今からお会いできないでしょうか?』
デートの誘いなのかと勘繰ったが、おそらく稲穂の呪いのことだろう。もしかしたらという淡い希望を持ちながら、千歳を駅前で待っているのだ。
視界の端に映ったのは、人の波に流されて上手く歩けていない千歳の姿だった。
約束の時間は七時。彼も彼女も約束の十分前に来ている。
遠目からでも分かる彼女の困り果てた表情を察して、稲穂は助けるために早足で近づくが、彼もまた流される。
ようやく、人波をかいくぐり手を伸ばすことに成功する。
「日比谷さん、こっちです」
千歳も聞いたことのある稲穂の声を聞いて安心したのか、ぱぁっと顔が明るくなり、すみません。と謝りながらも稲穂の手を握る。
柔らかな肌触りに胸躍らせながらも、離さないようにぎゅっと力を入れて彼女を雑踏から救い出す。
「この時間は人が多いですから、歩くだけでも一苦労ですよね」
「……すいません。私からお誘いしたのに。幾分、歩き慣れてないものですから、その……ご迷惑おかけしました」
彼女が申し訳なさそうに謝ると、稲穂は急いで手を何度も振って「とんでもない」と否定する。
彼女を見る限り、たしかに言う通り人混みの中を歩き慣れているとは思えない。もっとも彼も慣れていないのだが。
互いに時間より早く来てしまってからか、多少の気まずさが生まれる。
稲穂は誘われたからには早く来ておかなければという、東や夕夏梨に散々付き合わされたから体に習慣として染みついている。
千歳は誘ったからには早く来て、人とあまり付き合っていないせいで失礼の無いようにしておきたかったのだが、道中老女の道案内をしてあげたり、迷子の子どもを助けてあげたりと、色々とあってこの時間になってしまったのだ。
それぞれの事情があるのだが、お互いに何故とは口にはしなかった。
結果として時間に間に合っているのだから。
「それで、話って何ですか?」
稲穂が話を切り出す。
彼が考えるもしかしたらが頭を過る。彼女の薄く紅い唇から放たれた言葉はこうだった。
「津田さんの……呪いについて、お話をしておこうと思いまして」
当然、そんな甘く淡い希望は見事に砕けて消える。
薄々呪いについてだろうと分かっていた。しかし、女性に呼び出されて年頃の男性が期待しない方がおかしい。
稲穂も落ち込んだ顔を見せることなく、自分に言い聞かせて真剣な顔をして話しを続ける。
「何か分かったんですか?」
千歳はコクリを頷く。
固唾を飲み、稲穂は彼女の続く言葉を聞き逃さないために、この喧騒の中でも耳に意識を集中させた。
聞こえたのは、誰かの空腹を伝える腹の間の抜けた音だった。
音の元は稲穂ではない、目の前にいる千歳だ。
「すっ、すいません……! あの、その……」
恥ずかしさのあまりに顔を真っ赤にしてそれを悟られないように伏せ、何とか弁明をしようとしていたが、上手く言葉が出てこず千歳は耳までリンゴように赤くしたまま固まってしまった。
「お腹空きましたよね。僕もです。あの、ご迷惑でなければどこかでご飯でも食べながら話でもしませんか?」
彼女は何も言わずゆっくりと、首を縦に振る。
駅前には安くて、落ち着ける場所はないだろうか。
右や左を向き、どこか店を探すが駅前ということもあって飲み屋が多かった。
あそこの居酒屋は東に連れていかれた店で、あそこの洒落た立ち飲みバーも同じく東に連れていかれた。どこを向いても、彼女と行った店しかない。
千歳がお酒に強そうには見えない。ファミリーレストランが一番最適なのだが。場所は分かるのだが、少し歩くのだ。
「近くにファミレスがあるんですけど、ちょっと歩くんですよ。それでも大丈夫なら」
「私も……お酒はちょっと苦手、でして。……ファミレスのほうが、私的にも助かります」
辺りは居酒屋だらけなので、彼女も連れていかれると思っていたのだろう。しかし、稲穂も千歳も酒が苦手という共通点があったおかげで、入らずとも済んだ。
二人は歩き出す。いつも通りに歩く稲穂と後ろからついてくる千歳。稲穂は遅れる彼女に気が付き、歩くペースを合わせて隣に並ぶ。
こうして女性と肩を並べて歩くのは、夕夏梨以来だろう。彼女とは古い知り合いなだけあって互いの歩調も完全に体に染みついている。
東はいつだって彼の前を意気揚々と歩く。
ある意味、稲穂の後ろを歩く女性は千歳が初めてなのかもしれない。
道中、会話が何もないのはさすがに淋しいので稲穂が会話を始める。
「そうだ、日比谷さんは大学に通いながら解呪師を? それとも解呪師だけで生活を?」
「……私は大学に通いながら、その片手間に……解呪師をさせていただいています」
そうなると、ますます年に似合わない落ち着きようである。
稲穂が思い浮かぶ大和撫子に一番近い。物静かだが、いざとなれば頼りになる気丈さを持つ。静と動を併せ持つ存在だと思っている。一種の尊敬の念すら覚えている。
夕夏梨にも千歳の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいぐらいだ。
「となると、あの館から通学を?」
「はい。……そうなります。ですが、山道はいくら歩き慣れても……こう人通りが多いと、疲れてしまいます。加えて、私は……歩くのが遅いですから。いつも講義の一時間前には、大学に着くように心がけています」
「大変じゃありませんか? 僕も登るのに苦労しましたよ」
稲穂がそう言うと、彼女はくすくすと微笑む。
その姿が月の光よりも淡く、美しく見えたのは彼の瞳に映る彼女だけだった。
不意を突かれた美しさに目のやり場を探しながら、目を泳がせていた。
「でも、慣れると楽しいですよ。……季節を追うごとに変わる自然たちが、そうさせてくれます」
そうこう話しているうちに稲穂たちはファミリーレストランに到着していた。
幸い未だに混んでなく、店員に案内され席にスムーズに座ることが出来た。
呪いの話をする前に、まずはメニューを開き食べる物を決める。
ここ最近のファミレスは顧客のニーズに合わせて、進化し続けている。食べたいものは必ずあるのだ。稲穂はカレーと食後のコーヒーを頼み、千歳はそばと稲穂と同じように食後にコーヒーを頼んだ。
そしてこのとき、稲穂は気がつく。
意図とせず、千歳と食事に来てしまっていることに。
あそこで彼女の腹の音が鳴らなかったら、話して終わりだっただろう。まさにあの音は祝福の音色だった。
浮かれた気分の稲穂に向かって、千歳は口を開く。
「メールでお伝えしたように、津田さんの呪いについてお話したいことがあります」
嬉しさで舞い上がりそうだった彼の足は掴まれ、地に無理矢理つけられた。
恨むべきは足を着けるべき地面があったことだ。それさえなければ稲穂は自由に空を飛べていただろう。彼もようやくここに来た理由を再確認した。
「……それで、何か分かったんですよね? もしかして解く手掛かりとかですか!?」
息を荒くして、自分に問う稲穂をなだめるように運ばれてきた料理を指差し、微笑みながらこう言った。
「まずは……食事を、済ませてからにしましょう。……すぐ済む話ですので、もう少し落ち着いても大丈夫ですよ」
そうだ。焦ってはいけない。解呪には慎重すぎるということは無いのだ。ここで何かを取り違えて、失敗してしまっては元も子もない。
「そうですね。すいません、焦り過ぎました」
黙々と彼は気を紛らわせるように食事をした。
三十分後、少々の談笑を加えてながら楽しく食事を終えた。夕夏梨たちとは違い、彼女とは本の話をした。
好きな作家は誰だとか、その中で好きな作品はどれなのか。
他愛もない話だが、おかげで稲穂の気持ちは随分落ち着いた。
食後のコーヒーを嗜みながら、千歳はようやく呪いについて話を切り出した。
「実はもう、津田さんが消したかった記憶についてはおおよそ見当がついています」
ごくりと生唾を飲み込み、コーヒーカップを握る手に自然と力が入ってしまう。緊張しているのが千歳にも伝わってしまいそうだ。
「津田さん、小学生の頃に誰かと喧嘩または誰かを泣かせてしまったことはありませんか?」
「え?」
口を開けたままの稲穂を置いて行くように、千歳は続ける。
「あのとき津田さんは、いくら小学生の僕でも誰かを泣かせたりなんかしない。とおっしゃっていましたね。でも、私はその後の話を聞いて思いました。どうしてあそこだけ『泣かせたことはない』と言ったのか。喧嘩はしていないと言えばいいのに、どうしてわざわざその言葉を選んだのか。実際に泣かせたことがあるから、その言葉を選んだのだと私は思います。何十年もあなたを苦しめた記憶は、簡単に消えるわけはありません。完璧な呪いでなければ尚更です」
ここまで饒舌に話す彼女にも驚いたし、たった数時間話しただけでいくつもの可能性を考え付いたことにも驚いている。
たしかに、稲穂は泣かせたことは無いと発言した。どうしてあそこだけそう言ったのか、自分でも分からなかった。
でもそれは実際に泣かせたことがあったから。記憶が隠されても、その強烈な残像が、強い輝きを放つ記憶の欠片が彼の口を動かしたのだ。
霧の中で初めて道が見えた。直感が囁いている。この先に求めた苦しみがあると記憶があるのだと。
稲穂に痛烈な頭痛がした。
「うっ!?」
頭を抱え、唸り声を上げていた。
「もう少しで、思い出せそうなんです。……あと少しなんです。僕は誰かを泣かせた、きっと事実です。相手が誰なのか……」
喧嘩をした相手が泣いている。しかし、その顔は黒く塗りつぶされている。引き返せと誰かに引っ張られてしまう。
「思い出せない。きみは誰なんだ……! 教えてくれ、きみの名前を」
霧の中でもがく。相手の顔を塗りつぶしている色を無理矢理剥がそうと必死になるが、決して取れない。背後から伸びてくる黒い手に腕を掴まれる。
稲穂の誰にも届かない悲痛な叫びは無意識の闇に吸い込まれていく。
そして、記憶はまた暗く深い底に封じられる。
「――ださん。津田さん、津田さん」
温かな手が彼の肩に置かれて、優しい声で呼びかけてられていることに気が付いた。
視線を上げると、千歳が安堵した表情で彼を見つめていた。
「大丈夫ですよ、一度深呼吸しましょう。出来ますか?」
何も言わず稲穂は頷き、ゆっくりと肺に酸素を入れ深呼吸をする。
嫌な汗が毛穴という毛穴から噴き出ている。気分が悪かった。
「あとは、誰かを思い出せることが出来れば呪いは解けます。何か思い出せそうな物はありますか? 写真でも、卒業アルバムでも構いません」
「……実家に戻れば、何かしらあると思います」
ぐったりと疲れて、何もしたくなかった。言葉を発することすら億劫になっている。ふと、服の下にある呪いの痣が気になった。
稲穂は襟から中を覗く。すると、痣は胸のところまで這い上がってきているではないか。
呪いも自分が消されるかもしれないと、躍起になって稲穂を消そうとしているのだ。
首に到達するまで、数十センチあるかないか。
「津田さん、その表情は察するに痣が上がってきているのですね。ご実家はここから近いですか?」
頷くことしか出来ない。
「……隣町ですから、電車で一時間程度……です。行くなら、今すぐにでも」
千歳はかぶりを振り、急ぐ稲穂を制止させる。
「ここから先は、急ぐだけ文字通り自分の首を絞めるだけです。呪いの影響を直に受けてしまっている今の津田さんでは大変でしょう。明日になれば体調も元通りになっているはずです」
意識が飛んでしまいそうだ。頭が痛い。体が熱くて溶けてしまいそうだ。
「……すい、ません。ひびや、さん」
呂律が上手く回らない。
せめて自分の足で家に帰らなければ。これでは千歳に迷惑がかかってしまう。会計を済ませるために立ち上がろうとするが力が上手く入らない。
どうしてしまったのだろう。まるで棒だ。テーブルに手を置き、力を入れる腕を見て稲穂は絶句した。あの黒い手に掴まれたところに同じような痣が出来ていた。
そこで彼の意識がぶつりと途切れた。




