第六話
千歳にメールを送ってからしばらくしているが、返信がまったく来ない。返信を貰いたいわけではなかったが、ただなんであれ送ったものが帰ってこないのは少々寂しい。
稲穂はスマートフォンを片手に食堂の入り口で、夕夏梨を待っていた。その間も画面を確認するが、返信は来ていない。
いじっているついでに彼は呪いについても調べてみた。
しかし、これといった情報もなく詳しく知ろうとするならまた千歳に話を聞かなければならない。
この体を蝕んでいるものの正体は何なのか。一体、呪いや呪いはどこから生まれて消えていくのか。
疑問が浮かんでは泡沫のように弾ける。
呪いに関しての知識は当然無い。
つい昨日まで、こんなものが現実に存在していたことすら知らなかったのだ。
知識さえあれば、手を出さずに済んだのだろうか。無力は罪ではないが、無知は罪とよく言ったものだと内心苦笑する。
いや、どれも無い物ねだりだ。きっと知ることさえも叶わない。
呪いの類とはそういうものだ。目に見えるわけでもなく、触れられるわけでもない。まさに彼の頬を撫でる風のようだ。たしかに存在するが、決して触れらないもの。
ズボンのポケットにスマートフォンをしまい、晴れた空をふと見上げる。
千歳は今も自分のために奔走してくれているのだろうかと考える。
それなのに、自分はただいつも通りに過ごしている。
自身の無力を彼は嘆いた。
それでもまだやれることは残っているはずだ。そう、こうして過去の自分を改める。自分本位の視点からではなく、他人から見た自分がどう映っているのかを知る必要がある。
そのために、夕夏梨を呼んでいるのだ。
ただ肝心な彼女の姿はまだ見えない。
彼女が約束の時間や場所に遅れたことはめったにない。昼休みが始まって五分は経つ。
それでも前の講義が長引いているか、部室に寄っているのかのどちらかだろう。
「すみません稲穂先輩、お待たせしちゃいました」
夕夏梨は稲穂の横から正面に顔を出す。
稲穂は急に目の前に現れる可愛らしい笑顔に驚きながら、身を少しだけのけ反らせる。
「おっと、ごめん赤碕。ボーっとしてた」
稲穂が申し訳なさそうに謝ると、彼女は首を横に振る。
「いえ、待たせたのは私ですから。何か考え事ですか?」
と彼女が不思議そうに尋ねる。
ここでなんでもない。と答えるのはバツが悪い気がした。これから過去の自分はどうだったと訊く相手に、余計な気を遣わせてしまうわけにはいかない。
それが大事な後輩の夕夏梨ならなおのこと。
「ううん、ちょっと前の講義が難しかったなぁって思ってただけだよ。時間もないからそろそろ行こうか」
会話の流れを変わり、二人は食堂に入っていく。
多くの学生の話し声が聞こえる。大いに賑わっているのは、一目見ただけで分かる。座る席はあるだろうか。
若い学生の食堂なだけあって、種類は豊富だ。肉料理に魚料理、洋食に和食。麺類も食後のデザートだってある。
その中から稲穂はハンバーグ定食を夕夏梨はサバ味噌定食をそれぞれ頼み、トレイに乗せて座れる場所を探す。
困ったことになかなか座る席が見当たらない。
すると夕夏梨が稲穂を呼び、トレイを持っているのにもかかわらず器用に指を差す。
丁度二人分、窓際の空席があった。
この僥倖にありつき、二人はトレイを置き座る。
さて、どこから話すべきなのか。
違う。どうやって話を切り出すべきなのか。
「赤碕、僕って高校のときどういうヤツだった?」
こうなっては搦め手も必要ない。率直に真っ直ぐ訊くしかない。恥ずかしい質問だからか、彼女はキョトンと首を傾げてこちらを見つめ返す。
他に聞き方は無かったのかと、参ったかのようなため息をつく。
「質問が悪かったかな。赤碕から見て僕ってどうだった?」
まだ彼女は答えあぐねているが、なんとか言葉を絞り出した。
「それって、私から見た稲穂先輩ってことですよね?」
稲穂はこくりと頷く。
答えを聞くのは恥ずかしくもあったし、同時に怖くもあった。
自分では真人間のつもりで他人にもそれなりに優しくしてきたはずだが、他所から見ればまた違ってくるかもしれない。
固唾を飲み、彼女の解答を待つ。
「えっと、ですね……。答え辛いんですけど稲穂先輩は、えっと……」
彼女の視線が定まらない。きっと答える方も恥ずかしいのだろう。本人を目の前にしているのだから余計に。
「稲穂先輩は……優柔不断で、人からの頼みごとを断れなくて、時々頼りなかったりします。――だけど、とても優しい人だと、私は思います」
彼女は顔を真っ赤にして、俯いてしまった。
稲穂もそんな彼女の反応を見て、予想以上に恥ずかしかったのか誤魔化すように頬をかく。
夕夏梨と初めて会ったときを思い出す。
あれは雨の日だった。しかも土砂降りの。
神社の軒下で稲穂は捨て猫の世話をしていた。鳴き声がして寄ってみたらすっかり懐かれてしまったのだ。
親が猫アレルギーでなければ飼っていた。見つけてしまった手前、見て見ぬふりをするわけにもいかず数週間だけ世話をしていた。
猫を可愛がっていくうちに、自分以外にもこの猫に餌を与えている者がいると知った。
捨て猫の世話をする物好きがもう一人いたのだ。それが夕夏梨との出会い。
ビニール傘を揺らし、神社に続く階段を上がってきたのだ。手には大量の猫缶を持ちながら。
目と目が合い、当時の稲穂は頭を下げて挨拶をした。もしかしたら自分が世話をするよりももっと早くから、面倒を見ているのかもしれない。
このときはまさか彼女が年下だと思わなかったし、同じ高校の生徒だとも知らなかった。
空模様は悪化するばかりで、しまいには眩い閃光からの轟音が鳴り響くのだった。
夕夏梨も引き返すわけにもいかなかったらしく、稲穂に会釈をしながら本殿の軒下に入るのだった。
彼女の服は風に乗った雨によって濡れていた。夏場の薄着ということもあって、稲穂は目のやり場に困った。
彼女は猫を撫でて可愛がると、稲穂の隣に座った。
稲穂はさすがに濡れている彼女を見て、風邪でも引かれたらと思いハンカチを貸すのだった。
ここで徐々に会話を増やしていき、今ではすっかり猫にも彼女にも懐かれてしまった。
遠い昔のように感じるが、しかしまだ二年前。ときの流れの速さを実感してしまう。
たった二年前ですら、昔になってしまうならそれ以前の記憶はすでに化石になってしまっていないだろうか。
「でも、どうしていきなりそんなことを聞くんですか?」
夕夏梨にもっともな質問を返された。
「えっ……?」
返答に困った。
こういう質問を返されるという想定ぐらいは出来ていたはずだ。それなのに何故、うまく誤魔化す手段を考えなかったのか。
彼女の視線が痛い。
「ぜ、ゼミの宿題で自分の半生をまとめろって言われちゃって。それで、参考がてらに赤崎から見た僕ってどうなのかなって思ってさ」
なんとも言えない嘘。
これでこの場を切り抜けれると判断したのだから、人の咄嗟の嘘とは面白い。
しかしこうとでも言っておかなければならなかった。黙り込むのは一番してはいけない選択だ。
頼む、これで納得してくれ。
「それ本当ですか? 先輩のゼミってそんなことしましたっけ?」
彼女は疑り深く、もう一度質問してきた。
「先生もいきなりそんなこと言うもんだから、みんなびっくりしちゃってさ」
アハハ。と稲穂は苦し紛れのぎこちない笑みを浮かべる。
「そうですか。そういうことでしたら、私もお手伝いしますよ」
稲穂は胸を撫で下ろす。これで一先ず安心できる。
ふと彼女の方に視線をやると、彼女もまた安堵しているように見えた。
気にはなったが、ここでそれを追及するとまた何か聞き返されてしまいそうなので、あえて触れずに話を進める。
「それで、高校時代の僕って誰かと喧嘩したりした?」
「またいきなりですね。本当にゼミの宿題なんですか?」
夕夏梨の疑念に満ちた瞳に息が詰まりそうになったが、嘘をつき通すしかない。稲穂は「そうだよ」と言い切った。
本当は真実を告げたいが、きっと彼女にも信じられないことだろう。受け入れるのは難しいはずだ。それに他人に教えることで呪いを刺激する可能性だってある。
胸が痛む話だが、稲穂は心の中で彼女に謝り続けた。
「分かりました。私も何回も聞いちゃってすいません。それで、先輩と喧嘩した人でしたっけ?」
稲穂はゆっくりと首を縦に振る。
彼女は少々悩んでこう答えた。
「いなかったと思いますよ。あっ――そうです、思い出しました。先輩って一度だけ万引き犯を捕まえたことありましたよね?」
「万引き犯?」
ああ、思い出した。そうだ。同じ高校の生徒が稲穂がよく足を運んでいる本屋で漫画を万引きしようとしているのを捕まえたことがあった。
「あったけど」
それが自ら消したい記憶に入るだろうか。いや、誇るべきものだ。そもそもこうして思い出せている。だから違う。
「私が知る限り、先輩が声を荒げたのはそこぐらいだと思いますけど。他は分かりません。ってなんで他人と喧嘩したかどうかを私に聞くんですか?」
「はは、そこはまぁ色々ね」
高校時代には何もなかった。それが分かっただけでも大分気が楽になる。
あとは高校生以前の記憶となる。荒波の無い平穏な人生だから、無くした記憶はすぐに見つかると思っていたのだが。
消したいと願った記憶はそこまで大きなものだったのか。稲穂の心に生まれた喪失感がそれを物語っている。
「そっか。何もなかったか。赤碕、変な事聞いてごめん。でもありがとう、助かったよ」
稲穂はにっこりと笑うと、彼女はまたもや恥ずかしそうに目を逸らして何かをブツブツ呟きながら昼食を食べ始めた。
昼休みも長くない。稲穂もいい加減に昼食を食べ進める。
「そうだ、あの猫は元気?」
「はい、お母さんが毎日可愛がってますよ。時々ですけど写真が送られてくるんです。あとでお見せしますね!」
稲穂と夕夏梨が世話をしていた猫は、現在赤碕家で幸せな暮らしをしている。運が良かったことに彼女の母親が相当な猫好きだったのだ。
懐いたばかりで、少々名残惜しかったがきっとあのまま軒下で世話をし続けるより、温かな場所で素敵な家族として加わる方が幸せに決まっている。
だからこそ、稲穂は彼女に小さな命を託したのだ。
「うん、楽しみにしているよ」
頭の片隅に残っていた疑問を、互いに昼食を半分ほど食べたところでつい口にしてしまった。
「珍しく遅れて来たけど、何かあったの?」
彼女は箸を止めてこう答えた。
「ふふ、秘密です。それと女性に遅れた理由を聞くのは野暮ってものですよ」
微笑みながら彼女がそう言うので、もともと咎める気はまったく無かったが、彼女の言う通り野暮な質問をしてしまった。
「でも遅れちゃってすいません。本当は時間通りに着くはずだったんですけど」
「いや、気にしてないから大丈夫だよ」
彼女もこうして謝っている。これ以上この話題には触れないようにしよう。
「先輩、部室には顔を出しましたか?」
今度は彼女から質問をされた。
「空いている時間に行ったよ。だけど、誰も居なくて。だから東さんに連絡を入れておいた。返信はまだないけどね」
しかしながら、東は携帯電話でめったに連絡を取らない。
現代社会においては不便さ極まりなかったが、どうやら彼女なりのこだわりがあるようだ。
彼女が言うには、会話は人と人が目と目を合わせてしなければ成り立たないそうだ。たしかにその通りだが、返事くらいはしてほしいものだ。
稲穂は正直に言えば、出来れば今、東とは顔を合わせたくない。これは彼女のことが嫌いというわけでもなく、ただ合わせて会話をしてしまえば、必ず居酒屋に連れていかれるのだ。
直接顔を見てしまっているが故に断りづらい。加えて彼女の目には見えない不思議な魅力が「はい」と返事させてしまうのだ。
と話している間にも時間は進み、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
何とか料理を残さず食べ切り、食器を片付けて食堂から出る。
今日は、もう講義はない。
あとは千歳に頼まれた呪い本を図書館から再び借りるだけだ。
「先輩。このあと予定はありますか?」
「ちょっと図書館に行こうかなって。用事があって」
「丁度良かったです。私も先輩を図書館に誘おうと思ってましたから。借りた本を返しに行きたいので。私は次の講義で終わりなので、良かったら一緒に行きませんか?」
「ああ良いよ。じゃあ僕は適当に時間を潰しているよ。じゃあ、またあとで」
手を振って、別れると彼女は「あっ」と言って足を止める。
「稲穂先輩は誰とも喧嘩してませんが、良くも悪くも人は他人からどう思われているか分からないので、気をつけてくださいね」
それだけを言い残して、彼女は初夏の風に巻かれたように稲穂の前から走り去っていくのだった。




