第五話
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『呪いのことをもうそんなに詳しく調べてくれたんですか! ありがとうございます! 本の件ですが手元に無いので、一度図書館で借りてからそちらに伺いますね』
稲穂から千歳の携帯にそうメールが送られてきた。
やはり、あの長文はさすがに打ち込み過ぎたのだろうか。最近の電子機器というものはどうにも彼女には扱え切れないものが多い。
千歳も慣れようとしているのだがこれがなかなかうまくいかない。パソコンを操作してみても電源を入れて、立ち上げるだけでも数十分。
携帯電話にかかってきた電話を誤って切ってしまうことなんて日常茶飯事だ。メールを送信することだってようやく出来てきた。
しかし、物事を端的に説明しかも文面でとなると千歳にとっては下手をすると呪いを解くことより難しい。
本来あのメールは昨晩に送る予定だったのだ。
だが、文章を考えて何度も読み返しては分かりやすく小難しくならないように細心の注意を払いながら、作文した。
結果として、朝になってしまったのだが。
電子機器を操るのは相方の方が得意なのだ。
千歳は台所の椅子に座りながらコーヒーを啜る。
来客の予定があるので紅茶を淹れるついでに、自分の分を淹れてみたのだが今回のは良くできている。
千歳は稲穂の解呪と並行してもう一つ仕事をしている。
現代でもおまじないと呼べるものは数え切れないほどある。いや人の欲望の数だけ、願いの数だけ存在しているといっても過言ではない。
嫌な記憶を忘れたいと思えば、それに適用している呪いを作る。好きな人に振り向いて欲しければ、そういう効力を持つ呪いを作る。
誰しもが呪い師になりうる可能性を秘めている。
特別な技能がなくとも、強い想いと陣を正しく作る知識さえあれば誰でもできる。
おまじないの形式も今ではすっかり様変わりしてしまっているのだ。たとえば、一昔前に流行した好きな人の名前を書いた消しゴムを使い切ると恋愛が成就する。というのも立派なおまじないだ。
手の込んだ陣を作ることはほとんどしないだろう。
現代社会は今や人の欲望や願望を映し出す鏡となっている。
渦巻いている、目には決して見えない想いを取り込んでいるせいでどんな簡単なものでも呪いや呪いになるのだ。
だからこそ、解呪師が呪い本を回収し保管する必要があるのだ。
精密に作り込まれているから、現代で余計に力が増す。
恐らくながら、稲穂の使った物もその影響が出ていたのだろう。
今日訪れる予定である女性も、そんな呪いに振り回されている人だ。
便利な力だが、頼ってはいけない。自分の力で解決する努力を怠ってはいけない。そう伝えるのも解呪師としての役目なのだ。
そう言えば。と顎に手を当てて考える。
実は今日の来る女性は、この館に何度も足を運んでくれている。これで三度目だと千歳は記憶している。毎度違う呪いにかかってきては解呪を依頼してくる。
その度に料金を取るのは忍びないが、なるべく譲歩して安くしている。
おまじないに頼りきりになるのも問題だが、一番はそこではない。己にかけ、その全てが必ず悪影響を及ぼすのだ。
千歳が陣を確認させてもらったところ、特別怪しい場所はなかった。
次に陣を見た相方がこう言ったのだ。「この陣には欠陥がある」と。
わざとそうしている可能性も捨てきれない。明治時代よりも前から、呪いを使った悪行は存在していた。しかしそれは数百年も前で、現代では呪い自体を信じる者が減ったせいか、全くと言っていいほど通用しない。
簡単なおまじないに見せかけた呪いなのだろうか。
どこにそんなことをする者がいる。解呪師でさえ、日本で二十人いるかどうか。血筋や技が絶えてしまった家系もあると聞く。
呪い師ともなると十人いるかどうか。
陣の作成は比較的新しいインクで書かれている。そうなると少なくとも、一人は確実に存在している。今すぐにでも居場所を突き止めて、陣の作成を止めさせたいのは山々だがどうしても彼女は話してくれない。
危険な行為だ。怪我人が出てしまうかもしれない。
千歳が考え込んでいると、玄関のベルの音がカランカランと鳴った。鼓膜を揺らす振動で我に返り、彼女が好きな紅茶を淹れて玄関に向かう。
学生服を着た彼女のよりも小さな体。何かに怯えた瞳で千歳を見つめる彼女の名前は伊豆屋かりん。
校章は高校一年生のものだ。
彼女は千歳と同じ高校の出身で、部活の先輩からここの場所を聞いたらしい。
かりんがここを訪れるのは二か月ぶりだ。千歳は思わず首を傾げた。前よりも細くなっていることに。
痩せたのか。否、明らかにやつれている。目には生気がなく、唇や肌にも若さ特有のはりや艶がない。頬骨も浮き出て、立っているだけでもやっとの状態だ。
この山道は大の大人でも上がるのに苦労する。あの健康な稲穂ですら、登るのに一苦労したのだ。
栄養の足りていないあんな体では無茶だ。
千歳は急いで中に招き入れる。
「かりんさん、挨拶はあとにいたしましょう。まずはこちらへ」
二階に上がるのは到底無理そうだ。きっと階段を登っている最中に転んでしまう。
普段使わない一階の客間にかりんを案内して、ゆっくりとソファーに座らせる。
細すぎる。少し握っただけで折れてしまいそうなほど。小枝という表現も過ぎたものではない。まさにその通りだ。
何か食べられるものを探すために、台所の棚や冷蔵庫を漁る。すぐに食べられるものはクッキーやチョコレートしかない。
もし、彼女がほとんど食事を口にしていない状態だとしたらこんな固形物を胃に入れると体を壊してしまう。
話を聞く前に勝手に判断してしまうのはどうかと思ったが、あれではまともに話せるかどうかすら怪しい。
多少なりともお節介だろうが、おかゆを作らせてもらう。
ご飯は炊けているが、それでも最低三十分はかかる。了承を得てこなければ。
小走りで客間に向かう。
「今からおかゆを作るのに三十分程度かかるので、それまで待っていただいてもよろしいですか?」
するとかりんは、返事もろくにできないのかコクリとだけ頷く。
料理を作るときは必ずエプロンをして、土鍋を用意しておかゆを作りはじめる。
千歳はここで一人暮らしをしているおかげで、一通り料理は作ることはできる。おかゆの作り方を教えてくれた母に感謝しながら、コンロに火をつけた。
――四十分後。
十分ほど予定よりかかったが、おかゆが完成した。この柔らかさなら食べても大丈夫だ。
ミトンをして、お椀に入れたおかゆを運ぶ。
扉を開け、かりんの前に茶碗とスプーンを置く。おかゆから湯気が出ているせいか彼女は少々怪訝そうにしているが、スプーンを持つ。
スプーンを持つ手が震えている。千歳は見てもいられず、スプーンをそっと取る。
「私が運びますから、口を開けてください」
息を吹きかけて良く冷ましてから口に運ぶ。
食欲はある程度あるが、食べ物を見る目が完全に嫌悪にまみれている。
半分ほど食べるとついに彼女は口を開けなくなった。そしておかゆから顔を遠ざけた。
「どうかされましたか?」
彼女はようやく口を開き、言葉を発する。
「ここ一か月、食べ物を見ると嫌な気持ちになるんです……」
声にも当然生気は感じられない。
「そうですか……。でも年頃の女の子なんですから、しっかり食べて栄養をつけないと」
「分かってるんですけど、どうしても食べられなくて……体が言うことを聞かなくて」
千歳は何かを察した。
「いきなりで申し訳ありませんが、それが今回の解呪の依頼ですか?」
かりんは力なく頷く。
千歳は彼女の隣に座り、解呪師としての仕事を開始する。
食事を拒絶する呪いは果たしてあるのだろうか。千歳は記憶の本棚から適した書物を探すが、どこにもない。
こんな呪い、生まれて初めて見た。
呪いが呪いになった可能性が高い。話を聞いてみる他ない。
「そうなると、かりんさんはまたご自身でおまじないを?」
伊豆屋かりん――彼女はいつだって他人に呪いをかけたことはなかった。いつだって自分で自身にかけているのだ。
一度目も、二度目も。そして今回だってそうに違ない。
最初のおまじないは、「他人からの評価を上げる呪い」だった。使い始めたころは良かった。だが、次第に自分を認めない人間を遠ざけていく結果となっていった。
彼女のことを注意した友人のことも、かりんは理解してくれていないものだと勘違いして酷いことを言ってしまったらしい。
友人がかりんを避け始めてようやく自分のしたことの愚かさをしった。そして解呪を依頼した。
二度目は「自分を魅力的に見せる」おまじないだった。
なんてことはない。ただの軽い気持ちで手を出してしまった。彼女は知ってしまったのだ。おまじないをすればどんなことでも出来ると。
話によると見事、好きな人を振り向かせることには成功したらしい。
だが、彼の好きという感情が徐々に薄れ始めて来たのだ。おまじないの効力が切れるたびに何度も何度もかけ直した。
その脆さに彼女はしばらくあとに気が付いた。彼はただ呪いによって、偽りの自分が見えていることに。彼が好きなのは本当のかりんではなく、瞳をという鏡に嫌なほど嘘で着飾った姿だと。
そして二度目の解呪を依頼したのだった。
千歳は来るたびに、もう二度と手を出してはいけないと注意してきた。
語気を強めて言うのは得意ではない。たとえ他人の為だとしても。
相方は彼女はもう、依存の域に達しているかもしれないと言っていた。人が息を吸うように、かりんもまた求めてしまう。
所詮偽りの力だと知っていても。
「それで、今回はどんな?」
千歳が尋ねると彼女は口を固く閉じた。
「かりんさん、あなたは解呪のためにここまで来たんですよね? 言ってくれなければ解くこともできませんよ。大丈夫です、私はあなたの味方です」
かりんの手をぎゅっと強く握る。冷たい手だ。いやだからこそ、この温もりを感じてもらわなければならない。
ここにも味方はいると知っておいてもらう必要が。
「……実は」
かりんは静かに語り出した。
彼女が今回かけてしまったおまじないは、「綺麗になる」というものだった。この年頃、他人と自分の容姿の違いに悩まされる時期なのは仕方がない。
ましてや、綺麗になりたいという願望は全世界の女性みな持っているものだ。
すると翌日からみるみるうちに食欲が減退していった。というより、食べ物に嫌悪感を抱くようになったらしい。
食事を摂るといっても数回食べかけのパンを口に運ぶ程度。
これでは体を壊すのは至極当然だ。
生温いダイエットではない。ただの拒食だ。
「あの……千歳さん。解けますか?」
不安そうに虚ろな目をしたまま、俯きながら彼女が訊く。
「ええ、大丈夫です。解けますよ。おそらく、かりんさんの認知がおまじないの効力を捻じ曲げたのでしょう。綺麗になるには痩せるのが一番いいという認知が、このような結果になったのです。原因が分かればあとは簡単です。目を閉じてください、今から呪いを解きます」
すっと彼女は千歳の言われるがままに安堵の表情で目を瞑るのだった。




