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呪いの館  作者: 宮城まこと
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第四話

 稲穂は、気怠い朝を振り払うように起きる。

 カーテンから差す一際明るい木漏れ日。今日の天気は晴れ。天気予報ではここしばらく晴れるらしい。雨具とは最低でも一週間は顔を合わせなくても済む。

 特別、稲穂は雨が嫌いというわけではない。だが、外出するのに雨具を持っていくと色々と面倒なだけだ。

 多くの人はそう感じているだろう。雨の日を好みほど彼は酔狂ではなかっただけな話だ。

 目をこすり、ぼやけた視界を明瞭にしていく。

 あくびをする前に彼は服をめくった。

 彼女――千歳は、心は呪いの束縛から解放されたと言っていた。それが体の痣にも影響しているのだろうかと思っていたのだが、残念ながら何も変わっていない。

 へそ辺りでこの奇妙な痣は動きを止めている。

 これ以上這い上がってくれないことを祈るばかりだが、目に見えない所でも呪いは徐々に蝕んでいることには相違ない。

 早くこの呪いの原因を探さなければ。

 千歳には余計な事をして呪いを刺激するなと釘を刺されたが、それで大人しく待っていていつ来るかもしれない気まぐれで、呪いに呑まれては目覚めが悪いどころの騒ぎではない。

 彼一人では見つからないことでも、他人の力を借りて見つけることは可能だろう。一人、高校時代の稲穂を良く知る女性がいる。


 どこに行くにしても彼の後ろまたは横についている。同じ部活動に属していた、同じ帰り道でもあった。

 恐らくながら当の本人が忘れている事柄もきっと彼女ならば覚えているだろう。

 これだけ膨大な時間を共有しているのは、家族を除けば彼女たった一人だ。まずは彼女に会ってから昼食でも一緒にしながら話し合おう。

 高校時代の自分はどんな奴だったと聞くのは恥ずかしい限りだが、羞恥心を心から乖離させるしかない。

 そうと決まれば彼の行動はいつも通りだった。

 服を着替える前に顔を洗い、寝癖を直し、歯を磨き、歯ブラシを咥えながらパン二枚をトースターに入れる。

 昨日スーパーの特売で買ったバターを冷蔵庫から取り出して、机の上に置く。歯磨きをそこそこに口を漱ぎ、こんがりきつね色に焼けたパンを火傷に気を付けながら皿の上にのせる。

 バターを塗り、パンを食べようとしたが一つ忘れることがあった。

 牛乳を取り出すのを忘れていた。

 寝起きの頭のせいなのかどうもうまく働かない。

 冷蔵庫から良く冷えた牛乳を取り出して、コップに注ぐ。

 朝食を手早く済ませ、大学に行く準備をする。一時限目に授業があるので少々急がなければならなかった。

 教科書を鞄に入れ、忘れ物がないかを確認して出発する。

 行ってきます。とつい実家にいたときの癖で言ってしまいそうになるが、返事があるわけでもないので心の中で稲穂は呟く。


 家から出て大学への道を歩ていると、後ろから名前を呼ばれる。

「稲穂せんぱーい!」

 彼からすれば随分と聞き慣れた声である。振り向くとそこに背の小さな彼女はいた。

 そう、これが彼が会わなくてはいけない女性――赤碕(あかさき)夕夏梨(ゆかり)だ。まさか家から出て五分もしないうちに出会うとは稲穂自身も予想していなかった。

 肩まである黒い髪。唇に何かつけているのだろうか、今日はいつもより潤んで見える。厚化粧はあまり好みではないらしく、してリップぐらいだと彼女が言っていた。

 小さな体に童顔、それに似つかわしくない女性らしい身体つき。

 茶色がかった瞳に笑うと見える綺麗な白い歯。肌は日焼けしないのか年中白かった。

「あっ、おはよう赤碕」

 手を振る彼女に、手を振り返す稲穂は駆け寄ってくる夕夏梨を待つ。

「おはようございます、先輩」

 夕夏梨は彼の横に並び、歩き出す。彼女は率先して前を歩こうとは決してしない。稲穂に歩調を合わせているのだ。

 彼もそんな彼女を気遣ってか、それとも一緒に歩き過ぎて覚えてしまったのか、言わずとも彼女の小さな足幅に合わせてゆっくり歩く。

 彼女もどうやら一時限目があるようだ。

「そういえば先輩って昨日部室にいませんでしたよね? もしかして、あの(のろ)いの館に行ったんですか?」


 夕夏梨は下から彼の顔色の窺うように覗く。

「うん、行ったよ」

 そう答えると彼女は興味津々な様子で矢継ぎ早に質問を投げかける。

「それで、どうでした? ウワサは本当でしたか!?」

 どう答えていいのやら稲穂には分からなかったが、千歳のことを正直に話そうか迷っていた。そもそも彼女は誰かが流したそのことを知っているのだろうか。

 少し悩んだが、ここは素直に話すことにした。

「残念だけどあの館に老女なんていなかったし、呪われもしなかったよ」

 すると彼女はウワサが本当でなかったからなのか、興味を無くし素っ気なく反応した。

 老女がいたと嘘を言うわけにもいなかない。むしろその逆だ。夕夏梨のように若い女性だったと言ったら彼女はどういう反応をしてくれるのだろうかと考えた。

 面白そうだ、言ってみよう。

「それが、老女じゃなくて僕と同じくらいの若い女の人がいたよ」

 彼女は心底驚いた反応を示してくれた。

 これは大方稲穂の思惑通りだ。

 自分が呪われているとはさすがに言えないが、このくらいは大丈夫だろう。

「え!? 本当ですか!? その話も後で聞かせてください。それにしても、うーん……やっぱりウワサは当てにできないですね」

「元々、当てにするようなものでもないと思うけど」


 と笑いながら稲穂も言ったものの、彼も人のことはとやかく言えない立場だった。なぜなら彼もまたウワサに踊らされていた者の一人なのだから。

 そして夕夏梨はそれはそうと。と話を変える。

 長い間彼女とは先輩後輩の関係を続けているが、これがなかなかどうして飽きないのだ。

 彼女は人の話をよく聞き、ちょっとした冗談でもよく笑う。人懐っこい顔と性格のおかげで彼女は大学内でも、サークル内でも友人は多い。

 稲穂も夕夏梨と話すのは楽しいと感じている。

 だからついつい予定にない会話をしてしまうし、弾んでしまう。

 しかし不思議と悪い気がしないのは、それもまた彼女の魅力なのかもしれない。

「先輩、今日は部室に来ますか?」

 昨日は顔を出さなかった。週に一度か二度行われる部会に参加していなかったのは恐らく稲穂だけだ。

 彼が属してるサークルは何も特別な事をするわけでもない。ただ本を読むだけ。文芸部とは違い、ただ読むだけ。

 いわゆる読書部。

 部会の内容というのも、今度いつ漫画や小説の新刊が出るかの情報共有程度にしかない。

 出ても出なくても構わないのはたしかだが、あまり出ないと部長がうるさいのだ。

「顔だけ出すよ。一応訊くけど、部会はどうだった?」

「特別な事はしてないですよ。そうだ、最近先輩の付き合いが悪いって(あづま)部長が怒ってました」


 稲穂は東という人物を苦手に思っている。

 どこまでも自由奔放で、自分のやりたいと思っていることしかやりたがらない。気分が乗らないことは決してしないのだ。

 誰よりも人生を楽しみ、誰よりも笑っている。自分が笑えば周りも笑ってくれると分かっているからこそ、誰よりもわがままで誰からも信頼されている。

 東は特にお酒が飲むのが好きで、暇があれば部員を連れまわし朝まで飲み歩くなんて日常茶飯事だ。

 まさに嵐のような人なのだ。それでいて、東はモデル顔負けするほどの美人で大学内でもそれなりに彼女の存在は知れ渡っている。

 美人な彼女と飲みに行く。それだけでも世の男どもには宝石よりも、大学の単位よりも価値があるのだ。

 ただ稲穂を除けば。

 稲穂を連れまわし、自分一人だけ、ときには夜が明けるまで酒を飲む。そしていつも介抱しているのは彼なのだ。

 はだける服を直し、彼女を家まで送っていったこともあった。それが一週間も続けば誰だって嫌になるだろう。

 稲穂は下戸だったが、最初は世の男どものように美人と酒が飲めるというだけで嬉しくなって、よく一緒に飲みに行った。

 最近では彼女の介抱が面倒になり、ほとんどの誘いはことごとく断っている。

 先輩の誘いを断るのは胸が痛む話なのだが、こればかりは仕方がない。彼女と付き合っていてはいずれ体を壊す。


「私が飲みに誘っても、全然来てくれないから寂しいって言ってました」

 そう夕夏梨が付け加える。

 すると稲穂はうっと首でも掴まれたかのような唸り声を上げた。

「あの人も僕がお酒を飲めないって知っているはずなんだけどな……」

 ため息をつき、肩を落とす。これは近いうちに強制的に居酒屋に連行されてしまう。これはいけない。

「私みたいにきっと先輩と話すのが楽しんですよ、東部長も。いざ飲みに行くとなったら私もお供しますから」

 夕夏梨は、にこやかに笑ってみせる。

 困ったときにはお互いさまとはよく言ったものだが、しかし彼女はまだ未成年である。酒が飲めない人に酒を飲む人間の相手が務まるだろうか。

 それに加えて相手は東だ。さすがに未成年に酒を薦めるという暴挙には出ないが、話し相手だけでも苦労するだろう。

 後輩に心配されるとは先輩の顔が丸つぶれだ。このあと、彼女には訊かなければならないこともある。

 これ以上情けなく後輩を頼るわけにはいかない。

「いや、断り続けた僕が悪いんだ。あの人の相手は僕が責任をもってするよ」

 観念してこれは付き合うしかない。

 東は性格が悪いわけではない。積極的に他人に迷惑をかける人でもない。ただ、酒の飲む頻度が人よりも多いだけだ。


 そして二人は校門前に着く。時間を気にしながら歩く者、音楽を聞きながら歩く者、友人と笑い合いながら歩く者、稲穂と夕夏梨のように男女で仲睦まじく歩く者がいる。

 それぞれが自分の生活を、自分の世界を満喫している中で、稲穂だけはこの流れている波の中で立ち止まっている。

 おそらく、ここにいる全員それほど過去の過ちについて思いつめてはいないのだろう。

 (まじな)いに手を出してまで消したかった後悔など、他人はとうの昔に記憶の残骸と成り果てているだろう。

 稲穂だけは未だに進めていない。この真っ直ぐに伸びている道でさえ。

 後ろを振り向き、来た道を戻りたいとやり直したいと願っている。

 その過去が判明したとき、稲穂は酷く心を痛めるに違いない。甘くとも苦くとも大切な思い出を消してしまったのだから。

 稲穂はそっと腹の痣を服の上から触る。

「ボーっとしてますけど、どうかしましたか? もしかしてお腹が痛いとかですか?」

 夕夏梨の声でハッと我に戻る。

 心配そうに彼女の瞳に息を飲み、なんでもない。と手を振りぎこちない笑顔を浮かべて少しでも元気に振る舞うことにした。

 彼女はこれで納得するわけもなくこう続ける――。

「先輩、最近は元気がないから心配しているんです。本当にどこか悪いところはありませんか? この前だっていきなり興味がなかった呪いの館のこと聞いてきて」


 これ以上、詮索されると下手をすると呪いを刺激しかねない。どういう状況で目覚めるか分かったものではない。

 ここはいきなりでも会話を方向を変えなければ。

「大丈夫だよ。本当に。昨日だって呪いの館に行ったのだって友達の間でやった罰ゲームって、教えてもらうときに言っただろ?」

 すると彼女は、珍しく弱気な声で「そうですけど……」と呟く。

「でも、心配してくれてありがとう。僕は本当に大丈夫だから」

 何度もこう言うしかなかった。これが通じなかったときは手詰まりだ。どうすることもできない。

「分かりました。先輩がそう言うなら信じます。すいません、余計な気を遣わせてしまって」

 彼女は稲穂の言葉を信じ、頭を軽く下げる。

「僕の方こそごめん。そうだ、今日のお昼ご飯一緒に食べない? 少し聞きたいことがあって」

 稲穂がそう言うと、彼女の表情がパッと明るくなる。まるで曇り空の切れ間から、太陽の光が漏れだしているかのようだった。

「はい、ご一緒します!」

 彼女と昼食の約束を取り付けると、大学の敷地内に設置されている稲穂は時計台を確認する。

 時刻は八時五十分。一時限目が始まるまであと十分というところまで迫っていた。

 ついついゆっくり歩いてしまった。これは急がない遅れてしまう。

「っと、もうこんな時間か。じゃあ僕はこっちだから。またお昼に」


 稲穂は赤碕と別れ、教室に向かう。その途中でスマートフォンが震えた。手に取って確認してみると、それは千歳からのメールだった。

 メールが来たことにも当然驚いたが、それよりも驚くべきは内容だった。

 圧倒的長文。

 見ていれば首が疲れてしまうほどの。

 そして言葉が堅い。これでは首だけではなく目も疲れてしまう。そのメールの内容がこれだ。

『おはようございます。日比谷千歳です。朝早くに申し訳ありません。ですが、津田さんが帰ったあと一通り呪いの文献は調べましたので、早めに連絡をと思いまして。

 津田さんが行ったおまじないは元は、忘却の(まじな)いです。作成期は一番おまじないが流行している明治時代のものです。有名な(まじな)い師が作ったというわけではなく、知識のあった無名な人が作ったとされています。

 おまじないは昨日説明した通りに劣化しており、(のろ)いになりました。手軽にできるということから陣の複製は往々にして行われていました。劣化は年数によって起こるものですが、もしかすると素人が作ったものが現代まで残ってしまっていて、陣そのものが失敗している可能性もあります。

 私たち解呪師には、呪い本の回収や保管が仕事の一つとしてあります。どうか、その津田さんが使ったという呪い本を持って来てはいただけませんでしょうか?

 もちろん私が取りに行ければいいのですが、仕事が入っていまして。どうしてもそちらを解決しなければなりません。

 身勝手はお願いだと分かっていますが、どうかよろしくお願いいたします』


 稲穂はあの本はとっくに図書館に返してしまった。また取りに行かないといけないな。と頭を掻き、出そうになったため息をこらえた。

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