第三話
自分で自分に呪いをかけてしまった。これほど愚かなことは無い。そして自力では解くことは出来ず、挙句の果てに他人に助けを求める。
稲穂の気分は最悪ここに極まれりと言ったところだろう。
「津田さんの使ったおまじないは、恐らく過去の後悔を消すおまじないだったのでしょう。ですが先ほどのも言った通り、その呪いは劣化していて呪いになっていて、その効果は別の方向に行っています――つまり、後悔の元である津田さん自身を消そうとしています」
消す。彼女の口から出た物騒な言葉に全身の毛が寒気によって逆立つ。
この体を蝕んでいたのはそれほど危険なものだったのか。服の上から腹の痣に手を当て、しわができるほど力強く握る。
視線を上げ、千歳を見つめた。
その瞳は後悔の色に染められていた。しかし、彼女は目を逸らすことなくただただ見つめ返してくれていた。
「解く方法はあるんですよね?」
無いなんて言ってくれるな。と半ば願望に近かった。
「あります」
彼女ははっきりと言い切った。
解呪師の歴史の中には、稲穂のように知らず知らずのうちに己を呪っている者もいるはずだ。どうやらまだ解呪師というものをいかんせん理解できていないようだ。
こんな呪いは簡単に解いてくれるに違いない。
「じゃあ早くこの呪いを解いてください!」
彼女は目を伏せた。
この行為が稲穂の頭に不安を過らせる。やはり、愚か者は稲穂だけなのか。
千歳は、見るからに落ち込む稲穂に申し訳なさそうにこう言った。
「解けはするでしょう。ですが、呪いは生きていますから自分を消されないように必死に抵抗します」
「抵抗ですか?」
彼女はこくりと頷き、稲穂の目を見据える。
「ここで二つ目の質問です。稲穂さん、おまじないに頼ってまで消そうとした後悔の記憶は何ですか?」
呪いを使ってまで消そうとした、彼の記憶や心に禍根を残した後悔。簡単に思い出せるはずだった。なんせ、大学生にもなって思い返すほどなのだから。
しかし現実はそうではなかった。
稲穂は、思い出せずにいた。
あれほど後悔し、ときには心を痛めたあの出来事を。
「……あれ?」
頭に手を当て、目を瞑って思い出そうと躍起になる。確実に思い返していたはずだ。たった一週間前だぞと、自分の記憶力を信じていた。
霧の中を永遠に迷っているかのようだった。
頭の中で霧でもかかっているかのようにその記憶が――くすみ、褪せ、もろく崩れ落ちてしまいそうにだった。
おかしい。まさか、これが呪いの抵抗とでも言うのだろうか。
「やはり……思い出せませんか」
何度も何度も来た道を通っている。ここに来ればあの苦い記憶に会えるのだ。しかし歩くほどこの霧は稲穂を惑わせた。
八方ふさがりだ。
稲穂は諦めたのか、力なくだらりと頷く。
「これが呪いの抵抗です。自分が消されないために、呪っている人物の記憶に霧をかけ、自分の力では絶対に晴れないようになっています。津田さんの心は呪いと混ざり合った状態です。簡単には解けません。ですがこう言った類の呪いはその出来事を解決し、おまじないをしたきっかけを取り除けば解放されます。それに真実に近づけば効力も弱まっていきますから、私たちと頑張っていきましょう」
彼女はにこりと、一人儚げに咲く百合の花のように笑った。
解呪師は呪いを解くだけが仕事ではない。
もちろんそれが一番なのだが、依頼主の折れた心に寄り添い介抱してあげるのもまた同等に重要なのだ。
特に彼女の場合は、人と話すのが苦手な上に表情も硬くなりがちだ。だから相手を安心させることは他の解呪師よりも気を遣っている。
こんな私の笑顔で、少しでも心が安らいでくれるならと。
稲穂も千歳の笑顔には救われている。ここ数時間で何度折れかけた心を支えてもらったことか。
彼女には感謝してもしきれない。
「ここから……少々いやらしい話になるのですが……よろしいですか?」
千歳は改まった態度で稲穂に尋ねる。
「ええ、大丈夫ですよ」
困った顔をした彼女を見て、彼は考えを巡らせる。
「あの……私は別にお金が欲しいわけではなくてですね。その、ボランティアの一環というか……なんというか。困っている人をただ助けてあげられたならと思って、解呪師をやっているわけですが……。えっと、もう一人がどうしても、お金を取れと言うものですから」
なんだ、そんなことかと拍子が抜けたかのような呆けた顔を隠せずにいる稲穂。顔を赤めながら申し訳なさそうにしている千歳。
二人ははたから見ても、これから命を助けてもらう側とそれを助ける側には見えない。
彼も、無料で助かろうとは思っていなかった。お金もかかるだろうと思って貯金を切り崩す覚悟は出来ている。
命を助けてもらうのだ、いくらあっても謝礼しきれるかどうか。
「それでいくらですか?」
額にもよるが、ある程度なら明日にでも出せる。
「ちょっと相談してきますね。……待っていてくださいますか?」
静かに頷く稲穂を見て、頭を下げながら自室の扉を開け中に入っていった。
稲穂は納得をして再び首を傾げた。
だから私たちだったのか。ずっと彼女が言っていたので気になっていた。どう見てもこの館には彼女しかいない。ここにもう一人、いたのだろうか。もし彼女の部屋にもう一人いるとしたら、物音はするだろうし、しなかったとしても何らかの形で彼に接触してるはずだ。
何よりも、人の気配がしなかった。
それとも彼女が人と話すのが苦手なように、もう一人も人と会うのが苦手なのだろうか。
いつまでたっても姿を見せないもう一人がどうしても気になり、熱かったコーヒーもすっかり空になってしまった。
五分後、彼女が部屋から出て来る。
失礼だと思うが振り返り彼女の部屋を隙間から覗く。だがそこに人の影は無い。
「……どうかされましたか?」
千歳はきょとんとした顔で、稲穂を見つめる。
「あっ! いえ、そのもう一人がどうしても気になったもので」
ここで嘘をついても仕方がないので、正直に話す。
「解決するときにはきっと姿を見せてくれますよ。……あの人はとても頼りになりますから、安心してください」
彼女は席に座り、報酬の話を切り出す。お金の話は毎度得意ではなかったが、解呪師をやっている手前避けては通れない道だ。
「それでですね……報酬金といたしましては、二人で話し合った結果」
彼女は指を五本立てる。
「五万円……ですか?」
彼女は本当に申し訳なさそうに、そして恥ずかしそうに頬をほのかに赤めながらこう言った。
「……五十、万です」
「五十万……!?」
命を助けてもらうのに五十万で済むと考える人もいるだろう。稲穂もそう考えていた。しかし、大学生には五十万は大金なのだ。
どこに五十万を命を助けてもらう用途として貯金している者がいる。
「困ったな。今、口座に三十万しか入ってなくて」
高校時代からのバイトでこつこつ貯めてきた、将来の為の資金。ここで使うのなら本望だろう。だが、足りない分をどうやって補うべきか稲穂は悩んでいた。
これはまたバイトを増やすしかない。
「あ、一括でなくても構いません。大金ですから、ここに来る道中で盗まれる可能性もありますし。その、必ず払ってくだされば、月に少しずつでも大丈夫です。払えますでしょうか?」
「そういうことなら、大丈夫です。良かった、一括って言われないかハラハラしてました」
もしここで、お金が払えないと言ったらどうなっていただろうか。千歳なら支払いが可能な額まで引き下げてくれるのだろうか。
いや、千歳はそうしてくれると信じているがもう一人の方がそれを許さない可能性が高い。
なにしろ、大学生に五十万を出せと言うくらいなのだから。稲穂も額に文句が言いたいわけじゃない、もちろん必ず払う。
ただもう少しだけ、少しだけで良いから額を引き下げてくれれば有難いと思うのが本心である。
「ふふ、いくらあの人もそこまで酷なことはしませんよ」
相方のほうにまだ良心が残っていてくれて良かったと安堵する。それ以前に、それまでと言うことはこれに近しい酷いことをするのか。
千歳に不満はなかったが、姿の見えないもう一人には徐々に不満と疑問が募っていく。
まずは人物像を想像してみた。男性か女性か。
男だったら背中も丸まった髭の生えた老人が、咳き込みながらでも呪いを解いてくれるのだろうか。それとも言葉遣いが乱暴で良い歳の大人か。
子どもってことは無い。と願いたい。
女性だったら、千歳と組むぐらいだ。きっと本が好きでおっとりしている大和撫子だろうか。待て、酷いことをするような奴だ。家に籠って千歳に色々無理難題を押し付けて困らせる同年代の子の可能性もある。
それぞれ稲穂の頭に浮かぶが、どれも現実味に欠ける。
ふむ。と顎に手を当てて考えている稲穂を見て、千歳はきっともう一人を想像しているのだろうと思いながらくすくすと微笑む。
千歳はこうやって誰かと長い間話すのは久し振りだった。
友人は多い方でない。話すとしても一言二言だけ。するとどうだろう、津田稲穂という男性は思いの外話しやすい。
ここまでつらつらと言葉が出てきたのも久し振りだ。
普段はこの館に籠って本を読み漁っているが、存外に外の世界に楽しみに求めてみるのも悪くない。少なくとも彼と話しているときは楽しい。
彼が本好きだからだろうか、それとも埋もれている自分を助けてくれたからなのか。彼女は答えを探してみたが、どこにも見つからなかった。
この答えはきっと、自分の知らない世界からもたらされるのだろうと確信していた。
しかし、それは先になる。
まずはこの呪いを解かなければ。
「津田さん。呪いを解くには、いくつか条件があります」
談笑もそこそこに千歳は、真面目な顔をして仕事の話を切り出す。稲穂も彼女の言葉が途切れなくなったことで理解した。
「それっていくつぐらいですか?」
稲穂が不安そうな声を出す。
「そうですね、大きく分けて三つぐらいでしょうか。まずは過去の記憶を遡って後悔の原因を探ります。突き止めたなら、その原因を解決します。こうしなければ津田さんの心と融合した呪いは解けません。現在も津田さんの心は呪いを必要としています」
必要としている。この言葉に稲穂は引っかかった。
己自身を苦しめている呪いを、どうして彼が求める必要がある。捨てていいと言われれば、今すぐにでも捨ててやるぐらいなのに。
「必要としているんですか、僕が?」
「はい。結果としてその事を思い出さずに済んでいますからね。あなたが心の底から呪いを必要としなくなったとき、使った呪いの陣を持って来て下さい。あとは私たちがやります」
彼女言う通りだった。
たしかに、稲穂はあの記憶を思い出せずに済んでいる。おまじないの後悔をしている元を消す呪いにさえ、目を瞑れば成功しているのだ。
稲穂もどこかでホッとしているのだ。もう、苦しめられることはないと。
しかしながら人間とは身勝手な生き物だ。消してしまいたいと願った記憶が思い出せないことが、かえって彼を苦しめている。
右に行くも左に行くも、ある道は結局のところ一つだけ。
こんなことになるなら、おまじないになんて頼らなきゃよかった。そう稲穂が後悔しても遅いのだ。
「まず、消えた記憶がどこの記憶なのか探っていきましょう。お辛いでしょけど思い出せるだけ苦い経験をお聞かせ願えますか?」
千歳に言われ、苦い経験を思い出す。
彼は前にも説明した通り、争い事は大の苦手だ。人一倍嫌って生きていたと自負しているくらいに。そんな彼のことだ。本当に数少ない苦い経験はすぐに思い出せる。
順を追って生い立ちを整理すればいいだけだ。
まずは幼稚園のとき。子どもながらにおもちゃを取り合った記憶はある。だが、それが原因とは考えられない。
現にこうして思い返せている。だから違う。
次に小学生。この頃になると自分がしていることの良い悪いの分別がついているころだ。友達を泣かせたことなど、特に女の子は誓ってない。
そして中学生。ついに半分まで来てしまった。
片想いの子に想いを伝えられなくて、ここまでズルズルと引きずってしまったのか。これも違う。ここまで女々しい男ではない。
高校生。ここまで来ると、自分から行動を起こしたことの方が少ない。もしかすると初めて告白した子にフラれたのがここまで――何を馬鹿なことをと、稲穂自身も呆れる。これも先ほどと同じ理由で違う。
となると、大学生になってからか。
今年で二年目だが、どうだろう。誰かと言い争ったこともなければ、拳を自分の顔の高さまで振り上げたこともない。
道は途絶えてしまった。
「思い出せましたか?」
「出来る限り掘り返してみたんですが、僕の人生はそこまで波乱に満ちたわけじゃなかったみたいです。消したいほどの記憶は見つかりませんでした」
と稲穂は首を振り千歳の問いかけに答えた。
千歳もおおよそのところ、ここで原因を見つけようとはしなかった。ここで行うのは絞り込み。ふるいにかけるだけだ。
「小学生の時とかはどうですか? 勢いあまって酷いことを言ったとか」
彼女はしつこく彼の記憶を根掘り葉掘り聞き出そうとする。
稲穂も不快な気持ちになることなく、必死になって小さな頭を動かしている。
記憶力には多少の自信があったが、その自信もあっけなく砕かれた。
「いくら小さな僕でも、誰かを泣かせる。なんてことはありませんよ」
「では、中学生の頃は? そうですね例えば片想いの子に告白できなくて、実は今も引きずっているとか」
その例え話がまさに的中している。
稲穂も自分の恋の行方を他人に語りたくなどなかったが、こうなっては言うしかない。
「ええ、たしかに片想い子に告白は出来ませんでした。だけど、それを今になって後悔はしてません。ちなみに、高校時代も好きだった子に告白して断れましたけどそれも違います。大学生になってからはからしきです」
彼女から質問される前にすべて答えた。稲穂も恥ずかしかったが、何度も話すよりここでまとめて言っておけば、ちっぽけな自尊心も傷つかずに済む。
「あっ、すいません。別に津田さんを悪く言っている訳ではなくて――!」
千歳は手を振り、慌てて否定する。
しまった。と顔に書いている。その姿があまりにも可愛らしかったので眼福として納めておきたかったが、そういう場合ではない。
呪いを解きに来ているのだ。遊びに来ている訳ではない。
「いいんですよ。どうせ僕はいつもフラれてばかりですから」
彼はやせ我慢で笑ってみせた。
周りはすでに付き合っているものばかり。取り残されたかのような気分になるものの、それほど気にしていない。はずだ。
「それで、どうですか。何か分かりましたか?」
稲穂は脱線した話を戻す。
「はい。おおよそですが絞り込めました」
まさに地獄に垂れる雲の糸だった。
稲穂はその糸を手に取ろうとぐっと伸ばす。
「ですが、まだ特定はできていません。間違えれば大変ですからここは慎重に行きましょう」
彼女は壁に掛けてあった古い鳩時計を確認して、焦る稲穂をなだめるようにこう言った。
「今日は……ここまでにしましょう。津田さんも、ここまでの道のりと、いきなりのことで疲れたでしょう。日が長くなったとはいえ、山道ですから」
稲穂は喉から出かかった言葉をそっと飲み込む。もう日が落ちるような時間帯だ。今日は近所のスーパーの特売もある、帰らなければならない。
彼女なりに稲穂を気遣った結果なのだろう。
「分かりました。今日のところはこれで失礼します」
稲穂が立ち上がり、帰ろうと踵を返すと彼女に呼び止められる。
「あの……メールアドレスを交換していただけませんか? これからのことも、ありますので……」
彼女はスマートフォンが主流なこの時代で、未だに旧型の携帯電話だった。
「分かりました。僕も何か分かったら連絡しますね」
稲生は手慣れた手つきで、彼女は確認しながらゆっくりと人差し指で携帯のボタンを押す。機械には慣れていないのだろうか。
ますます不思議な人だ。
「それと、もう一つだけ。あまり……呪いを刺激しないようにしてください。かえって逆効果です。ゆっくりと……焦らずに解いていきましょう。あと、おまじないに使った紙は決して捨てないでください……。破ったりすると大変なことになりますので」
大変なこと。稲穂は想像に難くなかった。恐らくながら、この痣が首元まで勢いよく這い上がってくるのだろう。
彼は深く頷く。
そして稲穂は紅く暮れる空を見つめ、呪いの館――否、呪いの館をあとにするのだった。




