第二話
ここは、呪いの館。呪われた者が最後にたどり着く場所。そして、救いを求める場所。
稲穂もまた、呪われているのだ。
彼女との楽しい会話のおかげで、ここに来た当初の目的を忘れるところだった。
「はい、その通りです。僕はきっと呪われているんです……」
声色が暗くなる。どうして自分がこんな目にと頭を悩ます。そんな彼を唯一寄り添い、救ったのは千歳の春の日差しのように温かで柔らかく、なんとも優しい笑顔だった。
「大丈夫です。……自信はありませんが私たちが何とかしますから。早速その呪いを詳しく調べましょう」
おずおずと話す彼女が不思議と心強く見えた。
稲穂が持っている呪い本を千歳は抜き取り、背伸びをして元あった場所に戻す。
彼女に案内されたのは、隣の部屋だった。
この図書室と繋がっているのだ。窓辺の近くに木製の椅子が二つと間にあるのは机だけ。それ以外は何も見当たらない殺風景な部屋だ。
彼女に言われるがまま、椅子に座る。
見た目以上に座り心地が良い。
不意に窓の景色を見つめる。読書のために作られた部屋だろうか、それとも誰かとこうやって静かに談笑するための部屋だろうか。
鮮やかな緑が眼前に広がっている。
これならば会話も読書もはかどるだろう。
「津田さん、珈琲と紅茶はどちらがお好みですか?」
「あっ、じゃあ……コーヒーでお願いします」
稲穂はどちらも苦手だった。答える途中で言葉に詰まったのも、どちらがまだ飲めるか考えたからだ。紅茶はどうも好きになれない。
彼女は稲穂にコーヒーを淹れるために、一階の台所に向かった。
千歳自身も久し振りの来客で戸惑っていたが、徐々に普段の冷静さを取り戻していた。
コーヒーを入れ、零さないようにトレイの上に置いて慎重な足取りで運ぶ。
「お待たせしました。……砂糖やミルクはここに置いておきますね」
稲穂の前の机にコーヒーカップを置く。彼女も彼と同じようにコーヒーを飲むようだ。
早速、気持ちを少しでも落ち着かせるために砂糖を二つ、少々のミルクを入れたコーヒーを一口頂く。
ここまで冷静に振る舞えていることが彼自身にとっても不思議だった。
だが装っているだけだ。心の中は今も乱れている。
口にしたコーヒーはとても甘くて美味しかった。
ブラックをそのまま飲めるほど、彼の舌は苦みに強くなかった。
彼女はコーヒーを飲み慣れているのか、砂糖を入れずに飲んでいた。
幾分か心が落ち着いてきた。カップを置き、一呼吸深く息を吐く。体の余計な力が抜けたころを見計らっていたかのように、彼女は話を切りだす。
「では、まず呪いの影響を見せてください」
稲穂はそう言われて、恥ずかしそうに頭を掻く。
「どうしました?」
きょとんした顔で、千歳は首を傾げる。
ここで恥ずかしがっている場合ではない。恥を忍んで見せるしかない。呪いの影響を。
ええいままよと彼は上半身の服を脱いだ。
「これ、ですか……」
まじまじと彼女は稲穂の上半身を見つめた。
視線がどうもくすぐったかったが、それも我慢して体の前で腕を組まないように己に言い聞かせた。
彼の腹には痣が出来ていた。殴られた痕でもない、ましてや彼は喧嘩など大の苦手で一生でしたこともない。なかったはずだ。
そんな稲穂の体には、何かに締め上げられているかのような痣が出来ていた。
これを呪いの影響と呼ばず、何と呼ぶ。
この痣を鏡で見たときは絶句した。痛みのもなく、日を追うごとに足元から這い上がってくるのだ。病院に行くわけにもいかず、苦し紛れに後輩にこの館のことを教えてもらったのだ。
僅かな希望を両手に持ちながら、館に踏み入った。
「他には……ありませんか?」
おかしなことに身体は至って健康なのだ。不安感があるのはもちろんだがそれ以外はてんで普通なのだ。それがかえって恐ろしくもある。
何も言わずに彼女は痣に触れる。
「うわっ!」
彼女の柔らかく、そしてひんやりとした手でいきなり触られたものだから、思わず変な声が出てしまった。
ぺたぺたと何度も痣を触っていく。他意はないのだと稲穂は頭の中で何度も復唱して必死にこらえた。彼女の眼差しは真剣そのものだったからだ。
千歳はようやく稲穂の体から手を離した。そして顎に手を当て、じっと痣を見つめる。恐らくながら記憶の海の中からこれと似たようなものを探しているのだろう。
長考が続き次第に彼の表情が曇っていき、不安だけが山のように募っていく。息が詰まりそうになっていた。
「分かりました。津田さん、服を着てもらっても結構ですよ。お話はそれからにいたしましょう」
数分前の彼女とは雰囲気が違った。
稲穂が服を着ると、彼女は話を始める。
「まずは、その呪いについてお話します。そうですね……危険性のある呪いとみて間違いありません」
危険。稲穂には聞き捨てならない言葉だった。
「危険って。どのくらい、ですか?」
「言い辛いことですが、よろしいですか?」
稲穂はこくりと頷く。
「この呪いは、津田さんの足元から腹の部位まで這い上がってきています。そしてこのまま痣が首元までくれば、最悪の場合は……」
千歳は最後まで言わなかった。言わずとも稲穂には通じた。
最悪の場合、彼の命にまで危険が及ぶのだ。
「それって、し――」
ぬ。と言いかけたことで、千歳の冷たい指先が稲穂の唇に触れる。突然の柔らかい感触に戸惑いと胸の高鳴りを隠せないまま、彼女の指先を見つめた。
「それ以上は言ってはいけません。呪いに聞かれてしまいます」
稲穂はこくこくと何度も頷く。
千歳の指が離れてたところで、会話を再開させる。
「それでも、あまり驚かれないのですね」
感心した面持ちで彼女が呟く。
彼自身もどこかがおかしいと思っていた。最悪の場合死ぬと言われ、どうしてここまで自分は落ち着いているのだろうかと。
「ええ、驚いていますけど……。その、妙に受け入れられるっていうか」
視線を落としながら、冷め始めているコーヒーを自分を落ち着かせるために飲む。
そう。彼は完全に受け入れてしまっているのだ、このコーヒーのように飲み干してしまっているのだ、死を。これは彼が特別な死生観を持っているからではない。見渡せばどこにでもいるごくごく普通の大学生だ。
困惑していた。
目の前で直面している死が、朝に起きて歯を磨くくらい当たり前のように思えている。まるで最初から日常に刷り込まれていたかのように。
頭でもおかしくなったのかと、一段と深い溜め息をつく。
「それも呪いの影響です。おおよその不安感を消して、自分を受け入れやすくしているのです」
その言い方はまるで――。
「まるで、呪いが生きているみたいに言うんですね」
「はい。呪いは生きていますよ。今もこの世界のどこかで。現に、あなたの中にも」
呪いは生きている。彼女ははっきりと言った。
窓の外を飛ぶ鳥のように、こうして呼吸している自分たちのように風にそよぐ木々にように、彼の体を蝕むそれは生きているのだ。
しかしそれはおいそれと、簡単に理解できるものではなかった。
自分の体を蝕むこれが、生きているなんて。もしかしたら気まぐれでいきなり首元まで這い上がってくるのではないのか、それとも気まぐれで今まで何事もなく過ごせていたのか。
稲穂にはこの気まぐれが少しでも、長く続くように祈るしか出来なかった。
「津田さんは、解呪師という者をご存知ですか?」
彼女が言葉にした解呪師。
稲穂には聞き慣れない言葉だった。
どうやって書くのかすらも知らない。それが人名なのか、地域の名前なのか、はたまた職業の名前なのか。
大方、職業の名前と言ったところだろう、と稲穂は予想していた。
「ゲジュシ……? ごめんなさい。まったく知りません」
稲穂は申し訳なさそうに謝る。
「呪いを解く師と書いて解呪師と言います。私たちのような解呪師は、存在は公にされづらいものです。なぜなら呪いの類を信じる人のほうが少ないからです。ですが、解呪師という者は明治時代から存在していました」
これは長くなるぞと、稲穂は痣がついている部分を撫でながら身体を構えた。
「昔からあなたのように呪いで困っている人を助けてきました。それは現代まで続いている。私は解呪師としてまだまだですが、この長い歴史の中から必ずあなたを助ける方法を見つけます。だから、安心してください」
彼女の黒真珠のような瞳は真っ直ぐ、稲穂の心を見ていた。呪いのせいでおかしくなっているが、たしかに怯えている心を。
本当は震えている彼の体にそっと母親のように寄り添う。
稲穂は久し振りに心の底から、感謝をしていた。
彼女は最後に抱きしめ、すべてを受け止めてくれる聖女に見えた。その姿の想像も相まって彼の目からは一筋の涙がこぼれた。
そうだ、この痣ができてからずっと不安だった。それに動じない自分にもずっと。
この場所に来るのは本当は嫌だった。体の中の何かが嫌がっているようだった。彼女の話からすれば、呪いが抵抗していたのかもしれない。
人に言われ、無理矢理にでも足を動かしてよかった。
ここに来てよかった。助けてくれと手を伸ばして損は無かった。手を伸ばせば、誰かが手を取ってくれることは当たり前のことだった。
この歳にもなって、誰かに泣きながら助けてくれと言ったことはなかった。だがそこに羞恥心も、呪いの影響もなかった。
「日比谷さん……。僕を、僕を助けてください!」
ため込んでいた不安が噴き出て、涙となって溢れ出す。
稲穂が呪いの影響から、一歩だけ抜け出した。
自分の心が帰ってきた、それだけでも嬉しかった。当たり前の有難さをこれほど感じた日は無い。
「はい。私たちに任せてください」
******
具体的な話は、稲穂が泣き止んだあとだった。
目が赤くなっている稲穂を気遣って、千歳は洗面所とタオルを貸してくれた。
顔を洗っている最中も気になることはあった。あの千歳の変わりようである。普段の姿があのおどおどとしている方だとするだと、あの呪いの話になった途端に人が変わったように積極的になる。
それが心強くもあったし、それだけがどうしても不思議で解せなかった。
あれが仕事用の顔だとすれば、普段からあれほど人と話すのに怯えなくても良いはずなのに。
頭をひねらせてみるが、どうしても答えは出ない。
彼女にいきなり聞くのは、さすがに失礼だろう。もっと親しくなってから。と考えていたが、今後彼女と親しくなる可能性があるかと言われれば、誰もが首を傾げるだろう。
稲穂からすれば命の恩人となるのはすだが、彼女からすれば所詮仕事上の関係である。
あれほど可憐で美しく芯が通った女性は珍しい。
彼の周りの女性と言えば、今時の流行に敏感は人たちばかりである。悪く言うつもりはないが、同じような見た目で性格だ。
面白味がないと言えば、それまでになる。
稲穂の恋愛経験は豊富ではなかった。小学校で初恋をし、中学校では大人の女性に近づく同級生に戸惑ったり、高校生一年生で初めてした告白でこっぴどくフラれた。
それ以来、恋愛と呼べるものはしていない。
そして先ほどの話で訂正しなければならないことがあった。
高校時代から稲穂を追いかけてくるように、同じ大学同じサークルに入っていて、彼を慕っている後輩の女子が一人だけいる。
赤碕夕夏梨。彼の高校時代からの後輩で、彼のいる場所には必ず出現することでサークル内ではもっぱらのうわさである。
実は付き合っているのでは。という根も葉もないうわさもあるが、残念ながら稲穂の耳には届いていないのが現状である。
彼女もまた、日比谷千歳のように周りの女性とは違う。
うわさ好きの後輩というのも、夕夏梨である。彼女はこの手に話に詳しく、なんでもそういう関係では有名な所だとかなんとか言っていた。
夕夏梨がいなければ、ここに来れていなかった。
何故なら、彼はこの館の場所すら知らなかったのだから。
大学に行ったら、お礼をしなければならない。そう思うとまた溜め息が出る。
これで何度目だ。
数えていないが、今日だけで十回は軽く超えているはずだ。
顔を上げ、情けない顔を鏡で確認するとさらに情けなくなる。
それにしても。とまた俯く。
先ほどの溜め息の要因はもう一つある。
千歳の前で、泣いてしまったことだ。
止まっていた、留まっていた感情が溢れて感極まってしまったことは認める。だが、この歳にもなって女性の前で泣いてしまったことについては後悔している。
彼女が弱い男だと思っていなければいいのだが。
いつまでも洗面台を独占しておくわけにはいかず、タオルで顔を拭いてから千歳の元に戻ることにした。
稲穂が部屋に戻ると、そこに彼女の姿はなかった。
部屋の中を見渡すが、どこにもいない。
隣の部屋だろうか。図書室とは違うドアに手をかけると彼女が部屋に入ってきた。
「あっ、日比谷さん。すいません色々お借りしちゃって。タオルは洗ってお返ししますね」
彼女の手に持つトレイには新しく淹れたコーヒーが。
なるほど、熱いコーヒーを淹れてくれていたのか。稲穂は納得し、椅子に座る。
「いえ、そこまでのお気遣いは無用ですよ。それと、あの、隣の部屋は私の寝室ですが……なにか御用でしたか?」
「え!? そうだったんですか!? その日比谷さんが見当たらないものでどこに行ったのかと。他意は決してありません」
必死に弁明する彼を見て、彼女はくすくすと儚げに微笑みながらコーヒーを置く。
「はい。その言葉、信じますね。了解を得ずに女性の部屋を覗くようなこと……津田さんはしない人だと思っていますから」
会ってから時間が経ち、互いに慣れてきたとはいえ彼女はまた間が空くような話し方に戻っている。
稲穂は不思議であったが、訊かないことにしておいた。
「さて、早速ですが本題に入ります。津田さんにはいくつかの質問をします。前提として呪いとは本来他人に向けてするものですが、中には知らず知らずのうちに自らに呪いをかけてしまう場合もあります。最初の質問ですが、なにかそういった心当たりは?」
またハキハキと話し始めた。
仕事の顔になったことを確認し、稲穂も記憶の海を泳ぎ始める。
稲穂はこの温厚な性格からか、誰かと衝突するのが大の苦手だった。必要な競争であっても避けようとしていたくらいに。
他人に呪われるようなことはしていないはずだ。
「お恥ずかしい話ですが、友人間の罰ゲームで図書館にある呪い本を使っておまじないをしまして」
そう。彼は友人とのゲームに負け、罰として信憑性もあったものじゃない古いすすけた呪い本を使って、遊び半分でまじないをしたのだ。
もちろん、稲穂は気乗りはしなかった。
しかし友人の前で、嫌だと断るわけにもいかずなくなくしてしまったのだ。
「それはどんな形式のおまじないでしたか?」
彼女は間髪入れず質問をする。
「えっと、たしか……。そうだ、自分の後悔したことを思い浮かべて、自分の髪の毛を陣をかいた紙に挟んで眠れと書いてありました」
稲穂は寝る前に髪の毛を抜き、嫌な後悔した記憶とともに陣をかいた紙に挟み寝た。
翌日には何も異変は無かった。むしろ健康的だった。友人にも効果がなかったと説明した。その次の日だった。
起きて足を見つめると、変な痣が出来ていた。
どこかに足をぶつけたのかと思ったが痛くはない。
治るだろうと勝手に判断して一週間ほど放置したらこの有様だ。
「なるほど。恐らく、呪いが劣化していたのでしょう」
「劣化?」
稲穂は首を傾げる。
「はい、呪いは時間が流れとともに劣化していきます。形式が簡単な物ほど早く。その結果、正しい効力は得られずに誤った方向に向いてしまいます。多くの物はただ効力を持たないだけですが、稀に呪いになってしまうものもあるのです」
彼がおそるおそる、こう千歳に尋ねた。
「じゃあ、もしかして……僕は自分で自分を呪ったってことですか?」
「はい。残念ですがそうなります」
頭を抱えて、あの馬鹿な出来事を身を切り裂くほど後悔した。痛烈な怒りと共に。そして彼は今日一番の大きな溜め息をついたのだった。




