第八話
手掛かりは既に天の上にある。そう千歳にメールで告げられたときに稲穂は思わず、深いため息をついた。そこから彼女はこう続けた。
まだ残して行った物があると。
呪い師は一族をかけて、一冊の呪い本を作るという。一人の生涯でできる呪いは一つできれば天才と呼ばれる。
それだけ新たな呪いを作ることは困難を極めるのだ。
十津川正典はどういう呪い師なのか、稲穂たちには知る必要があった。名の有る呪い師の家庭なのか、それともただの奇跡的に呪いを使えたただの老人だったのか。
稲穂は病院近くの花屋で千歳と待ち合わせをしていた。
何故花屋に呼び出されたのか、それが何と関係しているのか合点がいっていなかった。ここ数日の間、解呪師の修行から離れていたが、片時もこの依頼のことを忘れたことはない。
そのおかげで授業にもろくに集中できず、夕夏梨にも上の空だと怒られた。
それだけ、この解呪は稲穂にとって重要な事なのだ。一つの家族がこれから先どうなっていくのか、己の双肩にかかっている。
いや、さすがに驕りが過ぎる。自分に出来るのは呪いを解く手伝いをするだけ。
歩いていると見えてくる花屋。
藤宮フラワーショップ。名前だけなら、稲穂も聞いたことがあった。
なんでも、甘いマスクの店員が一人ひとり丁寧に接客することで有名らしいのだ。
東は部員の誕生日に花束を贈ったことがあって、そのときに生けてもらった花屋が藤宮フラワーショップだったのだ。
彼自身、花には疎く無知なもので唯一花の世話をしたのは小学生の頃に育てたアサガオくらいだ。
しかしそんな稲穂でも、ここで買った花がみずみずしく、綺麗だったのを覚えている。そんな花を育てる人物を一度は見てみたいと思った。
店の入り口で千歳が待っていた。
しまった、待たせしてしまったか。稲穂は駆け寄る。
「すみません、お待たせしました」
彼女は店の軒下の日陰で待っていたが、ほんのり汗をかいている。入って待ってくれても良かったのだが。
「いえ、大丈夫ですよ。私も今着たところですから。それでは入りましょうか」
異性とこうして花屋に入るのは初めてで、特に深い意図はないとしても胸が高鳴ってしまう。これだけからいつも夕夏梨の顔もまともに見れないのだ。
「いらっしゃいませ。ああ、来たか。日比谷……とそちらは?」
振り向いたのは自分よりも背が高く、輪郭もはっきりとして顔も整ったいわゆる美男の店員。だが、重要なのはそんなところではない。
負けているのは分かっている。一番気になるのは、あの店員が彼女の名を呼んだことだ。
日比谷と、たしかに呼んでいた。これだけで彼と彼女の関係性が怪しくなる。千歳の友人だろうか、それとももっと別な何かか。
妙な勘繰りをしているうちに、千歳は藤宮に稲穂の紹介を始めていた。
「この人は……私の助手兼解呪師見習いの津田稲穂さんです」
藤宮は眉を顰める。
「解呪師の見習いねぇ……どんな腹積もりで解呪師に成ろうとしているかは俺にはどうでもいい話だが、妙な下心で成ろうっていうなら、止めておくんだな」
「な!?」
稲穂に向けての開口一番、いきなり噛みつかれた。それも強烈な。
頭の中が混乱していた。どうして初めて会った人にこうも言われなければならないのか。なんとかそうではないと弁明しなければ。
「違います! 俺は別にそんなことで成ろうとしている訳じゃありません! ただ助けられた身として千歳さんに恩返しがしたくて……!」
必死だった。
しかし、そのかい虚しく藤宮には今一つ届かなかった。
「恩返しを口実に使っている訳ではないよな? 助けられたって言ったが、あれは別にお前が特別だからじゃない。仕事だからしたまでだ」
「――っ!」
その通りだった。千歳が稲穂を助けたのは何も彼のことを特別に思っているからではない。仕事だからそうしたまでなのだ。
ぐうの音も出ないとはまさにこのことだ。
「いいか、この時代の解呪師や呪い師は過去からの遺産を継ぐ大事な仕事だ。生半可な覚悟だと、とてもじゃないが務まらない。解呪師の道は過酷だと聞く、形はどうであれ、呪いとともに込めた人の想いもすべてなかったことにする。……たしかに日比谷は最近の女性にしては、人との接し方を除けば良く出来た女性だ。しかし、人と接したことが無い故にその隙に付け込まれる。お前もどうせ――」
「やめてください!」
終わりが見えない藤宮の言葉を遮ったのは、稲穂の横にいた千歳だった。
手をぎゅっと握り、稲穂も見たことのない怒りを瞳に宿らせて彼女はこう言う。
「藤宮さん、言い過ぎです! 稲穂さんは決してそんなつもりではありません。本当に優しくて、気持ちの良い人です。私も彼には助けてもらいました。藤宮さんの言う下心で解呪師に成ろうとしている人が、他人のために怒れますか? それに稲穂さんは透子さんだって認めているんです。これ以上稲穂さんを貶すのなら金輪際、藤宮さんとは関わりません!」
彼女の怒りを目の前にして、藤宮はもう一度だけ稲穂に目を向ける。
千歳の言う通りなら、稲穂はとてつもない馬鹿かお人好しになる。いや、それだからこそ彼女がここまで心を許し、怒っているのだ。
そして藤宮は深い息を吐く。
「日比谷、津田。今までの非礼は詫びよう。すまなかった」
藤宮は先ほどと打って変わって、素直に頭を下げる。
顔を上げた藤宮は顔つきが明らかに変わっていた。稲穂を睨みつけていた瞳は優しさを帯びて、頬を緩ませまいと強張っていた力を抜き、穏やかな笑顔を向けた。
今度こそ稲穂に敵意は無いようだ。彼はホッとして胸を撫で下ろす。
「怖がらせてしまったな、日比谷、津田。気を悪くしないでくれ。解呪師の弟子と聞いて試してみたくなったまでだ。他意はない」
「あっ、いえ。そういうことでしたか……」
千歳も間の抜けた声を出して、一息つく。
そして藤宮が咳払いをして、自己紹介を始めた。
「自己紹介が遅れた、俺の名前は藤宮勇実。ただのしがない花屋兼呪い師だ。以後よろしく頼む」
藤宮が稲穂に握手を求めてきたので、稲穂はそれに応じて握手を交わす。
「稲穂さん、こう見えても藤宮さんはとても優秀な呪い師なんです」
千歳が微笑みながら稲穂に説明する。
「こう見えてもって、失礼な奴だな。一体お前には俺がどう見えているのか」
藤宮が冗談っぽくそう言うと、彼女も自分の言ってしまったことに気が付き、あたふたしながら弁明しようとする。
「ちっ、違います……! 決して悪い意味ではなくてですね!」
おろおろと不安そうな顔をする千歳を見て、藤宮は口角を上げていたずらに笑う。
「そう慌てるな、冗談だ。俺は自分が他人にどう見られているかぐらいわかっているつもりだ」
千歳の慌てている姿はどこでにいても変わらないと、内心笑ってみせているが、稲穂は二人がどういう関係なのか気になる。
話を聞く限り、藤宮は呪い師で千歳は仕事の関係上協力を依頼した。しかし、二人の間には目に見えない不思議な糸が繋がっているように見えてしまう。
かすかに胸が痛む。
この痛みにまだ名前はないが、いずれまた襲いかかるだろう。それまでにきっと稲穂は知ることになる。この痛みの名を。
「さて、冗談が過ぎた。そろそろ本題に入ろう、二人とも奥の部屋に来い。茶でも飲みながら話すとしよう」
藤宮は店の奥の扉を指差し、入り口の看板を準備中に変える。
そのまま彼に案内されながら奥の扉の中に入っていく。
世界がまるで違っていた。表と裏の境界線はたった一つの扉のみ。表裏一体とはよく言ったものだ。部屋は意外にも明るく、周りは色とりどりの花で埋め尽くされ、彩られていた。
少し肌寒く、身震いをしてしまうのはこの独特な雰囲気故なのか。
部屋の中央にある、机とおそらく藤宮が座る椅子と呪いを受けに来た客が座る二つの椅子。
ここが呪い師の仕事場。解呪師と何もかも違う。
「驚いたか、津田。呪いをかけるにはこんなに仰々しい場所が必要なんだ。その点解呪師は良い、その身一つあればどこでも開業できる」
ここで稲穂にある一つの疑問が浮かんだ。
「あの、解呪師と呪い師って仲間同士なんですか? やることも全部逆ですよね、いわゆる商売敵ってものじゃあないんですか?」
「当然の疑問だな。たしかにお前が言う通り、昔は解呪師と呪い師は敵対していた。だが近年になってから解呪師と呪い師は手を取り合って共存する道を選んだ。互いに張り合っても時代の波に消えるだけだ。呪いは時を経て呪いとなるようにこの二つの関係性は変わっている。今も尚、こんなものに頼る人は多い。だからこそ、誤用した者やかけられてしまった者を助けるために、俺たちは協力しているのだ」
たしかにそうだ。
対立したままではいずれは時代の波に飲み込まれて、歴史の海へと沈むだろう。だからこそ手を取り合って、呪いに悩む人たちを救うために協力しているのだ。
まさに千歳と藤宮のように。
「さて、紅茶しかないが良いか? 二人とも座って待っていてくれ」
そう言われ、千歳と稲穂は椅子に座る。
千歳も呪い師の仕事場を初めて見るのか、周りをきょろきょろと物珍しそうに見渡している。気持ちの良い花の香りと紅茶の香りが二人の鼻孔を掠めた。
そして、藤宮は三人分の紅茶を淹れ、話を始める。
すべてあったことを事細かに説明した。複雑な家庭事情のこと、そして呪いをかけた本人が既に他界していること。
「なるほど。そうだな、まずは津田のために呪いについて話さなければなるまい。呪いというものは本来このように万全の準備をして行うものだ。だが、それを簡略化したのが呪い本だ。必要な手順は陣で省き、本の書いてある通りに行えば誰でも手軽に成功する。だが、素人が行う場合は長くは続かない。せいぜいもって一週間程度だろう。あとは思い込みだ。だが本物の呪い師が行うとその効果は一生続く。劣化もせずな。両者に明確な違いがあるとすれば、人の想いを上手く呪いに組み込めるかの違いだろう。想いの強さ、深さを理解しているだけで、質は格段に違ってくる」
紅茶の湯気が右に左に揺れる。
話の内容から察するに十津川正典は本物の呪い師で違いない。稲穂は十津川という名前に聞き覚えがあった。しかし、それがどこで聞いた言葉なのか思い出せないまま、藤宮の話を聞いていた。
「それで、十津川正典という人物に心当たりはありませんか?」
千歳が尋ねると、彼は顎に手を当てて考え出した。
同時に稲穂も思い出すために頭を悩ます。
「十津川家……か。あれは代々呪い師の家系だ。だが、名門ではなく細々とやっていると聞いたことがある。たしか、彼の孫がいたはずだ」
「場所は分かりますか?」
彼女の問いに藤宮はかぶりを振る。
しんと静まり返る空間に場違いな音が鳴る。稲穂のスマートフォンからだった。彼はしぶしぶ確認するとそれは夕夏梨からの連絡だった。
「あっ!」
稲穂の思考は繋がった。そうだ、思い出した。つい先日、夕夏梨と学食で昼食を摂っている頃に彼女に手を振ってきた彼だ。
彼の名前は十津川と言っていたはずだ。
これだけ珍しい名字だ、そうそういるはずがない。彼が話に出ていた孫である可能性は非常に高い。これはもしかすると、呪いを解く鍵になるかもしれない。
「どうかしたか?」
藤宮は稲穂の顔を覗きながら尋ねる。
「僕、もしかしたらその十津川さんの孫、知っているかもしれないです。いや正確には後輩の友達に同じ名字ってだけですか」
「それは本当ですか稲穂さん!?」
隣に座っていた千歳も思わず身をずいっと稲穂の方に寄せる。近づく彼女の可愛らしい顔に戸惑いを隠せず、目を逸らす。
「ええ、はい。連絡を取って会えるかどうか話してみます。蔵にかけた呪いの元の陣も見つかるかもしれないです」
まさか、あの学食で会った彼がこんなところで関係してくるとは稲穂も夢にも思わなかった。
連絡をしたが、案の定夕夏梨の反応が芳しくなかった。だがそこをなんとかなんでもするという条件付きで、納得してもらった。
早くて明日にでも会えるらしい。
「明日にでも会えるそうです。千歳さんも一緒に会いますよね?」
「はい、ぜひ」
と千歳は頷く。
これで解呪に役立っていると信じたい。稲穂は未だに何もできていないことを悔やんでいる。だからこそこのチャンスは逃したくなかった。
「俺の出番はこれ以上はなさそうだな。さて、店の方も放っておくわけにもいかん」
千歳も稲穂もこれにて、藤宮の店から出ていこうとしたが、稲穂だけ呼び止められる。
「津田、安心しろ。日比谷と俺はお前が思っているような関係ではない」
「え!?」
稲穂はすっとんきょうな声を出してしまう。まさか自分の考えが藤宮に筒抜けだったとは。
「兄妹……といった感じが近いな。これでもう俺を睨まずに済むだろう?」
睨んでいたつもりはないのだが。もしそうしていたのなら今度から気をつけなければならない。それだけで意図とせず気持ちが伝わってしまう。
「それと、お前は妙なものに魅入られているな。気をつけることだな、俺がしてやれるのは忠告だけだ」
妙なもの。透子さんのことを言っているのか。
たしかに彼女は妙なものと言ってしまえばそうなってしまうが、気をつけるとはどういうことだろうか。稲穂は分からないまま、客が入ってきたので質問の意図を確認できずに店を出てしまったのだった。