第三話
そして翌日の朝、稲穂は目を覚ます。代り映えの無い天井を見上げながら、カーテンから零れる朝日に揺り起こされたようにあくびを一つ。
枕の横に置いてあったスマートフォンで時刻を確認する。
本日は月曜日、午後八時。外の天気は快晴で雨の予報もない、気温はぐんぐん上がっていき夏日まで達するという。
まだ夏本番でもないというのに、太陽は気が早いようだ。
稲穂は夏は好きだったが、暑さが苦手でしょうがなかった。特に去年の夏には良い思い出など一つもない。
連日連夜、東に呼び出されて酒飲みの相手をさせられ。大分汚れていた部室の大掃除もあった。そのせいで体調を崩して、熱中症で倒れてしまったのだ。
そのときはさすがの東でも稲穂のことを心配し、部室で落ち着くまで日が暮れるまでつきっきりで看病してくれた。
それから数週間、東が飲みに誘わなくなったのを覚えている。あれは彼女のなりの反省だったのだろうか。
考えている通りだと嬉しいのだが。
まだ眠気がとれない身体を起こして、腕を前に伸ばす。
机の上には解呪師の勉強するための道具が散乱している。透子に渡された、解呪師のいわゆる歴史書と呪いの陣が書かれたお手製の本。
陣が書かれているこの本は千歳が勉強したときのおさがりだ。
彼女がまとめているだけあってかとても見やすくて、勉強もはかどる。
片付ていない机から察するに、昨日はどうやら自習をしている最中に眠ってしまったらしい。最近は学業と解呪師の修行の両立で精一杯で、友人と遊ぶこともめっきり減ってしまった。
寝不足のしわ寄せが今日も如実に表れている。
今日は一時間目から授業がある。早く大学に行く準備をしなければ。
膝に手を着き、ゆっくりと立ち上がった。
本日の予定は大学の講義が終わり次第、千歳と駅前で待ち合わせてから山村鉄治が入院している病院に向かうこととなっている。
今回は危険性が皆無な呪いなだけあってか、それとも千歳は自分だけで解けると判断したのか透子の出番は無いそうだ。
彼女の出番がないということはそれだけ人々が平穏に住んでいるということだ。
それはそうと、稲穂は昨日かな子が帰ったあとで遅めの昼食を取りながら、千歳に解呪師協会のことについて尋ねたのだ。
彼女が言うには、解呪師は解呪師協会に認定されて初めて名乗ることができる。認定試験は年に三度程度あり、申し込めば何度も受けることができるが、その分金もかかってしまう。
ここだけ聞くと、普通の検定試験の何ら変わらないが、だが決定的に違う箇所がある。
それは、実習があることだ。実際に現役解呪師の下で一ヶ月以内に仕事を貰い、解呪する必要があるのだ。
年々解呪師は減少傾向にある。というよりも全国で十人もいるかどうか。ほぼほぼ歳をとった老翁老婆で、現役で二十歳となると希少だ。
千歳ともう一人、明治時代から解呪師を生業としている伝統と誇りを引き継ぐ敦賀家の敦賀小夜乃。
千歳も一度しか会ったことがないらしく、いつも和服を着て凛とした佇まいで若さに似合わない気品もある。
目と目が合って互いに軽く会釈したときに、扇子で顔を隠していたが、色白で可愛らしい顔をしていたという。
大方の解呪の依頼は解呪師協会を通して紹介されるが、千歳は開業してまだ若くそしてどこの名家の出の娘でもない、異例の解呪師なのだ。
だからこそ、仕事のほとんどは敦賀家に持っていかれてしまっている。
稲穂自身も異例の解呪師となりそうで、言っても仕方がないが気が重い。
小言を言われないかどうか今から心配になっている。
そんなことを考えているうちに、大学に行く準備ができてしまい、朝食代わりのバナナを食べて牛乳を飲み、家をあとにした。
敦賀小夜乃。会ってみたい人物でもあるが、解呪師見習いだが一般人に毛の生えた程度の経歴を持つ稲穂では一目お目にかかるだけでも叶いそうにない。
通学路に出て、時刻を確認する。
少々いつもより早く出て来てしまった。
いつもなら時間丁度に出て、夕夏梨と一緒に登校しているのだが、ほぼ毎日館の方に出向ているせいで早い時間に外に出るのがもはや習慣となってしまっている。
夕夏梨が来るにはあともう五分はかかる。
その時間を無為に過ごすことはしない、鞄から呪いを自分でまとめてみたノートを見て予習する。
ふとまたしても、敦賀小夜乃のことが気になってしまった。
彼女は生まれてからずっと解呪師に成るために、日々研鑽を積んできたのだろうか。きっとそうだろう。一体どれだけの期待を背負わされて、解呪師に成ったのだろう。
ただの一般人が明治時代の人間に教わってぐらいで、成れるのだろうか。
不安になった心を振り払うように頭を左右に振る。
いけない、今は今だけでも透子と千歳の力になってやらなければならない。それが恩返しに繋がるなら、なおさら。
他人との努力の量を比べてもどうしようもないのは、稲穂にだって分かっていた。
しかし、稲穂の気合虚しく寝起きの頭ではいかんせんノートの内容が入って来ない。
自分に呆れて、ため息すら出てこない。
「おはようございます、先輩」
ひょっこりと稲穂の視界に入り込んだ夕夏梨を見て、彼は少々目を見開いて驚きながらも挨拶を返した。
「おはよう、赤碕」
夕夏梨は稲穂が持っているいるノートが気になったのか、そのまま挨拶もそこそこに尋ねる。
「そのノート、今からテスト勉強ですか?」
「まっ、そんなところかな。この前だって出られなかった授業もあったから。それに赤碕より良い評価で単位を取りたいからね」
稲穂は笑いながら、ノートの中身を見られないようにそっと鞄にしまう。
「あっ! そういうつもりなら私も負けませんよ! 先輩、忘れましたか? こう見えても努力家でやるって言ったらやる女ですから」
それはよく知っている。
彼女はこう見えても努力家でしかも負けず嫌い。どちらも相当がつくほど。
稲穂が通っている大学に行くために彼女は偏差値を上げて、見事推薦をもぎ取ったのだった。高校時代でも彼に何度もテストの点数で競い合い、負けるといつも拗ねるのだ。
学年が違うと稲穂が何度言っても、必ず自分が勝つまで挑み続けるのだ。
スポーツでも言えたことだが、得意のバドミントンで負けた日には頬を風船のように膨らませて、稲穂に参ったと言わせるまで続ける。
あれ以来、稲穂はスポーツ――特にバドミントンでは無意識に手を抜いてしまっているのだ。
「今度は負けても拗ねないでくれよ?」
と稲穂が珍しく赤碕をからかうと、彼女は顔を赤くして急にしおらしくなった。
どうしたのだろうと、首を傾げて稲穂は彼女を見つめる。
「先輩、昔のことですからそんなに言わないでくださいよ。もう大人の女なんですから、そんなことじゃ拗ねないですよ」
恥ずかしがりながら夕夏梨はそう言う。
彼女もまた花も恥じらう乙女なのだと再認識してしまい、頬をかきながら目を逸らす。このくすぐったい雰囲気を何とかしたくて、稲穂は冗談を言った。
「でも、負けず嫌いな性格は変わってないけどね」
すると彼女は「もう!」と可愛らしく怒ってみせた。
これでいつも通りの時間になっただろう、稲穂と夕夏梨は大学に向けて歩き始める。
その間で漠然と、山村鉄治の人物像を想像してみる。
やはり、武骨な手の形をしていて昔の男のように無口で背中で語るタイプなのだろうか。背丈も大きく、厳しくとも優しい人。というイメージが勝手に浮かんできている。
しかし、かな子の母であるみな子とは仲が悪い。
他人の家庭に首を突っ込んでどうにかできるわけでもないが、どうして喧嘩をするのだろうかと稲穂は考えてみることにした。
いつみな子は喧嘩をしたのだろうか。自分と同じ歳のときだろうか、それとももっと若いときか。
多感な時期の高校生や中学生のときか。
反抗期がなかった稲穂にはどうしても理由が見当たらない。
何故喧嘩をしてしまうのだろうか。かな子の話を聞く限りではどちらも優しい人だと聞いた。
そんな二人でもいや親と子だからこそ、互いに譲れないものがあったからこそ喧嘩をしてしまったのか。
そう言えば、隣に笑顔で歩いてる夕夏梨も一度だけ家出をしたことがあった。あの捨ての猫を拾った神社に呼び出され、理由を尋ねると彼女は「親と喧嘩をしたんです」と呟いた。
今では彼女は自分の両親とどういう関係になっているか分からないが、稲穂と同じくそれなりに楽しくやっているはずだ。
稲穂は、少し彼女に聞いてみることにした。
「赤碕には反抗期ってあった?」
唐突な稲穂の質問に目を丸くしながら、質問を考えてくれた。
「ありましたよ、人並みには。そういう稲穂先輩はどうなんです? 反抗期ってありましたか?」
質問を返され、稲穂は思い返してみることにした。
「いや、僕は無かったよ多分」
些細な言い合いはしたことはあったが、コミュニケーションの一部だろう。
「どうしてそんなこと聞くんです? あー分かっちゃいました。またゼミの宿題ですか?」
言い訳が思いつかなかったが、好都合だ。そういうことにしておこう。
「そうだよ、まだまとまらなくてさ。赤崎の意見を聞こうと思って。どうして喧嘩をするんだろうな」
彼女はすっと視線を下げ、稲穂の問いを真剣に考えてくれている。毎度申し訳ない、いつか彼女に何かお礼をしなければ。
数秒後。彼女は口を開いた。
「そうですね……やっぱり、ちょっとした反抗なんじゃないでしょうか。特に理由なんてないと思います。あくまで私の場合ですけどね。私が夢見ていることは分かってるんです、親が正論を言ってるのも分かってます。ですけど、正論を言ってるからこそ反抗しちゃうんです。こんなに偉そうにふんぞり返っている大人を困らせてやろうって。その結果として、喧嘩をしちゃうんじゃないかなって思います」
彼女はえへへと困ったような照れたような笑みを浮かべていた。
望んで喧嘩をしたいと思うものはいない。それが真実だろう。
みな子もそんな理由だといいのだが。
「ありがとう。ためになったよ」
彼もできるだけ柔らかく感謝の意を込めて笑う。
夕夏梨は笑う彼を見て、ぷいっと顔を逸らしてしまう。それを見た稲穂は時々する彼女の行動に疑問を持ちながらも特に言及はしなかった。
「そう言えば、最近忙しいみたいですね」
彼女は話題を変える。
稲穂は夕夏梨には呪いの館で解呪師の弟子をやっているとは言っていない。ただバイトが忙しいとだけ、誘いがあるたびに言い訳していた。
「うん、そこそこね」
夕夏梨は、疲れている稲穂を見て心配をしている。そんなことぐらい彼にだって伝わっている。それでも気取られないために気張っている。
「最近、誰も遊んでくれないからなぁ……」
とぽつり、稲穂は寂しさもあってか零す。
何も千歳と一緒に静かに話しながら茶を飲むのがつまらないと言っているわけではない。もちろん楽しい。
ただ今まであったことが無くなると、たまらなく寂しくなるのだ。
変わらず接してくれるのは夕夏梨と千歳に東、そして優司ぐらいだ。
忙しい自分を案じてくれているかもしれない。と分かっているが、それでもたまには遊びに連れ出してほしい。
「先輩はずっと忙しいそうですから、声をかけたくてもかけられないんですよ。なんだったら、私と今度遊びに行きませんか? そうですよ、夏休みに入ったら遊園地とか海とか!」
彼女が楽しそうに提案する。
海はともかく、遊園地なら気兼ねなく遊べるはずだ。悪くない。
「遊園地か……しばらく行ってなかったなぁ。それもいいかも」
その言葉を聞いて、彼女は嬉しそうに笑う。
「今の聞き逃してませんからね、ちゃんとこの耳で聞きましたから! 約束ですからね、夏休みに二人で遊園地ですよ! あっ、ちゃんと予定決めなくちゃ」
話が独り歩きしている。稲穂を置いてぼりにして、夕夏梨は一人で喜んでいる。
「ちょっ! まだ行くって決めたわけじゃ――」
いや、あそこまで喜んでいる夕夏梨に向かって行けないなんて言えない。ここは腹をくくって彼女と遊園地に行くしかない。
これから先の大学のテストと認定試験、そして今回の解呪の依頼。極めつけは約一か月後に訪れるであろう、夕夏梨と一緒に遊園地。
ずっしりと予定が詰め込まれ過ぎて、頭が痛い。
あのゆっくりと緩やかに流れていた朝が恋しい。やっぱり、どうしても忙しいのは性に合わないな。と稲穂は内心苦笑しながら先を歩く夕夏梨の背中を追いかけるのであった。