第一話
「ダメだダメだ! そんなんだといつまで経っても解呪師に成れないぞ、稲穂!!」
館の中に、稲穂を叱咤する声が響く。
声の主は千歳の身体に宿っている透子のものだった。稲穂は図書室で立派な解呪師に成るための特訓をしていた。まずは呪いの型を覚えることから始めている。
透子の元で解呪師見習いとして、修行を積み始めてはや二週間。ほぼ毎日館に呼び出され、透子の叱咤を聞きながら猛勉強に励んでいた。
どうやら透子は現代に馴染むのが早かったらしく、千歳よりもパソコンや携帯電話といった電子機器はお手の物だ。
同じ体のはずなのに、どうして得手不得手が違うのだろうと不思議に思っていたが、透子は千歳に比べて知識に貪欲なのだ。
千歳を悪く言うつもりはないが、彼女は本の中に知識を求めている。
だが、透子は本のだけではなく目に映る世界に知識を求めている。と区別したほうが分かりやすいだろう。
稲穂も入れ替わりに慣れ、今ではすっかりどちらが身体の主人格を持っているのか一目で判断できる程度にはなった。
入れ替わるにはいくつか制約があるらしいのだ。
透子本人から聞いたのだが、まずは千歳との基本的に直接な会話は出来ない。たとえ心の中でも例外ではない。
視覚や味覚の五感と言った身体の情報は共有できるらしく、二人分の食事は要らない。ただし、誰かと話しているかは分かるが、会話の内容はそのときの主人格しか記憶できない。
情報の共有は紙に書いて行うしかない。だからこそ彼女は手帳に持ち歩き、書きこんでいるのだ。
片方が主人格のときは、片方は眠っているような感覚に似ているらしい。そして交代のタイミングに声をかけて起こされると言う。
透子曰く、初めての頃は交代のタイミングでも任意にできず、突発的に入れ替わっていたから大変だったらしい。
透子は必要最低限の交代しかせず、千歳でも手に負えない呪いや呪いを解呪するときや、こうして稲穂の修行をつけるときだけ現れる。
稲穂も透子と話していくうちに、男勝りな口調はいざ知れず、性格の悪い人物ではないと理解できた。
そして、彼女は重大なことを先日話してくれた。
自分が明治時代の人間だと。
百年以上彼女は、本の中に封印されていたのだ。目を覚ませば見知らぬ世界、自分のことを覚えている者も、愛した人もこの世にはいない。
ある日の三日月の晩、彼女は窓辺からの夜風に凪ぐ景色を見ながら彼女は稲穂にこう語った。
『これは、私がちゃんと死ぬための……戦いなんだよ。すまないな、こんなのに付き合わせちまって』
憂いに満ちた瞳。何も言えるはずなどなかった。
続けて、彼女はこう言った。
『私だけ時代違いに生きてる。けど、この子の身体だけど直に心臓の鼓動を聴いて、水や土に触れてみると、どうしてか……楽しいな、面白いなって思ってしまう。決心が揺らいじまうときもあった。だけど私は死ぬべきなんだ、もう。この子の人生はこの子だけのものだ。これ以上、私が勝手に使っていいわけじゃない。それに、あの世に行って私を閉じ込めたクソ野郎に文句を言わなくちゃならないからな』
と彼女は笑いながら、千歳に代わったのだった。
以来、稲穂はどこか透子に気を遣っているのだ。出来るだけ早く、彼女の目的を果たせるように努力する。
もちろん、彼女は明朗快活で話していて面白い、そして千歳も彼女を必要としている。だからこそ心のどこかではこのままで良いと思っている。
稲穂は矛盾をそっと胸の底に沈めて、仕舞いこんだ。
「おい、ボーっとするな。稲穂、これな何の呪いの陣だ。答えてみろ」
いつしか思考の旅に出てしまった意識を、透子の声で取り戻して、目の前に広げられている呪い本に目をやる。
彼女が手で指しているのは――。
「これはたしか、ええっと……好天の呪いですか?」
稲穂が比較的すんなりと答えると、すると彼女は驚いたように本を確認する。
「珍しく正解だな」
良かったと、稲穂は安堵の息を漏らす。これで彼女になんだかんだと文句を言われずに済む。
「よし、今日はここまでだ。お疲れさん」
と稲穂に言い残して、彼女は千歳と交代した。
座っているとはいえ、床に気絶したように倒れ込むものだから、いつまでも慣れず思わず目を見開いて驚いてしまう。
むくりと千歳は起き上がると急いで、はだけている服装と透子が邪魔だと言って左右に分けられて乱れた前髪を直す。
稲穂は、綺麗な目が見えるから前髪を分けていたほうが好みだったが、それを言えるだけの勇気はまだない。
「稲穂さん、いつもご苦労様です。あの……いつもはしたない姿で申し訳ありません。今、お飲み物をお持ちしますね」
千歳は立ち上がろうとするが、足に力が入らずよろけてしまう。それを見ていた稲穂は上手く受け止める。
「大丈夫ですか!? 交代した直後は無理しないでください。僕が持ってきますよ、千歳さんは何を飲みますか?」
稲穂が言った通り、後退した直後は無理は出来ない。力のコントロールが上手くいかず、自分の身体だと言うのに馴染むのに時間がかかるのだ。
「ありがとうございます……飲み物は麦茶でお願いします」
彼女が申し訳なさそうにお礼をすると、稲穂は微笑みながら千歳に肩を貸して隣の相談室の椅子に座らせる。
稲穂は一階に降りて、台所へ向かう。
館の構造は大体頭の中に入っている。千歳は、叔父の所有物であるこの館に一人暮らしには丁度良いということで住んでいる。
二か月に一度、様子を見に来るらしいのだがまだ稲穂は叔父に会ったことはない。
いや、会うと都合の良いことばかり起こるわけではない。どうしてこの館にいるのか問いただされる可能性がある。
どうして言い訳したものか分からない。
挨拶を忘れるほど一般常識を欠いている稲穂ではない。いつかはしなければならない。
その事を想像しただけで億劫になる。
そうこうしているうちに、台所へ到着して冷蔵庫を開けて麦茶の入った容器を取り出して、コップに注ぐ。
ふと、稲穂は自分が彼女のことを下の名前で呼んでしまっていることを思い出した。
少し前までは互いに名字で呼び合っていた。距離や壁を感じるなというのが不可能というものだろう。しかし、現在では彼女の方も彼のことを下の名前で呼んでいる。
敬語は取れていないが、それでも初めて会ったときに比べて親しくなっている。気がする。
実家での恋人のふりがきっかけだとすると、可笑しくなって稲穂は思わず笑みを零した。
悪い気はしない。これまであった距離も壁もおかげで無くなったのだ。
友人に対してもああいう話し方なのだろうか。稲穂は麦茶を淹れたコップを運んでいる途中で疑問に思ってしまった。
しかしながら、彼女が自分以外の人物と話しているところは見たことがない。
私生活はおおよそ把握できているが、大学に通っているのならどういう学校生活を送っているのか気になるところだ。
千歳は化粧をしたことがないのか好まないのか、時々外出するときでさえ、化粧をしない。
外見を繕う。と言い方は失礼極まりないが、稲穂はその程度にしか女性の化粧の大事さを理解できてない。
周りの――例を挙げるとするならば、夕夏梨と東が適任だろう。
夕夏梨は書いていた通り、厚化粧を好まずしてもリップぐらい。ときには紅く、ときには桜のように淡い色で唇を染めている。お気に入りは桜色のリップらしい。
高校生の面影が残る稲穂に大人になった夕夏梨は、目のやり場に困るのだ。
顔を見ようものなら必ず唇が瞳に映ってしまう。目を背けるのは失礼になるから出来ない。だから困っているのだ。
まるで、夕夏梨は狙ってやっているかのようだった。
次に東だが、彼女こそ化粧をしているが己の顔の良さを引き立させる為に、決して厚化粧はしない。最低限の飾りつけでも、何倍にも美しさは跳ね上がる。
東は口紅はあまりつけず、桃色の薄い唇のままのときが多い。理由は酒を飲む機会が多いからだ。これもまた彼女のこだわりで、酒の味が分からなくなるかららしいのだ。
化粧をしたことがない稲穂には、つけることで味が変わるのか分からなかった。
そして千歳が待つ相談室に着き、コップを持ったまま稲穂は器用に扉を開けて運び入れる。
「稲穂さん……ありがとうございます」
窓辺から部屋に入り込む風に髪をなびかせながら、彼女は稲穂に頭を下げた。
「良いんですよ、いつも僕がやってもらってますから。どうぞ」
麦茶を千歳の前に置き、稲穂も座る。
時刻は丁度十二時を回ったところ。朝から続いている解呪師の修行で忘れていた疲労感と空腹感が間抜けた腹の音で現れる。
「あっ、すいません。お腹空いちゃいまして」
稲穂はいつもなら、コンビニか自分で冷凍食品をふんだんに使った弁当を持参しているのだが、今日ばかりは両方とも忘れてしまったのだ。
それを知った千歳は、身体の調子も元に戻ったので麦茶を一口だけ飲み、すっと立ち上がる。
「よろしければ、私がお食事を用意しましょうか?」
思いがけない提案に胸弾むのはたしかだったが、稲穂は断る。
「いえいえ、お気遣いなく」
彼女も一人だけ昼食を取るのは悪い気がするので、断る稲穂をどう納得させたものかと考えたが、すぐに答えは出た。
「では、こうしましょう……。先ほどよろけた身体を支えてくれたお礼。ということで」
千歳はふふふ。と笑う。ずるい気がするが、彼の人の良さを少しばかり利用させてもらった。
千歳の思惑通り、こう言われて断れないのがこの男津田稲穂である。
「分かりました。それじゃ、お言葉に甘えさせていただきます」
「ええ……甘えてください」
彼女はそう言って微笑みながら相談室から出ていき、急いで昼食の用意を始めるのだった。一人分も二人分も変わらない。
腕によりをかけて作らねば。
千歳が出ていった部屋で一人残された稲穂は、椅子に深く腰掛けて息を吐く。
なかなかどうして、解呪師の修行というものは疲れる。まずは百をゆうに超える陣の形を覚え、それに加えて解呪するためのそれぞれの陣に対となる陣も覚えなければならない。
これだけではない。言霊なるものを暗記もある。言霊は呪いや呪いに語り掛けるためのものであり、これがなければ解呪は成功しない。
まだ初歩の初歩だが、立派といかずとも解呪師に成る道は、予想以上に長く険しい。
いつかは他人にかけられた呪いや呪いを自分が解くのかと思うと、気が重たくなる。
そして――カランカランと、来客を知らせる鐘の音が館の中に響き渡るのだった。