第十話
稲穂には友人がいた。父と母の教えからか他人との争い事が嫌いで、誰よりも優しくあろうと常に心掛けてきた。そんな彼が一度だけ、喧嘩をしたことがある。
後にも先にも親友と呼べたのは、彼しかいない。名前は森野優司。
小学生の稲穂は優司と大喧嘩をした。
原因は些細なことだった。稲穂は大事にしていたキャラクターのストラップをひょんなことから優司が無くしてしまったのだ。
両親がくれた大切な思い出が詰まったストラップ。
今思い返せば、決して意図として無くしたわけではないのは明白だった。当然許してやれるはずだった。しかし、稲穂は激怒した。
優司は必死に謝ってくれていた。だが怒りで我を忘れた稲穂には届かず、稲穂はついに彼に向かって二十歳になるまで後悔する一言を告げた。
勢いもあった。本当はそんなことを言いたかったわけじゃない。弾みで、つい出てしまったのだ。
「優司のことなんか大嫌いだ! 顔も見たくない!!」
優司は瞳から涙を零していた。
泣きじゃくる彼を公園に置き去りにして、稲穂は一人先に家に帰ったのだ。
これが優司との最後の会話。小学四年生の愚かな一言によって親友を無くした。五年生になっても六年生になっても彼とは目も合わせなかった。
そして、優司は卒業とともに親の都合で別の町に引っ越って行ってしまった。
それからというもの、稲穂の心には後悔の棘が深く深く突き刺さったままだった。
素直に謝りたかった。たった一度の過ちぐらい許してやれたはずだ。この記憶を思い返すたびに何度も自分を責めた。
責めたところで過去に帰れるはずもない、気分が晴れるわけでもない。だが、彼にとっての贖罪はこれしかなかった。
いつの日か謝れる日が来るなら、どれだけ良いだろうか。
そう思いながらも、棘の痛みから逃げ出してしまいたいと願う日もあったのもまた事実。だからこそ彼は忘却の呪いに手を出したのだ。
自分が楽になりたいから。ただそれだけの理由で。
他人から見れば、子どもの頃のなんてことのない誰にだってあった過ちの一つだと笑われるだろう。
だが、彼からすればあれがたった一度だけの過ちなのだ。
他の者のように子どもの喧嘩だと笑えるはずがなかった。失った物が余りにも大きすぎるのだから。
稲穂は、とにかく自分が許せなかった。
後悔をいつまでも引きずっている自分にも、背負うはずの痛みから逃げ出した自分にも、あのとき優司を許してやれなかった自分にも。
記憶は取り戻すことが出来た。同時に荒れる波濤のように押し寄せる後悔と自責の念。
終わらない自問自答を繰り返しているうちに空はすっかり赤色に染められていた。綺麗な夕日が稲穂と千歳を照らす。烏が空で鳴き、子どもたちは友人に別れを告げて帰路に着く。
「ここで僕は、喧嘩をしたんです」
二人は公園に来ていた。喧嘩をしたあの公園に。
稲穂はどこか懐かしく思いながら、あの日の情景を鮮明に思い出す。何も変わっていなかった。遊具の位置も、それで遊ぶ子どもたちの声も。
よくブランコでどこまで高くこげるか優司と競い合った。他の友人も交えて鬼ごっこもした。どちらが先に逆上がり出来るかすべり台の隣にある鉄棒で遊んでいた。
勢い余って優司は鉄棒に顔をぶつけてしまったときは鼻血が止まらなくて大変だった。
変わらないのは稲穂も同じ。そろそろ前に進まなければならないのは重々分かっている。いつまでも過去に足を引きずられるのは彼とて本望ではない。
過去だと割り切れるための一歩がまだ出ないのだ。
「……嬉しかったんです、あの事を忘れられて。これでもう悩まされる必要は無いって。でも自分勝手ですよね、自分が助かりたい一心で一度捨てた物をまた拾うなんて。要らないものだと割り切ったはずなのに。最低ですよね、僕って」
自嘲気味に話す稲穂に優しく千歳は答える。
「稲穂さんは、何も悪くありません。……呪いを解くためには仕方がなかったんですから、そこまでご自分を責めなくても」
仕方がない。この言葉ですべてが片付く。
そう、仕方がなかった。呪いを解くためには消した記憶を思い出す必要があったのだ。稲穂は余計に自分を傷つけている。
だが呪いを解くためには思い出すだけでなく、呪いを使った原因を解決しなければならない。
つまりは稲穂は優司に十数年ぶりに会い、謝らなければならない。
今更どの面を下げて会い、謝れと言うのだ。自分勝手が過ぎる。
「千歳さん、解呪師には呪いを止める方法とか遅らせる方法とかあるんですか? ここまで呪いの力が弱まったなら何も解かなくたって――」
「ありません」
千歳は稲穂の言葉を遮るようにして、珍しくはっきりと言い切った。
「私たち解呪師は、呪いを解くことしか出来ません。時間が経てば呪いの力もまた強まってきます。今度は完全に記憶は忘れ去られ、稲穂さんも無事では済みません」
稲穂はぎゅっと強く拳を握り、唇を噛み締めながら下を向く。
「じゃあ! 一体どうすればいいんですか!? 今更どんな顔をしてあいつに謝ればいいんですか! 僕は、僕は忘れようとしてたんですよ? そんな僕に謝る資格なんてありませんよ……!」
悲嘆にも似たやり場のない怒りだった。いや、矛先を向けるべきは自分だけで良かったはずなのに千歳に怒鳴り声をあげていた。
自分のことが嫌いになりそうだ。違う、嫌いになっている。
身勝手で答えを先延ばしにしている自分も、すべて。
「……」
千歳は黙ったままだった。
他人に聞いても無駄なのことは稲穂にだって分かっている。しかし、こうとでも言っておかなければ今まで苦しんできた自分を否定された気がした。
謝れば済む話なのは重々承知している、それですべてが解決することも。だが十数年出来ずにいたのだ、おいそれと出来るはずもない。
とても静かな時間が過ぎていた。
気持ちの悪い、へばりつくような重苦しい空気が二人を包む。
「稲穂さんは……」
千歳の瞳はまだ稲穂を真っ直ぐ見つめたまま。そして彼女は静かに話し出す。
「稲穂さんは優しい人だと私は知っています。きっと、子どもの頃からそうしてきたのでしょう。他人に優しくするのはとても難しいことです、簡単には出来ません。今度は少しでもいいので、他人に向けてきたその優しさをご自分に向けてあげてください。あなたはご自分で自分を傷つけ過ぎています、それでは辛いだけです。もうご自分を許してあげてください。あなたはもう十分なほど苦しみました、贖罪もう十分なほどしたはずです」
彼女の言葉はとても優しかった。子どもの過ちを許す母のように。
稲穂は誰かに言ってほしかったのかもしれない、もう自分を許しても良いと、自分に優しくしてあげても良いと。
「……それに謝るのに、資格なんて必要ありませんよ」
誰かに抱きしめられているような柔らかく温かな風が稲穂の流れる涙を乾かしていく。
稲穂は空を見上げた。ここでよく見た空だった。
「稲穂……?」
後ろから男性の声がした。声がする方へ稲穂は振り向く。
「優司……?」
背も大きくなっていた、まだ慣れないスーツを着てまだ新しい革靴も履いてた。それでも稲穂は目の前にいるのがあのとき別れた親友だと一目で気が付いた。
「どうして優司がここに?」
偶然だった。まさかもう会うこともないだろうと決めつけていた親友と、まさか喧嘩をしたここで再会を果たすとはこの場にいる誰も予想できなかった。
心の棘を抜くときが来たのだ。
「俺、この町で就職したんだ。会社の帰りにたまたまこの道を通ったら、お前に似た奴がいるからもしかしたらって思って。それで、稲穂はどうしてここに?」
あの頃と何も変わらず、優司は笑いかけてくれた。
言葉が出ずにいた。鉛のように重い、喉元まで来ているはずなのに。いや、千歳が言った通り自分を許してやれる瞬間が来たのだ。
ぽつりと彼は呟いた。
「僕もたまたまだよ。……なぁ優司、謝りたいんだ。ここで喧嘩したこと」
稲穂は優司に歩み寄る。
「ごめん優司、あのときは言い過ぎた。ずっとずっと謝りたかった。本当にごめん」
稲穂は頭を下げた。深く、深く。
「なんだそんなことか」
優司は笑った。晴れ渡るこの空のように清々しく。
「俺はもうとっくに許してるよ。俺が無くしたのも事実だから。なぁ稲穂、ストラップを無くしたこと許してくれるか? これ、代わりにならないかもしれないけど。受け取ってくれ」
優司は鞄から無くしたものと同じストラップを取り出して、稲穂に手渡す。
ところどころ痛んでいたが、たしかに大切に扱っていることが目に見えた。
「どうしてこれを?」
稲穂が不思議そうに尋ねると、優司は照れくさそうに頭を掻きながら答えた。
「実は喧嘩をした次の日に親に無理言って買ってもらったんだ。だけど、気まずくてなかなかお前に渡せないまま引っ越ししちまって今までずっと持ってたんだ。稲穂、ごめんな」
堪えた涙があふれ出した。
何度も頷いた。そんな稲穂を優司は肩に手を置き、しょうがないと言いながら笑う。
「お前は小さい頃から泣き虫だったもんな」
心に突き刺さった棘が抜け、傷が癒え始める。
稲穂を苦しめた後悔が消えたことによって、呪いもその存在も同様に消滅を始めた。
そして彼が泣き止んだのは、完全に日が沈んだ後だった。街灯が点き、近くの家から笑い声が聞こえてきた。
「それで稲穂、まったく関係ないけどあの綺麗な女の人お前の彼女か?」
優司は稲穂を笑わせようとしているのか、冗談にも思えることを言った。
たしかに彼らが話している間も、千歳は静かに見守ってくれていた。優司も関係の無い人物だと思っていないだろう。
だからこそ、稲穂とはどういう関係なのか尋ねたのだ。
ただの間柄ではないと確信を持ちながら。
「ちっ、千歳さんはただの友達だよ」
それでも優司は信じておらず、含みのあるにやけ顔を浮かべながら千歳にこう言った。
「稲穂は良いやつです。こいつのことよろしくお願いします」
すると千歳は口に手を当てクスクスと笑いながら――。
「はい、よく分かっていますよ。稲穂さんのことは任せておいてください」
これだけ言い残すと、優司はこのあと家族で予定があるらしく、就職祝いの腕時計を確認して慌てて帰ってしまった。
彼がここに立ち寄ったのはまさに奇跡だったのだ。
残るは千歳による解呪だけ。
「これから解呪を始めます。稲穂さん、おまじないに使用した紙を」
稲穂はポケットから紙を取り出して、千歳に渡す。
これで呪いが解ける。そう思うと体を強張らせて緊張していた。
「稲穂さん、体をお預けしてもいいですか?」
彼女の質問の意図がまるで読めなかったが、呪いを解くために必要なことならば稲穂も協力しないわけにはいかなかった。
稲穂は頷く。
彼女は微笑みながら体の力が全身から抜けてしまったのか、稲穂にもたれかかる。急なことで驚いたが、頼まれた通りしっかりと千歳の体を受け止めていた。
どうしてしまったのだろうか。
不安だったが、直後に千歳は目を覚ます。
稲穂は安心したが、千歳が立てるまで手を添えていた。
「千歳さん大丈夫ですか?」
「……」
返答がなかった。
「ああ、私は大丈夫だよ。それじゃあさっさと解呪を始めるか」
口調が他人だった。彼の知る千歳ではない。姿や声は千歳のままなのだが、中身が魂と呼べるものが違っていた。
目の前に起きたことに戸惑いを隠せない稲穂を見て、千歳は――否、千歳の体の中にいる誰かがため息をついた。
「千歳のやつ、ちゃんと説明しなかったな。こういうことになるのが面倒くさいだから嫌なんだよ。なぁお前が依頼人の津田稲穂で合ってるよな?」
稲穂は頷くことしか出来ない。
「千歳は相方がいるって言ってなかったか?」
思い出した。たしかに千歳はそう言っていた。
「私がその相方だ。詳しい説明は目の覚めた千歳に聞いてくれ。一応名乗っておくか、私は透子。千歳だと手に負えない難しい呪いや呪いの解呪をしている。まっ、私が出てきたってことはそれなりにお前の解呪は難しいってことだが、安心しろ、すぐ終わる。ほら目を瞑れ」
納得はできなかったが言われるまま、稲穂は目を瞑った。
「よし、それじゃあ始めるぞ」
透子は稲穂が渡した陣の紙を人差し指で時計回りになぞっていく。
そしてそのまま稲穂の額に指で紙に書いてある陣とは別の陣を作る。人差し指と中指をそろえて額に指を当て、一言。
「不忘」
と透子は呟いた。