■第4話:また、ひとりぼっちの魔王
見上げる夜空は黒に支配されている。
ぼんやりとした月明かりも、銀砂のような星空も見えない闇。それは今にも降り出しそうな暗雲のせいに他ならなかった。
「今日は降り出しそうだし、早めに寝たほうがいいかもしれないね」
死神は湿った唇を舐めて、ぽつりと呟いた。
いつもに比べて、随分と早い夜だ。
湖畔で短剣を振るっていたシエラも手を止めた。
「……っう、……はぁ、い。おにいさま」
「ご苦労様。ご褒美にこれをあげよう」
息を整えていたシエラは、金属製の水筒を受け取った。
その中身は透明だったが、果汁と蜂蜜で味付けされている。気づいたシエラは一気に傾けて、喉を鳴らしながら飲み込んでいった。
「んぐっ…………はぁっ、……ありがとうございます、お兄様」
「いえいえ。けどシエラの身体能力には驚いたよ。さすがは魔王様だ」
「……関係あるのでしょうか?」
「まぁ、多分関係ないかな」
魔王として育まれた身体能力かは不明だが、シエラの身体能力は優れていた。
特に優れていたのは敏捷性。磨けば光る原石のようなものだと死神が太鼓判を押したほどだ。とはいえ、まだ大人には勝てない程度である。
「さて、雨が降ってくる前に汗を流そうか」
「はい」
死神の言葉に、シエラはいそいそと黒いシャツのボタンを外していく。その行動には迷いがなく、義理の兄への羞恥心といったのは窺えなかった。
王族特有の考えなのだろうか、と死神も今では気にしていなかった。なにより別の目的もあるからだ。
「大分、健康的になったね」
一ヶ月前までの少女は、枯れ枝のような骨に乾いた皮を被せたようなもので、少女としての体つきを一切無視していた。
しかし、今は違う。
柔らかな曲線は、少女らしいふわっとした体躯を形作っている。肌には潤いが満ちていて、しなやかな肢体は白くなめらかだ。
「お兄様の料理がおいしいからです。シエラは日々の料理が楽しみで楽しみで……じゅる」
「くっくっく……いっぱい食べられるのもシエラの大きな才能だ」
シエラは涎を拭うなり、湖面へとつま先から入っていった。
夏とはいえ夜の湖は冷たいのだが、シエラは全く気にしていない様子だ。髪を解かしたり、木桶の水を浴びたりと儀式的に済ませている。
そして小動物が水を払うときのように、ブルブルと体を振りしきった。そのままシエラは、自分を見ていたほうへと視線を返す。
どこか羨望の眼差しで、死神の上から下までを見つめている。
「いずれはお兄様のようになれるでしょうか」
「……え。い、いや、そんなシエラは見たくないなぁ」
死神は筋肉質だ。ガッチリとした体格を、シエラは羨ましがっているのだろう。
しかし、それに憧れるのは死神も本望ではない。
筋肉質になったシエラが「お"兄"様"~」と野太い声で駆け寄ってくる姿を想像して絶望してしまうのだから。
「っ……ぷるるる、……ふぅ」
「シエラ、髪を拭ってあげるからおいで」
湖面は黒く、山肌さえも映さない。
しかし、湖面に波紋を描く白銀の少女だけは美しく映っている。幻想的な絵画を思わせる佇まいで、我が妹の成長に感動してしまう死神であった。
――だからこそ勿体ないなくもある。
「シエラの髪は綺麗だね。そうなると、やっぱり街に行って綺麗にしたいな」
「まち、ですか?」
「そ、人々の拠点。この近くで言えば……水紋都市アクアリウムか」
水紋都市アクアリウムは、水によって栄えた南部最大都市と名高い。
海上の小鳥に建つアクアリウムは、上から見たときに水紋が広がるように丸いと言われている。
街中にはいくつもの橋が架かることから、何十もの運河があるのも特徴だ。
さらには交易の中継であることから、多くの種族が住まっている。
「獣人族なんかも多くてね。シエラが歩いていても何も言われないよ」
そう付け加えられたが、当のシエラは浮かない表情だ。
死神から見ても、良い雰囲気ではないのがひしひしと伝わってくる。死神と目を会わせようとせず、シエラは俯きながら言葉を紡いだ。
「……少し怖いけど、シエラはお兄様になら着いていきます」
「怖い、か。――……いや、焦ることはなかったね。さぁ、今日は寝ようか」
それでも生きていく上で、いつかは行く必要があるだろう。
死神は少女の髪を拭ってやりながら「うーん」と眉をひそめていた。
「……ごめんなさい」
「そんな謝ることではないんだよ」
シエラは申し訳なさそうに項垂れてしまった。死神はその頭を軽く撫でてやると、今にも降り出しそうな曇り空を注視する。
死神としては、シエラにおいしい食事や、綺麗な服を着させてあげたいのが本心だ。それに年の離れた男ではなく、年齢の近い友人を作ってほしい想いがある。
しかし、本人が嫌そうならば仕方ない、と死神は小さく息を吐いた。
――……――……――……
――……――……
――……
「んぅ……、う」
小さな呻き声が漏れてしまいました。
不意に眠りから覚めてしまったようです。まだ重たい瞼を開いてみると、テントの黒い壁が見えました。とても落ち着く、お兄様の色。
そのお兄様に呼ばれないということは、もう一度寝てもいいんでしょうか――
けれど、隣に眠っていたはずの兄の姿がありませんでした。
「おにい、さま……?」
毛布に縫い付けられような脱力感を乗り越えて、体を起こしてみます。
そして気づいたのは、バチンバチンと突き破ってきそうなほどにうるさい雨音。でも今は、それよりもお兄様です。
「お兄さま……?」
いつものような返事が返ってきません。
いつも眠るとき、握ってくれていた手のひらがとっても冷たい。
いつも隣にいてくれたのに。
「お兄様……、お兄様……!」
背筋に氷でも入れられたような感覚になりました。頭がくらくらするような、こう、うなじがチリチリするような……。
息が苦しい。もしかすると、そう、もしかすると。
「っは……はぁ……!」
――飛び出していました。
固い殻つきの実を投げつけられるような、大粒の雨が叩いてきます。でも、でもでも走り続けないと。
最後に会話した時。お兄様が街にいこうと言ってくれた時。私が断ってしまった時に悲しそうにしていました。
いつも褒めてくれたのに、お兄様が、あのお兄様が悲しそうに……、っ。
「ごめんなさいお兄様、ごめんなさ、ぃ……」
どうか、役立たずでもシエラを捨てないでください。
どうか、どうか、どうか、どうか。
「お兄さまぁっ……ぅ、え……えぐっ……」
無我夢中で、お兄様に追いつかないと。
お願いします、お願いします、お兄様。
「おにいさまに、すてられたら……しえらは……」
――本当になにもなくなってしまう。
だから、走って走って、走って、追いつかないと。
目の前は真っ暗で、ぬかるんでしまった道はすごく歩きにくい。それでもこの黒い色を追っていれば、いつかお兄様が現れてくれるかもしれないのだと信じて。
それでも目の前は変わりませんでした。
走っても、走っても、走っても、お兄様はどこにもいません。
瞼がひりひりして、目の前がぼやけて、喉がひりひりと痛い。胸のあたりが痛くて、痛くて、痛くて、手足が重たい。
雨に打たれて、水の中で溺れるような感覚。
そして唐突な浮遊感に襲われました。
「っあ……! 痛っ……」
足下の太い枝に気づかず、転んでいました。
ぬかるんだ土のおかげで痛みはありません。それでも体を抱きかかえないと耐えられないような痛みが、この胸を刺してくるようです。
でも全部全部全部、自業自得
「しえらが、いいこじゃないから……っぅぇ」
いつだってお兄様は優しくしてくれた。でも、一度でも応えたことはあったのでしょうか。
いつも距離を置いていたシエラが、食べるだけで何もしないシエラが、今更お兄様を求めるのはどうしようもないワガママです。
それでもワガママなシエラを、どうか。どうか。
「ぅぅ……おにいさまっ! しえらを、すてないで……ください……ぃ」
お願いします、どうかシエラを許してください。
でも、私の小さな声はザーザーと降り注ぐ雨によって消えてしまいました。
「ぁ、あ……」
もう、ここにお兄様はいない。
目の前がぼやけて灰色になった風景。
でも、あのときと同じ状況に私は少しだけ希望を持っていました。初めてお兄様と出会った時のように、どこからともなく声が聞こえることを。
――ガサッ
その時、何かを音がしました。
草を踏みしめた、確かな音。兄を期待して、私は弾かれるように振り向きました
十数歩先に現れた、黒い影。
黒い宝石のような瞳が、静かにこちらに向けられています。
でも、違いました。
「グルルルルルッ……!!」
シエラを睨んでいたのは、黒い体毛を逆立てていた獣でした。
獰猛な目つきと、鋭い犬歯に荒々しい呼気。体長は私より小さいようですが、彼らの筋肉が詰まった体躯を見てはどうしようもないことがわかってしまいます。
お兄様が注意を呼びかけていた、オブシディアンウルフ。
闘争本能の塊で、とても攻撃的な性格をしている――
「ひぃっ……」
じりじりと、警戒しながらも近寄ってくるオブシディアンウルフ。
周りにも同じような黒い瞳が光っていて、逃げるところも見当たりません。さっきまで苦しかった胸の辺りは、逃げろと言うように激しく跳ねています。
でも、逃げ場がない。
「バウッ! バァウアウッ!!」
飛びかかってきたオブシディアンウルフに、シエラは為す術もありません。
これは私への罰なのでしょうか。せめて、最後にお兄様に――
――……――……――……