■エピローグ 『二人と一匹を繋いだ、司書のお話2』
「――♪」
陽気な歩調でフェンリルは学舎への帰路についていた。
たった半年ながら、扉をくぐるのも大変なほどに成長してしまった。
そのせいで司書子にはソファー代わりにされていたが、フェンリルもまたそれが嫌いではなかった。いや、むしろスキだったのだろう。
今日もまた学舎の扉をくぐったフェンリルは明るく鳴いた。
「わんっ!」
しかし、いつもの声が帰ってこない。
フェンリルは彼女が眠るシーツを剥がしてみると、微睡みから醒めるように司書子はゆっくりと目を開けた。
「……かえり、……りるりる」
明らかな異変を、フェンリルも感じる。
土気色の頬を舐めて、その冷たさに眉根付近の毛がひそめられた。
「クゥン……」
「ああ、ごめん、ね…………きょ、うは……読んであげられなさそ、う」
項垂れるフェンリルを撫でようと、司書子は腕を持ち上げた。
しかし、もう、大きくなってしまったフェンリルの頭には届かない。
フェンリルが項垂れるように屈むと、ようやくその頭を撫でることができた。
「りるりる、あそこのてがみ、……とってもらえる?」
「ゥ……」
フェンリルは机の上に置かれた手紙を引き寄せた。
小さな装飾の施された、一枚の手紙。
「そのおてがみを、もっていってほしいの……。おまもりってやつだね」
「クゥ……ン」
「っ……できればりるりるにも、師匠にあってもらいたかったな……。きっと師匠なら、あなたのことも幸せにしてくれる……よ。ぜったい」
フェンリルは頭を寄せた。
冷えた小さな手が、自分を抱くように撫でてくれるのを感じながら目を伏せる。
「わたしも、ね。いまにして思えば……幸せだった。ゆめも叶ったし、教師にはなれなかったけど……あなたに本を教えてあげることも、できた。それに恋だってしたんだ、よ」
師匠には妹にしか思われてないだろうけどね、と囁いたのをフェンリルは静かに聞いていた。
震え始めた手が、ゆっくりと影の落ちていく瞳が、フェンリルの悲しげな双眸に映る。
「だからつらかった時もあったけ、ど……しあわせだった。心から。……でも、リルリルが幸せにできないことが……心残りかな」
「――ゥ」
彼女の言葉に、黙していたフェンリルも頭を振った。
通じあう手段を持たないフェンリルは、ただただその手を舐める愛情表現しかできない。
それが彼女に伝わったのか、フェンリルにはわからない。
けれど、司書子は最期に微笑んだ。
「……りるりるも幸せに、なって……ね。生きて、ぜったいに……」
そうして彼女は瞼を閉じた。
最期は眠るように安らかに、そして口元には微笑を咲かせて。
「ォ――」
フェンリルは手紙を落として、そんな司書子の手を舐め続けていた。
また撫でてくれることを求めるように、この手が本を開くように。
けれど彼女の服を引っ張ったりしてみても、頬を撫でてみても、本を渡しても、食べ物を置いても、何をしても司書子が撫でてくれることはなかった。
学舎の前に座り込んだフェンリルは、空を見上げ、ふと思い出した。
本を読んでいた時、「人は死んだとき、空に昇っていくんだ」という司書子の言葉を。
フェンリルは空に向かって叫んだ。
「ォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ――――!!」
遠吠えが、慟哭が、空へと響くように。
――……――……――……
――……――……
――……
気の遠くなるような年月が経った。
川のほとりの学舎はすっかり劣化してしまい、フェンリルは何かを探すように、どこかへ行ってしまうようになった。
それでも数日後には学舎へと帰ってきている。
その度に人の臭いが残っていることを、フェンリルも怪訝に感じていた。
一度だけ激怒したのは、彼女の亡骸が学舎の横に埋められていたことだ。
しかし、彼女が読んでくれた本の中に、そういった習性があることを覚えている。
その臭いを警戒しつつも、フェンリルはそれを守るようにして動き始めた。
そしてその正体は、フェンリルのいない隙を見計らった、死神だ。
司書子の死を知った死神もまた、数百年間、フェンリルの留守を見計らって通い続けていた。
互いにすれ違うような関係。
そんな悲運の日々に終わりを告げるように、一人の少女が川のほとりに行き着いた。
川の畔で咳き込みながら、まだ幼い体を抱いて震えてる。
「げほっ……ぅっ……! ぉえ……」
命からがらといった様子。
しかし、不幸中の幸いにも、目の前の学舎を見つけた彼女はそこで休憩を取ることができた。
さらには食べられそうな食料までもが扉の前に落ちている。
いつか司書子が戻ってきてくれないかと、フェンリルが頻繁に置いておいたものだ。
三日ほどそこで過ごしていた彼女だったが、そこにフェンリルが戻ってきてしまった。
フェンリルから見れば、この小屋に近づく害敵。
威嚇するように声をあげて、少女を追い払った。
怯えた少女は、すぐに森の中へと逃げ出してしまった。
しかし、フェンリルもそれを追おうとはしない。学舎の傍にいる間は、穏やかな気持ちになれたからだろうか。
そうしてフェンリルは数百年、その場を中心に動いていた。
司書子がいつ帰ってきてもいいように、このエーデルウッドの森を害敵から守り抜くこと。
それがフェンリルの日々だった。
そして――
――……――……――……
――……――……
――……
「ただいまーっと……」
「ワン」
死神が帰ってくると、フェンリルが小さく鳴いた。
エントランスの中央で、汚れると口うるさく言ったのに寝ていたらしい。
「また上がり込んでる……。ん、シエラも寝てるんだ」
「ワゥ」
横たわるフェンリルのふわっとした体毛の上で、シエラが寝息を立てている。
にへーっと笑いながらヨダレが黄昏色の体毛に滴っていくも、フェンリルは気にしていない様子だ。
「おーおー、随分気持ちよさそうだね。どこにもない最高級の毛布に包まれているんだし当然なのかな」
上着を脱ぎながら、死神は二人を覗き込んでみる。
すると突然、フェンリルに襟元を噛まれて、グイッと引っ張られた。
「ワウッ」
「んっ、どうした引っ張って」
お前もこっちへこい、と言っているようだ。
しかし、彼が招いてくれるとは珍しい。
「おっ……と! なんだ、私も寝かせてくれるとは珍しいね」
「……ゥ……」
気まぐれだ、と言わんばかりにフェンリル呻いた。
そっぽ向くように毛繕いを始める、フェンリル。
フェンリルの毛は意志によって固さが増す。
今は羽毛のようで、その心地よさに死神が欠伸をしていると――
「バウ」
「うん……?」
再びフェンリルに引っ張られ、死神は振り返った。
一枚の手紙。
それは死神が、司書子に送った魔法の手紙だ。
「ってこれ魔法の手紙じゃないか!? なんでリルリルが持って……!?」
「ワンッ」
死神にしては珍しく声を荒げていた。
すぐに受け取って開封すると、死神は貪るように手紙を注視した。
そこに書かれる文章を目にして、やはり司書子の物だと確信を持つ。
彼女らしい、砕けた文章で、死神に対してのお願い事のようだ。
「……そうか。……いや、彼女には申し訳ないことをしたな」
一語一句、全てを吟味するように眺めてから、死神は微笑を浮かべた。
「……くっくっく、そうだね。彼女らしい言葉だ。……司書とは思えない、実に彼女らしい」
柔和な語調で、死神はどこか懐かしむように目を細める。
やがて読み終えた死神は、フェンリルの頭をなで始めた。
「ありがとう、よく持ってきたな」
「…………バ、ゥ」
フェンリルもまた感情が入り交じるような、不思議な呻き声だった。
「んぁ……あれ……、おにいさま」
「っと起こしちゃったかな。おはよう、シエラ」
「クゥン」
微睡みから醒めたシエラが、ハッと気づいてヨダレを拭う。
フェンリルにも謝っていたけれど、当の本人はやはり気にはしていない様子だ。




