■第22話:兄妹の夜
「……仮面の奥には、カオがなかったのです」
「ひぃっ!?」
「兵士さんは慌てて飛び出しました。これは何かの間違いだ、俺は夢を見ているんだ。そうに違いないと言い聞かせて震え続けました。…………そして夜が明けると、テントは20個しかありません」
ブルブルブルブル――ベッドが震える。
もういいです、と震動源の少女が囁くも、仮面の男は止まらなかった。
「きっと何かの間違いだったんだ。……その不安のせいでしょうか、兵士さんは寝込んでしまいました。そして同じように、隔離されたキャンプに寝かされてしまいます」
「ぉにぃさまぁ……」
「そして兵士さんは思い出してしまったのです。……カオナシのことを」
「ぅ」
「ここから出なければ、不安で仕方がない! 兵士さんは慌ててマスクを外し…………けれどそこで何かがないことに気づいてしまったのです。…………手が、鼻を、口を、あるはずの目を触れない……」
ガタガタガタガタガタガタガタガタ。明かり一つ無い世界で、少女は震えた。
兄の言葉を拒否するように。
「すると後ろから声がしました。……は……だ」
その瞬間、少女の背に"それ"は張り付いた。
『つぎはおまえだぁ"』
「きゃぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁああああああああ!!」
夜を突き抜けんばかりの絶叫が轟く。
背中を這う何かに、シエラは泣きながら兄の腕を抱こうとしている。
しかし、シエラは兄の腕がそこにないと気づく。シエラの背中にこそ、兄の右腕があったからだ。
掛け布団で隠れた腕が、シエラの気づかないうちに背中へと伸ばされていたという事実――それはゆっくりと頭の中で処理されていったらしい。
「後日、そのカオナシは他者に感染する死神で、兵士さんは亡くなってしまいましたとさ」
唖然とするシエラに、物語を無理矢理締めた死神は愉快げに笑っていた。
子どもにしか通用しないような粗末なお話だが、シエラには効果絶大だったらしい。
シエラは恐怖に目を閉じることも出来ずに、あえぎに似た声だけをぽつりぽつりと漏らしていた。
「――とまぁ私の顔もないかもしれないから、見せられないんだよってこと」
「ぁ……ぅ……」
はい、おしまい。そんな風に笑う死神。
シエラはハッとしたように恐怖から醒めると、そんな死神に手をあげた。
「っ……! もう! お兄様なんて、お兄様なんて!」
「あはは……冗談だよ……」
ポカポカと殴られて、死神は心地よさすら覚えてしまった。
結局、死神には答えるつもりがないことは伝わっただろう。
「ほら、もう寝ないと明日起きられないよ」
「ぅぅ……結局教えてもらえませんでした……」
「シエラが大人になったら教えてあげようかな。くっくっく」
むう、と頬を膨らませて、寝そべったシエラはそっぽ向いてしまった。
彼女が子供っぽい怒りを見せたのは初めてかもしれない。
怒られたというのに、死神の胸中はなぜか嬉しさに満ちあふれているようだった。
「おやすみ、シエラ」
「…………おやすみなさい」
愛しい妹へと掛け布団をかけ直してやって、ようやくの眠りに就く。
――さて、明日はどうしようか。
ストレンシアとフェンリルの顔合わせしてから、シエラにはポーションの味を知って貰おうか。現地で材料を調達し、ストレンシアに調合してもらえばいいかな。
帰ってきたら、アイズから教えてもらった物件の下見だ。
そうだ、リナリアのことだから服だって何着か完成しているかもしれない。
やることはとても多いが、燃え上がるような充実感が漲ってくる。
この楽しい日々を守るためには、全ての力を惜しまない。
死神は心の中で固く誓い、ふわりとした枕を抱いた。
今日に終わりを告げて、明日の未来を迎えるために。
けれど、そんな死神の安らぎを阻むものがあった。
「……おにいさまぁ」
真っ白な髪で顔を隠した、シエラ。
そんな白一色の髪から覗いた頬は、薄らと赤みを持っているようにも見える。桜色の唇はなにかを紡ごうと震えていた。
風邪の初期症状だろうか。死神は不安げにシエラを覗き込んだ。
「シエラ、どうしたんだい?」
さすがの死神も不安を漏らしたが、どうやら違うようだ。冴えた鈴の音のような声が、やがて儚げに囁いた。
「こわくて、ねむれません……」
「…………」
心臓を矢で射貫かれんとする衝撃。
吹きだしてしまいそうな笑い、思いっきり抱きしめてやりたくなる父性、潤んだ瞳に指を添えて囁いてやりたくなる衝動。
――それら全てを堪え、押さえ込んで、なんとか耐え抜き、死神はそれらを理性で隠しつつも手だけを差し出した。
「っ……ほ、ほら。手を握っていてあげるから大丈夫だよ。さっきのは作り話だからね……そうだ、新しい話をしてあげよう」
「はい……」
明日、遅刻するかもしれない。
ストレンシアに心の中で謝罪し、死神は起床を諦めた。
――……――……――……
――……――……
――……
アクアリウム――正確にはユニオンの鐘は朝にも鳴り響く。
時計が指す、10時。それは商人達の始業を告げるベルでもあった。
死神はといえば、天上を仰ぎながら横になったままだ。
その左腕にはシエラが抱きついていて、起きるに起きられない状況であった。スヤスヤと心地よい寝息が右腕を通して伝わってくる。
「ごめんよ、ストレ……! 私には彼女を起こす術がない……!」
死神はそう悔しそうに吐き捨てる。
だが、それを許さぬとばかりに部屋のベルが鳴り響いた。
チリン、チリン、と来訪を告げるベル。
遅れたようにしてガチャリと扉の開く音がした。
「おじゃましまーす。おっ、中はこうなってるんだぁ。おっ、綺麗なシャワールームじゃん!」
興奮に弾んだ声はストレンシアだとすぐにわかる。
どうやら宿を観察しているらしく、ぴょこりと玄関から飛び出してきた。
「……あれ、まだ寝てたんだ。ごめんね」
「私は起きていたよ。けれど、ちょっと夜更かししてしまって……この通りさ」
シエラを指さすと、パタパタとストレンシアは駆け寄ってきた。
陽光を吸い込んだ青い髪は透き通るように美しく、まるで流水が空を舞ったような錯覚を生み出す。
そんなストレンシアが未だに眠る天使を目の当たりにするなり、きゃーっと黄色い声をあげた。
「かわいいいいいいい! 腕に抱きついちゃって、いいなぁ、いいなぁ! いつもこんな感じなのー?」
「そんなことはないんだけれどね。……ほら、シエラ。そろそろ起きよう」
軽く揺すってやると、シエラの張り付いていた瞼が動く。
柔らかそうな唇は数回動いてから、シエラはおもむろに目をこすり、「んーーっ」と猫のように体を伸ばした。
焦点の定まらない瞳が、ゆっくりと死神を、ゆっくりとストレンシアを確認するなり、ようやくシエラは目覚めた。
「……れ、すとれんしあさん?」
「おはよー、ストレだよ」
「あっ、おはようございます……! 寝過ぎちゃいましたか?」
「んーん。私が部屋をみにきただけ」
ストレンシアがぺろっと舌を出して微笑むと、シエラもほっとしたように笑顔を零した。
「朝食を食べに行く前に、寝癖を正さないとね。ちょうどいいしシャワーを浴びようか」
死神もシエラも、その髪はあちこちが跳ねている。
特にシエラの長い髪に関しては、頭の上でくるりんと跳ねていたり、後ろ髪は交錯したようにぐちゃーっとなっていたりと滅茶苦茶だ。
「あはは! ほんとに二人ともぐちゃぐちゃだー」
「……というわけさ」
「は、はい……では急いでいってきます! ごめんなさい、ストレンシアさん」
ストレンシアは笑いながら「気にしないで」と手を振って、浴室へとパタパタと走って行く少女を見送った。
その後を死神も追おうとする。
――しかし、ストレンシアが慌てたようにそれを止めたてきた。
「えっ、ちょ死神さん、なにしてるの?」
「え?」
こちらを向いたストレンシアは、まるで変質者でも見ているような眼差しだ。
「なにって、今言ったとおり……」
「……え、シエラちゃんが先に入ったよね?」
「……? うん?」
それがどうかしたのだろうか。
不思議そうに首を傾げた死神に対して、ストレンシアはぽかーんと呆けている。
こればっかりは慧眼を有する死神ですらわからなかった。
彼女はなぜ怒ったように、けれど呆れたように、さらには怪しいものでも見るかのように睨んでいるのだろうか、と。
さらにストレンシアは「はぁぁぁ」と大きな息を吐いた。
「兄妹ではいるのっておかしくない!?」
「……?」
「いやいやいや! だってシエラちゃんももう13歳なんでしょ!?」
「うん…………あっ」
死神は自身の常識が打ち破られる衝撃だった。
確かに、シエラは幼いように見えて、もう13だ。そのくらいの年頃になれば家族との交流に羞恥心を覚えて、特に男の兄弟からは一歩引いてしまうという。
「……確かに……」
「えっ、今まで気にしたことなかったのっ……」
ストレンシアの呆れたような声に、死神は殴られたような気分だった。
元は動けない彼女を洗ってやったことから、日々の成長を確かめるために行ってきた入浴だ。そこには卑しい感情が存在しない、純粋なるものだった。
「……? ……? おにいさまー? これはどうやって使うのでしょうかー?」
死神が頭を抱えている最中、少女の純粋な呼びかけが響いた。
おそらく、お湯の出し方ひとつわからないのだろう。
どんな教育をしていたんだ、とストレンシアの訝しむ視線が突き刺さるようだ。
「……がいく」
「うん?」
「私が一緒に入ってくるから、死神さんはそこで待っているように!」
「は、はい!」
ストレンシアの気迫に負けてしまった。
呆れたように浴室へと向かうのを見送りながら、ぽつーんと一人ベッドの座り込む成人男性。浴室から聞こえる姦しい声を聞きながら、寂しそうに壁を眺め続けた。




