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■第10話:黄昏を駆け、終末を喰らうらしいフェンリル

 死神には心当たりがあった。

 【黄昏を駆け、終末を喰らう大牙】――名をフェンリル。


 その生物は、黄昏色のたてがみを揺らし、黄昏が沈むよりも早く大陸を横断すると言われている。

遙か昔から生きるフェンリルは、敵を喰らい、未曾有の大災害すら生き抜く生命力を宿しているという伝えすらある。


 生物を超えた攻撃力と防御力。そして高い知能。

 しかし、存命したフェンリルは見た者はいない。未曾有の大災害から生き残ったとはいえ、もしも一匹だけとすれば種の絶滅である。


 最早、伝承にのみ残る生物。

 ユニオンですらランクを定めていない生物。

死神がそれを知る理由は、210年前から、この学舎に伝承の生物が縄張りをしいているからに他ない。


 森を疾駆するフェンリルは大木を小枝のごとく吹き飛ばし、川を水たまりのごとく飛び越えて、定めたであろう目標に向けて突き進んでくる。


 死神とシエラが構えてから、おおよそ10秒後。

 大木を倒して、森の奥からフェンリルは現れた。


「――ガルルゥゥゥゥゥッ……フー……フー……」


 剥き出しの歯牙から、荒々しい呼気が狂ったように漏れている。獰猛な瞳には激しい怒気を孕んでいるようだ。

 体長にして5メートル。フェンリルとしては小さいが、ずっしりと押し潰されるような威圧感は凄まじい。


「ぁ……ぅ……」

「シエラ、それでいいんだ。下がってていい」


 そう、これは絶対に勝てない相手。

 たじろいだシエラの判断は正しい。

 それでもシエラは短剣を構え、虚勢ながらも己の恐怖に打ち勝とうとしていた。

死神はそんな彼女の頭を撫でると、また、いつものように語りだす。


「これはフェンリルと言ってね、伝承に名を残すような最上級の生物なんだ。巨龍ヨルムンガンドだとか、子ども向けでは出ないような……ね」 

「お、お兄様!?」


 淡々と語り出す死神に、シエラの悲鳴のような声が叩き付けられた。

 しかし、うろうろと歩きながら、それでも語り部は放棄しようとしていない。


「問題はあの黄昏色の体毛だ。意志によって固さを増し、衝撃や魔法を防いでしまう。……いやはや、圧倒的な防御力と、圧倒的な機動力をもった化け物だよ」


 はっはっは、と呆れたように死神は笑う。

 成す手がないと両手をぶらぶらさせて、さもあっけらかんとしている。


「まぁけど、ここを守っているだけらしいからね。仕方ない……今日はいないと思ったんだけれど、また来よう」

「うぇっ!? で、でもこっちを見てますよ……?」


 見ている、というよりは睨んでいる。


「平気平気……多分。こういうのから後退するときは、目を見ながら、ゆっくりと下がろう。目を反らした瞬間に襲い掛かってくるよ」

「は、はぃぃ……」


 シエラを庇うようにして、死神はじりじりと後退していく。

 このまま森の方へと外れていけばフェンリルは追ってこないはず――そんな死神の考えは数瞬後に覆されることとなった。


「ォォ――ッ」


 小さくいななく。同時にフェンリルが消失した。

 反射的に、死神はシエラを抱き寄せて後ろへ跳んだ。


「おっとっ……!」

「きゃっ」


 突風が二人の前を通過する。

小石や砂利が砂のように舞い、その先の大きな川は横一文字に割れていた。それが横から突進してきたフェンリルだと、シエラは認識できていない様子だ。


 遅れて突風が吹き荒れた。

 死神が飛び退かなければ二人の体は原型を止めていなかったかもしれない。


「っう……思ったより気性が荒かったか。出会い頭に刺してみたんだけれど、やっぱり刺さらないね」


 死神の持つ短剣は、ぽっきりと中心から折れていた。

 

「ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」


 巨大な音の塊が鉄槌のように上から振り下ろされる。

 対岸へと突っ込んだはずのフェンリルはいつの間にか頭上へと跳躍していた。その動きは瞬間移動の類いだ。

 

 死神の腕の中にいたシエラがびくりと震える。

 頭上から迫る大牙は、業物の刀身を描いたように美しく鋭い。どんなに固い鎧であろうと針を通すように突き立てられるであろう歯牙だ。


「――けれど、彼女の墓前で暴れたくはないんだ」


 死神は左手を挙げた。

 そして囁くように詠唱を紡ぎ、業火を放つ。


「――……――……――ブレイズ」


 業火が蛇のように渦を巻きながら、フェンリルを呑み込む。

 だが、それでもフェンリルは止まらない。

 それどころか海を泳ぐかのごとく、業火の中を平然と突き進んですらいた。


 やがて炎の蛇を喰らい尽くして、フェンリルは口端を裂いて咆哮する。

 勝利への確信か。

 いや、そんな勝利を美徳とする感情が存在するはずはない。それでも嘲笑うかのようにフェンリルは大口を開けている。


 だが、その歯牙が届くことはなかった。

 同時に業火から飛び出した、2対の黒腕がフェンリルを捉える。


待て(・・)、だ」


 フェンリルの体躯には不釣り合いな死神の両腕が、彼の頭に喰らいついていた。

 純然なる腕力の抱擁。死神がフェンリルの鼻と顎を無理矢理押さえつけて、なおかつ空中で持ち上げ続ける異常な光景だ。


「ガァッ、グ……ル……! グッ……――、グォ、……――」


 死神の眼前で、口を閉じられたフェンリルが呻く。

 裂けた口からは突風のような呼気と、波のような涎がこぼれ落ちてくる。

 ボタッ、ボタッ、ボタッ。頭くらいは包みそうな大粒のヨダレは、貴様を喰らってやるという気持ちの表れ。


「……待て(・・)


 ゾクッ。

 フェンリルに備わった黄昏色の毛を何かが波打つように伝播していく。

 狼狽、警戒、畏怖、恐怖、絶望――……。生存本能がフェンリルを震わせているのかも知れない。


「――キャインッ! ……キャン、ゥゥッ……」


 甲高い悲鳴だった。

 口を閉じられているせいか音塊というほどではなくとも、耳が痛くなる音量だ。

 死神はフェンリルを地上に下ろしてやりながら、その首根っこだけは押さえ付けてにこりと微笑んだ


「いい子だ」


 唾液に濡れた死神は口端を吊り上げる。

 首根っこを押さえている今だけはフェンリルも愛玩動物のように大人しい。

 その後ろからはシエラが駆け寄ってきた。その表情はパァッと腫れていて、化け物をひれ伏させている兄へと向けられたものだ。


「……さ、さすがです、お兄様! 言葉一つで落ち着かせてしまうなんて……シエラも低い声を出せればできるのでしょうか!?」


 羨望の眼差しを受け手、唾液に濡れた死神は苦笑してしまった。

 「お"に"い"さ"ま"ぁ"」なんて太い声で呼んでくるシエラが脳裏を過ぎり――ぞくっと背筋が震えてしまう。


「そ、それはどうかな。…………ってどうして逃げるんだい」

「え?」


 ずさっ、じり。

 ずさっと下がったシエラに、じりっと近寄る死神。


 その原因は言わずともわかる。

 唾液にまみれた死神はとてつもなく獣臭さい。外気に触れたせいか、乾いたせいか、鼻を摘まんでしまうほどに。

 いつもなら飛びついたシエラも、その臭いには顔をしかめてしまうほどだ。


「お兄様……と、とてもくさいのです……」

「な”っ…………そういうのは男家族に対して言っちゃいけないんだぞ……!」


 ずさっ、じりじり。

 じり、ずささっ、じりじり。


「逃げることはないじゃないか」

「い、いくらお兄様でも困ります……っ」


 達人同士の間合いを見極めるような攻防が始まった。

 じりじり、ずさずさ、じりじり。


 しかし、それならば妹が兄に適うはずもない。

 一瞬の隙を突いて、死神の伸びた腕は妹を抱き寄せていた。


「ほおら、シエラ! 勝利を祝う抱擁だ!」

「お兄様っ、お兄様! いやです、困ります! お兄様ダメです! あーっ! あーお兄様!」


 ぐちゅ、ねちょ。

 ねちぁ、ねちょ、と全身についた唾液が絡み合う。

 獣臭く、粘度の高い唾液にまみれてシエラの絶叫は木霊した。

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