今日は素直な自分になれた。
横読み推奨
瞬くと、まだあどけなさの残る、でも逞しい体をした生徒が切実な眼差しを向けていた。
「からかわないで」
泉水は視聴覚室の教壇を挟んで窓から差し込む斜陽に目を細める。
「先生、俺は真剣だから」
目の前の整った顔立ちの男子生徒は身長こそ自身を軽く超えていたが、それでもやはり高校生であるには違いなかった。
ひと回り。
即座にその差を頭ではじき出し、彼女は苦笑を噛み殺す。
「だから、からかわないでって言ってるの」
「からかってなんかいない」
生徒は言葉と共に泉水に一歩、歩み寄る。
「ダメよ。先生を困らせちゃ」
教科書で胸を強く抑え、後ずさりしてしまいそうになるのを堪える。
「先生、聞いたよ。今月、誕生日なんだって?」
「なんでそんなこと」
「午前中の授業でそう言ってるのを聞いたって奴がいてさ」
確かにひょんな掛け合いから二月が誕生日であることを漏らしたが―――生徒間の情報網も馬鹿にできないと妙に彼女は感心してしまう。
「ねえ、折角だから、お祝いさせてよ」
「どうして? あなたに祝われる筋合いなんてないわよ」
申し出に少なからず胸が躍る自分がいたが、泉水は隠して冷たくあしらう。
「だって俺たち、もうすぐ会えなくなっちゃうんだよ?」
卒業を控えた生徒は、演技なら迫真ものの声色を使って訴えた。
「ね、誕生日。それとももう予定が入っているとか?」
「予定はないけど・・・」
「じゃあなおさら。一人で誕生日なんて寂しいじゃん」
迫ってくる男性を制する言葉が思いつかないでいると、生徒は泉水の目の前でにっこりと笑って、
「で、誕生日、何日なの?」
と訊いてきた。
彼女は一瞬言い淀んでから、十四日、と呟く。
「え? バレンタインか・・・」
答えを聞いた生徒はそう呟くと、急に難しい顔をしだした。
―――その時、遠慮がちに扉が開く音がした。
思わず視線を飛ばすと、扉の隙間から後ろ向きのまま一人の男性が入ってきた。
扉を閉めても日下部は泉水たちの存在に気づかない。
「日下部先生」
振り向いた同僚に声をかけると、彼は、うわっと飛び跳ね尻餅をついた。
なんでこんな時間に、と立ち上がりながら日下部は訊く。
「先生こそなんでこんなところに」
思わずそう訊ねたが、彼は愛想よく笑って答えをはぐらかすだけだった。
教師になってから初めて告白された。
だから、その現場を好きな男に見られてしまったとしても、戸惑いの中にあるうれしさを否定できない自分がいた。
泉水は日下部に誘われ居酒屋に入ってから、事の顛末を正直に打ち明けた。
嬉しかった?
「そんなこと・・・」
あるわなー、と言って同僚は笑う。
泉水は釈然としない気持ちをビールで流し込んだ。
人に好きって言ってもらうのは、素直にうれしいことだと思うよ。
そんなことを平気で言ってキザに聞こえないのはきっとこの人くらいだろう。
そう泉水は思い、少しこの男に見惚れてしまう。
「でも、私は教師ですし・・・」
本当に好きならそんなこと関係ないよ。
本当に私が好きなのは―――彼女はおでんをつつく日下部を一瞥する。
「そもそも私、もう三十ですよ?」
年の差なんて、と彼は笑う。
「日下部さんは気にならないんですか?」
気にならないね。好きになっちまったらもう降参するしかないでしょ。
笑みを湛える男性に、泉水は思わず告白されたことに感謝した。
自分の気になっている人の恋愛観について、当人からこんなに自然に答えを引き出せる場面など他にあるだろうか。
泉水ちゃんはカタいからな~。日下部はゑびす顔でビールに向かって言う。
もう少し自分に積極的になってもいいんじゃない?
そしてこちらの気持ちなど気取らず、見当ちがいの言葉を加えてくる。
泉水は平気でそんなことを言うこの男に憤りを感じ、憤ったまま素直な想いを打ち明けてやろうかという気持ちになった。
―――あ、ちょっと失礼ね。
が、日下部は言いながら携帯電話を取り席を立つ。
今日、席を外したのはこれで三回目だった。
ベテラン教諭にも関わらず誰にでも分け隔てなく接する性格からか、彼にはあちこちから相談事が舞い込んできた。
この日も学校から居酒屋に入るまでに二度、携帯電話が鳴った。
彼はその都度、軽やかに電話を取り、天を仰ぎながら誰かと話した。
ごめん、呼び出しなんだわ。
彼は携帯電話をしまうなり、本当に申し訳なさそうにそう告げる。
泉水は残念な気持ちを上手く隠し、快く同僚を送りだした。
二月十四日。
「―――先生、ちょっといい?」
出くわすのを避けていた生徒が声を掛けたのは日下部だった。
二人は足早に廊下を抜け、放課後で誰も使わないはずの視聴覚室に忍び入っていった。
「先生、またお願い」
泉水はドアの隙間から二人の様子を窺う。
お前ちょっと最近、使いすぎだぞ。
同僚は笑顔を微かに曇らせながら、ポケットをまさぐる。
「まあまあ、今日は色々と入り用だろうから」
言いながら生徒は日下部の手の中のモノをひったくる。
あんまり無茶するなよ? 呆れ顔の教師は、でもどこか心配げにその生徒を見る。
「いざって時になくてそのままってなるよりいいだろ? 先生がそう言ったんじゃん」
だからってな—――そんな言葉も聞き流し、用は済んだとばかりに生徒は踵を返した。
「こんなところで何してたの?」
生徒が出てくるなり泉水は彼の前に立ちはだかった。
男は女教師を認めると第一に何かをポケットに押し入れた。
「泉水先生ごめんなさい。今日、どうしても抜けられない用事ができちゃって・・・」
「今なに隠したの?」
「いや、なんでもない。誕生日なのにほんとごめん!」
急ぐから、と彼は言い捨て、足早に去っていった。
今日、誕生日だったんだね。生徒の後姿を見ながら視聴覚室から出てきた日下部が言った。
泉水は不意を突き、彼のポケットを衝動的に探る。
「これって・・・」
同僚のポケットから引き抜いた手には、コンドームが掴まれていた。
予定がないのなら。
日下部はいつになく真剣な表情で泉水を誘った。
彼女としても彼に弁明の一つでもしてほしいと願ってその誘いを受けたのだった。
―――今度のことはどうか内密にしてくれないか。でも同僚は、まずそう口火を切った。
「今度のことってコンドームを持っていたことですか。それとも、それを生徒に与えたこと?」
どっちも。真摯に答える日下部の表情には一転の曇りもない。
「どうして」
後悔していることがあるんだ。同僚は質問を見越していたようにそう告げる。
生徒が事故的に妊娠、出産してその後の人生を狂わせていく様を何度か見てきた。俺はもう自分の教え子が不幸になるのを見たくないんだよ。
「だからってゴムを渡すなんて・・・」
恋はやめろと言ってやめられるものでもない。
「それでも、誰彼構わずあげるなんて傷つく女の子が増えるだけじゃないですか」
あいつはモテモテだから寄ってくる女子も多い。でもだからこそ節度を持てと言って聞かせてる。
「モテるならなおさら自制してもらわなくちゃいけないんじゃないですか」
恋愛禁止だと言って素直に聞き分けてくれるならそれに越したことはないんだけどね。同僚の苦笑を見て、泉水も説得は難しいだろうと思い直した。
人は恋することをやめられない。
不意にそんな言葉が届いて泉水は思わずドキリとしてしまう。
教師にできることなんて本当に些細なことだけなんだ。
「だから、最低限、重大な間違いが起きるのだけは防ぎたいと・・・」
泉水は言葉少なに語る彼の説明を自ら補足することで納得した。
なんて、誕生日にするような話じゃないわな。そう言って日下部はおどけて見せる。そして、巻き込んじゃってすまないね、と優しくグラスを掲げて見せた。
「いえ、私も罠にかかるところだったので・・・」
なんだ、案外その気だったのか。
「そんなワケないですよ。でも、なんだか振り回されるだけ振り回されて悔しいじゃないですか」
確かに、今日は誕生日だしね。
「誕生日だからって訳でもないんですが・・・でも、今日、日下部さんが一緒にいてくれて良かった」
酔いも回り始めた泉水は、素直にそんな気持ちを零した。
俺で良かったら今日はとことん付き合うよ。
日下部のその言葉に泉水は思わず背筋を丸め、ジョッキ越しに彼のことを窺った。
―――思わず言っちゃったけど、今の言葉、どう受け止められたんだろう。泉水は考えれば考えるほど彼を正面から見られなくなる。
あ、ちょっとごめん。
そうこうしている間に携帯電話が鳴る。
「もしかして呼び出しですか?」
だろうな、でも今日は一緒にいるって言ったからさ。
「出なくていいんですか」
想いとは裏腹の質問に彼は、ああ、とだけ答えるが、着信はなかなか鳴りやまない。
「出てください」
でもな、困り声を出す彼は、でも電話を握りしめていた。
「私が気になるんで」
そう言うと彼は渋々、席を外した。
―――いやまいったな。戻ってくるなり日下部は頭を掻きながらそう言った。
「なにがあったんです?」
実はあいつがやらかしてるらしいんだ。
「あいつってまさか・・・」
泉水の言葉に彼は頷く。
日下部の話では、彼女に告白した生徒がダブルブッキングをして修羅場になっているとのことだった。
「行ってやってください」
一緒にいたい気持ちを抑えて泉水は言う。
今日は一緒にいるって決めたから行かないよ。日下部は言いながらも心配の表情は隠しきれない。
「行かないなんて日下部さんじゃないですよ」
彼女の言葉にもなお席を立たない男に、泉水はさみしさを募らせていく。日下部が自分のことを想ってくれればくれるほど、泉水の中のさみしさは膨れていった。
「行かないと怒ります」
切なさに押しつぶされそうになりながら、俯いた彼女は裏腹な言葉を零す。
わかった。彼は漸く腰を上げ、必ず戻ってくるから、と言い残して店を出て行った。
日下部の出て行った店内で泉水は一人、彼を待ち続けた。
時間が経つに連れ、彼のことが好きなのだと泉水は確信を得ていった。
それはじわじわと、でもはっきりとわかる類の感情だった。
日付が変わり、さみしさが満たされた後、彼女は店を出た。
結局、来なかった。身震いする寒さを沁み込ませながら彼女はそう思う。同時に、もしかしたら今もなお事態の収束に動いているのかもしれない彼を想像し苦く微笑んだ。
チョコレートも渡せなかった―――彼女は鞄の中にしまってあった小包を手に取り、冬空に翳してみる。上品で慎ましくも美しい包み紙。何となく彼女はこの小さな包みに申し訳ない気持ちになり、もう全てのことが不甲斐なく感じてきたのだった。
―――とその時、携帯電話が鳴った―――日下部だ。
彼女は待ち受けを睨みながらもどういうわけか取るのをためらった。
今はしゃんと話せる自信がない。泉水は鼻をすすりながらそう思う。
《ごめんおそくなった》
着信が途絶えた直後にメッセージが送られてくる。
《いまからむかう》
《まってて》
そんな短い言葉が矢継ぎ早に送られてくる。
でも彼女はどういうわけか、速足で店から遠ざかってしまう。
歓楽街を抜け、踏切を渡り、闇雲に歩を進めた。
今、泉水は彼に会えなかった―――会ったらきっと泣いてしまうから。
《目の前、見て》
大きな交差点に辿り着いた時、そんなメッセージが。
顔を上げると、通りを挟んだ信号の下に彼の姿があった。
「好きです、好きになっちゃいました」
泉水は信号が変わる僅かな時間、聞こえるはずのない声で彼に告白した。
間も無く信号は青に変わる。
なんて言ったの、と駆け寄ってきた日下部の胸に泉水は飛び込んだ。
「顔、ぐちゃぐちゃなんで見ないでください」
どうしようもなく涙が止まらない。
「もう日付変わっちゃいましたよ」
ごめん、とだけ彼は言い、力強く彼女を抱きしめる。
「く、苦しい」
本当はちっとも苦しくないのにそう言うと、優しい彼は腕の力を緩めてくれる。
「へへへ、参りました。降参です」
なんだか可笑しくなって泉水は鼻をすすりながら笑う。
「好きなんです。どうしようもなく」
言うだけ言って泉水は再び日下部の胸に頬を付けた。
彼が戸惑う姿を見たくなかったから。
でも彼女は自分の気持ちを告白できて、涙と一緒に募りに募った想いが一気に吐き出された気がして、清々しい気持ちになっていた。
「これ、遅くなっちゃったけど受け取ってくれますか」
泉水はそう言ってコートのポケットに入れておいた小包を取り出した。
今日は素直な自分になれた。
自分の気持ちを告白できた。
泉水は嬉しくて、でも恥ずかしくて、彼に身を預けたままチョコレートをかざして見せたのだった。