お屋敷強襲
「なっなななんですの、これは!」
その場にいた3人は突然の地響きに混乱してあたりを見回した。
天井からは塵や埃が落ちてきて光一はむせかえった。この部屋は長いこと使われていなかったらしく、上から落ちてくる埃があまりにも多いため、まるで季節外れの濁った雪が降っているようだった。
外から駆けてくる足音が響いた。
「大変でございます、お嬢様。至急大広間にお越しください!」
騒々しい足音の主は執事のルネであった。彼は相当急いでいたらしく、3人のいた部屋の扉を勢いよく開け放つと息を整える間ももったいないといった様子で開口一番そのように言った。
「なにごとです、ルネ。落ち着きなさいな」
「ですがお嬢様、一大事でございます。事は一刻を争います。どうか私のすぐ後に続いて頂きたい」
ルネは言い終えると、エリーゼたちに何か質問させる暇も与えずに扉の方に踵を返したので、エリーゼたちは事情も分からずに彼の後を追うことになった。
ルネは部屋を出ると、その年齢からはおよそ想像もつかないほどの速度で歩き出したので、光一たちはついていくのがやっとであった。
「ちょっとルネ。何が起きたというのですか? 説明なさい」
ルネは主人の言葉に忠実に従い、猛烈な速度で歩きながらも早口で答えた。
「敵襲でございます。この館の邸内に敵方の刺客が複数入り込んでおり、ただいま当家の使用人たちが応戦中です」
敵襲。このダロガンス邸に何者かが攻撃をしかけているということだ。昨晩の件もあるし、やけによく襲撃に見舞われる屋敷である、とこれは光一が心中で感じたことである。
「マリナ、先行してちょうだい」
「承りました。制圧してまいります」
マリナがルネを追い抜いて廊下を駆け抜けていく。身体の軸のぶれない綺麗なフォームだった。
中央にある階段を上り、地上階へ移動する。窓ガラスの割れる音や、大きな物体が地面に倒れるような音が聞こえてきた。
三人は大きな物音がした食堂へ向かった。
絶句するしかなかった。食堂内では椅子や食器が散乱し、大きなテーブルは真っ二つに割れていた。何人もの使用人たちが血を流しながら倒れており、その中にはマリナの姿もあった。彼女は額から流血しながら壁に背を預けている。光一が見たところ、気を失っている様子である。だが、彼女はまだ傷の浅い方であった。他のものは、背中を深くえぐられていたり、全身血まみれになっていたり、はたまた腕が不自然な角度に折れ曲がっている者もいる。その光景はまさしく凄惨と呼ぶにふさわしいものであった。
部屋の中央に、男が立っていた。身の丈は180センチをはるかに超えており、肩幅が光一の1・5倍はありそうな筋骨隆々の巨漢である。むき出しの上半身にはたくましい胸板、幾重にも割れた鋼鉄の腹筋、それに生々しい傷跡が見えていた。岩のようにゴツゴツした顔に、ぱっくりと開いた切れ目のような鋭い双眸が奥から覗いていた。黒くうねった髪の毛は、燃え盛る炎のようにいびつに固まっていた。
男は無言で佇んでいた。光一と目が合う。
「おまえが、この国に変革をもたらすものか」
低く、獣の唸るような声で男は光一に問いかけた。
「生憎だけど、僕はそんな大物政治家みたいなマニフェストを息巻いた覚えはないよ」
光一が言い返すと、巨漢は一切の表情を変えずに声を発した。
「自覚がないのか。だが仕方のないことだ……。まだ、時は在る」
光一は大きな声を張り上げた。
「なんだって? 君が何を言っているのかわからないよ。そんなことよりも質問してもいいかい!」
男の沈黙を肯定と受け取ると、光一は逆に問い返した。
「そのあたりにたくさんの人が倒れているんだけど、これ、君がやったの?」
そのとき男は初めて表情らしいものを見せた――。口元を無理やりに歪めているようにも見えるそれは、ただひとつの感情を表していた。
喜び。
男の顔には、残忍な、そして明白な喜色が浮かび上がっていた。
光一は男の眼の中に、鈍色に輝く感情を読み取った。動物的な欲求が満たされたことによる極度の興奮。獲物を捕らえたことによる充足を、その男は隠しもせずに晒し出していた。
「ああ、やっぱりね」
光一の両手が身体の前に構えられた。戦闘態勢。それと同時に肩幅に開かれた両足のうち片方を、地面に弧を描くようにして前に出す。
男は敵。ダロガンス家にとっての敵。エリーゼの敵。そして自分は今、彼女の家に厄介になっている。
ならば、目の前の大男は自分の敵だ。
「俺と、戦おうというのか?」
男は不意につぶやいた。その響きは大男に似合わず、どこか寂しげであった。
光一は僅かにためらった。しかし、その一瞬のためらいが光一を窮地に陥らせた。
「がっ!」
男はその巨躯を瞬時に移動させると、光一の目の前に現れ、丸太のように太い腕で彼の首筋を捉えた。
腕一本で締め上げる。万力のような力で締め付けられても未だ光一の細い首が折れていないのは、ひとえに彼の日頃の訓練の賜物であった。光一は長年かけて、全身のありとあらゆる箇所を一様に鍛え上げていたのだ。
しかしそれも時間の問題であった。光一はしばらく両手両足を暴れさせていたが、彼の身体は徐々に抑えが効かなくなり、ボイルされている最中のエビのように痙攣を始めた。
エリーゼが魔法で援護しようとした矢先、オカリナの音が辺りに響いた。
その音を聞いて、大男は準備していたかのように手を開いて光一を放した。
吊り上げられていた光一は支えを失い、地面に落下する。そのまま毛の長い絨毯に倒れ伏した。
男は無感動に光一を見下ろすと、もとの淡々とした調子で言った。
「いずれお前にも理解できる時が来る。いったい自分が何者なのか、な。そのときは迎えに上がるぜ、坊ちゃん」
そしてエリーゼの方を見ると、再度にやりと嗤った。
「嬢ちゃんもな。あんたの家はこれから少々忙しくなるかもしれんが、万一にも生き残ることができたのなら、また会うこともあるだろうな。もっとも」
男は足元に横たわっている光一の頭を軽く靴で踏みつけた。
エリーゼの周りで空気が揺らめく。
男は機先を制して片手をあげる。
「おおっと、ここで休戦だ。残念だが、命令だからしかたがない。俺だって嫌なんだぜ? あんたみたいな華奢で美しい人間を壊すのが趣味だってのによ。半端なところで撤収だなんてな、ほんとにツイてないぜ」
エリーゼは吐き捨てる。
「悪趣味だわ」
男は意に介さずに言い返す。
「それはお互い様かもな。もっとも、そっちの方は自覚がないみたいだが。そこの坊ちゃんも、それとあんた自身もな」
会話をしながら男はじりじりと下がっていく。片手で光一を引きずりながら。今、光一は男にとっての人質であった。
ついに食堂の端に達して窓を大きく開けると、室内に夜風が入り込み男の髪の毛が逆立った。男は窓枠に足をかける。
「この坊ちゃんは今しばらくあんたらに預けておいてやる。保険だ。満期が来たら解約してやるがな」
「名乗っておいてやる。俺の名はセザール・クールセル。覚えておけよ。いずれ会い見えることになるのだからな」
言い終えると、セザールは颯爽と窓枠を飛び越えた。庭から逃走するつもりである。エリーゼは見逃す手はないと追撃しようとしたが、ルネが制止したため、炎が迸ることはなかった。エリーゼはルネに食ってかかる。
「どういうつもり? 今、あいつは背中を見せていたわ。追い落とすにはまたとない機会だったわ」
ルネはしわの刻まれた顔に失望の表情を浮かべていたため、よりいっそう深くしわが刻まれていた。
「お嬢様、もうしわけございません。たった今、屋敷二階から報告が入りました。旦那様の書斎から機密文書が持ち出されたということです」
「お父様の書斎ですって!」
エリーゼはまず愕然とした表情を浮かべて、それから天を仰いで嘆息した。
「やられたわね。敵の狙いはそっちか。まさか、もう情報が漏れていたなんて……」
先日、屋敷に侵入者があり、そのときは光一が狙われたため、エリーゼは今回の襲撃も目的は光一だと自然と思い込んでいたのである。
しかし、違った。セザールと名乗った男は確かに光一に思うところのある様子であったが、本来の目標は光一ではなくて紙束であった。
機密文書。その内容は主に、国政に関する重要な会議の議事録と決定事項、それに方針であった。その重要性から、いくつかの有力家の間で毎年持ち回りで保管してきたのだが、今年はダロガンス家が文書の保管を担当することになっていた。
動ける者で手分けして散乱するガラス片や食器を片づけると、屋敷内の怪我人を広間に運び、ルネが応急手当てをしていった。
その最中にルネがエリーゼを呼ぶ。
「こちらの者が、書斎の付近で敵に応戦しておりました。旦那様の書斎から文書が持ち出された場面を目撃したということです」
紹介されたその使用人の男はファビオという若者で、右目の近くに傷を負っていた。今はルネの応急処置によって頭に包帯が巻かれていた。彼は恐縮してしばらく何も話さずにいたが、エリーゼが促すとおずおずと口を開いて話し出した。
「ダロガンス家の大切な書類をお守りできずに、面目次第もございません。私を雇っていただいている旦那様や奥様、それにお嬢様になんといって詫びればいいか……」
エリーゼは寛容な表情を作ってファビオに言った。
「まったくかまわない、とは言えないけれど。まずはあなたが見たものについて教えてちょうだい」
「はい。屋敷に侵入者がいるということで執事長のルネ様から二回の書斎付近を警護するように命じられました。そこで部屋の入口付近に立っていましたところ、二階の廊下に敵が複数表れて、こちらに向かってきました。近くにはほかの使用人が数名いましたが、彼らは別の敵の対処に追われており、私ひとりでそれらの相手と戦うことになりました」
「その相手の特徴は?」
「それが、相手は頭巾をかぶっていたためよくわかりませんでした。ですが敵の中に一人、女が混ざっていたように思います」
「女?」
エリーゼが問い返すと、ファビオははっきりと頷いた。
「間違いありません。屈強な男たちな中でひとりだけやたら小柄なやつがいて、混乱した状況下でも不思議に思ったものです。私が男どもの相手をしているうちにその女が旦那様の書斎に入り、数分で出てきました。手には書類の束を持っていました。そのあと、そいつはオカリナを取り出して思いっきり吹きました。それはもう、お屋敷中に聞こえるくらいの大きな音で」
「ああ、それなら私も聞いたわ。広間まで届いていたわね」
「はあ、さようで。とにかく、そのオカリナの音を合図にして侵入者たちが一斉に屋敷から引き始めたんです。おかげでわたしも命拾いをしました」
エリーゼが「もういいわ」というと、ファビオは座ったまま頭を地面につけ、礼をしてから横になった。
ルネは一通りの看護を終えると客間にやってきた。そこではすでにエリーゼが待っていた。当面の善後策について、二人で話し合うことになったのだ。
「このたびはとんでもないことで。私ども使用人の仕切り役として、このような不始末をどうかお許しください」
頭を下げるルネに対して、エリーゼは事務的に答えた。
「起きてしまったことはしかたがないわ。お父様の留守を狙ってあんなに大勢の敵が攻めてくるなんてね。いくらあなたでも、対処のしようがなかったでしょう」
「慈悲深いお嬢様に感謝いたします」
エリーゼは手をひらひらと振って応じる。
「そんなことよりも、盗まれた文書が重要よ。あれは金庫の中にしまってあったもので間違いないわね?」
「さようでございます。あの文書は、間違いなく、旦那様が今年の初めにジレス家から受け取った物品の一部です」
「まあ当然よね。確認しただけよ。それにしても困ったわ。あの文書が外に漏れると、この国な内政に著しい問題が生じてしまう」
二人は思案する。ほどなくして、エリーゼが名案を思いついたといわんばかりに指を鳴らす。
「そうだわ。ルネ、光一はもう起きたかしら?」
「東様ですか。あの方は未だに気を失われたままでございます。先ほどの怪我の影響で数日は動けないと存じますが」
「かまわないわ。今すぐに起こしてきて。鎮痛剤でも発奮剤でもなんでもいいから、とにかく今すぐに彼を使える状態にしてちょうだい」
エリーゼの我儘ともとれる物言いに、ルネは従うしかなかった。
「……わかりました。それでは、ただいまお連れいたします」
部屋を後にしたルネは、長年仕えてきたダロガンス家の者の命令に逆らう気など微塵もなかったが、それでも光一を待ち受ける困難を思うと、わずかな憐みを禁じ得ないのであった。