真昼の殺意
光一とエリーゼの二人は森の入り口で敵と対峙していた。
敵の全身は黒い包帯のようなものに覆われており、その人物の姿を隠していた。
「何者かしら。背後から襲うなんて、随分と意気地のない暗殺者がいたものね」
暗殺者が背後から人を狙うことは至極当然のことのように光一には思われたが、彼女はかなり怒っている。
もしかすると、この国では不意打ちをすることにも正面からでなければならないというきまりでもあるのだろうか。
「そんなものはないわ。でも後ろから不意打ちなんて卑怯じゃない」
彼女は実に単純明快な理屈で暗殺者の非を説いた。彼女は年相応の女の子であるのと同時に、誇り高い貴族の子弟であった。その行いには常に正しさが求められる。光一は彼女に対する認識を僅かに改めた。
エリーゼは踏み出して光一よりも前に進み出た。立ち止まりゆっくりと右手を上げる。
二人の周辺の空気が震える。
「見せてあげるわ。ダロガンス家に伝わる秘法を」
彼女は大げさな身振りで手を揺らす。右に二度、左に三度。そして高く手を挙げるとピアノを弾いているかのようななめらかさで指を動かす。それに合わせるように、ゆったりとリズミカルに身体を前後、左右に動かす。背伸びをして、ターン。奇妙ながらもどこか優美でバレエの振り付けのようにも見える動作が進んでゆく様を見ていた光一は、額から汗が噴き出すのを感じた。
暑い。いや、熱い。
襲撃者も異変を感じ取り後ずさりしていた。
エリーゼは一連の動作を完了すると、いったん静止して小声で何か呪文のようなものをとなえた。
するとそれまでかぶせられていた透明のベールが取り払われたかのように、巨大な炎の塊が空中に現れた。
火の爆ぜる音は並大抵ではなく、光一は急に嵐の中に放り込まれたような気がした。
「燃えよ燻せよ古の火よ。我の領地を侵せし仇敵を灰と変えよ」
呪文ともただの恨み言とも解釈できそうなエリーゼの言葉を聞いて、光一はその声の調子から彼女が本気で敵を殺そうとしていることを知った。
不思議なことに、燃え広がった炎は森に達しても木を焼くことはしなかった。魔法によって現れたこの炎は、自然の中にあるものとは性質が異なるようであった。
すでに炎は敵の後方深くまで回り込み、完全に逃げ道をふさいでいた。暗殺者はしばしの間、首を巡らせて燃え盛る炎の切れ間を探していたが、やがて退路を断たれたことを悟り、光一たちの方に向き直った。
彼(または彼女)は再びクロスボウを構えると、狙いをつけた。あとは手元のトリガーを引くだけで、高速の矢が放たれるのだ。
しかしエリーゼは動じなかった。この場に相応しくないような笑みを浮かべている。
「やってごらんなさい。その低級な弓で私を貫けると信じているのなら、撃つといいわ」
暗殺者は彼女の挑発に乗ったわけではなかっただろうが、その言葉をきっかけにして矢を放った。
光一には何が見えたわけでもなかったが、放たれた矢が風を切る音と、フライパンで卵を焼き上げたときのような音が一瞬だけ聞こえた。それとほぼ同時に光一とエリーゼの1メートルほど手前で小さな火が灯り、そのまま地面に落ちた。光一が目をやると、土の上でくすぶっているのは燃え尽きた矢の残骸であった。先ほどまでの面影はほとんどない。
暗殺者はまだ何が起こったのかわからずに矢を数本立て続けに撃ったものの、そのすべてがエリーゼの近くで燃え落ちた。
その光景を見て光一は合点がいった。エリーゼは魔法を用いて自らの前方に障壁を作り出したのだ。その障壁に触れたものは瞬時に燃やされて灰となる。
彼女が炎を出したときにも光一は思ったが、こんな非現実的なことが可能であるのなら、それこそ神様のように何でもできるではないか。目の前で起こっているような現象が数十年前には世界中で当たり前のように起きていた、ということを光一は信じることができなかった。
暗殺者のほうはようやくエリーゼの行った魔法の内容を把握したようだった。同時に彼我の絶対的な実力差にも気づいた様子で、クロスボウを持った手を力なく下ろした。
「あら、もう降参するのかしら」
相手はエリーゼのからかうような問いかけには答えずに、布の隙間から片方の手を懐に入れた。そして取り出されたその手には、小型のナイフが握られていた。
エリーゼが憐みに近い表情で相手を見る。
「あなたの雇い主は魔法の使用も許可しなかったのかしら? そんな小さな刃物一本で私に敵うだなんて、本気で思ってはいないわよね」
暗殺者は腰だめにナイフを構えると、エリーゼに向かって一直線に突進した。エリーゼは溜息をついて目を閉じる。彼女の瞼の裏には数秒後に燃え上がり灰となる暗殺者の姿が映っていた。
しかし、ここで彼女の予測は大きく外れることになった。
暗殺者の姿は目に見えない障壁の手前で掻き消え、一寸の間もなくエリーゼの後方に出現した。油断していた彼女は目を閉じたままであった。
鮮血が飛び散った。そのあとからくぐもったうめき声が響く。
暗殺者の凶刃は肉を裂いていた。光一の、腕の肉を。
振り返ったエリーゼの顔に光一の血が降りかかる。彼女の目は驚愕に見開かれていた。
「うそでしょう。なんで……」
そのあとに続く言葉を光一が聞くことはなかった。エリーゼを助けるためにとっさの判断で彼女と暗殺者の間に割って入った彼は上腕に深い裂傷を受け、大量の出血のせいでショック状態に陥っていた。
そのまま地面に倒れ込む光一を見たエリーゼはようやく我に返った。さっと手を振ると、炎の波が躍り出して敵を飲み込もうとする。
暗殺者は機を逃したことを悟ると、炎の切れ目を見つけてその場から走り去った。
エリーゼは敵を追いかけることもせずに光一のそばに歩み寄った。
「あなた、何でこんなことをしたの……私には加護があるから安全だったのに」
光一はピクリとも動かずに横たわっている。そして彼の腕からはとめどなく大量の血が流れ出ていた。
エリーゼは瀕死の光一を見て、考えをめぐらせていた。異国からやってきた男。魔法をもたない人間。自称、魔法世界と非魔法世界との架け橋。しかし本当の目的は魔法世界の調査で、隙あらば未だに魔法の灯が消えずにあるこの国の秘密を掠め取ろうとするコソ泥のような人々。非魔法世界の人間について、彼女の父親は以前そのように言っていた。
しかし、目の前にいる非魔法世界の人間は身を挺して彼女を守ろうとした。たとえ余計なことだったとしても、その事実はエリーゼを動揺させるには充分だった。
エリーゼはそっと光一の腕に触れる。流れ出る血の勢いは衰える様子を見せず、光一の顔はどんどん青白くなっていった。
「もう、あなたがここで死んでしまったら借りを返せなくなるじゃない」
彼女は少しだけ難しい顔をすると何かをつぶやいた。辺りの空気が微かに振動した。
「これで貸し借りはなしよ」
コーヒーの匂いが鼻孔をくすぐる。光一が目を開けると、古い絵の描かれた天井が目に入った。剣を構えた騎士が二人、向かい合っている。既視感を覚えるのとほぼ同時に今朝のことを思い出す。
この天井は、確かお屋敷の――。
「目覚めたようね。身体は大丈夫? どこも痛くはないはずだけど」
ベッドのわきにおいてある椅子の上にエリーゼが座っていた。カップを口に付けて静かにコーヒーをすすっている。窓からは星空がのぞき、もう日が暮れてから時間が経っていることがわかる。
「元気だよ。それよりあのあとどうなったの。僕は敵に切りつけられた後の記憶がないんだ」
「何も。あいつはさっさと逃げ帰っちゃったわ。そのあと、ルネたちを呼んで迎えに来てもらったの。あなたの傷の手当てをしたのはルネよ。車の運転はマリナ。あの二人が素早く動いてくれなかったらあなたは死んでいたかもしれないわ。優秀な使用人を持つ私に感謝することね」
「そうか。二人にはあとでお礼を言っておくよ。ところで、君の方は大丈夫? 怪我してない?」
彼女は目を吊り上げて怒った。
「今は私よりも自分の心配をしていなさい。あんなに血が出たんだから。何か欲しいものとかはあるかしら?」
言われてから、光一はひどくのどが渇いていることに気づいた。
「水をくれないか」
「ええ、いいわ。これを飲みなさい」
そういって彼女が光一に渡そうとしたのは、自分が飲んでいるコーヒーの入ったカップであった。
「いや、今は冷たい水が欲しいかな。そこの水差しをとってくれる?」
「何よ。この私があなたのために淹れてあげたコーヒーが飲めないっていうの? 居候の身分で随分と大きく出たものだわね」
「じゃあどうしてそのコーヒーを自分で飲んじゃったの」
「あら」
エリーゼは水差しを手にぶつくさと文句を言いながら部屋を後にした。生憎、水差しの中身が空であったため、水道で水を注いで来ることになったのだ。その際、「その腕の包帯は外してはいけないわ。傷口が開くと困るでしょう」と言い残していった。彼女は傲慢で高飛車な面がある一方で、本質的には面倒見の良い性格なのかもしれない。光一は少し意外に思った。
扉が閉まりエリーゼの足音が遠ざかってゆき、部屋には光一ひとりきりになった。
光一は自分の身体を点検することにした。いつの間にやら着せられていた白いシャツを脱ぐと、上半身があらわになる。左腕の肩の下あたりから肘にかけて、白い包帯が巻かれていた。光一の感覚では、暗殺者に切り付けられた傷は相当深かったはずだ。なのに今は少しの痛みもなく、包帯はまるで飾りのためについているようなものであった。
右手を使いゆっくりと包帯を外していく。徐々に顔を覗かせる自分の皮膚を見て、光一はしばし唖然としてしまった。
傷がない。
あれほど深く切り付けられ、おそらくは重要な血管をいくつか傷つけられたはずなのに、包帯を解いたあとの光一の腕はいつもどおり血色がよく、少しの傷跡も残っていなかった。
通常なら大きな傷口が数時間で消えるなどということはありえない。しかしこの国は普通ではない。自然法則に異を唱える存在、すなわち魔法使いが存在しているのだ。きっと自分の傷も魔法の力で治療してくれたのだろう。誰の魔法かは不明であるが、その人にも後でお礼を言わなくてはいけないと光一は思った。
光一がベッドに腰掛けて考え事をしていると、ドアの方から何かをひっかくような音が聞こえてきた。合わせて、鈴の鳴るような音も聞こえる。エリーゼが帰ってきたのかと思い、光一はドアの方へ歩いていった。
ドアを開けると目の前には誰もいなかった。部屋の外に首を出して左右を見回すが、人の気配はない。光一が不思議に思っていると、足元から「にゃあ」と声がした。
見ると、可愛らしい猫が行儀よく絨毯の上に座っていた。毛並みの良いアメリカンショートヘアーで、黄色い瞳は興味深そうに光一の方を見ていた。
「どうしたんだおまえ、こんなところで」
抱き上げようとしても猫は逃げる気配を見せない。かなり人に慣れている。首に鈴もついているので、きっとどこかの飼い猫だろうと光一は思った。
少しの間だけ戯れると、猫は光一の腕からするりと抜けだして床の上に着地した。光一から離れるようにとことこ歩いて後ろを振り返る。光一と猫の目が合った。猫は再び「にゃあ」と鳴いて廊下を進んで行ってしまう。
なんだかついておいでと言われているような気がして、光一は猫の後を数メートルの間隔を開けて歩いた。
猫は廊下をまっすぐに進み、階段を下った。そして下の階の廊下を歩き、吹き抜けのエントランスまでやってくるが、まだ止まらない。そのままエントランス脇の小部屋に入っていき、石段を降りたあとは地下の食料品貯蔵庫と思しき空間に入っていく。この猫は単に散歩をしているだけなのではないか、と光一が疑い始めたところで猫が歩みを止めた。そして猫はワインセラーと壁の間にある狭い場所を向いて座り込んだ。
「ご苦労様、ミヌ。助かった」
物陰から出てきたのは、小柄な少女であった。銀色にたなびく長い髪が特徴的である。薄暗い電球に照らされた顔にはまだ子どもらしさが残り、14,5歳くらいに見えた。
そして片手には、クロスボウを持っていた。
光一は思い出す。昼間の襲撃者も、同じ武器を持っていた。そして体格も目の前に立っている少女とちょうど同じくらいであった。
「君はもしかして、さっき僕たちを襲ってきた子かな」
一応、光一は聞いてみる。
「そうだよ」
少女はあっさりと認めた。つまり、昼間の襲撃者が再び光一の目の前に現れたということである。
その意味するところは追撃のほかに何があるというのだろうか。
光一は背中を見せないようにあとずさりした。
「待って。あたしは話し合いに来たの。もう襲ったりしないよ」
少女はクロスボウを地面におくと両手を上げた。
週一投稿を目指します。